仙人
仙人
一
俺は心身ともに綺麗な女性を抱く夢をこよなく抱くアウトサイダー。それは夢で終わってしまいそうな或る意味限りなく純粋な望みだが、無職になった上に40になんなんとする俺は、焦るのだった。
もう俺は若くない。それより何より再就職は困難だし身寄りはないし金もないから長くは生きらそうにない。嗚呼、死ぬ前に夢を果たすには・・・
俺は考え抜いた末、デリヘル嬢を借家に呼ぶ、これしかないと結論付けた。これなら心も綺麗かどうか確かめられるから一石二鳥なのだ。と言うのも俺の住む借家は築40年木造一階建て一戸建てのぼろくて狭くてエアコンすらない、取りも直さず貧しくみすぼらしい古色蒼然たる陋屋なので、そんな家でも嫌がらずに応対してくれるのなら性格が良く逆なら悪いと即、判断が付くからだ。
早速、俺はインターネットで最寄りのデリヘル店を検索した結果、〇〇店ホームページの顔にぼかしの入った画像からミサキという子を選んで指名することにして〇〇店に電話をかけて予約した。
デリヘル嬢が来る前日は、朝、クマゼミの鳴き声で目が覚め、昼、冷や麦だけで食事を済ませ、夜、カナブンが光を求めて部屋の中に迷い込んで来る、そんな夏の暑い盛りであった。
俺はその晩もエアコンのない暑苦しい寝室で寝酒として安物の焼酎をオンザロックで一杯飲み干した後、窓辺に立ち、星空を眺めるべく網戸を開け、身を乗り出して頭上を見回すと、今夜に限って月や星がまるで火の玉の様に渦巻いて見えたので、ゴッホの星月夜を連想して、こんな幻覚を見るとはゴッホのように夭折する運命なのかもしれないと思い、暗い気がしながら網戸を締め、扇風機を掛けた儘、研ぎ澄まされた精神を沈めるべく床に就いた。
当日、予約時間が迫った時、俺は玄関の引き戸の磨り硝子越しに女の人影を待ちながら上がり框に立っていた。程なくして女の人影が現れるや、どぎまぎしながら上がり框からインターホンの前へ駆け足で素早く移動した。
と、インターホンが鳴る。
胸が高鳴る。
通話ボタンを押す。
「はい」
「○○店のミサキで~す」と源氏名を名乗るうら若き女の声がする。
更に胸が高鳴る。
「はい、今、開けます」
通話ボタンを再度押す。
玄関へ即、引き返す。
そして引き戸をがらりと開けて、いや、驚いた。薄浅葱色の地に白い水玉模様の入ったノースリーブのシャツに黒鳶色のプリーツミニスカート姿のその生っちろい手肩足を露わにしたしなやかなるほっそりとした艶めかしい肢体と﨟たけた色香に俺は凡そ日常生活ではお目に掛かれないものを見た感に打たれ、これぞ水の滴るようというものだ・・・と感じ入り、忽ちの内に一目惚れした。いい女を眼前にすると無性に欲しくなるものである。俺はこの子だ!この子が良い!と独り心に決めた。
「こんにちわ、初めまして、ミサキと申します。この度は御指名頂き誠に有難う御座います。今日はどうぞ宜しくお願いいたします」
ミサキは七重の膝を八重に折るといった風に慎ましやかな折り目正しいお辞儀で挨拶を終えた。
実に礼儀作法を弁えた子だ・・・と俺は何しろ感心して、その慈愛に満ちた柔和な笑顔に癒され、緊張が解きほぐされ、「こんにちわ」と我知らず笑顔で挨拶して、「あの、むさくるしい所ですが、どうぞ入って下さい」と言いながら、「お邪魔いたします」と淑やかに答えるミサキを玄関に通した、その途端、含羞の塊となった。いざ招いてみると、とてもこんな美しい女を招き入れるべき所じゃないと思ったのだ。
けれどもミサキは嫌な顔一つ見せず優しく微笑んだ儘、木の台に布団(一応マットレスだが)を敷いただけといった感じの簡素で粗末なベッドのある畳敷きの妙ちきりんな貧乏臭い部屋へ入った。
俺は大いに気恥ずかしくなり、「まあ、汚いとこですけど、ここに座ってください」と言って、「失礼いたします」と丁寧に言うミサキをベッドの縁に腰掛けさせ、その隣に座った。
「いやあ、暑かったでしょう」
この「いやあ」という間投詞に俺は暑いなあという思いの他に凄い美人だなあという思いを無意識に込めたのに違いなかった。
「ええ、お車から出ましたらば大変お暑う御座いました」
まさか、デリヘル嬢がこんな言葉遣いをするとは思いも寄らなかった俺は、ふんだんに漂わす脂粉の香を鼻の中に目一杯吸い込みながら、どう答えようかと須臾の間、戸惑ったが、「誠にお暑う御座いますなあ」と当意即妙に答えた。「お暑いと言えば、この部屋も暑いでしょう」
「いえ、そんな事ありませんわ。扇風機が三つも回っていますもの」
肩甲骨まで垂れた雅やかな緑の黒髪をさらさらと靡かせるミサキの言う通りベッドへ向けて扇風機が三つも回っている。無論、俺が所有する全扇風機を結集させ用意したのである。
「へへへ、可笑しいでしょう」と俺。
「いえ、そんな事ありませんわ」とミサキは言いながらも流石に可笑しそうであったが、「それどころか、お客様のお優しい心遣いを感じまして大変有り難く存じております。」と慇懃に礼を言った。
俺はその言葉遣いにも少々戸惑いつつ、「はあ、そうですか、いや、何せ、エアコンがないもんですからこの位はしないといけないと思いまして」
「エアコンが無くたって私には窓から吹き込んで来る風と相俟って快適に感じられますわ」
「はあ、快適ですか?」と俺が聊か怪訝そうに聞くと、「ええ」とミサキは答えた後、辺りを見回しながらこう言った。
「こざっぱりした好いお部屋ですこと」
確かに綺麗に掃除してあり整理整頓が行き届いた部屋ではあるが、俺にはその明治大正昭和初期頃の貴婦人みた様な高雅な言い回しが却って慇懃無礼に思えて皮肉の様にも嫌味の様にも受け取れて憤慨した気持ちを抑え切れず突っ慳貪に言った。
「こざっぱりですか、言われてみれば、飾り気が全く有りません」
「いえ、そんな風にお取りになって貰っては困りますわ。私はお褒めしたのですもの」
真意は兎も角、姿も綺麗なら言葉遣いも綺麗だ!全く今時珍しい女だ!と俺はここに於いて大いに感心し、「ああ、そうですか、何とも恐縮です」
「ふふふ、何も恐縮なさらなくても・・・」
「いや、どうしたって恐縮しますよ。何せ、あなたが眉目秀麗にして清楚、あんまりお美しいものですから・・・」
