(9)
翌日、スターチアがパンを持って公園に現れると、いつものベンチの前にはすでに数人の常連客が待っていた。
彼らから少し離れたところに、ひときわ背が高くてがっしりとした男性が立っていることにスターチアはすぐに気付く。
――もしかしなくても、アディス様よね。
上品な薄手のコートを纏い、綺麗に髪を撫でつけている。その姿は一見すると軍人らしからぬものだが、彼の持つ存在感は身なりなどでは変わらない。
それが証拠に、人懐っこいマールでさえも、英雄様にはおいそれと話しかけられないようだ。チラチラと横目で窺っているものの、いっこうに歩み寄ったりはしない。
その様子がなんとなくおかしくて、スターチアは苦笑を浮かべながらベンチへと近付いていった。
「皆さん、お待たせしました」
スターチアの登場に、常連客たちはホッと表情を緩める。
ところが、アディスに遠慮しているのか、いつものように群がってこない。三歩ほど離れたところから首を伸ばし、パン籠の中を覗き込んでいた。
「今日も、美味しそうだねぇ」
「どれにしようか、迷っちまうよ」
そう言いながらも、そこから一歩も動こうとはしない。
そんな常連客の様子に、アディスは苦笑を浮かべた。
「私はつい先日こちらでパンが売られていることを知りまして、商品についてよく知りません。ぜひ、皆さんのおすすめを教えて頂けませんか?」
その物言いは上品で口調も柔らかく、その名前を耳にしただけで敵国を震え上がらせたという伝説の軍人には思えない。
英雄ということで馴れ馴れしくはできないが、それでも感じていた緊張を薄れさせ、マールが前に出た。
「スターチアのパンは、どれも美味しいんだよ。……っと、すみません。下町育ちなので、丁寧な言葉が苦手で……」
ふくよかな体を小さく縮めて、マールが謝罪する。
だが、アディスはなにも気にした様子もなく、むしろ楽しそうに表情を緩めた。
「いやいや、私だって大した育ちではないさ。男爵家とはいえ、もともとは自ら畑を耕さねばならぬほど貧しかったものだしな。私に鎌や鍬を持たせたら、今でも皆さんよりうまく扱える自信がある」
先ほどとは口調を変えて気さくに話すアディスの様子に、ようやくその場の空気が和んだ。
それからは、常連客たちが「このパンは、生地に練り込まれた木の実が香ばしい」、「このパウンドケーキは、オレンジの風味が最高だ」、「リンゴのパイは、渋めのお茶によく合う」など、先を争うようにしてアディスに勧めていた。
この賑わいに、公園の外を歩いていた人たちも「なんだ、なんだ」とやって来て、アディスを目にして驚愕に固まる。
しかし、英雄と誉れ高い彼が買ったパンをその場で頬張る姿に、寄ってきた人たちも早い段階で緊張を解き、スターチアのパンを買い求めていた。
こんな調子で人が集まり、用意したパンはあっという間に売り切れる。
店じまいをしているスターチアのそばにはマールが一人残り、意味ありげに深く頷いていた。
「マールさん、どうなさいました?」
「アディス様が、今日も来てくれたじゃないか。やっぱり、スターチアのパンを気に入ってくださったんだよ。スターチアのおじいさんとの思い出もあるだろうが、食通のあの方がこうしていくつも買い上げたのは、この味を気に入った証拠じゃないか」
ニッコリと笑うマールに、スターチアは照れたように苦笑を返した。
「それも、やはり祖父のおかげですよ。知り合いの孫が商売をしていたら、足を運ぶものじゃないですか? アディス様が来てくださったのも、きっとそういうことだと思うんです。この先は、分かりませんよ」
しかし、スターチアの言葉とは裏腹に、翌日も、そのまた翌日もアディスは公園に現れ、彼女が作ったパンをいくつも買ったのである。
食通と知られているアディスが常連になりつつあるおかげで、スターチアが作るパンは口コミで徐々に評判が広まっていく。
彼女が公園に現れる前には、何人もの客がベンチのそばで待っている状態となった。
こうして新しい客が付くと、いつもと同じ量を仕込んでいては、あっという間に売り切れてしまう。
スターチアは起床時間を早め、パンを焼くための時間をこれまでよりも多く取ることにした。
とはいえ、儲けを出すことを念頭に置いているわけではないので、無理のない範囲で数を増やすといった具合だ。
種類はこれまでと同じなので、作業としてはそこまで負担はかからない。
「うん、美味しそうに焼けたわ」
支度を済ませたスターチアは、、これまでより一回り大きなパン籠を下げて家を出た。
馬車に揺られたのちに公園へやってくると、やはり数人はベンチの前で待っている。
その様子をありがたいことだと思い、スターチアは彼らに歩み寄っていった。
「お待たせしました、今日のおすすめはミートパイですよ」
彼女が声をかけると、客たちはまずミートパイを手に取り、次いで自分の好みのパンをめいめいに選んでいく。
