(11)
翌朝、スターチアは昨日よりも早い時間に目を覚まし、日課をこなしていく。
そして、昨日より多くのパンを仕込み、どんどん焼き上げていった。
大量に出来上がったパンを前にして、スターチアは満足そうに微笑む。
「これだけあったら、すぐに売り切れることもなさそうね」
彼女はこの家で一番大きな籠を取り出し、美味しそうな焼き色が付いているパンやケーキを詰めていった。
いつもの時間に公園に着くと、常連客とアディスの姿があった。
はじめのうちは違和感のあった光景だが、最近ではすっかり目に馴染んでいる。
マールをはじめとした常連客たちも大げさにかしこまることはなく、それでも彼女たちなりに失礼に当たらない態度でアディスと接していた。
「こんにちは。皆さん、お待たせしました」
スターチアの登場に、ベンチのそばにいた者たちが嬉しそうに顔を輝かせる。
「今日のおすすめはなんだい?」
マールに声をかけられた彼女は、パンの上から布を取り去り、一種類ずつ丁寧に説明を始めた。
それを聞いて、客たちは自分の好みの商品を買っていく。
今では常連客たちに混ざって、アディスも籠を覗き込むようになっていた。
彼が遠慮をすると周囲の者たちも遠慮するので、下手な気遣いはかえって余計なことだと考えたらしい。
だだし、背が高くて体格がいいアディスは、後ろからソッと覗き込むような形ではあるけれど。
たっぷり用意してきたおかげで、一度目の混雑が終わってもパンが売り切れることはなかった。これなら、アディスが帰った後にやってくる若い兵士たちも、好きなパンを買えるだろう。
客たちは買ったパンを昼食とするため、早々に帰っていった。
ここにいるのは、スターチアとアディスだけである。
「今日は、ずいぶんとたくさん焼いてきたんだな。おかげで色々と買えたが、大変ではなかったか?」
「いつもより多少は早起きしましたけど、家に帰ったら特になにをするわけでもないので、その分、早く眠ればいいだけです。それに、一人でもたくさんの方に自分が作ったパンを食べていただけるのはとても嬉しいですし、皆さんの笑顔を見たら疲れも吹き飛びます」
はにかむように笑う彼女の様子に、アディスは苦笑を浮かべた。
「どうやら、宿舎の厨房でパンを焼くというのは、断られそうだな」
その言葉に、スターチアは小さく頷いてから頭を下げた。
「せっかくのお気遣いにお応えできなくて、申し訳ありません」
彼女は夕べ決めた通り、正直に自分の考えをアディスに伝える。
身勝手で浅はかな考えだが、自分は生き方を変えられない。
臆病者だと言われても、スターチアは自分の心を守るためには、他の生き方を選べなかった。
話を聞き終えたアディスは、深くて長いため息を吐く。
しかし、その表情には不快感はなく、目に浮かぶ光はいつものように穏やかなものだった。
「それが君の出した答えなら仕方がないが、実に残念だ。……だが、これでいいのだろう。宿舎でパンを焼くこととなったら、その数は今日の比ではないはずだ。そうなると、華奢な君にはかなりの重労働で、寝込んでしまうかもしれない。パンを食べたくて宿舎の厨房を紹介したのに、過労で倒れたとなっては本末転倒だからな。この場所で、君のできる範囲のことをするほうが、私たち客にとっても最良なのだろう」
アディスの言葉を聞いて、スターチアはホッと息を吐いて肩の力を抜く。
『なにを馬鹿なことを言うんだ、せっかくいい話なのに。考え直せ』
そう言い返されるかと、彼女は思っていた。
同じ話をアディスに持ち掛けられた商売人たちは、誰もがその場で『ぜひ!』と答えるだろう。
マールが聞いたら、「こんないい話を蹴るなんて、もったいないにも程があるよ!」と、言われるに違いない。
それでも、アディスはスターチアの思いを尊重し、鼻で嗤うことなく理解してくれた。彼の懐の広さに、「さすがは、英雄様だわ」と、スターチアは感動する。
「わがままを言って、本当にすみません。ですが、私にできることは、これからも精いっぱいいたします。このベンチで」
笑顔を浮かべる彼女に、アディスは「頼んだよ」と言って笑みを返した。
ここで話が終わったかと思ったのだが、さらにアディスはスターチアに話しかける。
「店を構えることや宿舎での仕事のことは、もう言わないが、君に手伝ってほしいことがあるんだ」
そう言って、アディスは慰霊祭のことを持ち出した。
先の戦争で亡くなった兵士たちや国民たちの魂を慰めるため、国を挙げての催し物がある。
国王一族や軍の幹部たちが主体となって進められる慰霊祭は、王都中心部にある国立公園で毎年行われる重要な行事だ。