「嫌ですわ、お客様、私デルヘル嬢ですのにそんな風にお褒め遊ばして、うふふ、ほんとにお上手ですこと。お客様こそ素敵ですわ」
「いや、それこそお上手というものです」
「いえ、そんな積もりは全然ありませんの」
「いや、だって素敵だなんて、そんなこと言われたの、生まれて初めてなんですから」
「でも、私の目にはそう映るんですもの」
「そうですか、じゃあ、素直に受け取っておきますが・・・」と俺が言うと、ミサキは不意に正面の壁に唯一飾ってあるA4サイズの額を白魚の様な指でたおやかに指差して、「あれはゴッホのひまわりで御座いますね」と言い、次に左側の壁に唯一飾ってあるA4サイズの額を同様に指差して、「あれはゴッホのタンギイ爺さんで御座いますね」と言い、次に右側の壁に唯一飾ってあるA4サイズの額を同様に指差して、「あれはゴッホの夾竹桃と本のある静物で御座いますね」と言い、次に振り返って腰窓の上の壁に唯一飾ってあるA4サイズの額を同様に指差して、「あれはゴッホの馬鈴薯を食べる人々で御座いますね」と言い、全て言い当てて見せた。
ミサキは俺の寝室へ入ってから、それらの絵を気に留めていたのに違いない。
俺は其の玉を転がすような声と水際立った仕草に美しい旋律に合わせて踊る蝶の舞を見るかの様にうっとりしていたが、余韻嫋々たるミサキに亦しても感心して、「いやあ、すごい、全部当たってますよ」
「だってどれも有名な絵なんですもの。何処でお求めになられたの?」
「いや、インターネットの画像をプリンターで印刷したのを額縁に入れて飾ったまでです」
「そう、それにしても結構な御趣味でいらっしゃいますのね」
「まあ、俺は絵が好きで特にゴッホの生きざまには共感出来るものが有りますから・・・」
「そう・・・そうだと思いました」とミサキはきっぱりとした口調で意味ありげに言う。
俺は画家を志してはいたものの特に芸術的な方面に着手する事もなく只々生計を立てる事に四苦八苦して生きて来たのだが、報われない自分を生前報われなかったゴッホとオーバーラップさせる事が屡、有るので同情されている様な気がして、ゴッホの末路を思うと、どういう訳でそう思ったのかと聞くのが怖くて聞くに聞けず、話頭を転じるべくゴッホの絵から重ねた繊手をプリーツミニスカートの上に上品に添えたミサキの姿に視線を移した。
その刹那、非常な可憐さを感じて、「それにしてもあなたは見てくれ通り言葉遣いも大変綺麗ですねえ」と俺が言うと、ミサキはゴッホの絵から俺に視線を移して聞き返した。
「えっ、そうでしょうか?」
「誰にでもそうするんですか?」
「いえ、誰にでもという訳では御座いませんわ」
「じゃあ、俺は特別なんですか?」
「ええ、特別ですわ」ときっぱり言う。
「そんな注文、俺がしましたか?」
「ふふふ、面白い御方ですこと」
「ほんとに特別ですか?」
「ええ、お嫌なの?」
「いや、嫌な訳はないです。俺は明治大正ロマンを抱く男ですから」
「そうでしたの、それだけお聞かせ下されば、私は自信を持ってサービスできますわ。あの、お客様は何分コースがお宜しかったんですの?」
「えっ、ああ、あの、それじゃあ、延長して永遠コースで」
「ふふふ、お客さまったら御冗談がお好きなんですね」
「いや、冗談じゃなくて、ほんとにあなたとこうして永遠に話していたい気分ですよ」
「まあ、御冗談でも嬉しいですわ」
「いや、ほんとに冗談じゃなくて・・・」
「お客様、ほんとに真面目にお答え願います。時間が限られていますから」
ミサキは仕事に忠実であろうとしたらしく突如として事務的な口調になった。
俺は急激に突き放された気分になり憮然として、「じゃあ、六十分コースで」
「畏まりました」とミサキは引き続き事務的に言うと、店に連絡するべく脇に置いてあったコットン製の割と地味で趣味の良い手提げ鞄に向かい、携帯を取り出し操作した。
「あっ、お疲れ様です。ミサキです。今着きました。お客様は予約通り六十分コースをご希望です。は~い、分かりました。失礼しま~す」
俺は横で聞いていて矢張り自分は慇懃無礼に扱われてるのではないかという猜疑心に駆られたのでミサキに料金を支払った後、こう聞いた。
「あなたは相手によって言い回しを変えるんですか?」
「いえ、状況によってですわ。普段から私、母の影響でこんな口調ですの」
「そうですか、あなたのお母さんも素敵な人なんでしょうねえ」
「私は兎も角も・・・」とだけ答え、切れ長の目に憂いた色を宿す。
「いや、疚しがられなくても良いですよ。ところで、あなたは普段からこんな口調だと言いましたが、その前に俺に対しては特別だと言ってましたよね」
「ええ、そう申しましたけど誰にでも媚びるような女には思われたくないからそう申したんですの」
「そうですか」
「お信じにならないの?」
「いや、信じますよ」と俺が信じたい気になって、そう答えると、「そう」とミサキはぽつりと淑やかに呟いた切り俺を見つめていたが、はたと自分の立場に気づいたらしく再び事務的になって言った。
「では、お客様、私がバスルームで準備いたしますから私をバスルームへ案内してください」
「あの、俺は風呂場でのサービスは良いんですよ。兎に角、あなたに、ここで、すまないですけど、裸になって貰って俺は上半身だけ脱ぎますから、まずは抱かせてください」
「あの、バスルームのサービスはお宜しいんですの?」
「ええ、俺は恋人でもない女の人にあそこを見られたくないし、況してあそこを弄られるなんて、そんなの俺にとってはサービスじゃなくて辱めを受ける事と同じ事になるんですよ。だから卑猥なサービスは良いですから兎に角、あなたの裸体を見させて貰って抱かせて貰って触らせて貰うだけで良いんですよ」
「あの、私はサービスに参っているんですの。お客様を弄る為に参っているんじゃありませんのよ」
「いや、そうは言っても、やっぱり俺は自分から触るんじゃなきゃサービスとは思えないんですよ」
「でも、決まりですもの・・・」
「あなたは決まり通りにしたいんですか?」
「私は嫌なんですの。でも、お客様には・・・」とミサキは俺に気を持たせる為だろう、故意に言葉を切った。
「俺には?」
