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(1)

 秋も深まった新月の翌晩のこと。

 糸のように細い細い月が浮かぶ夜空を滑るように舞うのは、漆黒の衣に包まれた長身の男だ。

 纏う服と同じように、髪も瞳も底が見えないほどの漆黒である。

 やや長めの前髪から覗く眉は男性にしては細いかもしれないが、けして女々しさは感じない。

 また、眉の下にある目も長いまつげに囲まれているものの、やはり男性のものだと一目で分かるものだった。

 スッと筋の通った鼻は、絶妙な位置で配置されている。

 唇は少し薄目で、不機嫌そうに引き結ばれていた。それでも、彼の美貌を損なうものではなかったが。

 彼は人間たちから『悪魔』と呼ばれ、恐れられる存在だった。

 しかも、人間界に来ることも魔界に戻ることも、己の魔力のみでどうにでも自在に行えるほどの実力者なのだ。

 彼、ジェンドは魔界における貴族である。しかも、現生魔王に覚えがめでたい高位の悪魔だ。

 魔力、身分、さらには容姿も申し分のないこの悪魔貴族の青年は、つい先ほど、面白半分に人間の召喚に応じ、その依頼内容のあまりのくだらなさに依頼主の元から飛び立ったところだった。

 青年と言っても、それは人間の目による感覚で判断したものであり、実際の年齢は見た目では分からない。魔力を自在に操る悪魔とは、そういうものだ。

 人間であるなら二十代後半に見える青年は、自身の背にある翼で羽ばたきながら感情がこもっていない声で呟く。

「逆恨みとは、実に哀れだな」

 ポツリと漏らしたその言葉にあるのは、一点の曇りすらない嘲りのみ。

 ジェンドがそう呟いたのは、つい先ほどの出来事に起因する。それは彼が呟いたように、逆恨みによる召喚だ。

 恋人がいる男性に恋をしたある女性が、胸に募ったその想いを彼に打ち明けた。

 しかし当然のことながら男性は女性の告白を受け入れることはなく、それでも誠実な態度で女性の気持ちを断った。

 ところが、女性は自分の想いを受け入れてくれなかった男性を恨み、また男性の心を占める恋人を恨み、二人を亡き者にしようと画策したのだ。

 どうせなら残忍な方法で葬ってやろうと、悪魔に助力を求めたのである。幸か不幸か、この女性は占術士として名が通っている者だった。

 いまだ人間界にも多少の魔力を持つ者は存在しており、それなりの魔力と願いを叶えたいという思いの強さがあるなら、召喚自体は実はさほど難しくはなかった。


 難しいのは、悪魔が素直に応じるかどうかという点である。


 悪魔を呼び出して目的を果たそうとするのだから、そのような人間の願いなどはろくでもないものばかり。応じるのは、基本的に悪魔の中でも下層に位置する者だ。

 そのろくでもない願いによって生み出される地獄は悪魔の喜びであり、また、苦しみ惑う魂は悪魔にとってなによりのごちそうであると人々の間で噂されていた。

 とはいえ、気まぐれな悪魔はそう簡単に人間ごときの声に耳を傾けない。

 ましてや今回のようにジェンドが現れたのは、召喚主の魔力が強かったということではない。

 先ほども述べたが、暇つぶしのためだ。実際には、ひとときの暇つぶしにもならなかったのだが。


「久しぶりにこちらへ来たことだし、もう少し眺めてから帰るか」

 生粋の悪魔でありながら、ジェンドは人間界が嫌いではなかった。

 自分の足元にも及ばない矮小な生き物である人間が、無様に足掻き生きる姿はなかなかに興味深いものなのだ。

 絶望を思わせる闇夜に浮かぶ一筋の月を見上げ、彼は黒い翼を大きく羽ばたかせた。




 当然のことながら、深夜に表を出歩く人の姿はほとんどいない。いたとしても、酔っ払いや後ろ暗い商売をしている者ばかりだ。

 栄えている王都であっても、昼間のように大勢の人や馬車が行きかうことはなく、思った以上に静まり返っていた。

「いつの世も、大して代わり映えはしないな」

 よほどのことがなければ尽きることのない寿命が約束されているジェンドは、これまで長きに亘り人の世を目にしてきた。

 いかなる時代も人間は欲にまみれ、だからこそ、悪魔と呼ばれる種族ををそれなりに楽しませる駒となりえるとされている。

「あらかた見て回ったし、そろそろ戻るか」

 この地域で一番権威のある教会の屋根に腰をかけていたジェンドが、心底つまらなそうに短く息を吐く。

 魔界の貴族と呼ばれる者達には、人々が崇め奉る教会など恐るるに足らない。

 聖職者達が絶対だと信じている十字架も、聖水も、経典も、彼らの指一本すら封じることなどできないからだ。

 軽く背筋を伸ばして畳んでいた翼を広げた時、彼の感覚がなぜか騒いだ。声なき声で、誰かに呼ばれた気がしたのだ。

「……なんだ?」

 気のせいにしてしまうには、己の心がやけにざわついている。

 どうせ時間は飽きるほどあるのだからと、ジェンドは蝙蝠を思わせる翼をはためかせて空へと飛び立つ。

 しばらくして緑が広がる町はずれにやってくると、人間の姿があることに気が付いた。

 それは小さな丸太小屋の屋根の上で膝を抱え、ボンヤリと月を見上げている女性の姿だった。


――なにをしているんだ?


