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こうした日々が続く中、スターチアのパンを買い求める人たちの波は、一応の落ち着きを見せ始めている。
アディスや若い軍人たちが繁盛時よりやや遅く訪れても、ある程度は目当てのパンが買えるようにはなっていた。
ただ、落ち着いたとはいえ、彼女のパンは連日飛ぶように売れ、常に完売だった。
今日もマールに手伝ってもらい、スターチアは無事に販売を終える。
「いつもありがとうございます。本当に助かります」
スターチアが頭を下げると、マールのなふくよかな頬が笑み浮かべる。
「いいってことよ。スターチアは、私にとっちゃ、娘も同然だからね」
ニッコリ笑うマールだったが、その目の奥は華奢なスターチアを心配する光が浮かんでいた。
「毎日、仕込みも大変だろ? 体は大丈夫かい?」
その言葉に、スターチアは小さく微笑む。
確かに、今の彼女は現状に疲労を感じていたものの、自分が作るパンを楽しみにしてくれている人がいることを考えたら、連日の忙しさはやり甲斐に繋がっている。
「大変ではないと言ったら嘘になりますけど、皆さんに食べていただくのは嬉しいですから。ありがたいことだと思っています」
「まぁ、気持ちは分かるけどねぇ。くれぐれも、無理をするんじゃないよ。食事はちゃんと取っているんだろうね。夜は、早めに寝てるかい?」
マールの言葉に、スターチアは僅かに視線を逸らした。
どんなに疲れていても、月を見上げる習慣は途絶えさせたことはない。
少しでも早く寝たほうが体のためにはなるだろうが、ボンヤリと月を眺めて張りつめた緊張の糸を緩めるもの、会いたくても会えない人たちを偲ぶのも、スターチアにとっては大事なことだった。
だが、最近ではその大事な時間が少しだけ様子を変えてきている。
あの悪魔の青年が、なんだかんだと文句を言いつつも世話を焼くようになった気がするのだ。
それに、以前よりも彼と軽口を交わすことが増えたようにも思う。
誰とも――それが人ではない悪魔であっても――、本気で心を許したくないと思っているスターチアにとって、これは喜ばしくない事態である。
――こんなつまらない女のことなんか放っておいて、他に暇つぶしを見つけたらいいのに……。
自由に空を飛べる翼を持っているのだから、あちこち飛び回ったらいいのだ。
それこそ、暇つぶしに。
心の中で呟きながら、スターチアは店じまいに取り掛かった。
ある程度の片付けが済んだところで、マールはふたたびスターチアに話しかける。
「ねぇ、スターチア。最近、身の回りで変わったことが起きてないかい?」
「え?」
声を潜めて話しかけられ、畳んだ大判の布を手提げ籠に入れていたスターチアは首を傾げた。
マールはスターチアに身を寄せ、さらに小さな声で続ける。
「最近、町のパン屋が、どこかの誰かに嫌がらせを受けているらしいんだよ。それも、いくつもの店が被害を受けているって話さ。もしかしたら、あんたも嫌がらせでもされているんじゃないかって、心配になってねぇ」
思いもよらないことを言われ、スターチアはパチクリと瞬きを繰り返した。
最近の出来事を丁寧に振り返ってみるものの、マールが口にしたようなことをされた覚えはいっさいない。
それは町中でも、家でも。
「いいえ、なにもされていないですよ」
はっきりとした彼女の言葉に、マールはホッと息を吐いた。
「それならいいんだけどさ。でも、ひどいことをされたら、すぐに知らせるんだよ。ウチの夫が、思いっきりとっちめてやるからね」
マールの夫は、町の保安部に勤めている。口髭を生やした厳つい男性だが、実はスターチアが作る甘い菓子パンがなによりの好物だという。
常に公正な判断を下し、また腕っぷしが強いので、たいそう頼りになる人だ。
「心配してくれて、ありがとうございます。なにかありましたら、すぐ相談に伺いますね」
スターチアは笑みを浮かべ、公園を後にした。
――いったい、誰がそんなことをしているのかしら?
