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 その日の夜、スターチアはいつものように屋根の上に登って月を眺めていた。

 昼間の忙しさにより体は疲れていたけれど、たくさんに人に喜んでもらえたことが嬉しく、気分が高揚していて寝付けなかったのである。

 魔術によって温かさを放つ肩掛けを胸の前で軽く合わせ、彼女は普段よりも晴れやかな気分で月を見上げる。

「おじいちゃん、アディス様から素敵なものをいただいたのよ」

 そう言って、スターチアは胸元に提げられている懐中時計を、肩掛けの布地の上からゆっくりと撫でた。

 その時、「お前、今夜は妙な物を持っているな」と、声をかけられる。

「え?」

 パッと視線を上げた先には、どこか不機嫌そうにしているジェンドが宙に浮いていた。

 音もなく突然現れた彼に驚きつつも、スターチアは先ほどの言葉に引っかかりを覚える。

 

――妙なものって、なにかしら?


 彼に問われたスターチアは、心当たりを探る。

 しかしながら、格好としてはいつも通りだった。

 違うことといったら、アディスにもらった懐中時計を持っているくらいだ。

 とはいえ、肩掛けの布地に隠れていて、彼の目には見えないはずである

 しきりに首を傾げるスターチアの様子に、ジェンドは苛立ったように漆黒の前髪を片手で乱暴にかき上げた。

「お前から、変な波動を感じる。なにを持っているんだ?」

「波動?」

 短く問い返したスターチアは、肩掛けの前合わせ部分を少し開いて首から提げている懐中時計をジェンドに見せる。

「これ……、かしら?」

 彼女がジェンドを見上げると、彼の眉間に薄く縦じわが入った。


――この懐中時計が、どうしたのかしら?


 スターチアには、彼が不機嫌を巻き散らす理由が分からない。

 話によると、悪魔であるジェンドにとっては、聖水も十字架もまったく意味のないものらしい。

 なので、魔術士ではないアディスがなにやら施した懐中時計など、恐れる理由は微塵もないだろう。

 不思議に思いつつも、ジェンドとは反対に機嫌のいいスターチアは、微笑みを浮かべながら話しかけた。

「祖父の知り合いから、こちらをいただいたの。加護の魔術を掛けてあるんですって、素敵よね」

 口元を綻ばせるスターチアの様子に、ジェンドは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「ふん、そんなチンケな魔術が、お守りになどなるものか」

