(15)
スターチアが無言で月を眺めていると、ザァッと強い風が吹いた。
しかし、発熱魔法が掛けられている肩掛けのおかげで、いつもに比べたら格段に温かい。
とはいえ、むき出しになっている顔や首筋は、この時期の夜風の冷たさを実感する。
――少しずつ、冬に近付いているのね。
周囲の景色はそれほど変わったようには見えないけれど、頬を撫でる風は季節が変わりつつあることを伝えていた。
――私はあと何回、季節の変わり目を迎えたら、みんなに会えるのかしら。
心の中でひっそりと呟きながら、スターチアは変らず月を眺め続けている。
そんなスターチアの髪を、ジェンドは飽きることなく指で弄っていた。
長い指に巻き付けては解き、一束掬い上げては眺め、彼の興味はスターチアの髪へと熱心に注がれたままである。
彼女の視界の端に映り込む悪魔青年の顔はほぼ無表情なのだが、ジェンドの手が止まることはなかった。
色の濃淡に違いはあるが、スターチアのような髪色を持つ者は人間の中にも多くいる。
大した手入れをしていないスターチアの髪と違い、貴族令嬢の髪は艶やかで、もっとしなやかなはずだ。
ジェンドなら、そういった髪に興味を持ちそうなものだが。
――なにが面白いのかしらね。
悪魔の感性は、まったくもって理解できない。
スターチアは僅かに苦笑を浮かべたのち、月へと視線を移した。
風はいったん止んだものの、少し間を空けて、スターチアの髪をなびかせた。
それからは、たびたび小屋の屋根にいる二人の肌を風が撫でる。
空気がだいぶ冷えてきたので、温かな肩掛けでもしのぎ切れなくなってきた。
――今夜は、もう戻ったほうがいいかしら。
今日はかつての恋人が亡くなった日であるため、スターチアは月を眺めてゆっくりと思い出に浸りたかった。
しかし、こうも風が止まない状況では、断念せざるを得ない。
それに、いつまでの悪魔青年の腕の中に収まっているのは、やはり居心地が悪いのだ。
いや、気分的に悪いという意味ではなく、妙に落ち着かないという感じが収まらないのである。
この感覚は、数年前にも味わっていたような気がする。
そう、約束の場所に恋人が現れるのを待つ時のような、ソワソワとしたこの感覚を。
そこまで考えて、スターチアはハッと息を呑んだ。
――嫌だわ、私ったら、なにを考えているのよ! そんなこと、絶対におかしいもの!
気にするのをやめようといった傍から、そういったことを考えてしまう自分が嫌になる。
同時に、自分の考えがあまりにも馬鹿げていたため、スターチアは愕然とした。
どうして、この意地悪でひねくれていて、いかにも悪魔という青年に対し、恋人に向けていた感覚と同じものを抱くのか。
混乱する頭で、スターチアはどうにか答を導き出す。
恋人の命日だから、今は恋人のことを思い出している時だから、心が過去の感覚と錯覚しているだけなのだ。
――ええ、きっとそうだわ! そうに違いないわ!
スターチアは戸惑いつつも、そろそろ切り上げて部屋に戻るべきか、それとも、この感覚を無視して月と共に恋人の死を悼むべきかを悩んでいた。
その時、いつの間にか風が止んでいることに気付く。
細く柔らかい髪が一切揺れておらず、寒さもそれほど感じない。
風がすっかり止んだのかと思ったのだが、視線の先にある木々の葉は、相変わらず揺れていた。
――どういうこと?
