(30)
――このまま、何事も起きないといいのだが。
アディスの眉間に縦ジワが刻まれる。
裏でなにかと暗躍しているホースキン男爵をこの機会に捕まえたいというのが、アディスや部下たちの本心だ。
とはいえ、スターチアに害が及ぶことはなんとしても避けたいため、大人しくしていてほしいというのも、また本心である。
公園での被害はピタリと止まっているものの、アディスや軍内部はけして安心していない。
嫉妬深く諦めの悪いホースキン男爵が、このままスターチアを見逃すとは思えないからだ。
――ホースキン男爵は、なにを考えている?
不思議なのは、以前、この公園のベンチに悪臭漂う液体を撒かれた時のことだ。
保安部の職員と共に自分の部下を公園内に張り込ませていたのだが、その時の報告に不可思議な点があったのだ。
実は慰霊祭以降、スターチアの身の安全を図るため、アディスの部下たちによって密かに公園周辺の見回りが行われていた。
それは、日中だけではなく、夜もだった。
彼女に嫌がらせをするなにかを仕掛けるなら、人目のない夜のほうが実行に移しやすいだろうと考えてのことである。
そして事件が起きたあの夜、アディスの部下の話では、全身が黒で覆われた人物が液体を撒いていたため、取り押さえようと勢いよく飛び出した。
しかし、その人物がとんでもない速さで、まるで宙をかけるかのようにして、その場から去っていったという。
ベンチ付近には外灯がなかったが、それでも、確かに男性と思われる姿を目にしているのだ。
また、黒き人物を目撃したのはその一日だけではなく、見張りの内の一人だけでもない。
二度目の犯行が起こった時も部下たちは見ているはずなのに、飛び出していった時には、やはり人の姿はなかったそうだ。
三度目の犯行時に男を逮捕できたのは、これまでになく動きが鈍かったからとのこと。
――本当に、ホースキン男爵が関わっているのだろうか? 他の人物がスターチアを狙って?
その考えを、アディスは瞬時に打ち消す。
彼の勘は、ホースキンが主犯だと告げているのだ。生死をかけた戦場を経験した彼は、己の勘をなにより信用している。
では、深夜の公園でなにが起きていたのだろうか。
俊足の者を『風のように速く走る』と比喩することはあるが、生身の人間が吹き抜ける風と同じように走ることはできない。
仮にホースキン男爵が非常に足の速い男に嫌がらせするよう指示を出したとしても、鍛え抜かれた軍人たちが追い付けないというのが、やけに引っかかる。
かといって、現に液体が撒かれていたのだから、部下たちが幻を見たというはずもない。
――まさか……、魔術が関係しているのか?
魔術は人智を越える。
しかしながら、人を風のように早く走らせるといった大掛かりな魔術を施せる者は、この国にはいないはずだ。
せいぜい、彼らの能力では、怪し気な呪いや占星術が関の山である。
だが、存在が知られていない高魔力の人物がホースキン男爵に手を貸していないとは言い切れないだろう。
――悪魔が? いや、それこそ、まさかだな。
アディスは口元から手を放し、隣を歩く部下に声をかける。
「ホースキン男爵家に出入りする人物を、さらに細かく調べろ。一人たりとも、見逃すな」
「かしこまりました」
部下は軽く頭を下げ、アディスとはそこで別れた。
「杞憂で済むといいのだが……」
足早に遠ざかる部下の背中を眺め、アディスがポツリと呟いた。
スターチアが公園にやってくると、相変らず貴族風青年の姿を目にしている。
さすがに毎日姿を見かけるとなると、あまり他人に関心を示さないスターチアであっても、やはり気にかけるようになっていた。
――いったい、なにをしているのかしら。
こちらの様子を窺っている割には、一度もパンを買いに来ない。
かといって、嫌がらせもしてこない。
それとも、見られていると感じたのは、自意識過剰だっただろうか。
――次の嫌がらせのために、私の弱みを探っている?
ありえないとは思うものの、青年が現れたのは、悪臭騒ぎの犯人とされる人物が捕まった後だ。なんの目的もなく、何時間も公園で過ごすことは考えにくい。
――用心するに越したことはないわね。
見た限りでは犯罪に関係なさそうな上品な容姿だが、人は印象通りとは限らないものだ。
スターチアは心の中で呟きながら、開店準備を進めていった。
青年の姿を視界の隅に捉えながら、スターチアは今日も手際よくパン売りさばく。
やがて完売となり、いつものように帰り支度を済ませた。
手提げ籠を手に歩き始めた彼女は、これまでさりげなく向けていた視線を、明らかに意図をもってその青年へと向ける。
ベンチで本を読んでいた青年は彼女の視線に気付き、ハッとしたように目を瞠った。
目が合うとは考えもしていなかったのか、彼は動揺して本を落としてしまう。慌てて本を拾い、表紙に付いた土を手で払い始めた。
スターチアは少し悩んだものの、思い切って青年へと近付いていく。
「あの……」
声をかけられた青年は、ゆっくりと顔を上げた。
スターチアより歳上に見えるが、そんなには離れていないだろう。せいぜい、五、六歳といった程度か。
遠目で見てもやわらかそうだった薄茶の髪は近くで見れば本当にやわらかそうで、毛先がそよ風に軽く揺れている。
彼の顔は、まるで美術館に展示されている彫刻のように整っていた。
髪と同色の眉も、長いまつげに囲まれた形のいい目の、高い鼻も、少しだけ薄い唇も、絶妙な配置で収まっている。
なかでも深い海を思わせる落ち着いた色の青い瞳がすごく印象的で、スターチアの目にしっかりと焼き付く。
こんなにも綺麗な男性を見たことがなかったスターチアは、自分から声をかけたものの、緊張してきた。
――こんなに綺麗だと、かえって人間味を感じないわね。この人、本当に人間かしら?
そんな疑いをかけてしまうほど、顔立ちが整っていたのだ。
うっかり見惚れているスターチアは、青年を綺麗だと思うと同時に、不思議な既視感に襲われていた。
こんなにも美形な知り合いはいないし、見たこともないはずなのに、知っているような気がする。
声をかけたものの黙り込んでしまったスターチアに、今度は青年から声をかけてきた。
「なにか?」
顔が綺麗な人は、声も綺麗らしい。
どこか威圧感のある低音だが、とても響きがいい。歌劇団に入ったのなら、たちまち花形となるだろう。
スターチアはドキドキしながら、声をかける。
「こちらの勘違いならごめんなさい。なんだか、私に用があるように見えたんです。それとも、知らないうちに、私はあなたに迷惑を掛けていたでしょうか?」
不思議そうに首を傾げて青い瞳を覗き込むスターチアの様子に、青年は形のいい眉を僅かにしかめる。
「迷惑など、掛けられていない」
耳に心地よく響く低音で、素っ気なくポソリと呟いた。
彼の姿を目にして二週間は優に過ぎていたが、声を聞いたのは初めてだった。
スターチアは初めて聞いたはずの声を耳にして、また首を傾げる。
どこかで聞いたことのあるような気がしたが、さっぱり思い出せない。
そもそも、自分にはこんな美形の知り合いはいなかった。
聞き覚えのある声だと思ったのは勘違いかもしれないと、スターチアはそのように結論付けた。




