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 ほどなくして、激しく脈を打っていたスターチアの心臓が大人しくなった。額に浮かんだ冷や汗もすっかり収まっている。

 スターチアは大きく息を吐くと、漆黒の衣装をまとっている青年をソッと押しやり、ゆっくりと身を剥がした。


――やっぱり、お礼は言うべきかしら。


 もとはと言えば、この悪魔が余計なことをしようとしたから、引き留めようとして自分は足を滑らせたのだ。

 スターチアにしてみたら、文句の一つもぶつけてやりたい気分である。

 それでも、悪魔の青年のおかげで命拾いしたのも事実だ。

 日頃から早くこの世を去りたいと願っている彼女でも、首の骨を折って命を失うという悲惨な最期は迎えたくない。


――でも、素直にお礼を言うのは、なんだか癪に障るわ。


 そんなことを考えていたら、やれやれといった感じのため息が彼女の耳に届いた。

「愚かでそそっかしい上に、この小娘は礼もまともに言えないのか。命の恩人に対して、ずいぶんと無礼な態度だな」

 呆れた声音で告げる悪魔の青年が、また深々とため息を吐く。

 スターチアは彼の態度に少し腹が立ったが、そもそも、悪魔とは人の神経を逆なですることが当たり前の生き物なのだ。

 ここで彼女がなにか言い返したところで無意味である。


――たしかに、命の恩人ではあるのよね。


 気まぐれで無神経で自分勝手で偉そうな悪魔が、人間である自分を助けてくれたのは、紛れもない事実だ。

 それに、このままスターチアがいつまでも黙っていたら、グチグチと嫌味を言われ続けるかもしれない。

 そうなると、落ち着いて月を眺めることができないだろう。


――それは、ちょっと困るわ。……もう、仕方がないわね。


 けして悪魔の機嫌を取ることが目的ではなく、自分の心の平穏のためだと言い聞かし、スターチアは静かに口を開いた。

「助けてくれて、どうもありがとう。あなたの優しさに感謝するわ」

 彼女が微笑みを添えると、ジェンドはフンと鼻を鳴らす。

 しかしながら、彼の表情はどこか満足そうである。

「そうだ、大いに感謝しろ。悪魔の俺に助けられるなど、矮小な人間には身に余るほど光栄なことだからな」


――お礼一つで機嫌が直るなんて、悪魔とは思えないほど単純ね。


 心の呟きをおくびにも出さず、スターチアはただ微笑んでいた。




 言われた通りに従ったのだから、これからはのんびり月を眺める時間だと、スターチアは青年から視線を外した。

 しばらくは辺りに静寂が訪れていたのだが、それが「おい」という低い声で破られる。


――今度は、なにかしら?


 スターチアは首を傾げつつ、顔を横に向けた。

 視線の先では、またしても不機嫌な表情を浮かべた漆黒の青年が宙に浮いている。

 なにか言いたそうにジト目で見られているが、スターチアには見当が付かない。

 黙ったまま眺めていると、青年が盛大に鼻を鳴らした。

「脆くて短い人間の命を掬ってやったというのに、あんな簡素な礼だけで済ませるつもりか? 愚かな頭には、やはりなにも詰まっていないのか?」

 その言葉の内容と、日課を邪魔されたことで、スターチアはムッとした表情となる。

「あなたの言葉通り、私はきちんとお礼を言ったわ。なのに、どうして嫌味を言われないといけないのよ」

「それが分からないなら、お前は本当に愚かだな」

 彼の言葉に、さすがのスターチアもカチンとくる。

「はいはい、そうですね。なにしろ、私は愚かで矮小な小娘ですから。偉大なる悪魔様のご意向など、これっぽっちも理解できません」

 今度はスターチアがフンと鼻を鳴らし、視線を月へと戻した。

 すると、ジェンドは彼女のすぐ真横まで寄ってくる。

「理解できないなら、俺様が教えてやる。ありがたく思え」


――本当に、なんなのよ。


 ジロリと睨み付ける彼女にかまわず、ジェンドがニヤリと笑う。

「命を助けてやった礼として、暇つぶしの相手をしろ」

「……はぁ?」

 スターチアの口から、気の抜けた声が零れる。

 あまりにも馬鹿馬鹿しい提案に、苛立ちが吹っ飛んだ。

 ポカンと呆けている彼女に、ジェンドが偉そうに胸を張ってみせる。 

「悪魔の貴族である俺が直々に相手をするなど、それこそ光栄なことだぞ」

 喜べと言わんばかりの態度に、スターチアは軽い頭痛に襲われる。

「……その光栄なお役目は、私のような礼儀知らずで愚かな小娘ではなく、もっと立派な方に与えたらいいのでは?」

 困惑しながらも答えると、悪魔の青年が形のいい目を細め、綺麗な笑みを浮かべた。

 

 しかし、彼の口から出てきた言葉というのが……。


「俺の相手をできるような変な人間は、お前以外にいない」


 スターチアの神経を見事に逆なでするものだったので、彼の笑顔に見惚れるどころか、消え去ったはずの苛立ちがこみあげてくる。

「変な人間で悪かったわね!」

 スターチアがプイッと顔を背けたら、「なにを怒っているんだ?」と問いかけられた。

「悪魔の相手ができる人間は、おいそれといないぞ。生きている間に、一度も悪魔を目にしない人間が大多数だからな」


――私は、悪魔に会いたいなんて、ほんの少しだって思ったことないわよ。


 むしろ、静かに月を眺めるという日課をことごとく邪魔され、おまけに『変な人間』と言われ、誰が喜ぶというのか。


 だが、これが悪魔の思考回路なのだと、スターチアは改めて実感する。


 彼女は小さくため息を零した。

「……そのお役目、謹んでお受けします」

 スターチアの言葉に、ジェンドが大きく頷く。

「期待しているぞ」

 ふたたび綺麗な笑顔を向けられるものの、やはりスターチアが見惚れることはない。

 いつものように淡々とした口調で、彼に問い掛ける。

「ところで、私はどういうことをしたらいいの? 魔力もないし、パンを焼く以外の特技がない私には、あなたの話し相手になるくらいしかできないわよ」

 楽器を演奏することも、感情豊かに歌うことも、軽やかに踊ることも、スターチアにはまったくできなかった。

 この場ですぐにできることと言えば、パンを売るうちに身に着けた会話術くらいである。

 

――そんなもので、暇つぶしになる? むしろ、「そんな馬鹿馬鹿しいもの、暇つぶしにもならない」と、どこかに行ってくれないかしら。


 しかしながら、スターチアの密かな願いは空しく、ジェンドは、「それで十分だ」と返したのだった。 


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