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「私がパンの販売で利用している公園で、嫌な臭いがする液体を撒く人がいるの」

 世間話をするかのように、スターチアの口調は軽い。

 事態はけして軽いものではないのだが、深刻な口調で語ると、余計に気がめいってしまうように思えたのだ。

 それに、彼女はジェンドに同情してもらうつもりはない。

 だた、話せと言われたから話しているだけなのだと、どこか八つ当たり気味でもあった。

 そんな彼女に、ジェンドが言葉を返す。

「ほう、ずいぶんと暇な人間がいるものだな」

 その物言いは『話を聞かせろ』と言った割りにはあまりにも他人事な態度だが、相手はしょせん悪魔で、なにも期待していないスターチアは、そのことで気分を害することはなかった。

 彼女は坦々と話し続ける。

「二日間もそういったことをされて、どうしようかと思ったのよ」

「どうしようか、とは? 犯人をなんとかして引きずり出してやろうということか? それで、捕まえた犯人はどうする? 俺に任せてくれたら、さぞかし面白いことになるぞ」

 スターチアがチラリと視線を上げた先で、ジェンドが片頬を上げてニヤリと笑っていた。


――こういう姿を見ると、彼が悪魔だって実感するわね。


 そんなことを思いながら、スターチアは首を横に振った。

「誰がそんなことをしているかなんて、私にはどうでもいいの。いえ、たくさんの被害を出している犯人のことは、とても腹立たしいわ。でも、私が言いたいのは、そういうことではなくて……」

 いったん言葉を区切った彼女は、雲の切れ間から顔を覗かせている月を見上げる。

「パンの販売を、続けるかやめるかということを決めかねているのよ。私があの公園を使い続けると、きっと犯人も嫌がらせを続けるでしょうね。それでは保安部にも、気に掛けてくださっているアディス様にも迷惑をかけてしまうもの」

 一日の稼ぎはそう多くないものの、慎ましい生活を送ってきたスターチアには、ある程度の貯えがある。

 それに鳥小屋と畑を持ち、乳牛を飼っているので、いきなり食べ物に困って飢え死にすることもないだろう。

 だから、収入がなくなるのを気にしている訳ではないので、スターチアの意思次第で明日からでも販売はやめられる。

 とはいえ、自分が作ったパンを心待ちにしている常連客のことを考えると、スターチアは明日も公園へ行こうとも思うのだ。


 一番いいのは、早く犯人が捕まり、嫌がらせが収まること。


 しかしながら、アディスをはじめとする軍関係者が捜査に乗り出しているというのに、いまだ犯人は捕まっていないのだ。

 やめても続けても人に迷惑が掛かるならどうしたらいいのかと、スターチアはそのことばかり考えていたのである。


 話を終えた彼女は、肩掛けの合わせ部分を右手でギュッと握った。

「……こういうことが起きるなんて、やっぱり、私の体には悪魔の血が流れているのかしらね」

 あの村を追い出された時のように、いずれこの場所も追い出されるのだろうか。

 自分に優しくしてくれたアディスやマールたちも、汚らわしいものを見る目をこちらに向けてくるのだろうか。

 たとえ自分があの公園を離れたとしても、次の場所で似たようなことが起きないという保証はどこにもない。

 スターチアはさらに肩掛けを強く握り、下唇を噛む。


――どうしたら、私は人に迷惑をかけることなく、生きていけるのかしら? こんな私は、本当に生きている価値があるのかしら?


 泣きたいような怒りたいような、それでいて空しさが渦巻いているような、なんとも言えない胸の内が苦しくて、スターチアは唇を噛む力を強めた。

 そんな彼女に、ジェンドがボソリと吐き捨てる。

「お前なんかに、俺と同じ高貴な血が一滴だって流れているはずないだろう。たかが人間の小娘のくせに、うぬぼれるな」

 聞きようによっては、ものすごく見下した言い方である。


 しかしスターチアにとっては、村を出た時からずっと胸の奥に押し込めていた不安がフッと軽くなった瞬間だった。


「……私、悪魔じゃないの?」

 問いかける彼女に、ジェンドはフンと鼻を鳴らす。

「その歳で悪魔がどういうものか本気で分かっていないなら、救いようのない馬鹿だ」

 彼はスターチアの前に片膝を立てて座る。

 屋根の上という不安定な場所であるにもかかわらず、ジェンドはこともなげにやってのけた。体勢を保つ魔力が働いているのかもしれない。

 スターチアは、そんな彼をボンヤリと見つめる。

「……ねぇ、私は本当に悪魔じゃないの?」

 スターチアの声は、縋るような響きがあった。

 すると、ジェンドはふたたび鼻を鳴らす。

「悪魔は必ず髪と瞳に黒の色彩を纏う。これまでも、これからも、例外は一つとしてない」

 そう言って、彼はスターチアの顔を覗き込んだ。

「お前は確かに瞳が黒いものの、髪色が違う。悪魔の中には自分の好みに合わせて髪色を変える者もいるが、それは一時的で表面的なものだ。だいいち、それは魔力を使ってなされる。魔力の欠片さえも感じないお前には、到底無理な芸当だろうな。つまり、高貴な悪魔と矮小な人間には、雲泥の差があるんだよ」

