(13)
そんなことを考えていたスターチアに、ジェンドは声をかける。
「おい、どうしてそんな変な顔をしている?」
「……え?」
顔を上げたスターチアの視線の先には、先ほどと同じ体勢のまま、表情はいっそう不機嫌になったジェンドがいた。
「気に入らないのか? お前が持っている肩掛け百枚よりも、価値があるんだぞ」
鼻を鳴らして眉間のシワをいっそう深くする彼に、スターチアは慌てて首を横に振る。
「違うわ、そうじゃないの。こんなに薄いのにすごく温かいから、不思議だったのよ。気に入らないなんて、とんでもない」
即座に返ってきた言葉に、ジェンドの表情は僅かに緩む。
「ああ、そうだろうな。それには使用時に発熱する魔術を付与してあるから、薄さに反して温かいのは当然だ」
彼は何気なく告げるが、スターチアは目を見開いた。
「魔術を……?」
「なにを驚く? その程度の魔術など、瞬き一つでかけられるさ。魔界の貴族である俺には、造作もないことだ」
ジェンドは得意気に言い放つ。
スターチアは、魔術が難しいものかどうかに驚いたのではない。
身勝手とされる悪魔が、たかが肩掛けに、しかも彼らが馬鹿にする人間のために魔術を使ったことが驚きだったのだ。
普段は淡々としている彼女が驚きに固まる姿を見て、ジェンドはすっかり機嫌を直したらしい。
「信じられないと言うなら、目の前で魔術を披露してやろう。おまえは、なにを望む?」
「……私の、願いを叶えて、くれる、の?」
驚きから立ち直れない彼女は、つかえながら問い返した。
「ああ、今夜は特別だ」
ニンマリと口角を上げる彼に、スターチアはいまだに捨てきれない望みを口にするため、震える唇を動かす。
ところが、彼女が一言発する前に、ジェンドが素早く遮った。
「言っておくが、『安らかな死』などと、馬鹿なことは望むなよ。ついこの前に言ったことを忘れているほど、お前は愚かじゃないよな?」
ジェンドは楽しそうにニヤついているが、その目は射貫くほどまっすぐにスターチアへと向けられていた。
暇つぶしの相手がいなくなるのは、そんなにも困ることだろうか。
なんにせよ、死を望んだところで彼が叶えてくれないと分かったため、スターチアは「特にないわ」と短く返した。
その様子に、ふたたびジェンドの機嫌は急降下した。
「お前、俺が魔術を使えない口先だけの悪魔だと思っているのか? この俺にかかれば、片手の一振りで王宮など木っ端みじんにできるんだぞ」
それを聞いて、温かい肩掛けを羽織っているにもかかわらず、スターチアは震え上がった。
遠巻きではあるが、彼女は王宮を目にしたことがある。
いや、遠巻きで見たからこそ、その大きさをまざまざと感じたのだ。
――裏山よりも大きくどっしりとした王宮を、片手を振るだけで壊せるの!?
