(14)
ようやく頭の上に降ってくる大声が止み、続いて深くて長いため息が降ってきた。
「前にも言ったが、人間の体は脆い。あのまま屋根から転げ落ちたら、お前は確実に首の骨を折っていたぞ」
怒っている様子も呆れている様子もなく、ただただ静かな口調で告げてくるジェンドに、スターチアは素直に頷き返した。
感情をあらわに訴えかけられるよりも、このほうがよほど身に染みる気がする。
「……ええ、そうね。私って、昔からそそっかしいところがあるのよ。助けてくれて、どうもありがとう」
そっけなく言い返すこともからかうようなことを口にするでもなく、死にたがりの彼女がごく自然に礼を述べたことで、ジェンドはいささか驚いて肩を震わせた。
これだけ密着していたら、僅かな振動さえも相手に伝わる。
「どうかしたの?」
何気なく視線を上げたスターチアだが、思いのほか近くにジェンドの顔があって驚いた。
彼女はビクリと肩を跳ね上げ、とっさに距離を取ろうとする。
ジェンドの胸に手をついて突っぱねてみるものの、互いの間に距離は生まれず、それどころか、逞しい腕に素早く抱き寄せられる。
「おい、大人しくしていろ。転がり落ちたいのか?」
「あ、あの、でも……」
妙に気恥ずかしくなって、スターチアはオドオドと視線を彷徨わせる。
そして往生際悪く、ジェンドの胸をグイグイと押し返した。
すると、ジェンドが盛大にため息を零す。
「お前は、相変わらず俺の話を聞かないな。たった今、危ないと話したばかりだぞ」
完全に呆れかえった様子のジェンドだが、言葉とは裏腹に、これまで以上にスターチアをしっかりと抱き締める。
「仕方がないから、今夜はこのまま付き合ってやる。だから、お前は気の済むまで月を見ていろ」
「え? このまま?」
目を丸くする彼女に、ジェンドは不機嫌そうに片眉を上げた。
「この俺がお前の安全を確保してやるというのに、なにが不満だ? 魔界の貴族である、高貴な俺様だぞ」
スターチアが驚いたのは、不満からではない。
悪魔であるジェンドが、こちらの身の安全を図ってやろうと自ら申し出たからだ。
酷薄な顔つき、尊大な態度、それなのに、毎晩、屋根の上で月を眺めて死を望む風変わりな自分に危険が及ばないようにと、わざわざ支えてくれるというのだ。
これが驚かずにいられようか。
――変わり者の悪魔だとは思っていたけど、これはちょっと度が過ぎるわよね。
スターチアはポカンと口を開けたまま、マジマジと彼の顔を見つめていた。
なにも言い返さない彼女に、ジェンドはまた片眉を上げる。
「月を見ないのか? わざわざお前に付き合ってやるというのに、俺の貴重な時間を無駄にするとはいい度胸だな」
こちらから、お願いしたことではない。
時間を無駄にされたくないのなら、さっさと飛び去ったらいいのだ。
それでも、ジェンドが見せる予想外の行動のせいでどうにも調子が狂っていて、スターチアはいつものような軽口を返すことができない。
「ご、ごめんなさい」
自分の迂闊な行動で彼に迷惑をかけていることは分かっているので、スターチアは素直に謝罪を口にした。
「気を遣わせてしまって、本当にごめんなさい」
その時、フワリと風が吹いた。
スターチアの月色の髪が舞い、幾筋かが顔にかかる。
その髪を彼女が指先で払いのけようとするよりも先に、ジェンドの指がソッとスターチアの髪を払った。
それだけではなく、彼は払った髪を彼女の片耳にかける。
ゆっくり動く彼の指が、ふいにスターチアに触れた。
悪魔には温かな血が通わないとされているが、肌に触れた指先は、思ったよりも温もりがある。
そのことにも驚いたスターチアは、ただただ大人しくされるままになっていた。
そんな彼女の様子に、ジェンドが少しだけ目を細めた。
「これまで色々な人間を見てきたが、これほど綺麗な髪色の人間はいなかったな」
毛先を自身の長い指に絡ませ、彼は満足そうに呟く。
「愚かで風変わりなお前には、もったいないほど見事な髪色だ。まさに、月の色だな」
貶されているのか褒められているのか、判断に難しいところだ。
だが、捻くれている彼にしては、最大級の褒め言葉かもしれない。
それはそれで、悪魔に褒められたスターチアは戸惑いを深めるだけなのだが。
少しの間、スラリとした指にクルクルと髪を巻き付けていたジェンドが、思い出したようにスターチアに視線を向けた。
「この俺に褒められて礼を言わないとは、礼儀がなってないな」
「……は?」
スターチアは、パチリと瞬きをする。
どうやら、あれは彼なりに髪を褒めていたようだ。
人間であるスターチアには非常に分かりにくく、むしろ馬鹿にされたようにしか聞こえなかったが、まさか褒め言葉だったとは。
自分の数倍も艶やかな髪を持つ青年に褒められ、そして悪魔に褒められたことが、スターチアとしてはけっこうな驚きだった。
「あ、あの……、ありがとう」
間が抜けたような声音だったが、ジェンドは特に言い返すことなく、指に絡めた月色の髪を軽く引っ張る。
「人間は瞳も髪も、様々な色を持つ。悪魔にはない、唯一の長所と言ったところか」
その仕草も、髪を眺める目付きも、彼が怒っているようには感じない。
――なんなの、もう……。
本当に、拍子抜け続きだった。
なんだかよく分からないが、スターチアはこのまま月を見ることにした。
――今夜は、どうも調子が狂うわ。
スターチアは月を見上げ、ため息を零す。
ジェンドは指に髪を巻き付ける遊びをやめることなく、クルクル、クルクルと繰り返し指を動かしていた。
彼女にしてみたら、それになにが楽しいのかまったく分からない。
いや、人とは違う悪魔だからこそ、自分にとってつまらないと思うことでも、楽しいと思えるのかもしれない。種族による感覚の違いということだろう。
そんなジェンドの様子は不可解だが、自分の今の状況も不可解だった。
身を切るほどということもないが、この時期の夜はひんやりしている。
だから、空気にさらされている顔が熱いと感じるなんてありえないことなのだ。
――火照っているように思えるのは、きっと魔術が掛けられた肩掛けのおかげね。
肩掛けが発する熱が顔に及び、そのため、のぼせたような感覚を味わっているのだ。
きっと、そうだ。それ以外の理由はない。
あってはいけない。
彼の腕の中が意外と心地いいと感じることなど、絶対にあってはいけないのだ。
それゆえ、スターチアはこのままの体勢でいていいものかと一瞬悩んだが、意識するということは、自分の中でなんらかの感情が動いている証拠になってしまう気がした。
そのことが、なんだか妙に怖くなった。
彼を突き放すために動かそうと思っていた右手を、スターチアはキュッと握る。
――こんなの、なんでもないことだわ。
彼に対してなんの感情も動いていないなら、このままの状態でいたらいいのだ。
遠ざけたり文句を言うということは、自分の心に波紋が広がっていることになる。
それを認めたくないスターチアは今の状況を深く考えることをやめ、いつものように月を眺めることにした。