スターチアは乗合馬車に揺られながら、先ほどマールに聞いた話を思い返している。
貴族の裏事情など知らない彼女には、パン屋襲撃について、皆目見当がつかない。
当然のことながら、ホースキン男爵が嫌がらせの首謀者であることなど、考えもしなかった。
慰霊祭会場でアディスが肩入れしているスターチアを恨めしく思った男爵は、営業の邪魔をして彼女をこの町から追い出してやろうと考えた。
またこのところ数が増えてきたパン屋を潰すことで、自分の店に客が集まり、ひいてはアディスに目をかけてもらえるとも考えたのだ。
あまりにも短絡的な思考である。
いや、そういった思考回路しか持ち合わせてないからこそ、下らない逆恨みに執念を燃やすようになってしまったのだろう。
男爵は自分が首謀者であることを周囲に悟らせないよう、人目がない深夜、口が堅い用心棒たちに町のパン屋を襲撃させていた。
目的は自分が出資している店以外のパン屋が営業できないようにすることであり、店主や従業員に動けないほど怪我をさせたり、また、命を奪ったりするつもりはなかった。
しかしながら、オーブンなどの重要な設備が壊されてしまっては営業再開にまでかなりの時間を要する上に、再建のための費用も掛かってしまうため、被害に遭った者たちは深刻に頭を悩ませている。
当然のことながら町の保安部も動き出しているものの、今のところ、ホースキン男爵の差し金であることは突き止められていなかった。
町のパン屋に嫌がらせの被害が出ているという話を聞いてから一週間が経った日のこと、ついにホースキン男爵の手がスターチアにかかる。
いつものようにパンを詰めた籠を持って公園にやってきたスターチアは、入り口にマールが立っていることに気付いた。
これまでにそんな場所で待っていたことがなかったため、彼女は首を傾げる。
「こんにちは、マールさん。どうしたんですか?」
話しかけた彼女は、漂ってくる異臭に顔をしかめた。
「……なんですか、これ?」
手で鼻を覆ったくらいでは、防ぎようのない臭いだ。気を張っていないと、吐き気をもよおしそうである。
スターチア以上に顔をしかめているマールが、この公園内のベンチすべてに嫌な臭いがする液体が撒かれていたことを告げた。
「え?」
驚いて目を丸くするスターチアに、マールはさらに話を続けた。
「液体が撒かれたのを見た人が誰もいないんだよ。朝早くにこの辺りを散歩する人が最初の発見者ってことは、たぶん、夜中のうちにやられたんじゃないかって」
「……なんのために、そんなことを?」
スターチアはいつも使っているベンチに視線を向けながら、唖然とした表情で呟く。
そんな彼女に、マールは深々とため息を吐いた。
「夫から話を聞いた時、はじめは酔っぱらいの仕業かと思ったんだけどね。それにしちゃ、全部のベンチが臭いってのもおかしいじゃないか。これは例の嫌がらせじゃないかって、保安部は睨んでいるよ」
スターチアは、さらに目を瞠る。
「嫌がらせって、まさか……」
「ああ、間違いなくスターチアに対してだね。アンタがこの公園のベンチを使ってパンを売っているのを、嫌がらせの主は知っていたんだ。ああ、もう! 腹が立つったら、ありゃしないよ!」
憎々しげに吐き捨てるマールの様子に、スターチアは困ったように眉尻を下げた。
「それでは、このパンをどうしたら……」
スターチアが許可を得ているのは、あくまでもこの公園内でのパンの販売だ。
他の場所で営業するとなると、新たに申請が必要となる。しかも、その申請が通るのは、どんなに早くても三日後だ。
そうなると、手にしているこのパンたちは、今日のうちに売ることができない。
収入が減ることよりも、パンが無駄になることのほうがスターチアには堪える。
「あの……、公園に入ることは出来るんですか?」
スターチアが尋ねると、マールは頷き返した。
「それは、問題ないさ。保安部の検証も、もう終ったようだしね。ただ……」
マールも、スターチアと同様に、表情を曇らせて公園内に視線を向ける。
「この臭いじゃ、客が来るかどうか分からないねぇ」
それはもっともなことだが、他で販売できない以上、仕方がない。
スターチアは苦笑を浮かべつつ、公園内へと足を踏み入れた。