「御奉仕したい気持ちで一杯なんですの」
「ほんとに?」
「ええ」
「しかし、やっぱり俺は・・・」と俺が言った切りミサキを見つめていると、「畏まりました。お客様がお望みであれば」とミサキは言うなりノースリーブのシャツのボタンを上から外しに掛かった。それを見て、商売柄とは言え、言う事がきっぱりしていて遣る事に迷いがないと思いながら俺もTシャツを脱ぎに掛かった。
俺は首や肩や腰を女らしくなよっと少し傾けて立つ三十二相そろったミサキの裸身を眺める段になると、芸術作品を観賞するように瞠若しながら、「この女は昨晩も見た夏の大三角形を三つ持っている」と思った。左右の目と唇、左右の乳首と臍、左右の腋窩と股間を結ぶ線の間隔の比率が三つともそれに合致するからだ。のみならず、どの部分も黄金比で出来ているような均整美に魅せられる内、「人間の女の乳房の形だけがあらゆる動物の内で長い歴史を経る内に何故、美しい形になったのか、女の乳房を美しくして来たことは、人間の歴史の輝かしい栄光ではないだろうか」という川端康成の眠れる美女の一節を思い出し、「いや、乳房ばかりではない。首のラインと言い、腰のくびれのラインと言い、手と言い、足と言い、何から何までこの女は美しく出来ている。正に正しく進化した女だ!」と感心しきりになり、それからというもの、「眠っているとは言え、今まで抱いた女より眠れる美女の方が良いに決まってる。もっと言えば、生身の匂いや温かみがなくともラブドールの方が良いに決まってる。はあ、しかし、どうだ、このラブドールは。生身の匂いや温かみが有るばかりか息をする、動く、喋る、心が有る。それも温かい」と思う自分の要求通りに柔順に反応するミサキに大満足して、そうしてミサキが堪らなく欲しくなりながら彼女と共に服を着た。
「私、お客様と抱き合いながらキスさせて貰っています時、何だか恋人同士の様な気がしましたわ。だってほんとにお客様はお優しいんですもの」
「そうですか、俺も何だか、そんな気がしました」
ミサキは一笑してから、「でも、お客様は恋人がいらっしゃるんでしょ」
「いや、いないです」
「えっ、いらっしゃらないの?」
「ええ、いたらデリヘルなんか頼みませんよ」
「はあ、そうですわね・・・」とミサキは自分の身を憂うように安心したように言った。
ちょっと言い方が不味かったかと俺が思っていると、「でも、恋人がいらしても頼む方がいらっしゃいますから私はお聞きしたんですの」とミサキは言う。
「そんなのがいるんですか?」
「ええ」
「それは不逞だ」
「全くですわ」
「全くふてえ野郎だ」
「ふふふ、ほんとに面白い御方ですこと」とミサキは笑いながら言うと、思い出したように腕時計を見て、「あっ、もう、お時間ですわ!」と気づいて慌てて店に電話をした。少し時間オーバーだったようだ。タイマーをセットするのを忘れたらしい。
「また、指名してくださいね」と帰り際、名残惜しそうに言い残して借家を出て行ったミサキがそれまでの態度から見ても自分に気が有るのではないかと俺には思えてならなかった。が、その反面、商売柄どんな客にでもああやって気が有る様に見せ掛けて指名を勝ち取ろうとしているんじゃないかと疑った。けれども言葉遣いが綺麗な所為か綺麗な上にとても良い子の様に思えたので、そんな筈はないと自惚れない訳には行かなかった。だから彼氏はいるのかとか本名は何と言うのかとか聞いて、どう反応するか確認すれば良かったと後悔した。そして五感によって得た彼女に対する全ての感触が官能的な記憶として脳に刻まれるのみならず自分に対して彼女が嘲りの色を全く表わさなかったどころか敬愛の念さえ表した事が確と脳に刻まれ、「見てくれが美しいばかりではない。心もきっと美しいに違いない」と希望を抱き、「嗚呼、何と素晴らしい女性なんだろう。亦、抱かずにはいられない」としみじみ思った。
二
何はともあれ佳人の影響力は絶大である、魂にリビドーが宿った俺は、生きる為、活力旺盛に就活を再開した。それも懐が寒いどころの騒ぎではないので、「早く就職しなければ、もう彼女に会えなくなる」その一心で焦燥感に駆られながら精力的に積極的に就活を行い、三週間余りで再就職を果たした。そして生活費が心許ない中、再就職先で初めて給料を貰った、その日の内にミサキを予約指名して、その三日後の日曜日の午後三時に予定通りミサキを自宅に呼び寄せる事が出来た。
俺が引き戸をがらりと開けると、「こんにちわ、再度、御指名頂き誠に有難うございます。今日もどうぞ宜しくお願いいたします」とミサキは殊更に鹿爪らしく切り口上で挨拶するなり、「どうして一ヶ月以上も指名して下さらなかったの?」としなだれるように迫って来た。
俺は確かな手応えを感じ、「まあ、それについても話しますから兎も角、上がってください」
「そう・・・じゃあ、お邪魔いたします」
俺は短い廊下を歩きながら、「大分、涼しくなりましたねえ」と声を掛け、「ええ、ほんとうに涼しくなりましたわ」としおらしく答えるミサキと共に扇風機が一つだけになった寝室へと入って行き、前と同じ様にしてベッドの縁に腰掛けると、ミサキが手っ取り早く用を済ませようと矢張り事務的に俺に希望のコースを聞いてから店に携帯で連絡した。
その間、俺は前来た時よりも丈の短いコーラルピンクのタイトミニスカートから覗くミロのヴィーナスが太腿を現したらこんなだろうという代物に熱い視線を注いだ。そしてミサキに料金を支払った後、自ずと笑顔で持ち掛けた。
「いやあ、今日は超ミニですねえ」
「ええ、ちょっと今村さんを挑発してみたくって・・・」
俺はミサキがいきなり本名を持ち出したので驚くと共にときめいて、これを潮に、「ああ、あなたならそんなにミニにしなくたって十二分に挑発できますよ。ところで、あなたは僕の事を本名で言いましたが、あなたの本名は何て言うんですか?」と聞くと、「私は星崎美紀と申します」とすんなりフルネームで答えたので、その事にも驚くと共にときめいて、「ああ、そうですか、何だか気品のある名前だなあ・・・」
「気品だなんて・・・私、デリヘル嬢ですのに・・・」