スターチアが手際よくさばいていくうちに、第一陣の客が引いた。
そこに、長身の老紳士が声をかけてくる。
「やぁ、スターチア」
彼は自分の身内のように、優しく彼女を見守ってくれている。
次第にスターチアもアディスの存在感に慣れ、恐れ多くも叔父のように彼を慕うようになっていた。
「アディス様、こんにちは」
「今日のパンも美味しそうだね。では、私もミートパイを頂こうか。あと、とうもろこしのパンを三つと、レモンのパウンドケーキも」
「はい、かしこまりました」
このように、アディスは都合が付く日に必ず公園へと足を運び、例のとうもろこしパンと他に数個を購入する。
そんな彼の姿が定着しつつある中、スターチアは気付いたことがあった。
やたらと体格のいい若い男性客が、日によって、二人、または三人で訪れるのだ。
一度来た男性客は翌日に顔を見せないが、その代わり、別の体格がいい男性客が現れ、とうもろこしパンと、他に一つ買っていく。
もう一つ気付いたのは、その男性客たちは必ずアディスが帰った後にやってくるということだ。
体が大きく腕も太い男性客たちは存在感があるものの、恐怖はまったく感じない。こちらが驚くほど、彼らはスターチアに対して礼儀正しかったからである。
スターチアはもしかしたらと思い、アディスに自分の予想を伝えることにした。
この時、パンを購入した客たちは帰っていて、別の客がやってくる様子もない。
珍しくアディスと二人きりだったので、彼女は思い切って疑問を投げかけた。
「あの……、最近、男性のお客様が増えたんです。見るからに鍛えていらっしゃる方たちなので、軍の関係者だと思っているのですが」
すると、彼が小さく苦笑を零した。
「どうやら、そうらしい。先日、酒の席で、君の祖父殿との思い出やこのパンのことを何気なく話したんだよ」
そこで、アディスが「これは、ちょうどいい機会だ」と言って続ける。
「断られた話を蒸し返すようだが、やはり軍の宿舎でパンを焼いてくれないだろうか。調理長には軽く話は通してあるから、君の了承が得られたら、すぐにでも調理場を使えるようになる」
それを聞いたスターチアは、前回同様、困ったような笑みを浮かべた。
「ですが、軍の方々のお料理は厨房で作られるでしょうし。それにパンでしたら、町にあるお店から仕入れていると聞いております」
すると、アディスはヒョイと肩を竦めてみせる。
「実は、部下たちから強くせっつかれてね。私が軍人としての原点に気付かせてくれたパンが売られていることを話したら、たちまち食べてみたいと言い出したんだよ。君がこうして公園で販売するパンには数が限られているから、けして大人数で押し寄せないようにと注意はしてあるんだが……」
――なるほど、そういうことだったのね。
スターチアは、ここ最近の出来事に合点がいった。
彼らがアディスと顔を合わせないように時間をずらしてしていたのは、緊張をしないようにとのことだろう。
スターチアやマールといった一般人ですら、アディスの存在は恐れ多いものだ。軍人たちにとっては、雲の上の存在である彼に対し、尊敬するあまりに近寄りがたいのかもしれない。
スターチアが小さく頷いていると、アディスはさらに話を進めた。
「そうなると、今日は誰が君のパンを買いに行くかで揉めることもあるんだよ。まったく、軍人ともあろう者が、なにをしているのやら」
ありがたくて微笑ましい話にスターチアがソッと笑みを浮かべていると、アディスはふいに表情を曇らせる。
「それより、彼らは君に迷惑をかけていないだろうか?」
凛々しい眉の間に縦じわを刻むアディスに、スターチアは首を横に振ってみせる。
「とんでもありません。皆さん、とても礼儀正しくて……。やはり、軍の方たちだったんですね。やたらとトウモロコシのパンを買っていかれるので、ちょっと不思議に思っていたんです」
普段なら最後まで売れ残るものが、彼らが現れるようになってから、一、二を争う勢いで売れていく。
それにしても、こんな素朴なパンを目当てに客が増えるとは世の中分からないものだと、スターチアはつくづく感じた。
同時に、この事態を冷静に捉えようと心掛ける。
――これは、私の力じゃないわよね。おじいちゃんがパンの作り方をきちんと教えてくれたことと、英雄であるアディス様にあやかってということだもの。
スターチアは舞い上がることなく、自分に言い聞かせた。
そんな彼女に、アディスはさらに言い募る。
「だから、是非とも軍の厨房でその腕を振るってくれないだろうか? 作業する場所も広いし、焼き窯も君が使っているものよりも大きいはずだから、今よりも多くのパンが焼けるだろう。君の都合もあることだし、無理強いはしない。たが、前向きに検討してほしい」
真剣な様子にその場で断るのは気が引けたスターチアは、静かに頷く。
「分かりました、考えてみます」
その答えに、アディスは僅かに表情を緩めた。