(26)
帰りの乗合馬車に揺られながら、スターチアは思わずため息を零してしまう。
これまでだって、けして順調な人生ではなかった。
家族や恋人、友人が立て続けに亡くなった時、悲しみで胸が張り裂けそうだった。
黒い瞳のせいで村を出た時、不安で胸が潰れそうだった。
それでも、今回の事件のように、理不尽で不可解な状況ではなかったように思う。
――誰が? どうして?
次々にパン屋を襲撃して、まして、ほとんど稼ぎのない自分の売り場を台無しにして、誰がどのように得をするのかと、スターチアは考える。
ただの憂さ晴らしにしては、あまりにもタチが悪いではないか。
――目的は、なんなのかしら?
そう心の中で呟いた時、スターチアはハッと息を呑む。
すでに襲撃されたパン屋は、再度狙われたことはなかったと聞いている。
二度も売り場であるベンチを潰されたのは、スターチアだけだった。
――まさか、この瞳の色が気持ち悪いからと、嫌がらせであんなことを?
この地域に移り住んで数年が経つものの、今まで、瞳が理由で酷いことを言われたり、暴力を振るわれたことは一度もなかった。
だが、これまでになかったからといって、絶対に起きないということもないだろう。
王都周辺では常に人が出入りしていて、新たに住民となった人も多くいる。
その者たちの中に、自分を『悪魔の使い』、または、『悪魔の化身』と捉えた人がいるのだろうか。
――その可能性が、ないわけではないけれど……。
もし、そうだとしたら、今使っている公園の近くで販売許可申請をしないほうが得策かもしれない。
せっかく場所が取得できても、ふたたび嫌な臭いの液体を撒かれることも考えられる。
それならしばらく様子を見て、犯人が捕まらないようなら、思い切って遠く離れた地に引っ越し、新たにパンを販売するべきだろう。
――でも、引っ越した先で私のことを受け入れてもらえなかったら?
そう考えるスターチアの口から、先ほどよりも深いため息が零れた。
夜になり、スターチアは屋根へと上っていった。
薄曇りの空だが、かろうじて月は見える。そのことに少し安堵して、彼女は静かに月を見上げていた。
ただ、いつも以上にボンヤリとしていた。
ジェンドが現れたことも気付かないほど。
「どうした?」
声を掛けられて初めて、スターチアは悪魔の青年が立っていることを知る。
「……え?」
呆気に取られる彼女に視線の先には、不機嫌であることを隠しもしないジェンドがいた。
――いつの間に?
普段なら、たとえ視線が月に向いていても、ジェンドが現れたら気配で分かる。
そのくらい、青年の魔力は圧倒的だった。
ところが、今夜は一切気付かなかったのだ。
それほどまで意識が月へと集中していたのではなく、むしろ、彼女の心がここになかったからかもしれない。
「あ、あの……ごめんなさい……」
バツが悪そうに謝るスターチアの態度に、ジェンドは怪訝な表情を浮かべ、片眉を上げた。
「様子が違って、なんだか調子が狂う。いつものふてぶてしさは、どこにいったんだ?」
その物言いに少しばかり腹が立ち、スターチアは調子を取り戻す。偉そうに体の前で腕を組む青年を睨み付けた。
「もう、失礼ね」
素っ気なく返しつつ、スターチアは心の中で問い掛ける。
――私、いつもと違っていた?
自分では、なにも変わらないと思っていた。ほんの少し、考え事をしていただけなのだ。
なのに、青年は開口一番「どうした?」と、こちらの様子を窺い、いつもと違う自分を指摘した。
言葉はだいぶ悪いが、彼なりに自分を心配してくれているのかもしれない。
――悪魔が、人間を心配?
思わず苦笑いを零してしまいそうになるが、今までこの青年は、『そんな薄着では風邪を引く』 だの、『屋根から転げ落ちたら骨を折る』だとの、たしかにスターチアを心配する言葉を口にしていた。
物語の中から得た知識とはかなり違う規格外の悪魔だから、その可能性は捨てきれない。
――相変わらず、変わり者よねぇ。
どこからどう見ても正真正銘悪魔のくせに悪魔らしくない彼の言葉により、ふいにスターチアの肩から無駄な力が抜けた。
僅かにずり落ちた肩掛けを引き上げるスターチアを見て、ジェンドはふたたび片眉を上げる。
「それで、どうした? この俺が、ちっぽけな人間の悩みなど、一瞬で解決してやろう」
偉そうな物言いだが、こちらの悩みを聞くと言っていることが驚きだ。
――どこまでも、規格外の悪魔ね。
ヒョイと肩をすくめたスターチアは、ユルリと首を横に振ってみせた。
「なんでもないのよ」
そんな彼女の態度に、ジェンドは不機嫌そうにフンと鼻を鳴らす。
「盛大に時化た顔をしているくせに、なんでもないということはないだろ。暇つぶしに、お前の悩み相談に乗ってやろう。ありがたく思え」
ちっともありがたいと思えない言い方だが、これこそが尊大な悪魔らしい。
スターチアはフッと小さく笑みを浮かべつつ、ふたたび首を横に振った。
「あなたに聞いてもらうようなことは、なにもないもの」
すると、ジェンドは上体を屈め、中腰になって彼女の顔を覗き込んだ。
「今、鏡を出してやろうか?」
急な話題転換についていけず、スターチアは首を捻る。
「鏡? なんのために?」
瞬きをしきりに繰り返す彼女に、ジェンドはフンと鼻を鳴らした。
「気がかりなことがあるって、顔に大きく書いてあるぞ」
「……そんなことないわ」
一瞬言葉に詰まってしまったスターチアは、さりげなく視線を逸らす。
ところが、そんな態度こそが彼女らしからぬ態度だと、ジェンドの目には映った。
「いいから、話せ」
ジェンドがやたらと真剣な表情でこちらの顔を覗き込んでくるため、スターチアの気持ちが徐々に揺れ始める。
――話したら、少しは気が晴れるかしら?
スターチアは、彼の助言や手助けを望んではいない。
しかし、話すことで、鬱々とした気分が薄れるかもしれない。
――私の話が退屈でも、話せと言ったのは、この悪魔よね。あとで文句を言われる筋合いはないわ。
スターチアはゆっくり息を吐くと、「実はね……」と、静かに話し始めた。