「ああ、まあ、そうなんですが、そんなミニスカートを履くとなると、普通の女なら下品になってしまう所をあなたは見事に着こなして上品に決めていますし、綺麗な着物でも着れば、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花と形容されて然るべきでしょうし、その見てくれと言い、心と言い、何から何まであなたは気品に満ち溢れていますよ」
「まあ、今村さんったら、そんなにもお褒めになって、お上手ですこと」
「いや、お上手でも何でもない。全くあなたは素晴らしいの一言です」
「あら、今村さん、それ、本気で仰ってるの?」
「本気も本気、勿論、本気」
「ふふふ、面白い御方ですこと」
彼女は笑う時、皓歯を見られたら恥ずかしいかの様に必ず口に手を添えるのであるが、その手つきを中心として全体の動きが他の女には感じられないとても奥床しい趣を醸し出すので特にこの仕草を見る時、俺は古き良き日本にタイムスリップした様なノスタルジック且つファンタジックな気分になるのだ。
「ところで、あなたが僕の事を本名で呼ぶなら僕もあなたを本名で呼んでも良いですか?」
「ええ、勿論、構いませんわ。ミキと呼んで下さい」
そう言った時、美紀がウィンクした様な気がしたので俺はどきっとして、「し、下の名で良いんですか?」
「ええ」
「ああ、そうですか、じゃあ遠慮なく呼びますよ」
「ええ、御遠慮なんてなさらずに今村さんは私の大事なお客様なんですから丁寧語なんてお使いにならなくても、お宜しいですわ。砕けてお話くだされば結構ですから」
「そ、そうですか、じゃあ、遠慮なくミキ」
「はい」
「まず、キスしよう」
「うふふ、はい」
俺は美紀と抱き合った儘、可成り長い事、キスをした。それから抱擁を解き、赤い糸で結ばれたような気になって見つめ合っていると、美紀が切り出した。
「今村さん、舌をお入れにならないんですのね」
「えっ、ああ、口の中に?」
「ええ」
「君は舌を入れて欲しかったのかい?」
「いえ、私、嫌ですの」
「入れて来る下劣な客もいるだろ」
「ええ、ほとんどの方が、でも、仕方が有りませんわ・・・」と美紀が溜息交じりに言うと、俺は彼女の嫌な記憶を呼び覚ませまいとここぞとばかり聞きたかった事を聞いてみた。
「君は彼氏がいるのかい?」
「えっ、いえ、いませんわ。いたらデリヘルなんてしませんもの」
俺は半端でなく内心歓喜して、「そうだよね。する訳ないよね」
「そうですわ。でも私、こんな身の上ですけれど、こうして今村さんに寄り添っていますと自然と真心から御奉仕できている気がいたしまして何だか心が洗われるような不思議な気がしますの」
「いや、ミキは端から清らかだよ。正に婉然たる淑女だ」
「えっ、いえ、幾らなんでも淑女だなんてお褒め過ぎですわ。それとも皮肉を仰ったの?」
「いや、皮肉なわけないよ。ほんとに褒めたんだよ」
「そうでしたの、度々お褒めに与り光栄に存じます」と美紀はいやに慇懃に頭を下げ、玉容を上げたかと思うと、純然たる奉仕献身の精神が表れた目を爛々と輝かせながら聞いた。
「あの、今村さん、前と同じでお宜しいんですの?」
「えっ、ああ、サービスが?」
「はい」
「いや、脱がなくて良いよ」
「えっ、じゃあ、どうすれば良いんですの?」
「話そう」
「えっ?」
「話すだけで良いんだ」
「えっ、話すだけって私をもっとお抱きになりたくはありませんの?」
「いや、抱きたいのは山々なんだが、今日はどうしても君に聞きたい事が有るんだ」
「えっ、何をですの?」
「君、いや、ミキ、君みたいな良い子が何でデリヘル嬢になんかなったんだい?」
「えっ、私が良い子に見えます?」
「ああ、見える。だから聞きたいんだ」
「そのご質問に私がお答えする前に今村さん、私の最初の質問にお答えください」
美紀の素早く鋭い切り返しに、「ああ、そうか、そうだったな」と俺は少々どぎまぎしながら気づいて彼女を其処らの俗な女とは訳が違うと分かってはいたものの信用し切れず、誤魔化しに掛かり、「えーと、何の事は無い。忙しかったんだ」
「忙しかった?」
「ああ、そうだ。仕事がね」
「えっ、お休みもお取りになれない程に?」
「いや、休みは有ったんだけど、何しろ今月は忙しくて疲れてたから休日は専ら寝てたんだ」
「まあ・・・そんなにお疲れになる程、御多忙でいらしたの」
「ああ、まあ、今月は偶々だよ。だけど、これからはどんどんミキを呼べると思うよ」
「まあ、嬉しいですわ」と美紀は美しい漆黒の瞳を一段と爛々と輝かせる。
「じゃあ、俺は答えたから今度はミキが答える番だよ」
「はい」と答えた途端、花顔に影が差し、「あの、私、率直に申しますと、やっぱり、お金が欲しいんですの」
俺は不審になり、「お金が欲しいって遊ぶお金がかい?」
「いえ、そうじゃありませんの」
「じゃあ、高級マンションに住みたいとか・・・」
「いえ、そうでもありませんの」
「じゃあ、高価な宝石が欲しいとか・・・」
「いえ、とんでも御座いませんわ」
「じゃあ、普通の地味な仕事でも良いんじゃないの?」
「だって普通のお仕事じゃ足りないんですもの」
「じゃあ、何か特別な入り用でもあるのかい?」
美紀は愁眉を寄せ、「ええ・・・」と答えるのを渋る。
「何だい、一体?」
「あの、私の家、働き手が一人もいないんですの」
「という事は親がいないとか病気とか・・・」
「ええ、実は父が浮気して出て行ってから母が病み臥せってしまいまして、それで・・・」
「ああ、という事はお母さんの治療代旁生活費を稼がないといけない訳だね」
「そうなんですの」
「ああ、それは大変だ。それは気の毒に・・・」
「それで私、このお仕事でお金を稼ぎながら私をアピールして出来れば、良い人に気に入って貰えたらって、そんな願望を持っているんですの。」
俺は俄然、憮然として、「ああ、成程、つまり玉の輿に乗ろうって考えてる訳だね」
「いえ、私が申し上げました良い人というのは、心ばえの良い方という意味ですの。私を其処らの下種な女とお見縊になって貰っては困りますわ」
こんな事を言って退ける女は他にはいないと一転、俺は色めき立ち、矢張り自分の目に狂いはなかったと益々美紀を欲しくなり、「ああ、それは申し訳なかった。しかし、デリヘルを頼む客の中にそんな人がいるのかい?」