 傲慢に笑うジェンドを見て、スターチアの中にある不安はさらに軽くなった。

「そうなのね……」

 スターチアは小さく呟く。

 不幸を呼び込むとされる悪魔でないと言うなら、自分がいる場所に必ずしも災いが怒るというわけではない。

 あの村で起きたことは、まったくの偶然だったのだ。

 それを悪魔自身に証明されるのは滑稽だが、彼女の心はだいぶ軽くなる。

 そうなると、次に気にかかるのは、公園のベンチを汚した犯人だ。

 自分が悪魔ではないことが分かっても、自分がれっきとした人間であるとしても、スターチアが公園を離れない限り、あの嫌がらせが続くはず。


――事態が落ち着くまで、公園に行かないほうがいいかしらね。


 とはいえ、いきなりパンの販売をやめてしまったら、マールたちが心配するのは必至だ。

 明日はいつも通りに公園に出向き、明後日からしばらく休むことを伝えようと考える。

 自分が悪魔ではないと言ってもらえたことや、これからどうするのかが決まったことで、スターチアの表情に柔らかさが戻った。

「そろそろ寝るわ、明日も朝が早いし」

 その言葉に、ジェンドは軽く眉を寄せる。

「嫌がらせを受けているのに、まだ行くつもりか?」

 呆れているような口調だが、スターチアは気にしない。

「ええ、行くわ。でも、明日だけよ。嫌がらせが収まるまでパンの販売をやめることを、お客様に伝えないと」

 答えたスターチアは、静かに微笑む。

「今夜はありがとう」

 終始嫌味を言われただけだったが、彼女の心が彼の言葉に救われたのは事実だ。

 礼を言われ、ジェンドは盛大に眉根を寄せる。

「悪魔に礼を言うなんて、本物の馬鹿じゃないのか?」

「別にいいじゃない、私が言いたかったんだもの。それに、言われたからって、あなたに害はないでしょ?」

「……人間に礼を言われた悪魔ってことで、仲間に笑われそうだ」

 鼻の頭に皺が寄るほど心底嫌そうな表情を浮かべるジェンドを見て、スターチアが小さく噴き出す。

「めったにできない経験ができてよかったじゃない」

「ちっともよくない。いいから、さっさと寝ろ」

 シッシッと、まるで野良犬を追い払うかのような手の仕草に、スターチアはまたしても噴き出した。

 悪魔なのに悪魔らしからぬ青年の言動が、妙におかしくて仕方がない。


――鼻の頭に皺が寄っているわ。あんなしかめっ面もするのね。


 クスクスと笑いながら、スターチアははしごに足をかけた。

「ええ、おやすみなさい。どうか、悪い夢を」

 最近、決まり文句となった挨拶を告げる彼女に、ジェンドはいっそう不機嫌な表情を浮かべる。

「お前の夢に現れて、怖い思いをさせてやろうか?」

 低い声で威嚇してくる彼に、スターチアが言い返す。

「あら、夢の中でも私に会いたいの? 光栄だわ」

 勿論、彼女は冗談で言ったのだ。

 この程度の軽口にならすぐさま嫌味たっぷりの反論が返ってくるだろうと思っていたものの、スターチアの予想は外れた。

「……そんなわけあるか。それこそ、うぬぼれるな。人間の小娘くせに」

 低く響く声はまさに不機嫌そのものであるけれど、勢いがまったく感じられない。

 スターチアから視線を外してボソボソと呟かれた彼の言葉に、彼女はソッと首を傾げた。


――どうしたのかしら?


 彼女としては、「生意気なことを言うな」、や、「なにを馬鹿げたことを」と居丈高に返してくると思っていたのである。

 それが、そっぽを向いて独り言のように小さな声で呟くものだから、スターチアは拍子抜けしてしまった。


――なんだか、調子が狂うわ。


 そう思いながらも、悪魔の青年がなにを思っていようが、スターチアには関係のないことだ。

 あいさつは済ませたのだからと、彼女はそれ以上なにも言わずにはしごを降りていった。


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