 夜目の利くジェンドは、やや離れた宙に浮きながら女性の様子を窺った。

 秋も深まっている時期だというのに、細すぎる肩には色褪せた毛織物しか羽織っていない。簡素にもほどがあるワンピースの裾から覗く足は、驚くことに裸足である。

 人間は寒さに弱く、体調を崩しやすい生き物だ。それなのに、この女性は平然とした顔で、ただボンヤリと上空を眺めていた。

 とんだ馬鹿者がいたものだと心底呆れつつも、ジェンドはなぜか目が離すことができない。彼はさらに観察を続けた。

 月の光のように幾分黄色がかった髪は背の中ほどの長さがあり、見るからに柔らかそうな髪はさぞ触り心地がいいだろう。緩やかに波打つ髪に指を絡めるのも、きっと楽しそうだ。

 鼻の形も高さも、悪くないと言っていいだろう。彼に比べたらだいぶぽってりしているように見える唇も、まずまずだとジェンドには思えた。

 横顔しか見えないので評価は難しいが、総体的にひどいものではない気がする。美貌を誇る魔王や悪魔貴族に比べたら、けして足元にも及ばないものだが。

 そうなると、次に気になるのは瞳の色だ。

 魔界に生きる者の瞳は、深紫色の魔王以外は皆、黒である。

 それとは打って変わって人間の瞳の色は千差万別で、親とは違う色彩を持つ子供が生まれることも多々あった。

 あまりに様々な色があるので、見て回るだけでもジェンドの暇つぶしになるのだ。

 このように人間の瞳の色にそれとなく興味を抱いている彼は、どうしてもこの風変わりな女性の瞳を見てみたくなった。

 近くに悪魔がいるというのに、彼女は弱々しい一筋の光を放つ月を眺めているだけである。

 胸が詰まるほどの魔力を放っているジェンドに気付かないはずはないのだ。

 それでも一言も発することもなく、身じろぎすることもない。

 ただただ、月を見上げているだけ。

 彼女の表情からはなんの感情も見て取れないのに、なぜかその横顔がとても寂しげに見えてしまう。

 気付いた時には、ジェンドは彼女に向かって羽ばたいていた。


「おい」

 声を掛けたのは、横顔が気になったからではない。単なる暇つぶしだと心の中で独り言を漏らし、彼は屋根に降り立つ。

 突然現れた気配にさほど驚いた様子もなく、彼女がゆっくり顔を向けた。

 彼女の髪色から予想して淡い色彩の瞳を思い描いていたジェンドだったが、その予想は大きく裏切られる。

 なんと、彼女の瞳は星すら見えない夜空と同じ黒一色だったからだ。

 彼女は自身の瞳の色と同じ黒の衣を纏った姿を視界に捉えて一瞬瞠目したが、すぐにこれまでと同じく無表情に戻った。

「なにをしている?」

 ジェンドが艶のある低い声で尋ねたところ、彼女は静かに首を傾げた。

 魔界において上位の者は震えるほどの美貌を持ち、心奪われるほどの美声を持つ。 

 そんな彼に声をかけられても、彼女は驚きに顔を青ざめることもしなければ、興奮で顔を赤くすることもない。

 子供向けの絵本にも書かれているように、悪魔は気まぐれで身勝手だ。機嫌を損ねたら最後、一瞬で殺されるか、無残な状態を長引かせて殺されるか。いずれにせよ、彼らは人の命など、なんとも思っていない。

