(28)
翌朝、スターチアはいつものように卵と野菜を収穫し、牛の乳を搾る。
朝食を済ませた後に、パン作りを始めた。
公園に足を運ぶ客が減ったことで、焼き上げるパンの数はだいぶ少ない。
小ぶりな手提げ籠一つに余裕で収まってしまうのを見て、スターチアはソッとため息を零した。
「唯一、私の生き甲斐がパンを焼くことなのに……」
早くこの世を去ってしまいたいと願うものの、祖父から受け継いだ技術をあれこれと駆使して焼き上がったパンを見ると、その時だけは生きていてよかったと感じている。
自らの手で生地を捏ねて、丸めて、オーブンで焼かれたパンは、まるで魔法が掛けられているかのように、ふっくらと美味しそうに焼き上がるのだ。
それが、彼女にとって、なによりの喜びだった。
公園での販売をやめても、スターチアは自分が食べる分のパンを焼くのだから、パン作りからいっさい遠ざかってしまうということではない。
しかしながら、自分の食事のために二つ、三つ焼くパンと、マールやアディスをはじめとする常連客のために大ぶりな手提げ籠二つ分のパンでは、達成感がまるで違う。
嫌がらせが落ち着くまで休業するつもりだが、犯人が捕まらなかったら、このままずっとパン売りができない生活となってしまうのだろうか。
生き甲斐から遠ざかった生活を長く続けたら、自分はどうなってしまうのだろうか。
「いつになったら、解決するのかしら……」
籠にパンを詰め終えたスターチアは、力なく呟いた。
少しばかり暗い気持ちで公園に向かったスターチアは、様子が昨日と違うことに気付く。
――臭いがしない?
いつもなら、乗合馬車を降りた辺りから、うっすらと異臭が漂っているのだ。
それなのに、今はまったく感じない。
――どういうこと?
スターチアは足を止め、スンスンと鼻から空気を吸い込む。
それでも、やはり異臭は感じなかった。
立ち尽くしているスターチアのところに、マールがいそいそと駆け寄ってくる。
「スターチア!」
ふくよかな体形のマールはスターチアの前にやってくると、肩を大きく上下させて苦しそうに呼吸を繰り返した。
「マールさん、大丈夫ですか?」
スターチアのほっそりした手が、マールの背中を優しく撫でる。
「す……、すまないね……」
最後にゆっくり息を吐いたマールが、丸めていた背中を伸ばした。
「そんなに慌てて、どうなさったんですか?」
尋ねるスターチアに、マールは興奮しきった顔で彼女の華奢な肩を掴む。
「犯人が捕まったんだよ!」
興奮しきった顔のマールに、スターチアは目を大きく開く。
「……え? 犯人って、公園のベンチに嫌がらせをしていた人ということでしょうか?」
問いかける彼女に、マールが何度も頷き返す。
「そうなんだよ! 夜更け過ぎに保安部が捕まえたんだよ!」
「夜更け過ぎ、ですか? そんなに時間まで、保安部の方々は頑張ってくださったんですね」
驚くスターチアの肩を、マールの肉厚な手がバンバンと叩いた。
「そりゃ、そうだよ。保安部には、スターチアを応援している人がたくさんいるからね。パンが食べられないとなったら、仕事どころじゃなくなるさ。あっはっは」
――これで、パンの販売をやめずに済むわ。
マールの話を聞き、スターチアはホッと安堵の息を零す。
さっそくスターチアは公園に出向いた。
古いベンチはつい先ほど交換を終えたということで、悪臭はいっさい漂っていない。
「よかったねぇ、スターチア」
うっすらと涙ぐむマールの様子に、こんなにも自分を気遣ってくれる人がいるのだと、スターチアの胸がほんのりと熱くなる。
「はい、本当によかったです」
そんな彼女のもとに、次々と人が集まってくる。
犯人逮捕の話を聞きつけ、スターチアの作るパンを買いに来た客たちだ。
スターチアは急いで開店準備を進め、昨日とは違う落ち着いた笑顔でパンを売りさばいた。
用意してきたパンは、あっという間に売り切れとなった。
もともとの数が少ない上に、昨日よりも人が集まったので仕方がないことだろう。
スターチアは、明日はもっと多く用意すると皆に約束し、閉店の準備に入った。
常連客はしばらくスターチアと話をしていたものの、それぞれ用事があるということで、既にこの場にはいない。
「やぁ、スターチア」
そこにアディスがやってきた。
「こんにちは、アディス様」
スターチアはペコリと頭を下げ、取っておいたとうもろこし入りのパンを紙に包んで差し出す。
「あまり用意してこなかったので一つだけですけど、よろしかったら」
「ありがとう、いただくよ」
アディスはパン代の硬貨をスターチアへ渡し、差し出された包みを受け取った。
スターチアはふたたび頭を下げる。
「公園のベンチに嫌がらせをしていた人が捕まったと聞きました。アディス様をはじめとした軍部の方々も、捜査に当たっていらっしゃったとか。本当にありがとうございました」
安心した表情を浮かべるスターチアだが、彼女とは反対にアディスの表情は浮かない。
「あの、どうされましたか?」
不思議そうに尋ねるスターチアに、アディスは短いため息を零した。
「保安部が嫌がらせの犯人とされる人物を逮捕したんだが、私はこれですべてが解決したとは思っていない」
「えっ?」
予想外のことを言われ、スターチアは唖然となる。
「で、ですが、マールさんの話ですと、ベンチに液体を撒いているところを、現行犯で逮捕したとか。その人が捕まったのに、解決していないんですか?」
「ここのベンチだけではなく、街中のパン屋も襲撃されているんだ。どう考えても、犯人は一人ではない」
低い声で、スターチアにだけ聞こえるように小声でアディスが告げる。
それを聞いて、彼女は戸惑いに満ちた表情を浮かべた。
マールから聞いた話では、四十代くらいの男性が一人でベンチに嫌な臭いがする液体を撒いていたとのことだ。
しかし、アディスの予想が本当だとしたら。
「……では、嫌がらせが今後も続くということですか?」
恐る恐る尋ねるスターチアに、アディスは深く頷いてみせた。
そして彼は、やや雲が多い空を見上げる。
「これまで保安部と共に犯人を追っていても、手掛かりすら掴めなかった。それが急に、張り込みをしている保安部の前で犯人が行動を起こしたんだ。どうにも奇妙なことだとは思うんだが……」
それはスターチアも思ったことだ。
公園内に設置されているベンチの数は、それほど多くない。
また、スターチアが使うベンチは決まっているのだ。
張り込みをするのに大人数を動員する必要もないし、目星をつけたベンチを重点的に見張っていたらいい話である。
それなのに、保安部は今日に至るまで犯人を捕まえられなかったのだ。
確かに、不思議なことである。
――犯人の逃げ足が、相当早かったとか?
そんなことを考えるスターチアに、アディスが苦笑いを向ける。
「今のは、私の独り言だ。気にしないでくれ」
スターチアはコクリと頷き返した。




