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(32)

 スターチアと青年の間に、なんとも言えない沈黙が流れる。

 しばらくしてから、先に口を開いたのはスターチアだった。

「命を粗末にするような発言は、いいことではありませんでしたね。失礼いたしました」

 彼女が早くこの世を去りたいと願っていても、心配してくれていると思われる人の気持ちを突き放すような物言いは、さすがに失礼に当たるだろう。

 それに、そういった言動を繰り返したなら、お説教が始まるかもしれない。

 そう思ったスターチアは、静かに謝罪したのだ。

「常連のお客さんの中に、ご主人が保安部に勤めている方がいるんです。その方に、改めて相談してみます」


――これで、納得していただけるかしら。


 スターチアが青年の様子を伺っていると、形のいい眉の付け根がクッと寄った。

「それはいいことだが、保安部の者が君につきっきりで護衛に当たるのは難しいだろう。忙しいだろうし、なにより、そういった者が近くにいたら、客は困惑するのではないか?」

「そうかもしれませんが……」

 スターチアは困ったような笑みを浮かべる。

 それなら、どうしたらいいのだろうか。彼女には他に案が浮かばない。


 すると、青年が「では、俺が見張り役を買って出よう」と言った。


「……はい?」

 スターチアは口を半開きにして、目を丸くする。

 そんな彼女に、青年が改めて告げる。

「君がこの公園でパンを販売している間、俺が見張りをしようと言ったんだが。今度は、聞こえたか?」

 問いかけられ、スターチアはつっかえながらも返事をする。

「え、ええ……。聞こえ、まし、た……」

 彼の言葉は耳に入ったものの、頭ではまったく理解できていなかった。   


――見張り? この人が? 私のために?


 本当に意味が分からない。

 そんなことをして、この青年になんの得があるのだろうか。

 唖然としているスターチアに、青年はなおも話しかける。

「公園で本を読む者は、そう珍しくない。それに俺なら、保安部よりも客に警戒されないだろう。君がパンを販売している間、不審な人物が近くにいないか、本を読む振りをしながら見張っていればいい」

 相変わらず青年の言葉が呑み込めないスターチアは、パチクリと瞬きを繰り返していた。

「は、はぁ……」

 気の抜けた返事をする彼女にかまわず、青年は話し続ける。

「おそらく、乗合馬車の中では嫌がらせ行為はしてこないはずだ。他の乗客が、そのまま目撃者となるからな。ああ、そうだ。公園までの道中が心配だというなら、馬車の停留所まで送迎してもいい。こう見えて、俺は武術の心得がある」

 ここでようやくスターチアは我に返った。

「い、いえ……、そこまでいていただかなくても結構です。見張りをしていただく必要もありません。当然、護衛も」

 申し出を辞退しようとする彼女だが、青年は「かしこまって考える必要はない。どうせ、公園には来るのだから」と返してきた。

 それでもどうにか断ろうとして、スターチアは必死に言葉を紡ぐ。

「ベンチで本を読まれるのはご自由ですが、見張りをしていただくのは……。きっと、あなた様にはなにも得することはないかと」

 その時、青年が僅かに片頬を上げる。

「気まぐれな男の暇つぶしだと思ってくれればいい」 

 暇つぶしなら、邪魔する権利はこちらにない。

 それに、この青年はスターチアや常連客の邪魔をするわけでもない。

 そう言われてしまうと、彼女は反論できなかった。




 家に帰ったスターチアは、いつものように過ごし、夜になると屋根へと登っていった。

 だいぶ夜風が冷たくなってきたものの、発熱魔法がかかっている肩掛けのおかげで、凍えることはなかった。

 ただ、むき出しの足先はやはり冷たい。

 靴下を履いたらいいのかもしれないが、それでは梯子を上る際や屋根を移動する際に足を滑らせてしまいそうなのだ。

 うっかり地面に叩きつけられて首の骨でも折ってあの世に行くことになったら、家族、恋人、親友からいっせいに冷めた目で見られそうである。

 親しい人たちに呆れられるのは――たとえ、死後であっても――、スターチアには避けたいことだったのだ。

 スカートの裾の中に足先をしまい、少しでも温かくなればと、指を動かしていた。

 

 そんな時、彼女の頬を夜風が静かに撫でる。


 横に垂らしていた月色の髪がフワリと元の位置に戻ると同時に、呆れ切った声がスターチアの耳に届いた。

「おいおい、まだ月を見ることをやめないのか? もう、冬の入り口だぞ。愚か者のお前の頭の中は、いったいどうなっているんだ?」

 スターチアが顔を上げると、目の前には全身に漆黒をまとった青年が立っている。

 彼の存在にも、憎まれ口にも慣れた彼女は、表情を変えることがなかった。


 いや、片眉がほんの少しだけ上がる。


「あなたこそ、月を見ている私の前に立つなんて、いったいどういうつもりなの? あなたは背が高いから、そこにいられると、ちっとも見えないじゃない」

 大体において視界を塞ぐようにして現れる彼に文句を言うと、青年は面白くなさそうにフンと鼻を鳴らした。

 しかしながら、スターチアが月を見られるように、スッと脇に除ける。

「人間の小娘のくせに、魔界の貴族である俺に言い返すとは。まったく、見た目によらず、図太い根性の持ち主だな」

 もう一度鼻を鳴らすジェンドに、スターチアは淡々と口を開く。

「私が気に入らないなら、他の場所で気晴らしをしたらいいじゃない。あなたのその立派な翼なら、どこへでも自由に飛んでいけるでしょう?」

 すると、ジェンドが大きく翼を動かしてみせる。

 

 ところが、不思議なことに、まったく風が起こらなかった。


「……え?」

 パチリと瞬きをするスターチアの様子に、またしてもジェンドが鼻を鳴らす。

「確かに、俺のこの翼なら、どこでもひとっ飛びだ。しかし、どこで気晴らしをするのかは、俺が決める。矮小な存在である人間が、俺に指図をするな」

 言葉の内容は偉そうだし、態度も不機嫌そうなのだが、彼はどこか得意気である。


――私が『立派な翼』と言ったから?


 だが、スターチアとしては、褒めたわけではなかった。

 むしろ、宝の持ち腐れという感じで、ちょっとした嫌味だったのだ。


――悪魔って、人間の心理の裏の裏の、そのまた裏まで先読みできるんじゃないの? こんなに単純なものなの?


 こういうところも、この悪魔青年は規格外だ。

 妙に馬鹿馬鹿しくなって、スターチアはクスッと笑ってしまう。

「なにを笑う?」

「その……、さっき、あなたは翼を動かしたでしょう? なのに、ちっとも風が起きなかった。それもあなたの魔術よね。だから、感心していたのよ」

 彼女は心の中で考えていたことは口にせず、先ほど驚いていた理由を話した。

 それを聞いた青年は体の前で腕を組み、偉そうに胸を反らす。

「この程度、俺にとっては造作もないからな。まぁ、たかが人間のお前ごときには、逆立ちしたって無理だろうが」


――やっぱり、嬉しそうよね。


 嫌味を言いつつも、どことなく声を弾ませているジェンドの様子に、スターチアはこっそりと苦笑を零した。


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