 だが、この女性は月を見上げる時間を邪魔されたことで、素っ気ないとも思える平淡な声で答えた。

「悪魔のあなたに答える必要があるの?」

 自分の正体に気付いても怯えることのない女性の様子に、ジェンドはほんの少し興味が湧いた。

「特に理由はないが、暇つぶしぐらいにはなるかと思ってな」

 そう言って、女性のすぐ横まで足を進める。

 お世辞にも立派とは言えない家の屋根だが、ジェンドは魔力によって空中浮遊もできるため、きしむ音はまったくしなかった。

 静かに近付いてきたジェンドは、不躾にもジロジロと華奢な女性を眺める。 

「それで、答える気はあるのか?」

 長身の青年に鋭い視線で見下ろされても、彼女はやはり顔色一つ変えなかった。

「訊くほどのことでもないと思うわ」

 返ってきた素っ気ない言葉に、ジェンドのほうが僅かに表情を変える。

「内容などどうでもいい、暇つぶしだと言っただろ。ああ、そうだ。暇つぶしついでに、名前を訊いてやる。光栄に思え」

 ジェンドが不機嫌も露わに告げると、彼女は感情を含まない声でポツリと呟く。

「あなたって変な悪魔ね」

 視線をジェンドから月に戻し、女性はヒョイと肩をすくめてそう言った。

 自分を袖にする存在は魔界にも人間界にもおらず、ジェンドは湧き立つような苛立ちを覚えた。

「お前だって、十分変な女だ。この俺を見て悲鳴も上げず、震えもしない」

 ジェンドはわざと黒い翼を一度羽ばたかせたが、彼女にとってはなんでもないことのようだ。

「今からでもキャーキャー騒いで怯えてみせたら、あなたの気は済むかしら?」

 ふたたびジェンドに視線を向けた彼女が、先ほどと同じように何気なく首を傾げてみせる。

 その様子に、形のいい黒眉が中央に寄った。

「……逆に腹が立つから、やめてくれ」

 魔界でも指折りの美貌を誇るジェンドが盛大に眉をしかめて苦々しく言い捨てると、彼女は少しだけおかしそうに口元を緩めた。  

 彼女はしばらくしてから短く息を吐き、頬にかかる月色の髪を片手で払う。

「そういえば、名前を訊かれていたわね。私はスターチアよ」

「ふん。粗末ななりの割に、そこそこいい名前だな」

 体の前で腕を組んで尊大な態度を示すジェンドだが、スターチアと名乗った女性は特に不機嫌さを表す様子もない。

「それ、けなされているようにしか聞こえないわ。悪魔らしいと言えば、らしいけど」

 淡々と告げた彼女は、一度だけゆっくり瞬きをした。

「悪魔に名前を知られると魂を抜かれるって、子供の頃に聞いたことがあるの。ねぇ、私は死ぬのかしら?」

 すると、ジェンドは呆れたように呟く。

「そんなものは迷信で、名を知られたくらいで死ぬことはない。名前に呪いを掛ければ、その者の魂は呪者の悪魔に支配されるがな」

「ふぅん。知られただけじゃ、死なないのね……」

 彼女の呟きは、死なないことが確認できて安堵したものには思えなかった。むしろその反対に、残念がっているような響きがあった。

 彼女は柔らかい髪を耳に掛け直し、また短く息を吐く。

「本当になにもしていないのよ。なにも考えないで、時間が過ぎるのを待っているだけ」

 相変らず、彼女は淡々とした口調で答えた。

「そんなことをして意味があるのか?」

 相変わらず自分に反応を示さない女性の態度に、ジェンドはイライラしながら吐き捨てるように尋ねる。

 声音が強まっても、彼女の態度はまったく変わらなかった。

「意味なんてないわ」

「それなら、なぜ、そんなくだらないことを?」

 心底呆れたように告げるジェンドに、ここではじめて彼女ははっきりと分かるほど不機嫌な表情を浮かべる。

「私は先に、『訊くほどのことじゃない』って言ったわ。無理に聞き出して、勝手に呆れないで欲しいわね」

 感情がこもっていない声ではあるものの、だからこそ彼女が本当に機嫌を損ねていることが彼には分かった。

「……すまない」

 思わずジェンドがそんな言葉を口にすると、彼女は目を大きく見開いた後に、さっきよりもおかしそうに笑った。

 笑うとあどけなさが垣間見え、感じとしては二十代前半といったところか。

 声を上げて笑うスターチアの細い肩が震える。

「信じられない、悪魔が謝るなんて……。やっぱり、あなたって変よ」

 コロコロと鈴が鳴るような声で笑う様子に、ジェンドの心の奥がコトリと小さな音を立てたような気がした。

 その感覚はいまだかつて味わったことがないもので、正体がまったく分からない。

 だが、この時のジェンドは初めて味わった感覚の正体を突き止めようとはせず、笑い続ける女性を睨むだけだった。

「悪魔を前にして笑うお前のほうが、俺より何倍も変な女だ」

 人間にも悪魔にも笑われた経験のない彼は、生まれて初めてというくらいの渋面となる。

「もういい、お前はさっさと寝ろ。こんなところにいて、万が一足を滑らせたらどうする? ヘタすりゃ、首の骨を折って死ぬぞ」

 悪魔でありながら真面目な顔でジェンドが忠告したところ、「悪魔に命の心配される日がなんて……」と、彼女は妙に感慨深く呟いた。

 ゆっくり息を吐きながら、彼女は言う。

「別に構わないわ。私が死んで悲しむ人なんて、一人もいないから……」

 夜風にまぎれるように小さな声で囁いたその顔が、魔界では冷淡で知られているジェンドの胸の奥をチクリと刺激した。




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