(36)
本格的な冬の訪れはまだなのだが、夜になるとだいぶ気温が低くなる。
それでも、スターチアは月を眺めるために屋根へと上った。
悪魔の青年にもらった肩掛けをしっかりと体に巻き付け、雲の切れ間から覗く月を静かに見上げている。
そして、ゆっくりと一日の出来事を振り返っていた。
朝、目を覚ましてからの彼女が取る行動は、毎日同じである。
それでも、ほんの少しだけいつもと違うことが起こるものだ。
裏山近くに生えている林檎の木には、たわわに実が付いている。しかし、昨日よりも今日のほうが赤みは強く、明後日には食べ頃になっているだろう。
冬に備えて植えた根菜類が、徐々に育っていた。
先週生まれたヒヨコたちは、だいぶ大きくなっている。
そういった小さな変化が、スターチアにとってひそかな楽しみであった。
公園でパンを売っていても、新しい客が買いに来るといった変化もある。
そして、ここ最近での大きな変化と言えば、ジェンと知り合ったことだろう。
――不思議な人だったわね。
青年のことを思い出し、スターチアはクスッと小さく笑う。
なんとも掴みどころのない人物だったが、それほど嫌な印象はない。
見守り役を買って出た時には若干面倒だと感じたものの、どうにかして遠ざけようと思えるほどでもない。
なにより、スターチアのことを根掘り葉掘り尋ねてこないところに安心した。
たいていの人は、若い女性が手製のパンを売りに来ることで、やたらと興味を持ち、名前や年齢、出身地名などを訊いてくるものだ。
その程度のことならスターチアも特に気にしないが、中には、どこに住んでいるのか、どういった暮らしをしているのか、家族構成や恋人の有無まで問い掛けてくる人たちもいた。
彼女にとって、家族や恋人については、触れてほしくないことの最上位だ。
マールは、スターチアがこの町に来て間もない頃にとても親身になって世話をしてくれたこと、本気で心配してくれていること、またこれ以上は踏み込んでほしくないという手前で止まってくれるから、差し障りのない程度には打ち明けていたのである。
常連客たちもスターチアには非常に親切であるが、失礼ながら、マールほどには打ち解けていなかった。
ジェンはスターチアの生い立ちを尋ねるどころか、名前さえも気にしていなかった。
そういった素っ気なさが、ある意味、スターチアには心地よい。
――本当に、暇つぶしをすることにしか興味がないのかしらね。
むしろ、そうであることがありがたい。
彼のしつこさに折れたという部分はあるものの、自分に興味を抱かない人物なら問題ないだろうという判断によるものでもあった。
――名前と言えば、あの悪魔の名前を知らないわね。
もう、何度となく顔を合わせているが、いまだに知らないままだ。
出会った初日にスターチアは名を訊かれて答えたものの、彼女から悪魔青年の名を尋ねることはなかった。
正直、彼の名前に興味がなかったのだ。
いや、悪魔青年の存在自体に興味がなかったのだ。
スターチアにとって興味があることと言ったら、あの世に旅立った彼らに叱られることなく、いかにこの寿命を早く尽きさせるかということだけ。
そんなことを考えていると、横からフワリと風が吹いてきた。
スターチアがそちらへ顔を向けると、超絶的な美貌を持った悪魔の青年が体の前で腕を組み、屋根の上に浮いていた。
いつもと同じように、突然の登場である。
しかし、なんとなく彼の様相が違うように思えた。
――なんだか、偉そうというか……。
どんな時でもこの悪魔青年は尊大な態度なのだが、今夜はそれとはどこか違っているように見えたのだ。
――いったい、なに?
スターチアは首を傾げ、ジッと見上げる。
しかし、いくら全身に漆黒をまとう青年を見ていても、答えは浮かんでこなかった。
――そもそも、私が相手にすることもないわよね。
スターチアはソッと息を吐き、肩掛けの合わせ目をしっかりと握る。
そして、前方上空にある月に視線を向けた。
その時、ふと気付く。
――月が見えているわ。
いつもならこの青年に視界を遮られているところだが、今は彼女の視線の先に月があった。
スターチアはふたたび青年へと顔を向ける。
――もしかして、今夜は私の視界を遮らずに登場したから? それを褒めてほしくて?
そう思って見ると、彼の表情は、偉そうというよりも得意げと言えるかもしれない。
だが、本当にそうだろうか。
彼の年齢は知らないが、悪魔の寿命は人間と比にならないという話である。外見上はスターチアよりいくらか年上に見えるものの、実際の年齢ははるかに上なのだ。
その悪魔青年が、『小娘』だの、『矮小な人間』だのと卑下しているスターチアに、褒めてもらいたいと思うだろうか。
――まさか、ね。
スターチアは自分の思考があまりにも馬鹿馬鹿しくて、ヒョイと肩をすくめた。
そこに、「おい」と、声がかかる。
「なにかしら?」
首を傾げるスターチアに、ジェンドは不機嫌そうにフンと鼻を鳴らした。
「この俺がわざわざ気を使ってやったというのに、礼の一つもないのか?」
「……え?」
なにを言われたのか理解できなくて、スターチアはパチリと瞬きをする。
――気を使ってやったって、なに?
呼んでもいないのに彼は勝手に現れて、普段よりも機嫌がよさそうな表情を浮かべていただけではないか。
そのことのどこに、スターチアが礼を述べる点があるだろうか。
もう一度瞬きをした彼女は、「……まさか」と、小さな声で呟く。
――私が考えていた通りってこと?
先日文句を付けたから、それを踏まえて、今夜は自分の視界外に現れたと言いたいのだろうか。
まさか、そんなはずはと思いたいが、それ以外の答えはなさそうだ。
礼を述べる義理はないけれど、無視をすると面倒なことになりそうな気がする。
静かに月を眺めるためにも、この青年の思惑通りにしてやったほうがいいだろう。
「私の視界を遮らないでくれて、どうもありがとう」
スターチアが口を開くと、ジェンドがふたたび鼻を鳴らす。
だが、今回は不機嫌さがなく、むしろ、機嫌がよさそうだ。
「やれやれ。ようやく、気付いたか。まったく、愚かな人間は察しが悪い」
――愚かな人間を相手にするあなたのほうが、よっぼど愚かじゃないの?
とは口にせず、スターチアは改めて肩をすくめたのだった。




