マッサ、戻る
* * *
「……まだですかねえ。」
茂みの中に身を隠し、じっと崖のほうを見つめ続けながら、タータさんは呟いた。
「もう、だいぶ経ったような気がしますけど。」
「うむ。」
タータさんの呟きに、ガーベラ隊長は短くうなずいたが、それ以上、何も言わなかった。
実は、さっきから、同じやりとりが、もう十回くらい繰り返されている。
タータさん、ガーベラ隊長、フレイオの三人は、ブルーとボルドンが《死の谷》に降りていってから、ずっと、茂みの中で待ち続けていた。
正確にどれくらいの時が経ったのかは、分からない。
でも、三人にとっては、もう、一日じゅう待ち続けているんじゃないかというくらい、長く感じられた。
「んっ? ……伏せろ!」
急に、ガーベラ隊長が抑えた声で怒鳴り、両側にいたタータさんとフレイオの頭をぐいっとつかんで、茂みの中に引っ込ませた。
三人が息をひそめて様子をうかがうと、ここからでは遠く、小さく見える魔法使いの塔の上から、何か、巨大なコウモリのような黒い影が飛び立つのが見えた。
その黒い影は、あたりの様子を探るように、塔の上をぐるぐると二、三度、飛び回ってから、《死の谷》を越えて、北の方へと飛び去っていった。
「あれは……何だ? 私の目には、巨大なコウモリのように見えたが。」
隊長の言葉に、
「私も、同じです。」
と、フレイオが答え、
「わたしには……マントを広げた、人間みたいに見えましたけど。」
と、タータさんが、少し自信なさそうに言った。
「ただ、少し遠すぎて、はっきりとは、分かりませんでした。……でも、逆に、それくらいで、ちょうどよかったですよ。だって、わたしの目でも、よく見えなかったということは、向こうだって、たぶん、こっちには、ぜんぜん気がついていなかったはずですからね。」
「まったくだ。」
と、短く隊長が言い、それから、また、その場はしーんとなった。
「まだですかねえ。」
と、また、タータさんが呟いた。
マッサや、ブルーやボルドンのことが心配すぎて、つい、何度も同じことを言ってしまうんだ。
ふつうなら、誰かが「しつこい!」と怒り出しそうなものだけど、隊長はあいかわらず、
「うむ。」
と言っただけで、フレイオも、
「本当に。」
と言っただけだった。
マッサや、ブルーやボルドンのことが心配なのは、みんな同じだから、タータさんが何度も同じことを言ってしまう気持ちが、全員、よく分かっていたからだ。
「それにしても、遅いですねえ。」
四つのてのひらを、みんな合わせてもみしぼりながら、タータさんは唸った。
「声も、物音も聞こえてこないし……いったい、下では、どういうことになってるんでしょう? わたしの服で作った糸、もう、なくなっちゃう頃じゃないでしょうか? マッサは……それに、ブルーさんとボルドンさんは、大丈夫なんでしょうか? もしも――」
と、そのときだ!
ガガガガガガガガガガッ!
急に、下の方から、ものすごい音が、あっという間に近づいてきたかと思うと、
ドバアァァァアンッ!!
と音がしそうな勢いで、巨大な黒い影が、崖の縁から飛び出した!
「わあっ!?」
「うお!?」
「なっ……!」
と、見ていた三人がうめいたと同時に、
バフウウウゥン!
と、四本のたくましい脚で地面に着地したのは、ボルドンだ!
