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(2)

 スターチアの朝は早い。

 日が昇ると同時に簡素な寝台を出て、動きやすい服装に手早く着替えた。

 少々汚れる作業をするため、ザブザブと洗える長袖のブラウスと、下は農業を営む女性から譲り受けたスカートである。

 男性のようにズボン姿ならなお動きやすいのだが、見るからに腰の細い彼女が穿けるような大きさはないのだ。かといって、子供用のズボンでは丈が足りなかった。

 いつもの格好になったスターチアは籐で編んだ籠を脇に抱え、まずは家の裏手にある鳥小屋へと向かう。

 こちらに移り住んだ時に彼女が一人で作り上げた少々不格好な鳥小屋の中には、二十羽ほどの鶏たちがいた。

 ちなみに住んでいるのは丸太造りの小屋で、こちらはさすがに彼女が作ったものではない。もともとは、この辺りで狩りをする者たちの休憩所だった。

 狩りの主催者が高齢になったことで使われなくなった小屋を、話を聞いたスターチアが格安の家賃で借りている。

 狩った獲物を調理するための設備が兼ね備えられていて、がっしりとした竈と家庭用よりはいくぶん大きめのオーブンは今でも現役だ。料理好きの彼女にとって、またとない物件である。

 ここに住み始めて以来、スターチアは一度だって後悔したことはなかった。

 また家賃というのが、彼女にとって非常にありがたいものだった。貸主自ら玉子や野菜、スターチアが作る料理を望んでいるのだから。


「おはよ、今日も玉子を分けてね」

 鶏たちを怯えさせないように、スターチアは慎重な足取りで生みたての玉子を集めていく。

 その後は、鳥小屋の横にある畑に入り、食べ頃の野菜を収穫する。今の時期はまだ霜が降りる前なので、常になにかしらの葉物野菜が畑になっていた。

 玉子と野菜の収穫に満足した彼女は、いったん家の中に入る。

 ふたたび出てきた彼女の手には、ブリキ製のバケツがあった。絞った牛の乳を入れる物だ。彼女は乳牛も飼っているのである。

 それもあって、町の中心部から離れた里山の裾野に居を構えていた。

 少なくはない数の鶏と牛を飼うと鳴き声や臭いの問題があり、こうして町のはずれに住む必要があったからだ。

 近くに民家も店もないせいで、時折、不便を感じることはある。

 それでも木々が多いことで空気は澄んでおり、また水が綺麗で、家畜を飼うにも野菜を育てるにもちょうどいい場所なのだ。

 さらに言うなら、静かな生活を願う彼女にとって、ここは最適な環境だった。

 いつものように鶏と畑と牛に感謝を捧げたスターチアは、その後にサッと湯あみを済ませ、羽毛や泥で汚れた服から簡素なワンピースに着替える。

 新鮮な玉子と野菜を使った簡単な朝食を取ると、薄い板を張り合わせて作った食卓の上を片付けた。

 そして台所の奥から小麦粉、牛乳、玉子などを持ってくる。

「さてと、今日は胡桃を入れたパンでも作ろうかしら」

 そう言ってエプロンの紐を後ろで手早く結んだ彼女は、長袖ワンピースの袖をクルクルと捲り上げた。

 小さな丸太造りの一軒家で暮らすスターチアは、手作りのパンを売ることで収入を得ている。

 幼い頃に祖父からしっかり教え込まれたおかげで、町でもなかなか評判がいい。

 とはいえ一度に作れるパンの量はたかが知れていて、売り上げもたかが知れている。それでも、一人で暮していくには十分な稼ぎを得られた。

 そんな生活を始めて、もう六年。彼女は年越しを前に二十三歳となる。

 寂しくはあるが、一人での生活に慣れたかといえば、そうとも言える。

 祖父母を原因不明の病で亡くし、両親と五歳下の双子の弟たちを暴走した馬車の被害で亡くし、想いを通わせた幼馴染の青年を増水した川の事故で亡くし、無二の親友を無差別の通り魔事件で亡くした。

 彼女がどんなに願っても、彼らがこの世に戻ってくることはない。

 悔やんだところで仕方がないことなのだと、なんとか必死に言い聞かせたものの、スターチアの心は自分が思っている以上に強くはなかったようだ。

 愛する人たち、大切な人たちがこの世を去ってゆく様を立て続けに見送り、彼女は誰にも心を寄せず、一人で生きていくことを決めた。


 もうこれ以上、愛する人、大切な人の命が奪われるのは耐えられないから。

  



 やがて、小屋の中に香ばしい匂いが広がっていく。

 オーブンを開けると、刻んだ胡桃を混ぜ込んだパンに綺麗な焼き色が付いていた。見るからに美味しそうなこのパンは、きっと今日一番の売れ行きになるだろう。

 スターチアは満足げに何度か頷き、厚手の手袋をはめて鉄板を取り出し、粗熱を取るため金網にパンを載せる。

「次は、菓子パンも焼かないと」

 彼女は準備していた生地を成形し、これも鉄板に並べてオーブンに入れる。

 目を覚ましてからパン売りに出かけるまでのこういった作業が、彼女の日課となっていた。 

 昼前には予定していたパンをすべて焼き終え、スターチアは大きな手提げ籠に詰めていく。

 今度はこざっぱりしたワンピースに着替え、エプロンも裾にフリルが付いたやや可愛らしいものに着替えた。

 食べ物を売る者として清潔な身なりは大事だと、パン屋を営んでいた祖父母と両親が度々口にしていた言葉だ。

 確かに、どんなに美味しそうでも、薄汚れた服を着ていたら印象が悪い。

 せっかく作ったパンが自分のせいで売れないのはあまりにも悲しいため、スターチアなりに気を配っている点だ。普段の彼女は、家に誰もいないこともあって、粗末と言ってもいい服装ばかりだが。

 スターチアは洗面所の壁にある鏡を覗き込み、左耳の後ろで髪を緩く結んだ。

 薄緑色のリボンのおかげもあって、顔周りがパッと明るくなる。瞳の色が黒であるため、せめてリボンの色で明るく見せようとしていた。

 いつもなら支度が済むとすぐに家を出るのだが、スターチアは鏡に映る自分の瞳から目が逸らせないでいる。

「あの人の目も、同じように黒かったわ。……いいえ、人じゃないわね」

 昨夜、いつものように屋根に上ってボンヤリしていたら、ふいに現れた悪魔のことをスターチアは思い出す。

 黒い髪に黒い瞳、背中には大きな黒い翼を持った美貌の青年は、いかにも悪魔という感じだった。

 冷酷そうな瞳も、血の気が薄い肌の色の、息苦しさを感じるほどの魔力も。

 それなのに、彼はスターチアに謝ったのだ。「すまない」という短い一言だったが、確かにあの悪魔は謝ってきた。

 それに、意外なほど表情が豊かだった。とはいえ、しかめっ面や怒った顔ばかりだったが。

「あなたのほうが、私の何十倍も変な悪魔よ」

 見るからに悪魔だというのに、悪魔らしくもない一面を持ち合わせた彼を脳裏に思い浮かべ、ふいにスターチアは目を細めた。


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