「いらっしゃいますわ」と美紀がそれだけしか答えないので俺は気を揉んで、「えっ、いるの?」と自分以外にいるのかと疑って聞く。
「いらっしゃいますわ、現に目の前に・・・」
美紀はそう言うと、大輪が咲いたかの如く嫣然と微笑んだ。
俺は思わず人差し指で自分の顔を指差して、「あっ、俺・・・」と呟きながら一気に安堵する。
「はい、私、今村さんの様な御方を求めていたんですの」
「それはまた結構な御趣味で」
「ふふふ、ほんとに面白い御方ですこと。でも、それだけではいらっしゃらないんですもの」
「矢張り心ばえが?」
「ええ、私、このお仕事をしていて私の身の上話をしますと皆さん、押し並べて手を引くんですの、私から。でも今村さんは違いますわ。今村さんは決して私を裏切りませんわ」
そう言われて俺は思わず真剣になって敬意を込めた丁寧語で、「本当にそう思いますか?」
「はい」
「という事は俺を優しいと思ってる訳ですか?」
「はい」
「けれども俺の優しさは、あなたの美貌に惚れているからこそ生まれるのに過ぎない優しさなのであって薹が立てば、あなたを裏切るかもしれませんよ」
「そんな事がお有りになる筈はありませんわ」
美紀はそう言った時、明らかにそうあって欲しいと祈る様な気持ちを切実に目で訴えながら頭だけでなく体も振って否定した。
「確かに俺は今、あなたに優しくしています。ですが、誰にも優しい訳ではないのですよ」
「誰にも優しくする人は、所謂、八方美人と言われる方は、本当の優しい人ではありませんわ」
「そうですよね。品性の卑しい者には改悛させようと厳しく当たる、これが本当の優しさですもんね」
「そうですわ」
「ところが、この世は俗物ばかりであるのに俺みたいな人間以外の誰にでも歓心を買おうと巧言令色を尽くして美辞麗句を並べ立てたりヘラヘラと笑い掛けたり綺麗事を言ったりして優しく見せ掛けて成功している奴がいますが、そんなのは偽善者ですよね」
「そうですわ」
「俗に言う所謂、良い人ですよね」
「そうですわ」
「逆に俺は嫌われ者で社会の落ちこぼれです」と俺が自虐的に自分の闇の部分を語って美紀の反応を窺うと、「でも、今村さんは私の察する所、『和して同ぜず』の正しい姿勢でいらっしゃるのに周りの人は『同じて和せず』の間違った姿勢でいますから皮肉な事にそうなりますが、私にとっては一匹狼・・・」と美紀は言葉尻で意味深に言って言葉を切り、瑞々しい頬に紅葉を散らした。
その嬌羞たる気色に俺は心を打たれ、美紀を心底、麗しく美しくいとおしく思った。そして稀に見る彼女の論語を弁えた教養ある見識力と武士道の智の心を備えた洞察力と知性を超えたインテリジェンスに感服し、「あなたが思ってる事は分かります。俗に染まってない、だからこそ一匹狼と俺を称したんでしょう、そして人の価値は社会的に成功しているかどうかじゃなくて品性で決まって来ると、そう考えているからこそ、俺の事を評価してくれるわけでしょう?」と聞くと、美紀は恥ずかしそうに俯いてはいたものの、「はい」ときっぱり答えた。
「では俺も安心して正直に身の上話をします。実はさっき俺は嘘をつきました。あなたを見縊っていた証拠です。あの、仕事が忙しくてあなたに会えなかった訳ではないのです。実はあなたに最初に会った時、俺はプー太郎だったんです。あなたに会う前にいい女を抱いてから死のうと思っていたんです。全然お金が無かったですし、世の中に嫌気が差していましたから・・・でも、あなたに会えてから生きたいって思いまして死に物狂いで就活して仕事に在り付けました。三週間位かかりました。それから亦、三週間位経ってから給料を貰えましてそれでやっとあなたに会える事になりました。そんな訳であなたに会えなかったんです」
「まあ、そうでいらしったの・・・」と美紀は感激して呟くと、麗しい瞳を嬉し涙で潤ませた。「それは大変なことで御座いましたわね。」
その労わりの籠った言葉に、「はあ・・・」と俺は溜息と共に返事して報われたと思った。しかし、確信を持てないので、こんなことを言った。
「あの、俺は野心家には違いないですが・・・」
「野心家だなんて今村さんはとことん謙遜家でいらっしゃるのね」
「いや、あなたの様に俺にとって高嶺の花でありながら俺の様な男を立ててくれる、そんな素晴らしい女性を手に入れようと思う事は矢張り野心と形容せねばならないでしょう」
「私の様な女を高嶺の花だなんて・・・剰え俺の様なって今村さん、卑下しちゃいけなくってよ。今村さんは素晴らしい御方なんですもの・・・」
「俺がそんな、俺は・・・」
俺が美紀の評価が妥当なんだと自惚れながらも照れて戸惑っていると、「今村さん、素敵よ。抱いて下さる?」と美紀はここぞとばかりに水を向けた。
それが絶妙のタイミングだったので、「ああ、抱くとも」と俺が完全に男になって美紀をひしと抱き締めると、彼女は嬉し泣きに泣き出して、「どうか私を救う為にも貰って下さい!今村さん!」と俺に抱き着きながら熱く懇願した。
「俺の方こそミキに救って貰いたい位なんだが、俺が貰えば、ミキはデリヘルを止める訳だね」
「はい、私、まともな仕事に就いて今村さんと二人三脚で清貧に生き、一蓮托生して頑張って行きたいと存じます」
「いやあ、その決意、全く見上げたものだ。もう俺は美紀を貰う事に何の支障もなくなったよ!そして神聖な労働をしてミキのお母さんも救ってあげるよ!」
「まあ、なんて素敵な御方ですこと!」
「ハハハ!ミキ、君はとことん古風な女だねえ」
「あら、いけなくって」
「いや、良いよ。全く良いよ。その受け答えも実に良いよ!」
「ふふふ、お気に召して貰えて光栄ですわ」
「いやあ、全くミキは最高だ!お陰で日本の古き良き女性の美しい言葉と心を知ったよ!本当に生きてて良かった!」
「ふふふ、私もですわ!、私の啓介さん!」
美紀がそう言った時、俺は表札を見て下の名も知っていたんだ!と思い、一通りでなく感激して、「わ、私の啓介さんだなんて、へへへ、ミキ、照れるなあ」と寝言を言った所で目が覚めた。
三