それだけ強大な魔力を持つ美貌の青年に、スターチアは初めて恐怖を抱いた。
肩掛けをギュッと握り締め、硬く引きつる顔でジェンドを言葉もなく見つめる。
そんな彼女の様子に、彼はどこか焦ったように口を開いた。
「誤解するなよ。俺は紳士だから、むやみやたらに城を壊すような真似はしない。さっきの言葉は、お前が俺の魔力を軽んじているんじゃないかと思って、つい言ってしまっただけだ」
「……じゃあ、片手でお城を壊せるって言うのは嘘?」
恐る恐るスターチアが問いかけると、ジェンドは鼻の頭に軽くシワを寄せる。
「嘘ではない。悪魔は回りくどい言い方や相手の誤解を誘うような言い方をするが、嘘は吐かない。昔から、そういう制約がかかっているんだ」
それを聞いて、スターチアはしっかりと肩掛けを握り締めた。
自分を怖がらせるために大げさな嘘を吐いたのだと思っていたけれど、彼の態度からは真実味が伝わってきた。
思い返してみると、彼はこちらをあざ笑うような言動ばかりしてきたが、嘘は一つも口にしていない気がする。
スターチアは、ゴクリと息を呑んだ。
――本当に、大きなお城を一瞬で崩せてしまえるのね。
明らかに怯えてみせる彼女の様子に、ジェンドは長い指を髪に差し込み、グシャリと掻き混ぜる。
「ああ、もう! そんな顔、するな!」
子供が癇癪を起したように、彼は声を上げた。
「俺はお前を怖がらせたくて、あんなことを言ったわけじゃないんだ! お前が俺の魔力を信じてくれないから、つい言っただけなんだ! 意味もなく破壊行動に出るほど、俺たちは野蛮じゃない!」
必死に言い訳をしてくる様子に、スターチアはポカンとなってしまう。
今までは彼の言動に恐怖を覚えないスターチアのことをからかってきたくせに、いざ怯えてみせると、それを覆させることを口にしてきたのだ。
スターチアはなにがなんだか分からなくて、すっかり恐怖が薄れてしまった。
勝手に自分を怖がらせ、勝手に言い訳をするジェンドだが、そんな彼をなぜか慰めなくてはいけないという使命感にも似た感情が彼女の中に湧き上がる。
「あ、あの、落ち着いて……。大丈夫よ、あなたがむやみに魔力で街を破壊しないって、ちゃんと分かったわ」
すると、闇色の髪を掻き混ぜていたジェンドの手が、ピタリと動きを止めた。
「本当か?」
乱れた前髪の隙間から、切れ長の目がこちらに向けられる。
その様子はやたらと色気があって、スターチアは少しだけドキッとした。
今までも人間くさい態度を見せた彼ではあったが、今の姿には一番人間味があった。人が持つ特有の脆さとでも言おうか。
なぜか、スターチアはそんな彼から目が離せなかった。
黙ってしまった彼女に、ジェンドが改めて問いかける。
「……本当か?」
まっすぐに向けられる漆黒の瞳は、普通なら畏怖の対象だ。なにしろ、悪魔の象徴なのだから。
だが、この時の彼の瞳は、むしろ怯えの色を浮かべていた。
尊大な態度が常である彼がなにに怯えているのか、スターチアには察することができない。
とはいえ、今の彼がなにを言ってほしいのかは、なんとなく理解していた。
「ええ、そうよ。だって、あなた、言ったじゃない。嘘は付けないって。だから、もうあなたのことは怖くないわ」
自分が悪魔を慰めるという訳が分からない事態に戸惑いつつも、スターチアはなおも言葉を続ける。
「ごめんなさいね、さっきもあなたのことが怖かったわけじゃないの。そんなことが実際にできるんだって、驚いていただけ。だって、人間は手を振るだけでは、なにもできないんだもの」
必死になるあまり、スターチアは膝立ちになってジェンドへにじり寄った。
しかし、ここは屋根の上だ。
傾斜がある場所で膝立ちのまま移動するとなったら、簡単に体が傾ぐ。
案の定、スターチアは僅かに寄っただけで、グラリと体勢を崩した。
「危ない!」
彼女が悲鳴を上げるよりも前に、ジェンドの背にある黒翼がバサリと羽ばたく。
彼は風よりも早く宙を切り、スターチアを胸に抱き留めた。
見た目ではほっそりしているのに、彼女を受け止めた胸も、抱き締める腕も、それなりに逞しいものだった。
「馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、お前は正真正銘の馬鹿だ! あんなことをしたら、転げ落ちるって分かるだろうが!」
スターチアの耳元で叫んだジェンドが、きつく彼女を抱き締める。
細身のスターチアは、ジェンドの腕の中にすっぽりと包み込まれた。
「悪魔である俺をヒヤヒヤさせやがった代償は、後でキッチリ払ってもらうからな! この大馬鹿野郎!」
大声で罵られているのに、スターチアは不思議と腹が立たなかった。
体が傾いだ瞬間に見せた驚愕に満ちた表情が、自分を抱き締める腕の強さが、そして押し付けた頬に伝わる早い鼓動が、なぜだか妙に心地よかったのだ。
体に回されている腕を振りほどくことに気が回らず、スターチアは抱き締められるままでいた。