(25)
翌朝には雨が上がった。
スターチアはいつもの時間に目を覚まし、ベッドを抜け出る。そして、卵を回収し、野菜を収穫し、牛の乳を搾った。
小屋に戻って朝食を済ませ、パンを焼き始める。
昨日の悪臭事件のせいで、スターチアの気持ちは沈んでいた。
しかし、そんな時こそ、いつもと同じ行動を取ったほうが、落ち着きを取り戻せるだろう。
空元気を出して動きすぎても、また、塞ぎ込んでベッドで寝ていても、心は回復しない。
人によって様々だろうが、スターチアは過去の経験から、そのように学んでいた。
とはいえ、気にしないようにと心掛けても、悪臭が鼻の奥に残っている感じがして、胃の辺りが少しムカムカしてしまう。
スターチアは時折パン作りの手を止めて、落ち着いた香りを放つ香草茶を口にした。
「きっと、今日も嫌な臭いがするわよねぇ」
ため息まじりに彼女が呟く。
夕べは雨が降ったものの、土砂降りというものではなかった。だから、雨で洗い流されたとは思えない。
また、木に染み込んだ臭いはなかなか抜けないものだ。
スターチアは客足が伸び悩むだろうと考え、普段よりも仕込むパンの数を減らした。
パンが焼き上がり、スターチアは鏡の前で身支度を整える。
髪を薄桃色のリボンでまとめ、おもむろに鏡を覗き込んだ。
正面には、悪魔の青年と同様の真っ黒な瞳がそこにある。
生まれ育った村を追い出された原因をジッと見つめ、彼女は苦笑いを浮かべた。
「私の瞳が黒くなかったら、私はまだ、あの村で暮らしていたのかしら?」
鏡の中に映る自分に問いかけるものの、答えは返ってこない。
それでも、自分の中に答はある。
スターチアの瞳が黒以外の色でも、立て続けに身内や知り合いが寿命以外で亡くなったのなら、村の人たちは彼女を胡散臭い目で見るだろう。
のどかな村だったが、その分、閉鎖的な部分があった。
だから、スターチアが黒い瞳を持つゆえに『悪魔の化身』と思われなくても、なにかしら、悪魔と関係しているから不幸な出来事が続いたのだと、村のそこかしこで囁かれるだろう。
村というのは、そういうものだ。
少しでも奇妙なことが重なると、偶然ではなく、『なにか』が起きていると思ってしまう。
そして、無理やりにでも、『なにか』の原因を追い出そうとする。
あの時は、スターチアが矢面に立たされた。
彼女の身内や知り合いの死以外の不幸な出来事も、なにもかも、スターチアが悪魔の瞳を持っているからだと。
当然のことながら、彼女はれっきとした人間で、その瞳の色は、先祖代々の血が入り混じり、偶発的に発生しただけのこと。
それでも、田舎だからこそ、悪魔に対する畏怖は根深かった。
結果としてスターチアは村人たちに追い出される形となったのだが、彼女自身はそれでよかったと思っている。
楽しく幸せな思い出が残るあの場所に、一人で暮らしているのはつらかった。
それなら、自分のことを誰も知らない場所で、一から生活を始めたかったのだ。
幸いにも、多くの人が入り混じる王都へ近付くにつれ、髪や瞳の色が濃い者たちと出逢う機会も増えた。
スターチアのように漆黒を持つ者はいなかったが、それに近い黒藍色や濃灰色といった髪や瞳を持つ者たちは多かったのである。
おかげで、彼女は奇異の目で見られることもなく、割り合いすんなりと住民たちに受け入れられるようになっていった。
今ではスターチアを『悪魔の化身』や『悪魔付き』と言う人はおらず、その瞳を見ても、『少し珍しい色』で済ます人たちばかりだった。
「……あ、いけない。乗合馬車の時間に遅れるわ」
スターチアは慌てて玄関に向かい、パンを詰めた籠を持って小屋を飛び出す。
いつもの時間に現れなかったら、心配性のマールがやきもきすることだろう。
スターチアは無事に乗合馬車を捕まえ、時間通りに公園へとやってきた。