なんとも言えない表情で揺れ動く葉を眺めていると、ふいに低い声がかけられる。
「月を見るんじゃなかったのか?」
「え?」
スターチアはとっさにジェンドへと視線を向けると、彼は形のいい眉の片方を上げて怪訝な表情を浮かべている。
「せっかく俺が風を遮ってやっているというのに、肝心の月を見ずにぼんやり葉を眺めているとは。まったく、恩知らずな奴だ」
そう言われても、スターチアは彼の言葉がすんなりと理解できない。
こちらが風を収めてくれと頼んだわけではないのに、なんとも恩着せがましい言い方をするのか。
それより、頼まれもしていないのに、自ら魔力を振るう青年の行動にスターチアは驚いた。
肩掛けといい、風止の魔術といい、本当に、この悪魔は規格外にも程がある。
「ご……、ごめんなさい。それと、いろいろありがとう」
「ふん、存分に感謝するといい」
スターチアが謝罪と礼を口にしたら、いつものように尊大な物言いが返ってきた。
偉そうに胸を反らすジェンドは、ふたたびスターチアの髪を指で弄り始める。
彼女は色々な混乱から立ち直れないながらも、静かに月を見上げた。
――ねぇ、見てる? 中には、こんなに変わった悪魔がいるのよ。笑っちゃうわよね。だから、泣きたい気分が、どこかに行ってしまったわ。
スターチアは心の中で今は亡き恋人に語り掛けた。
自分にとって大切だった人の命日はしんみりした気分になるものだが、今夜は悪魔青年のおかげで――いや、おかげというのは、正直迷うところだが――、悲しいだけではない穏やかな時間を初めて過ごせそうだった。
ふいに、ジェンドが月色の髪からスターチアの顔へと視線を移す。
彼女はその視線になんとなく気付いていたものの、知らない振りをして月を眺め続けた。
――それにしても、なんの目的があって現れるのかしら? あなたなら分かる?
スターチアは恋人だった青年に心の中で再度問いかける。
自分には月を見上げるという日課があるけれど、この青年にはそういった目的などないだろう。
常々スターチアは気になっていたが、尋ねたところで『ただの暇つぶしだ』という返事が簡単に予想できたので、あえて尋ねることもしなかった。
そんな彼女を眺めながら、ジェンドもまた心の中でポツリと呟く。
――いったい、いつになったら、こんな習慣を終わりにするんだか。
スターチアは月の形が移り変わっていく様子を見て、時の経過を実感しているという。
だが、ジェンドにはそう思えなかった。
彼女の大事な者たちが立て続けに亡くなった六年前から、スターチアの中で流れる時間は、少しも変わっていないのではないだろうか。
どれほど彼女の周囲で時間が流れても、心があの時のままであるなら、いくら月の満ち欠けを眺め続けたところで、まったく意味がないだろう。
ジェンドは、そんなスターチアを愚かだと思う。
そして、悲しいとも思う。
――まったくもって、本当に愚かな女だ。いい加減、現実を理解しろ。
ジェンドはスターチアの横顔を眺めながら、心の中でそう呟く。
しかしながら、そんな自分のことも最近は愚かだと思う瞬間がある。
勝手気ままに振舞い、人間など虫けらにも等しいとする悪魔が、なぜ、死にたがりの彼女を気にするのか。
わざわざ知人に頼んで肩掛けを作らせ、さらには防寒のために魔術をかける。
このようなことは、記憶の中には一度だってなかったこと。
それなのに、『なぜだ?』と己に問いかけるものの、はっきりさせるのが怖かった。
次の瞬間、ジェンドは小さく息を呑む。
――……怖い? この俺が? なにに対して?
ジェンドは改めて己に問いかける。
怖いものなど、彼にはない。
魔界において、魔力自体は魔王に叶わないものの、地位も実力もある彼には恐れるものなどなにもない。
ところが、今、確かに、ジェンドは恐怖を感じ取った。
しかしながら、そのような感情はただの勘違いだろうと結論付け、彼は追究するのをやめる。
自分の感情など、どうだっていい。
所詮、スターチアのもとに訪れるのも、深い意味などまったくない。
死にたいと願う彼女が簡単に死ぬことができない様を、滑稽に思っているだけだ。
そう、すべては暇つぶしのため。
だからこそ、この時間を少しでも永らえさせるために、スターチアに特製の肩掛けを贈ったのだ。
脆弱な人間は、風邪をこじらせただけで死に至る。
そのようなことになっては、暇つぶしができなくなるではないか。
やっと見つけた風変わりな人間を生かしてやるのは、けして優しさではなく、自分本位な興味を満たすため。
まさしく、身勝手な悪魔らしいではないか。
ジェンドはそのように自分へと言い聞かせ、僅かにざわついていた心を落ち着かせた。