午前中は亡き魂を偲び、慰霊碑に黙とうを捧げ、王族が故人とその家族を労わるといった厳かな雰囲気の典が執り行われる。
午後は勝戦国であることを祝うと同時に、屋台で料理を提供して来場者たちをもてなしている。
趣旨からして目立って華やかな催しではないが、国が関わっているということで、それなりに規模は大きい。
スターチアは慰霊祭のことは知っていたものの、これまでに足を運んだことは一度もなかった。
アディスの話は、ぜひスターチアにも出店してほしいとのことだった。
「上限はあるが、材料費は国が持つ。私が軍人であることの根本を気付かせてくれた君の祖父殿の味を、皆に味わってほしいんだ」
その話を聞いて、スターチアはすぐには頷けなかった。
自分が生活していけるだけの稼ぎを手にして、ひっそりと生きていくのが彼女の願いだ。
国や軍が取り仕切る行事に関わることは、もしかしたら自分の願いを覆しかねないとスターチアは不安に思ったのである。
もともと、スターチアは人前に出ることが苦手なのだ。
生活費を稼ぐためにパンの販売をしているが、それも心の奥では『仕方がないこと』という割り切りがあるからできるのである。
公園でお客に囲まれるだけでも、いまだに心臓がドキドキと忙しなく動いているものだ。
何年経っても慣れることはなく、いまだに公園にいる間の数時間は緊張の連続である。
それが慰霊祭への出店となったら、人の多さは何倍、いや、何十倍にも膨れ上がるだろう。
彼らすべてが自分の店に足を運ぶものではないと分かっていても、圧倒されてしまうことは想像に難くない。
スターチアが返事に迷っていると、アディスは穏やかな口調で話を続けた。
「主に軍部が取り仕切る行事であるため、私たち軍の幹部たちは慰霊祭に参加してくれる飲食店を探すことを任されているんだ。店を選ぶ方法はそれぞれに任せてあるが、私の場合、自分の舌が満足する店が選出の基準だ」
大抵の幹部はわざわざ足を運んでの選出を面倒がり、申し込みのあった店の中から、料理が重複しないよう選んでとのこと。
「国の行事で出店するとなったらいい宣伝になるため、どこの店もこぞって申し込むそうだ。いちいち歩き回らなくていいという利点はあるが、逆に数が多すぎて選べないと、幹部たちは悩んでいるよ」
苦笑を零したアディスは、ふと目を細めてスターチアを見る。
「この地区を担当したのは初めてでどうなるかと思ったが、君が参加してくれると、とても心強いんだが。どうだろうか」
アディスによる改めての申し出に、スターチアは困ったように笑う。
食通で知られているというアディスに認めてもらうことはとても名誉なことで嬉しいのだが、自分の腕では国の行事に出店していいものかと悩んでしまう。
話によると、王族や軍の幹部はもちろん、有名貴族たちも慰霊祭に参加するそうなので、細々と日銭を稼いでいるような自分は場違いではないかと、スターチアは考えていた。
そんな彼女に、アディスは穏やかな口調で語り掛ける。
「国が主催する式典とはいえ、出店する者たちに求められるのは見た目の豪華さではなく、なによりも味だ。君のパンなら、十分に皆の期待に応えられる。そう、心配することはないさ」
そこまでアディスに褒めてもらったら、無下に断ることができない。
また、軍の厨房での件は断ってしまったので、お詫び代わりに一日限りの出店を引き受けてもいいかもしれないとスターチアは考え始めた。
手伝いが必要なら知り合いに声をかけるといいと言われ、人当たりがよく口も達者なマールがいてくれたらきっとなんとかなるだろうと思い、スターチアはようやく決心する。
「分かりました。せっかくの機会ですから、頑張ってみます」
どこか戸惑いつつもしっかりと顔を上げて答えたスターチアに、アディスはホッと安堵のため息を零した。
「ありがとう。詳細については話し合っているところだから、決まり次第、君に伝えよう」
「はい、よろしくお願いします」
去っていく大きな背中を眺めながら、スターチアは小さなため息を吐きつつふたたび苦笑する。
「慣れないことで、すでに緊張しているわ」
慰霊祭まで、あと一ヶ月近くある。今からこんな調子では、当日まで自分の体がもつだろうかと彼女は心配する。
あの村を出てからずっと一人で暮らしてきて、ずいぶんと精神的に逞しくなったとスターチアは思っていたけれど、亡くなった彼らを思って寂しさを募らせているのだから、それほど図太くなったわけではなさそうだ。
「でも、引き受けたからには頑張らないと。おじいちゃんの名誉のためにも」
自分で自分を励ましつつ、スターチアは新たにやってきた客たちの相手を始めた。