 そうは言っても、魔術が一切使えないスターチアからしたら、十分にすごいことである。

 しかも、国の英雄であるアディスからいただいた懐中時計だ。魔術が施されていなかったとしても、貴重なものであることには変わりない。

「別に、いいじゃない。それより、見て」

 月の光を受けて、真鍮が柔らかい光を放っている。それはまるで穏やかなアディスの人柄を表しているようだ。

「ねぇ、綺麗でしょ。残念ながら私は魔力や魔術のことは分からないけれど、あなたがなにかを感じるってことは、効果があるってことね」

 悪魔であるジェンドの言葉を信じていいものかと思うが、彼は以前に『悪魔は嘘をつかない』と言った。

 すべての悪魔が本当に正直者かどうかは知らないが、少なくとも目の前にいる彼はその言葉の通りだろうと、これまで接してきた中でスターチアは感じている。

 嬉しそうに懐中時計を手の平に乗せるスターチアを見て、ジェンドはふたたび鼻を鳴らした。


「俺だったら、もっと強力な加護を与えてやれる」


「……え?」

 月光に煌めく時計に見惚れていたスターチアは、反応が遅れる。

「今、なにか言ったかしら?」

 悪魔の青年に視線を向けた彼女が問いかけると、ジェンドはさらに鼻を鳴らした。

「だから、俺ならもっと強力な加護を与えてやれると言ったんだ。いいから、その時計をよこせ」

 スターチアが返事をする前にジェンドは彼女の前にかがみ込み、素早く懐中時計をさらう。

「ちょっと、なにをするの!?」

 慌てて腕を伸ばして取り返そうとするものの、ジェンドがスッと下がってしまったので、スターチアの手は宙を掠めた。

「お願い、返して。大事なものなの!」

 かつて王都で顔見知りになった祖父母の孫というだけで、わざわざ気に掛けてくれるアディスからもらった懐中時計なのだ。変なことをされてはたまらない。

 しかし、ジェンドは背中の黒翼を一度羽ばたかせ、さらに後ろへと下がった。

「ねぇ、変なことをしないで!」

 危ないことを承知で、スターチアは立ち上がろうとする。

 ところが、ジェンドが左手をヒラリと振った瞬間、彼女はまるで屋根に張り付いてしまったかのように腰が上がらなかった。

「お前はそこで大人しくしていろ」

 そう告げたジェンドは、両手で懐中時計を包み込む。

 すると、彼の手が僅かに光を帯びた。

 漆黒を纏う悪魔からは放たれたとは信じられないほど、優しくて穏やかな光だった。


――この人、悪魔……よね? それとも、見た目と魔力の色は、ぜんぜん違うのかしら。


 忙しなく瞬きを繰り返しているスターチアへ近付いたジェンドは、腕を伸ばしてズイッと時計を差し出す。

「強力な加護を上書きしておいた。さぁ、ありがたく受け取れ」

 ありがたくと言われても、スターチアが望んだことではない。勝手に奪い取っておいて、なんという言い草だろうか。

 だが、これこそが悪魔らしい尊大な態度なのだろう。

 とりあえず、壊されたり傷をつけられずに済んでよかったと、スターチアは心の底から思う。 

 彼女は受け取った懐中時計に視線を落とした。 


 そこで、今までと違っていることに気付く。


「これ、は……」

 彼女の手の中の懐中時計は、真珠色の柔らかい光を帯びている。

 月光を受けてほのかに輝く時計も素敵だったけれど、今の時計はさらに素敵な印象を与えた。

 しかも、なんだか妙に心が落ち着くのだ。魔力についてはさっぱり分からない彼女でも、自分が守られていると感じるほどに。

 確かに、アディスとは比べ物にならない魔力の持ち主だ。さすが、悪魔である。

 とはいえ、どうして彼が強力な加護を施してくれたのか、スターチアにはさっぱり分らなかった。

「あの、訊いてもいいかしら?」

 スターチアの言葉に、ジェンドは面白そうに片頬を上げる。

「嫌だと言ったら?」

 ニヤリと笑う彼は意地の悪さを隠そうとしていないのだが、そういった顔でも美貌は損なわれていなかった。 

 しかし頭の中で疑問が渦巻いているスターチアには、その美貌が通用しない。見惚れることなく、彼女は口を開く。

「それでも、教えて。どうして、この時計にあなたが加護を与えたの?」

 呪いをかけたというのなら、すぐに納得できた。悪魔とは冷酷非情な生き物で、人間の苦痛が娯楽だとされているから。

 ところが、彼が行ったのはまるで正反対のこと。

 嘘を吐かないといった以上、加護を与えたのは本当だとスターチアは信じている。

 だからこその疑問だったのだ。

「ねえ、どうして?」

 彼女の言葉には、複雑な感情が含まれている。

 ジェンドの行動に対する疑問の他に、『こんなことをしなくてよかったのに』と、どこか彼を責める色があった。

 自分で命を絶つことができない以上、スターチアは寿命が尽きるのを待つしかない。

 だが、それでは何十年とかかってしまう。

 それを覆すのは、不慮の事故や病気で命を落とすことだ。

 魔力のないスターチアでも感じられるほど強い加護があるのなら、そういったことさえも遠ざけてしまいそうである。

 それが本当だと言うなら、彼女は天寿を全うするまで、ずっと、ずっと、孤独と寂しさを抱えて生きていかなくてはならないのだ。

 そんなスターチアを、ジェンドが静かに見つめ返す。

「……お前が、俺以外の魔力が宿ったそれを見て、嬉しそうにしているから。それが、妙に腹立たしくて」

 その時、急に横風が吹き、彼の呟きはスターチアの耳には届かなかった。

 乱れた月色の髪を手櫛で直しながら、彼女は首を傾げる。

「なに?」

 すると、ジェンドはぶっきらぼうに言い放つ。

「子供だましのような魔術で喜んでいるお前が、大馬鹿者に見えたからな。だから、驚かせてやりたかったんだよ」

 いかにも悪魔らしい物言いにスターチアは納得するが、アディスからもらった懐中時計を、そしてアディスを馬鹿にしたような言い方には少々腹が立つ。

「いいじゃない、それでも。私はあなたが言う子供だましの術すら使えないんだもの、喜んでもいいでしょう」

 ツンと言い返したスターチアは、ふいっと月に視線を向けた。

「あなたが勝手にしたことだもの、お礼なんて絶対に言わないから」

 すると、彼女の視界を遮るように、ジェンドが前に立った。

「この俺に、ずいぶんと生意気な口を利くんだな。偉そうに」

 ジェンドは鋭く睨んでくるが、スターチアは怯えることはない。

「私のことが気に入らないなら、今すぐ殺しなさいよ」

 普段の淡々とした彼女とは思えないほど、珍しく語気が荒い。

 亡くなった家族にいい報告ができたと喜んでいたところで、ジェンドの登場によりで盛大に水を差されたのだ。多少気分を害しても、彼女に非はないだろう。

 そんな彼女に珍しく怯んだのか、ジェンドの瞳が一瞬揺らいだ。

「……死にたがりの人間を殺しても面白くないと、前に言っただろ。だから、俺はお前を殺さない」

 視線には強さがあるが、その声音には力がなかった。

 彼の言葉を聞いて、スターチアは自分が子供みたいにムキになってしまったことが恥ずかしくなる。

 それと、ジェンドと話す自分は普段抑えている感情が顔を出してしまうことにも、妙な気恥ずかしさを感じた。

 だから、彼女は立てている自分の膝に額を押し当て、おもむろに顔を隠したのだ。

「お前、なにをしているんだ? 月を見るために、わざわざ屋根に上っているんだろう?」

 呆れた空気を醸し出しているジェンドの言葉を聞いて、スターチアはその体勢でフルリと首を横に振る。

「今は、少し放っておいてもらえるかしら」

 俯いたまま言い返すと、彼は盛大に鼻を鳴らした。

「ふん、相変らず変な女だな」

 失礼な言葉だが、その口調には棘を感じない。

 スターチアは気持ちが落ち着くまでの間、しばらくその体勢のまま過ごしていた。


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