『ウオーン!』
やったよ! と言っているのがはっきり分かる、嬉しそうな声で吠えながら、ボルドンは待っている三人のところへ、のしのしと近づいてきた。
そうして、ぐうんと姿勢を低くした。
そのボルドンの耳のところに、半分気絶しながら、ブルーが、だらんとぶら下がっている。
そして、ボルドンの背中には、やっぱり半分気絶しながらも、両手でしっかり毛皮をつかんで、マッサが乗っていた。
「あああっ! マッサ!」
「王子っ!」
「マッサ……!」
三人が、わっと一斉にマッサに駆け寄り、ボルドンの背中から助け降ろして地面に寝かせる。
ボルドンは、だらんとなっているブルーを、また、ちょんちょんちょん、と大きな爪の先で優しく突っついて、起こした。
『……ブルルルルッ! こわい! おりるのも、のぼるのも、こわい! ……はっ!? ボルドン! マッサ、どこ?』
『グオーン。』
そこにいるよ、とボルドンが教えてあげると、ブルーはすぐに、半分気絶したみたいになって倒れているマッサのところへ走っていった。
『マッサ、マッサ、マッサ! 起きて!』
ブルーがそう言いながら、さりさりさりさり、とほっぺたをなめてあげると、
「うっ!?」
と唸って、マッサは、ぱっちりと目を開けた。
「えっ……? ブルー? あっ!? みんな!」
「マッサー! ほんとうに、よかった! 心配しましたよ!」
タータさんが叫んで、四本の長い腕で、ぎゅーっとマッサを抱きしめる。
「王子。ご無事のお戻り、何よりです!」
笑顔で、ガーベラ隊長が言い、
「よかった。……うん。よかったですよ、本当に。」
と、フレイオも、早口で、ぼそぼそと言っていた。
「うん……みんな、心配かけてごめん。ブルー、ボルドン、助けに来てくれて、ほんとにありがとう!」
『えっへん! ぼく、マッサたすけた! ホッホホホホーゥ!』
『ガオーンガオーン、グオグオーン。』
ブルーは喜んで跳ね回り、ボルドンは、「なあに、こんなの、朝飯前さ。」というように、巨大な肩を、ちょっとすくめてみせた。
「それにしても、あの《死の谷》の霧の中で、よく、まあ、出会うことができましたね?」
フレイオが、まだ信じられない、というような声と表情で言った。
「あの霧の中では、お互いが、真正面から、ちょうどぴったり出会わないかぎりは、気づくことはできなかったはずです。」
「そう、そう! そうなんだ。これ、見てよ!」
フレイオの言葉に、マッサは、胸ポケットに大切にしまい直していた、あの魔法の押し葉のことを思い出し、そうっと取り出して、みんなに見せた。
「これ! この魔法の押し葉が、ぼくを、ブルーとボルドンのところに連れていってくれたんだ。」
「魔法の押し葉ですって?」
と、ガーベラ隊長がのぞき込み、
「あっ、これは……もしかして、《魔女たちの城》の庭に生えている木の葉から作られたものではありませんか!?」
と、驚いた。
「そう、そう! 実は、旅に出る前に、おばあちゃんが、ぼくにこれを作ってくれたんだ。旅の途中、ぼくが道を見失ったときに、きっと、これが導いてくれるだろうって。
ぼく、下で、何も見えなかったけど、この葉っぱを、地面にひらひらっと落として、その先が向いたほうに進み続けたんだ。そしたら、そこにブルーとボルドンがいて、会えたんだ!」
「なるほど、そういうことでしたか。では、女王陛下は、こういう事態が起こることも、予想しておられたのかもしれませんね。さすがです。」
「うん。」
感動している隊長にうなずいて、マッサは、魔法の押し葉を、もう一度、丁寧に胸ポケットにしまった。
「……ん?」
そこで、マッサは急に、おかしなことに気づいた。
ここにいるのは、マッサ自身の他に、ブルー、ボルドン、そして隊長、タータさん、フレイオ――
「えっ? ……あれっ? ディールさんは?」
マッサがそう言った瞬間、みんなの笑顔が、さっと曇った。
「えっ? どうしたの? ……えっ? まさか……」
思わず、最悪の想像をしそうになったが、マッサは、ぎりぎりで、それを口には出さなかった。
もしも、ディールが死んじゃった、なんていうことだったら、いくらマッサが帰ってきたからって、みんなが笑っていられたはずはないからだ。
でも……それなら、ディールは今、いったい、どこにいるんだろう?
「ディールは、魔法使いの娘に――リアンナに、捕らえられてしまいました。」
ガーベラ隊長が、一転して深刻な表情になって、言った。
「王子が、あの爆発に巻き込まれて落ちた、すぐ後のことです。ボルドンが助けに来てくれて、我々はなんとか脱出できたのですが、そのときに、ディールだけ、魔法の糸で縛り上げられて、連れていかれてしまったのです。あいつは今、あそこに――魔法使いの塔にいます。」