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 アディスの行動に、スターチアのみならず、マールも不思議そうに首を傾げていた。

 しかし、真剣で厳かな彼の様子に声を掛けることができず、二人とも大人しくジッと見守っているしかできない。

 彼女たちの視線を気にすることなく、アディスは懐中時計を包み込んだ手を自分の額に当て、しばらくの間、目を閉じていた。

 

――アディス様の周りの空気が、違う気がする。


 なにがどう違うのかは、スターチアにはさっぱり分からない。

 それでも、『なにかが変わった』ということだけは伝わってくる。

 そのまま彼の様子を窺っていると、アディスは手を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。そして、肉厚で大きな手をスターチアへと差し出す。

「これで、この時計の所有者は君だ。他の者が悪用しようとするなら、即座に彫られた私の名前が消滅する」

「え?」


――名前が消えるって、どういうこと?


 目を丸くするスターチアの様子に苦笑を零しつつ、アディスは説明を続けた。

「だが、それは一時的なものだ。君の手に戻ってきた際には、私の名前が彫り込まれた状態に戻るだろう」

 スターチアの目は、いっそう丸くなった。

 マールは目どころか、口も大開きである。

 

――そんなことができるの? まるで、魔法使いみたい……。


 アディスがしたことは、まるでおとぎ話に登場する魔女のようだ。

 そこで、彼女はハッと息を呑む。

「……アディス様、魔術をお使いになられるんですか?」

 あまり大げさにしないほうがいいだろうと思い、スターチアは声を潜めて尋ねる。

 すると、アディスは楽しそうに目を細めた。

「簡単なものならな。母方の家系は、どうも魔力持ちが生まれやすいらしい。とはいえ、ちょっとした占星術程度のものだがな。私が使った所有と加護を与える魔術は、それの応用といったところか。まぁ、大したことではない」

 それでも、魔術が一切使えないスターチアからしたら、十分すぎるほど大したものだ。


 だとしたら、なおさら時計を受け取れないと彼女は考える。

 アディスの持ち物というだけでも値打ちがあるのに、持ち主に加護を与える魔術がかけられているとなったら、その筋の収集家には喉から手が出るほど欲しい代物だろう。


 スターチアがなかなか受け取れずにいると、アディスは半ば無理やり彼女に持たせた。

「確かにこの懐中時計が私の持ち物だと知られているから、君が心配する気持ちも分かる。だが、先ほど言ったように、君以外の者が手にしたところで単なる懐中時計に早代わりだ」

 そう言いながら、アディスは時計を握るスターチアの手を大きな手で包み込む。

 彼の手の平の皮は硬く、指の付け根には数度潰れたと思われる肉刺まめがあった。馬の手綱を握り、剣を握り、真摯に軍人として生きてきた証だろう。

 その感触に心の中で敬意を払っているスターチアに、アディスは穏やかな声で話しかける。

「受け取ってもらえると、君の祖父殿に少しは恩返しできた気がする。私の自己満足に過ぎないが、どうか受け取ってほしい。以前話したように、私が軍人として生きてこられたのは、君の祖父殿の言葉があったからだ」

 そこまで言われて、スターチアとしては断り切れない。

 また、マールが横から、「アディス様のせっかくの好意だ。ここはもう、受け取っちまいな」と言ってくるので、彼女は彼の申し出を受け入れることにした。

 スターチアは改めて懐中時計を両手で握り締める。

「ありがとうございます、アディス様。大切に使わせていただきます」

 緊張しながらも微笑み返すと、アディスも柔らかい笑みを浮かべた。

「受け取ってもらえて、私も嬉しいよ。ああ、作業の手を止めさせてしまって、すまなかった。では、また後で会おう」

 軽く片手を上げて去っていくアディスの背を、スターチアとマールは見送る。

「いいものをいただいたねぇ。加護が与えられているって話だから、一人暮らしのスターチアにはぴったりじゃないか。これで、私の心配もいくらか軽くなるってもんだよ」

 マールにパチンと肩を叩かれ、スターチアは苦笑を浮かべた。

「こんなにも素晴らしいものをいただいてしまって、今夜は眠れそうにないわ。マールさん、お礼はどうしたらいいでしょう?」

「お礼? あの方は、そんなことを気にしていないって」

 ふたたび肩を叩かれたものの、やはりそういう訳にはいかないとスターチアは考える。

 そんな彼女に、マールはあっけらかんと告げた。

「今度、アディス様がお好きなパンを、山ほど差し上げたらいいじゃないか」

 スターチアにできることと言ったら、たしかにパンを焼くことだ。とはいえ、お礼になるだろうか。

「そんなものでは、この時計と釣り合いませんよ」

 苦笑を深める彼女に、マールが手を腰に当ててグッと胸を反らせた。いかにも、街の肝っ玉母さんが説教を食らわすという様相である。

「スターチアが焼くパンは、あんたのおじいさん譲りなんだろ。なにより喜ぶってもんさ。それと、自分で作ったものを、『そんなもの』だなんて言うんじゃないよ。あんたの腕と、おじいさんと、客に失礼だ」