現れた彼女に、すでにやってきていたマールがホッと息を吐く。
「ああ、よかった。昨日のことで、参っちまったかと思ったよ」
華奢で大人しいスターチアにとって、あの悪臭騒ぎは精神的に大きな打撃を与えたと、マールは心配していたのである。
人付き合いを密にしたくないスターチアではあるが、自分を心配してくれる存在はありがたいと感じていた。
「こんにちは、マールさん。私なら、大丈夫ですよ」
微笑みを浮かべて返事をしたスターチアの鼻に、覚えのある嫌な臭いが届いた。
しかも、その悪臭は昨日よりも濃くなっているように思える。
「これは……」
思わず眉根を寄せてしまった彼女と同様に、マールも険しい表情を浮かべる。
「どうやら、また変な臭いの液を撒かれたみたいでね。せっかく、保安部が綺麗にしたっていうのに、悪臭がますますひどくなってるんだよ」
一度きりで済むと思ったが、続けて嫌がらせをされたとなったら、スターチアがここに足を運ぶ限り、続く可能性がある。
保安部も軍も、まだ犯人像については見解を述べていない。
マールの夫もアディスも、スターチアたちにはなにも伝えていなかった。
だから、自分たちが見聞きした情報だけでは街中のパン屋を襲撃した犯人と公園のベンチに嫌な臭いがする液体をまいた犯人が実際に同じであるという確証はないが、スターチアは「自分が原因かもしれない」という思いが拭えないでいる。
「事件がいつ解決するか分からないし、販売許可の申請を改めたほうがいいんじゃないかい?」
マールの言葉に、スターチアは少し考えた後、小さく頷き返した。
「そうかもしれませんね。帰る前に、役所へ行ってみます」
スターチアは力なく微笑みを浮かべ、今日も公園の入り口でパンを売り始めた。
以前からの常連客やアディスが足を運んでくれたおかげと、用意してきたパンの数を減らしたおかげで、どうにか売り切ることができた。
「皆さん、ありがとうございました」
スターチアが声をかけると、彼らは口々に彼女を励ます。
「嫌がらせに負けるんじゃないよ」
「私たちがついているからね」
「スターチアのパンを食べることが、なによりの楽しみだ」
彼女の細い肩を次々に叩く彼らに、スターチアは表情をやわらげた。
「はい、頑張ります。皆さんに食べていただくことが、私の楽しみですから」
そう言って笑みを浮かべる彼女を心配しつつ、客たちは帰っていく。
店じまいを終えたスターチアは、マールに話したように役へと所向かった。
各種申請窓口へ向かい、担当職員に声をかける。
「パンを販売する場所を、新しく申請したいのですが」
事情を説明するスターチアに対し、その男性職員は申し訳なさそうに口を開いた。
「他の場所で商売をされるとなると、そこがまた新たな標的となる可能性があります。申し訳ございませんが、この一件が済むまで、新しい申請許可証はお出しできません」
「……え?」
驚くスターチアの様子に、職員はさらに眉尻を下げる。
「すみません、上司からそのように申し付けられておりまして……」
そう言われてしまうと、スターチアにはどうしようもない。
――この人は、意地悪で言っているわけじゃないんだし。
今は諦めるしかなさそうだ。
「分かりました、失礼します」
職員に小さく頭を下げ、彼女はその場を後にした。
他の場所で商売ができないとなったら、このまま悪臭漂う公園を使うしかない。
本来なら、事件解決までそれも却下されそうだったのだが、スターチアを心配してついてきたアディスの口添えによって、今まで通り、あの公園を使っていいことにしてもらえたのは、まだ救いだった。
「一日も早く、犯人を捕まえる。それまで、どうか辛抱してくれ」
役所を出たところで、厳しい表のアディスがスターチアに声をかける。
彼女は微笑みを浮かべ、「よろしくお願いします」と言って頭を下げた。