デリヘル嬢が実際に来る当日の夜明け前であった。訪れる子が良い子であって欲しいと切実に願う余り、克明に夢に現れたのだろう。
朝まだきに俺はベッドから起き上がると、東雲の空から腰窓のカーテン越しに差し込んで来る淡い光に頬を擽られているように感じながら夢寐の幻想に暫し浸った。
仄暗い中、夜風で涼しくなった部屋の空気が冷たく身に染みて、やっと現実に帰った俺は、猶もベッドに座った儘、ミキ、ミキと虚しく呟いた。美紀のような子が来る訳が無いと思いつつ、嗚呼、美紀みたいな子が来てくれたらどんなに良いだろうと未練がましく夢を捨て切れない儘、ベッドから降りて、その後、デリヘル嬢が来る予定の午後三時まで、どんな子が来るんだろうと考えない訳には行かなかった。美紀の様な自分の運命を好転させてくれる子が来るのか、将又、本当に死ぬ事になるのか、期待と不安が恰も生死の境を彷徨う様に只管、交錯しながら平日の時を過ごした。
そうして到頭三時になった。けれども、まだ来ない。本当に来るのか本当に来るのかと上がり框に突っ立った儘、焦れる気持ちを焦げた秋刀魚を更に焼く様に焦がしに焦がして待っていると、三時四分になった所で引き戸の磨り硝子越しに正しく女の人影が現れた。その途端、胸が期待と不安で波立ち、玄関を離れ、立ち所にインターホンの前に立った。
と、呼び鈴が鳴る。
通話ボタンを押す。
「はい」
「○○店のミサキで~す!」
美紀に似た声だ!と俺はときめいて、「はい、今、開けます!」と元気に言って再度通話ボタンを押すと、玄関目掛けて駆け出して三和土に降り立ち、引き戸をがらりと開けた。
見ると現実のミサキはインターネットの画面で確認した、顔にぼかしの入った写真の通り体つきは美紀と変わりなくスレンダーな良い感じなのだが、顔は美紀の様な気品が感じられない。作り自体は瓜二つなのだが、派手なアイシャドウや付け睫毛やイヤリングそして締まりのない表情が台無しにしているのだ。身なりは奇しくも美紀が最初に訪れた時と同じ服装なので俺は不思議の感に打たれたが、それも派手なネックレスやブレスレットやベルトそして姿勢がだらしないので美紀の様な気品が感じられない。全く大和心の廃れ切った当世の蓮っ葉な感じだ。
「こんにちわ、初めまして」
現実のミサキはそれだけしか言わなかった。而も目元口元が冷ややかに笑っている。尚且つ頭一つ下げず、チョーだっせー家!と言わんばかりに眉を顰め唇を歪めた。
俺は一気に幻滅し、含羞の塊と化し、ばつが悪くなって、「こんにちわ、むさくるしい所ですが、どうぞ中へ入ってください」と自信なげに言って、お邪魔しますとも失礼しますとも言わないミサキ嬢を招き入れた。
定めし、まともな住まいの所に招き入られれば、こんな態度にはならないであろう、そして其処では良い子に思われるであろう現金なミサキ嬢を俺は寝室へと案内し、「ま、汚い所ですけど」と無気力に言ってみすぼらしいベッドの縁に座らせ、自分もその隣に座った。その際、ミサキ嬢が矢張り失礼しますともお願いしますとも言わず、明らかに顔面に嘲笑の色を表していたので俺は羞恥心に苛まれながら切り出した。
「あの、暑い中、よく来てくれました。あんまり可愛いんで、びっくりしました。」
「いえいえ、そんなことないですよ」とミサキ嬢は切り口上で返事を済ませ、世間話すらしようともせず、派手なけばけばしい手提げ鞄に向かうと、携帯を取り出しながら、「お客さん、予約通りのコースで良いの?」とタメ口で聞いた。おまけにつれない態度に俺はそっちがその気ならこっちはと少々自棄を起こして、「じゃあ、お得な三十分コースで」と冗談めかして言うと、「アハハハ!」とミサキ嬢は顎を外さんばかりに大笑いした。
「チョー受ける!あたしテン上げになっちゃった!アハハ!お客さん、顔に似合わずふざけたこと言うじゃん!」
ミサキ嬢は端から俺を蔑んで嘗め切っていたが、俺の冗談を聞くや、箍が緩んで完全にリラックスして羽目を外したのに違いなかった。その勢いで猶も扇風機に煽られた茶髪を気にしながら饒舌になった。
「三十分なんてコース端からねえし~みたいなあ~っつうか、三十分じゃ、金になんないし~みたいなあ~アハハハ!お客さん、ほんと、面白いわ、草生えるって感じ!アハハ!しかし、時化たとこに住んでんね、ほ~んと冴えないでやんの。大体、何なの!扇風機三つも置いちゃって!あっ、そっか、エアコンないんだあ~今時、珍しくね?っつうか、しょぼくね?っつうか、暑いんですけど~!おまけに髪ぼさぼさになっちゃう~!もう、やだ~!それに何~!あの絵!あれも、しょぼくね?っつうか、うざくね?っつうか、きもくね?っつうか、ださい感はんぱね?っつうか、最&低って感じ!アハハハ!」
何なんだ、こいつは、異星人か!と俺は呆れ返り、言葉遣いも心遣いも礼儀も態度も何もなってない!全く話しにならんと呆れ果てる。それを尻目に相変わらず独りで受け捲っているミサキ嬢に、「あ、あの、ちょっと聞きたいことが有るんだけど」とそれこそ異星人に呼び掛けるかのように警戒しながら俺が聞くと、彼女は両手で口を押さえ何とか笑うのを堪えてから、「なあに?手短に言ってよ」
「君は生活に困ってる訳じゃないんだろ」
「何、聞いてんの?!当ったり前でしょ!お客さんとは違うわよ!」
「へへへ、君は歯に衣着せず言える子だねえ、全く呆れるんだけど、君は自分の体を売ってでも金を稼ぎたいのかい」
「何~、そんなこと急に聞いちゃって・・・あ~、分かった、お客さん、綺麗事言って説教する気なんでしょ、つまりさあ、生活に困ってないんだったら普通の仕事して慎ましく生活しな!みたいなあ~、それとか、貞操観念持ちな!みたいなあ~」
「そう分かっていながら淫らな仕事を進んでするのは、金を稼げば稼ぐ程、幸福になれると、そう思ってるからじゃないのかい」
「そ~ね、そんな所かな、それが悪いって言いたいわけ~幸福は金では得られないんだぞ~!みたいな~、また、そんな、ど陳腐な綺麗事を言いたいわけ~」
「どちんぽな綺麗事じゃない!」と俺は言い間違えるも大真面目に言った。「俺は本気でそう言いたいんだ!」
