(24)
さすがにいつものベンチを使う気にはなれず、スターチアは入り口付近で販売することにした。
保安部の職員や近所の住人たちが頑張って清掃してくれたようだが、木製ベンチには臭いが染みついてしまい、交換するまではこの臭いに悩まされそうである。
――悪臭で、目が回りそう。
スターチアは心の中でポソリと呟く。
当然のことながら、この日は客足が激減した。人々はパンを買いに来るどころか、公園に立ち寄ろうとさえしないのだ。
籠に残るパンを見て、スターチアが細い肩を落とす。
「たくさん買ってやりたいんだが、この後、家族で親戚と食事をするからねぇ」
申し訳なさそうに告げるマールに、スターチアが首を横に振ってみせた。
「いえ、気にしないでください。もう少し、お客様を待ってみます」
そう返した時、長身の男性がこちらにやってくる姿が二人の視界に映る。
「二人とも、ずいぶんと暗い顔をしているじゃないか。まぁ、この状況だと、それも仕方ないか」
アディスは鼻からスンと息を吸い込み、顔をしかめた。
「いったい、誰がこんなことを……。一生懸命頑張ってるスターチアに、ひどい仕打ちだよ」
憎々し気に告げるマールに、アディスが声を掛ける。
「町の保安部だけではなく、軍も犯人逮捕に乗り出した。町のパン屋がいくつも襲撃されているのは、
怪我人や死人が出ていないとしても、さすがに見過ごせない」
静かな声ではあるが、彼の怒りが含まれているのを感じる。
――アディス様が協力してくれるなら、きっと大丈夫よ。犯人も、すぐに捕まるわ。
スターチアは無意識のうちに、首から提げている懐中時計を握り締めた。
その様子を見て、アディスが目を細める。
「大事にしてくれているみたいだな」
「ええ、もちろんです。とても大切な宝物です」
「そうか」
スターチアの返事に、アディスの目がさらに細くなる。
彼の視線が懐中時計を射抜かんばかりに向けられているので、スターチアは首を傾げた。
――どうなさったのかしら?
懐中時計は、言葉に違わず、大切に大切に扱っていた。
傷を付けないように注意をはらい、一日の終わりには柔らかい布で丁寧に磨いている。
だから、アディスからもらった時と状態はまったく変わっていないはずだった。
不思議そうにしているスターチアに気付いたアディスが、フッと短く息を吐く。
「私の気のせいかもしれないが……。なんとなく、様子が変わったように思えてな」
その言葉に、スターチアの細い肩がピクリと震えた。
色合いも形もまったく変わっていないのに、アディスには変わったように感じている。
原因は、あの悪魔の青年が押し付けてきた加護の上書きではないだろうか。
――まったくもう、余計なことをして!
しかし、自分が毎晩のように悪魔と会っているとは口にできない。
今のところひどい目に遭わされていないが、人間にとって悪魔の存在は異質である。おいそれと、話せるものではなかった。
スターチアは申し訳なさそうな表情を浮かべ、ただ黙っていた。
そんな彼女の肩を、アディスはポンと叩く。
「極々弱い魔力しか持たない私にははっきりとは分からないが、悪いものだとは思えない。なんというか、波動の質と量が変わったと言うか……」
「そ、そうでしょうか……」
勘の鋭いアディスに悪魔のことを見抜かれてしまうのではないかと、スターチアの心臓が忙しない音を立て始める。
ドキドキしているスターチアの肩を、アディスが改めてポンと叩く。
「もしかしたら、私の加護が中途半端だったのかもしれない。やはり、こういったことは、本職の者が行うべきだな」ようだ。
どうやら、さすがのアディスでも、悪魔の存在を見抜けなかったようだ。
スターチアは密かに安堵の息を零した。
売れ残っていたパンはアディスがすべて買い上げてくれたおかげで、折角作ったパンが無駄になることはなかった。
「ありがとうございます、アディス様」
スターチアは深々と頭を下げ、礼を述べる。
「いや、こちらとしてはふんだんに食べられるので、かえってありがたい」
アディスは思いがけず様々な種類のパンを購入できて笑みを浮かべてみせるが、彼の心中は穏やかではない。
町のパン屋襲撃や今回の悪臭騒ぎは、おそらくホースキン男爵が噛んでいると、アディスや彼の部下たちは考えている。
数件に上るパン屋への被害は大きく、まして公共の施設に不具合を発生させたため、間違いなく裁判沙汰に持ち込めるだろう。
あとは、ホースキン男爵が関わっている具体的な証拠を一つでも多く揃えるだけだと、アディスは決意を新たにする。
それと同時に、スターチアのことが心配になった。
こうして彼女が販売許可を得ている公園をまともに使えないようにしただけではなく、スターチア自身に被害が及ぶ可能性があるのではないかと。
これまでは店舗が壊されるといった物的被害だけであったが、今後もそれだけに留まるという保証はないのだ。
「スターチア。公園が荒らされたのだから、軍の食堂で販売するのはどうかな? せめて、パン屋襲撃の犯人が捕まるまでの間は」
彼女の身を案じ、アディスがそのように提案した。
しかし、スターチアは苦笑を浮かべて首を横に振った。
「お気遣いありがとうございます。ですが、やっぱり私はここでパンを売ろうと思います」
「だが……」
当然のことながら、アディスは表情を曇らせる。
店を持たないからこそ、彼女自身が狙われるのではないかと心配でならないのだ。
それでも、スターチアの首は縦に振られなかった。
「この公園が駄目になりましたら、その時は他の場所に移ってもいいですし。せっかく、私がここでパンを販売していることが広まってきましたので、できる限り頑張ってみます」
静かに微笑んでいるものの、その瞳には譲らないものを感じる。
アディスはその様子に、頑固なところは祖父譲りだと苦笑を深めたのだった。
その日の夜。
雨が降ってきたため、小屋の屋根に上ることはできなかった。
スターチアはランプの明かりを消し、早々にベッドへ潜る。
「いったい、誰があんなことを……」
彼女は昼間の出来事を思い返し、小さく呟く。
なぜ、パン屋ばかり襲撃するのか。
なんのために、パン屋を襲撃するのか。
そして、自分のように店を構えず、細々と商売しているような者の邪魔をする意味はあるのか。
考えるほどに、スターチアの心には鬱々とした気分が溜まってしまう。
「こういう時こそ、なにも考えずに、月を眺めていたかったわね。そうしたら、いくらかでも気が晴れたかもしれないのに。雨が降って、残念だわ」
スターチアは掛け布団を口元まで引き上げた。
残念なのは、いつもの日課がこなせなかったから。
月を見ないと、一日が終わった気がしないから。
悪魔の青年に会えなかったことを残念に思っているわけではない。
「……明日は晴れるといいけど」
ポツリと呟き、スターチアは深く息を吐いた。
たとえ妨害があっても、公園に出向いたら、いくらかでも稼ぎになる。
それに、パン生地はすでに仕込んであるため、売りに行けないとしたら無駄になる。
また、月を見上げないと落ち着かない。
だから、晴れてほしいのだ。
「ただ、それだけよ」
誰に聞かせるつもりもなく零してから、スターチアはきつく目を閉じた。