 マールにビシッと言われ、スターチアは思い直す。

「ええ、そうですね。ありがとうございます、マールさん。アディス様には、近いうちに籠いっぱいのパンを差し上げることにします」

「うん、うん。アディス様もたいそう喜んでくれるさ。ほら、準備を続けるよ。ああ、時計はなくしたり汚したりしないように、首にかけておくんだね」

 マールに優しく肩を叩かれたスターチアは、さっそく懐中時計の鎖を首に掛けた。

 丁寧に作られた細い鎖はなじみがよく、首周りに違和感がない。これなら、普段から身に着けていてもいいだろう。


――おじいちゃんのおかげで、とても素敵な贈り物をいただいたわ。これからも腕を磨いて、皆に喜んでもらえるパンを焼くからね。


 ブラウスの首元から中に忍ばせた懐中時計を布の上から撫でたスターチアは、穏やかに晴れ渡る空を見上げた。




 会場を見回っているアディスに、とある男性が小走りでに駆け寄る。

 いかにも貴族といった服装をした男性は、先日、スターチアが帰り道で見かけたホースキン男爵家当主である。

 貴族である彼は本来ならこの様な場所に足を運ぶことを嫌がるものだが、軍関係者との顔繋ぎのため、そして慈善家であることを周知させるため、毎年参加しているのだ。

 もちろん、売り子は孤児たちだ。彼らはホースキンの機嫌を損ねないよう、一番人が集まる広場中心に設置された出店で黙々と作業を進めていた。

 そんな屋台の脇に孤児院への寄付金を募る箱を置いてあるが、その金が実際に収まる先はホースキンの懐だろう。

「アディス様。ご挨拶が遅れまして、大変失礼いたしました」

「ああ、今年も出店されたのか」

 満面の笑みで声をかけてきた男性に、アディスはどこか硬い笑みを向けた。

 しかし、ホーキンス男爵はそれには気付かないのか、肉付きのいい頬を嬉しそうに緩ませている。

「わたくしが出資しているパン屋は、街でも評判ですから。アディス様、この日のために用意した新作パンを試食されてはいかがでしょうか。吟味に吟味を重ねた最高級の材料を使っております。きっとご満足いただけますよ。さぁ、こちらへ」

 手を差し出して移動を促すホースキン男爵に、アディスは「いや」と、短く返した。

「他にも見て回らなくてはならないので、遠慮させていただこう。では、失礼」

 アディスは堂々と、また、素っ気なくその場から立ち去る。

 愛想笑いを張り付けていたホースキン男爵は、途端に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「くそっ。奴と顔繋ぎができれば、パン屋はもっと儲かるというのに……」

 彼は憎々しげに地面を一蹴りすると、なぜかスターチアのほうを睨みつけてから、大股で歩いて行った。


 二人のやり取りを遠くから眺めていたマールは、軽く鼻で嗤う。

「やれやれ、あの男も懲りないねぇ。アディス様は、見てくれじゃなく味にこだわる方だって言うのに。自分の店のパンがアディス様好みじゃないってこと、あのお馬鹿さんはまだ分からないのかねぇ」

 ここからではアディスとホースキンの会話は聞こえないが、二人の表情を見ていたら、だいたい見当がつく。

 自身が経営するパン屋の評判を広めたいホースキンにとって、アディスは絶好の広告塔なのだ。

「マールさん?」

 スターチアはブツブツと独り言を零すマールに声をかけると、彼女はパッと振り返り、なんでもないと首を横に振った。

 そうこうしているうちに式典は終わり、来場者が広場へと次々に流れ込んでくる姿が遠目にも分かる。

「こりゃ、忙しくなりそうだ。それにしても、このなにもないパンは、どういうことだい?」

 マールがスターチアに尋ねた時に、「お待たせしました!」と、軍服姿の若い男性が焼き立ての牛肉を乗せた薄手の鉄板を持って現れた。


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