(35)
すっかり帰り支度を整えたスターチアは、本を読んでいる青年へと歩み寄った。
声をかけたら邪魔をしてしまうだろうかと心配していたのだが、スターチアの様子に気付いた青年は顔を上げる。
「やぁ」
けして笑顔というわけではないが、形のいい目が少しだけ弧を描いた。
それだけでも、途端に柔らかい雰囲気が青年から漂う。
美形は得だと思いながら、スターチアは会釈をした。
「こんにちは。今、よろしいでしょうか?」
彼女が声をかけると、青年は静かに本を閉じてソッと首を傾げる。
「なにか?」
それだけでも絵になる姿なのだが、スターチアの心臓がときめきで弾むことはなかった。
「実は……、私はあなたの名前を伺っていないことに気付きまして。失礼でなかったら、教えていただけませんか?」
「名前?」
それを聞いて、青年は苦笑を浮かべる。
「真剣な顔をしていたから、なにを訊かれるかと思ったのだが。そういえば、名乗っていなかったな。それは、失礼」
スッと頭を下げられ、スターチアは慌てる。
こんな身なりのいい青年頭を下げさせるのは、単なるパン売りである彼女にしてみたら、申し訳ないを通り越して、慌てふためく事態なのだ。
こんなところを誰かに見られたら、なんと言われるだろうか。
幸いにも、今は公園内に誰もいないが、通りを歩く人に見られないとも限らないのだ。
「あ、あ、あの、どうか、頭を上げてください! お願いします!」
スターチアは青年の肩に手をかけて姿勢を戻させたいが、貴族かもしれない彼に触れるのは、それこそ礼儀知らずな行為となる。
だから、彼女は頼み込むしかなかった。
すると、青年はスッと上体を起こした。
顔立ちはどこか似たような雰囲気があるものの、あの漆黒の青年と違って、こちらの言葉を素直に聞き入れてくれる。
そのことに、スターチアはホッと胸を撫で下ろした。
そして、自分の名前を口にする。
「私はスターチア・ネトと申します」
名字が短いのは、彼女が貴族ではない証である。
貴族は家格が高いほど名字が長かったり、中間名を持つ者たちがほとんどだ。
彼女の名乗りを受け、青年が口を開く。
「俺のことは、ジェンと呼んでくれ」
「……え?」
スターチアはパチリと瞬きをする。
そんな彼女の様子に、ジェンと名乗った青年も瞬きをする。
「驚くほど、変だろうか?」
「い、いえ、そういうことではなくてですね……、てっきり、長い名字をお持ちなのかと……」
そう返したところで、スターチアは気付く。
――もしかして、貴族という身分を隠しているのかしら?
しがらみにとらわれず、ノンビリ過ごしたいと思っているのなら、自ら貴族であると示すのは得策ではないのだろう。
彼の身分を聞きつけ、この町の貴族が集まってくる可能性もある。
――まぁ、この人が貴族だろうと、貴族でなかろうと、あまり関係なさそうね。
もし、彼が貴族であろうとするなら、自分に対して親しげに話しかけてくることもないだろう。
また、スターチアの態度は、貴族に向けたものにしては、やや礼儀にかけているところもある。それでも彼が怒り出さないところを見ると、彼自身が身分にこだわらない人物なのかもしれない。
貴族の名前にしてはかなり短く、まるで愛称のようなものを告げられたのは、スターチアには察することができない彼なりの思惑があるのだろう。
スターチアがあいまいな笑みを浮かべていると、ジェンがヒョイと肩をすくめた。
「どうやら、君は俺の身分が貴族かどうか、気になっているみたいだな」
「も、申し訳、ありません……」
サラリと図星を衝かれ、スターチアは僅かに視線を伏せる。
そんな彼女に、ジェンはクスッと小さく笑いかけた。
「こちらは不快に思っていないから、問題ない。俺の身分は……、まあ、貴族みたいなものだが、だからと言って、この国では権限があるわけでもない」
分かったような、分からないような説明だ。
――この国では権限がない? じゃあ、他の国から来たってこと?
新たな疑問が湧き上がったものの、気になるままに質問するのは、それこそ失礼だ。
また、彼がどのような人物であっても、それこそ、スターチアには関係ないことである。
とりあえず、無事に名前らしきものを教えてもらえたので、当初の目的は達成した。
スターチアはゆっくりと息を吐き、微笑みを浮かべる。
「見守ってくださって、どうもありがとうございました。おかげで、無事にパンを売り切ることができました」
実際に彼のおかげかどうかはなんとも判断に悩むところだが、礼を言われて嫌な気分になる者はいないだろう。
それに、彼がいてくれたから、本当に不審者が近寄ってこなかった可能性もある。
彼女の言葉に、ジェンが早口でなにかを呟く。
「……こうして素直に礼を言われるのは、案外いいものだな」
彼の声があまりに小さかったので、スターチアには聞き取れなかった。
「あ、あの……、今、なんと?」
「いや、くだらない独り言だ」
そう言われてしまうと、スターチアは改めて尋ねることはできない。
――私の悪口? 田舎くささが抜けていないとか、察しが悪そうだとか?
仮にジェンがそう言っていたとしても、事実なので腹は立たない。
別のことを呟いたとしても、スターチアに聞かせるつもりがないなら、追究するのは無駄だ。
――まぁ、いいわ。しょせん、私はこの人の『暇つぶし』なんだから。
自分に実害はないし、他に暇つぶしの方法を見つけたら立ち去るだろうし、やはり、放っておくのが一番いい。
「それでは、失礼します」
スターチアは彼に頭を下げ、その場を後にした。
ゆっくりと歩み去るスターチアの後ろ姿を眺めながら、ジェンはフッと口角を上げる。
「見ていて、本当に飽きないな」
彼の微笑みは一見するととても綺麗なものなのだが、彼の碧眼にはなにか面白がっている光が揺れている。
その瞳に、ほんの一瞬だけ影のような黒いものが浮かんだのだが、それに気付く者は一人もいなかった。