「え~!何マジになっちゃってんの?!マジうざいんですけど~!マジ引くんですけど~!マジ怖いんですけど~!」
「あの、君は知らないだろうけど、嘗て三木清という立派な哲学者がいてね、幸福は徳その物だって言うんだよ。徳というのは君が年がら年中している欲得勘定の得じゃないよ。道徳の徳の事だよ。現に古代中世のモラルの中心が幸福であったのに現代のそれが成功になっちゃったから君みたいな人間が出来ちゃうのであってだねえ、本来から言えば、君みたいに幸福になる為に徳を積まずにギャラが良いからってデリヘルで金を稼ぐというのは本末転倒なんだよ!」
「わあ~!何だか知らないけど身の程知らずにも講釈垂れちゃってる~お客さんがそんなこと言っても説得力ねえし~みたいなあ~アハハハ!」とミサキ嬢は一笑に付した。「あのねえ、折角こんな風に生まれて来たのにこれを利用しない手は無いって思わな~い?どうせ一度の人生だもん、出来るだけ利用できるもんは利用してお金稼いで豪華にパーと遊ばなきゃ~!」
「君の体は商売道具だと言うんだな。君みたいに女としての誇りを捨て尊厳を捨て、そんな不道徳なことで幸福になれると思うのか?」
「幸福?う~ん、なんか、かた~い!ハッピーって感じ!アハハハ!」
「そうか、時に聞くが、君はこの仕事をしていて恥ずかしい思いをしたことがあるかい?」
「あるわよ、そりゃあ・・・」
「それで自分に恥ずかしい思いをさせた客に気持ちよがって見せて愛想よくしたか?」
「そりゃあしたわよ、お客さんだもん」
「そうか、恥ずかしい思いをさせる下劣な者に気持ちよがって見せて愛想よくして金を稼ぐ、よくよく考えてみればサイテーなことじゃないのか!」
「アハハ!さっきからお客さん、何聞いてんの?サイテーどころか気持ちよくなれてお金稼げるんだから、よいちょまるって感じ!アハハ!」
「実に即物的だ。そういう考え方をする奴が腐るほどいるから類は友を呼ぶで君は友達が一杯いるんだな」
「そんなの、当ったり前って感じ~!マジ卍って感じ!アハハ!」
「では、その友達の中に知識人とか文化人とか哲人とか思想家とか芸術家とか道徳家とか隠者はいるか?」
「え~何それ!そんなのみ~んな知らな~いみたいな~」
「だろうな、だから君の友達は皆それら以外の俗物だと思うよ」
「え~!ぞくぶつってなあに~?」
「俗物も知らないのか、それとも惚けてるのか、君のことだよ」
「え~!なんか、やだ~!最&低って感じ!アハハ!」
「確かにやがるのは分かるよ。一言で言えば、おしまいの人間だからな」
「はぁ?おしまいの人間?」
「ああ、ニーチェがいみじくも言ったよ。義に喩り自分の中に確固たる価値観倫理観を創造することなく、利に喩り俗な価値観に囚われた儘、俗物の枠の中からストレイシープのように迷い出ることもなく食み出さないように同調して只々惰性でマンネリに生きる、そんな生き方しか出来ないおしまいの人間に囲まれて生きてるんだから全く君は不幸だ!」
「何言ってんだよ!」とミサキ嬢は遂に切れた。「大人しく聞いてりゃあ、訳の分かんない御託ばっかり並べちゃってさあ、お客さん、マジで親爺臭かったよ、ほんとにうざいんですけど~!そっちが決めつけるなら、こっちも決めつけてやるからね!お客さん、あんた、お金もなければ友達もいない癖に何、イキがって偉そうにほざいてんのよ!この底辺親爺!」
「ああ、確かに金もなければ友もいない。だけど俺は煩わしいものがなくて、さばさばして心地良い位に思ってるんだ。そう思う俺は少なくとも俗物以外の者だから君よりは幸福だ」
「ハハハ!全く話になんねえ、聞いて呆れて見て呆れる。さあ」とミサキ嬢は言いしな話を切り上げるべく手提げ鞄に向かい、「無駄話は無用、無用、お金、お金、連絡しなきゃ、連絡しなきゃ、今のあたし、てんばってね?」と忙しそうに言いながら携帯を取り出し操作し、「どうせ、お客さんはチョ~短縮バージョンの六十分コースでやんしょ!」と相変わらず馬鹿に仕切って言って勝手にしろと言わんばかりに頷く俺を横目に電話を掛け、「あっ、お疲れ様で~す。ミサキで~す。今着きました~は~い、え~と、お
客さんは予約通り六十分コースを希望してま~す。は~い、分かりました~失礼しま~す」と極めて軽い調子で電話を済ませ、この時だけ有難そうに俺から料金を受け取って、「あげま!」とまた訳の分からないスラングを使って礼を言った後、「あげまる水産って感じ!アハハ!さてと、お客さん、バスルームっつうかあ、お客さんの場合は風呂場だよねえ、だよねえ、だよねえ、そうだよねえ~みたいなあ~アハハハ!なのでえ、あたし、まず風呂場でえ」と言い掛けた所で俺が口を挟んだ。
「あの、俺は風呂場のサービスは良いから、ここでまず、すまないけど脱いでくれないか」
「えー!ちょっと何それ~!有り得ないんですけど~この展開!マジやばいんですけど~このおじさん!」
「いや、やばいって君はデルヘル嬢だよ。脱ぐのは当たり前だろ。況して客である俺は君の体を触る権利が有るのであってだねえ、それだけでOKと俺は言ってるんだ。観賞させてもらって優しく触るだけさ。だから、良いだろ」
「だめ~!そんなの!」とミサキ嬢は言下に拒否した。「あたしがおじさんを触って、気持ち良くさせて、いかせるのがデリヘルの仕事っつうものなの!」
「いや、俺はとてもじゃないけど君に体を許す気にはなれないんだよ」
「えー!何それ!何それ!何それ!それじゃあデリヘル呼んだ意味ねえじゃん!みたいなあ~っつうか、デリヘル呼ぶ資格ねえし~みたいなあ~っつうか、もう、意味分かんな~い!」
俺は人一倍かわいこちゃんに弱い男であるが故にここまでミサキ嬢の侮辱的な発言、態度を必死に我慢して来たのであるが、到底、この女には話が通じないと諦観すると、彼女を完全に軽侮して彼女に興味索然となって鼻白むや、気兼ねなく気色ばんで言ってやった。
「もういい!もう分かった!その儘、何もしないで良いから一時間経ったら出てけ!耐えられないならもう出てっても構わんぞ!」
「うわあ!めっちゃ切れてる~!ちょ~怖いんですけど、このおじさん!言われなくっても喉乾いてタピりたかったし、汗かいてフロリダしたかったから出てっちゃおうっと」とミサキ嬢は言うが早いか、ベッドから蹶然として立ち上がり、「ばいなら!あたし、店長に告げ口して、てめ~をブラックリストに載せちゃうもんね~だ!だから、てめ~は生きてるより親爺狩りにでも遭ってくたばっちまった方が増しなんだもんね~だ!」とデリヘル嬢と遊べなきゃ生きてる価値が無いようなことを言いながら寝室を後にした。
俺はいざ出て行かれると、せめて死ぬ前に一発お見舞いしたくなってズボンを脱ぎながら寝室から出たが、ミサキ嬢はもう玄関にはいなかった。
で、俺は廊下にへたり込んで完全に失望しながら思った。
「確かにあんなのみたいな堕落した者と巧く付き合いが出来ないと世知辛くなるばかりだし、だからと言ってあんなのと巧く付き合う気には毛頭なれないからくたばっちまった方が増しだ。全く見てくれが良くてもあれじゃあ、とても色気が出ねえ、味も素っ気もありゃしねえ、中身が空っぽでほんとに何も価値が無いのだ。嗚呼、美紀、美紀が恋しい。あれが日本の美だ!和魂洋才を兼ね備えた正当に進化した女だ!ところが、あれは夢。現実はあの馬鹿だ。洋才はおろか和魂の欠片も持ってない、男のロマンも何も有ったもんじゃない。しかし、女が駄目なら男はもっと駄目だ。もう日本の美はおろか日本自体が滅びたのだ。もう絶望だ。もう死んでやる」
四
明治大正ロマンを抱いているからと言って明治大正時代の日本を理想像としている訳ではなく和魂洋才を実現した日本こそが日本たらしめるのだ!と思う俺は、明治維新以来、上滑りの西洋化の道を驀進して洋才を学べないばかりか和魂を忘れて行き、戦後、GHQの3S政策で骨抜きにされながら上滑りにアメリカ化して堕落して行き、和魂洋才の実現は夢のまた夢となった日本の現状を考えれば、絶望的にならざるを得ないのだ。
俺の現状を考えてみても確かに俺は命を絶つ良い潮時を迎えていた。今までの様にアウトサイダーとして露命を繋ぐ事は、最早、千番に一番の兼ね合いとも言うべき芸当が必要で極めて困難なのだ。これ以上、生き続けようとすれば、俗物に妥協したり迎合したり付和したりして同調しなければならない必要に迫られ、そうすれば、孤高を持する俺にとって沽券にかかわるとても卑しい見苦しい生き方になり、日を曠くして久しきに弥る、そうした無駄に惰性で生き馬齢を重ねる自分の堕落した為体を想像してみても命を絶つべきなのは火を見るよりも明らかだった。それこそ武士道とは死ぬ事と見つけたりとばかりに・・・しかし、どう死ねば良いというのだ。この尊い命を自ら絶つ事は到底、出来ないと俺は街中を徘徊の途中、青息吐息をつかずにはいられなかった。
交差点まで来て横断歩道を渡る間に外国でも見かけるコンビニやファーストフード店を始めオリジナリティに乏しい建物が櫛比する目抜き通りの風景をつくづく眺めながらグローバル化が進んだ今や、和魂洋才なぞ実現する筈が無いかと完全に絶望した。と、その時だった。信号無視して突っ込んで来る車に俺は天高く跳ね飛ばされ、その瞬間、俺の目の前に豁然と桃紅柳緑にして山紫水明とした桃源郷が広がった。それは幽遠な水墨画をカラフルにした様なシュールな世界であって、そこでは俗物の侮辱に苦しむ事も怒る事もなく安らかに時が流れて行くのだ。
時には気儘に俗界へ降り立ち、俗に言う良い人の近所のまともな人に化けて良い人の前に現れてみせるのだ。すると良い人は、「こんにちわ、こないだはどうも有難うございました」と愛想よく俺に挨拶して御相伴に与った礼を言い、それから、「毎度、お世話になりましてすいません、すいません」と腰を低くして立ち去って行くのだ。その代わり良い人の近所のまともでない人に化けて良い人の前に現れると、普段、まともな人達の前で無理に良い人を演じている事に因って生じるストレスからなのだろう、亦は強きを助け弱きを挫く卑劣な精神からなのだろう、良い人は頓に蔑んだ目つきになって俺を睥睨するなり流石に声には出さなかったが、口真似で俺に向かってアホと言って見せ、それを挨拶代わりに立ち去ってしまうのだ。だから俺は俗界で悟ったことは正しかったと納得して桃源郷へ帰るのだ。
時には俗界で杜子春ごっこと称して仙人の儘、俗物の前に現れ、小説通りにしてみると、俗輩の現金な性格や薄情な性格を改めて見ることが出来るので、その有り様を見事に風刺した芥川龍之介なる仙人を慕って桃源郷へ帰るのだ。
時には松尾芭蕉なる仙人と仙境を旅して風流に時を過ごすのだ。
時には宮沢賢治なる仙人と銀河鉄道の機関車に乗って天の川を旅するのだ。
他にもニーチェなる仙人やゴッホなる仙人や孔子なる仙人やソクラテスなる仙人や夏目漱石なる仙人等々錚々たる仙人達に会いに行って時に議論を戦わし時に阿呆な話をして交遊に興じるのだ。
然して或る晩、俺は巍々として聳え立つ高山の中腹で、桃の木に寄り掛かり、甘い桃の実の香りやしっとりした嵐気や涼しげな鈴虫の唄声に包まれ、満天の星空とそれを映し出した神秘的な海を従えた白砂青松を遥かに望み、瓢箪で桃の果実酒をほろ酔い気分で呑んでいた。
すると、「お待ちしておりました」という迦陵頻伽の如き妙なる美声を耳にして、はっとして振り向いた。そこには淡い虹色の羽衣を全体にふわふわと絡ませ、薄い桃色と水色を取り合わせた、透けていそうで透けていない不思議な生地に所々花柄模様をあしらった唐風のドレスを身に纏い、頭髪も唐風に結ってあるかと思えば、笄や根掛けや簪で飾り立て、首にはエメラルドグリーンのサテンスカーフを巻き、足にも洋物の真っ白なバレイシューズを履き、そして花顔玉容を紅粉青蛾した誰あろうあの美紀が月や星々の光を浴びて丸で発光体の様に光を放ち、目も綾に限りなく美しく輝きながら立っていた。彼女は俺が夢寐に描いた理想の女性であり仙女だったのである。
「啓介さん、あなた様は下界で俗に染まる事なく高潔に生き抜かれました。ですからこうして私と再会できたのです」
これから不老不死になった俺と美紀は永遠に美しい姿、永遠に美しい心で美しく結ばれ、美しいロマンスを展開して行くことだろう。これ以上、美しい事はない。美とは善、正に徳その物だ。より善きものを求め続けた結果、俺は、魂の中で真の幸福を勝ち取ったのだ。