ブルーとボルドン、おりる
* * *
「これは……」
《死の谷》の底で、真っ白な霧に取り巻かれながら、マッサは呟いた。
今、マッサの目の前の泥の上で、きらきら光っているのは、この旅に出る前におばあちゃんが渡してくれた、魔法の押し葉だ。
おばあちゃんには悪いけど、今、この時までは、自分がこの木の葉を持っていたことさえ、すっかり忘れていた。
念のため、胸ポケットに手を突っ込んでみると、やっぱり、そこには、魔法の押し葉は入っていなかった。
さっき、転んだときに、たまたま胸ポケットから飛び出したんだ。
――いや、待てよ。
これは、本当に、偶然だろうか?
『これは、魔法の押し葉だよ。』
と、確か、おばあちゃんは言っていた。
『何十年、何百年たっても、決して色あせることはない。
これから、おまえは、長い旅に出る。その旅の途中で、おまえが道を見失ったとき、きっと、この木の葉が、おまえを導いてくれるだろう。これを、お守りとして、肌身離さず持っておきなさい。』
マッサは、泥の上の魔法の押し葉を、じっと見つめた。
泥の上に落ちたのに、少しも汚れず、きらきら光っている。
『こっちよ。』
という、あの優しい声が、また、聞こえたような気がした。
そういえば、この木の葉は、先がとがっていて、まるで、
『こっちのほうに、進みなさい。』
と、マッサを導く矢印のようにも見える。
「旅の途中で、ぼくが、道を見失ったとき……この木の葉が、導いてくれる……」
マッサは、木の葉の先がさしている方向を、よくよく確かめると、そっと、押し葉を拾い上げて、ゆっくりと立ち上がり、まっすぐに、その方向に向かって進み始めた。
相変わらず、まわりの様子は、まったく見えない。
でも、ふしぎなことに、もう、さっきみたいな怖い気持ちは消えていた。
そろそろと進んでいくと、やがて、前に突き出していた片手が、何かに触った。
マッサは、ぎょっとして手を引っ込めたが、もう一度、落ち着いて触ってみると、それが大きな木の幹であることが分かった。
大きな木に、とおせんぼされて、まっすぐ前に進み続けることはできない。
『こっちよ。』
また、あの声が聞こえたような気がした。
マッサは、少し迷ってから、ふと思いついて、魔法の押し葉を目の前に掲げ、それを、ひらひらっと地面に落としてみた。
地面に顔を近づけて確かめると、今度は、押し葉の先が、マッサから見て左のほうを向いていた。
マッサは、また押し葉を拾うと、葉の先が指し示していた左のほうを向いて、ゆっくりゆっくり、進んでいった。
* * *
『いってきます!』
『グロロロロロ、ウオーン!』
ブルーとボルドンは、きりっと引き締まった顔で、みんなにあいさつした。
ブルーは、ボルドンの頭の上に乗り、糸を丸めて作った大きな玉を、片手に抱えている。
「頼んだぞ。気を付けて、行ってきてくれ。」
「けがをしないように、無事に戻ってきてくださいね!」
「あまり、無理をしないように。」
ガーベラ隊長とタータさんとフレイオが、そう言って見送る。
話し合いの結果、《死の谷》に落ちてしまったマッサを探すために、谷底に降りるメンバーは、ブルーとボルドンの二人に決まった。
イワクイグマのボルドンは、険しい山で暮らしていたから、ほとんど垂直の崖でも、自由に駆け上ったり、駆け下りたりすることができる。
そして、ブルーは、今残っている仲間たちのうちで一番、身が軽いから、ボルドンの負担になりにくいことと、耳や鼻が鋭く、霧のせいで見通しがきかない状態でも、マッサを見つけやすいから、という理由で、選ばれたのだった。
「いいですか。」
と、自分の上着を全部ほどいて、道案内の糸を作ってくれたタータさんが言った。
「崖の下についたら、とにかく、最初に、何でもいいですから、近くにあるものに、しっかりと、糸のはしを結ぶんですよ。それを忘れたら、たちまち、道が分からなくなって、あなたたちまで、迷ってしまいますよ。そんなことになったら、わたしたちは、もう、お手上げです。」
『だいじょうぶ!』
タータさんの上着でできた糸玉を、しっかりと抱きかかえて、ブルーは胸をはった。
『ぼく、わすれない。いと、むすぶ! それで、マッサをみつけて、いっしょに、かえってくる!』
『ウオオオオーッ、ウオオオオーッ!』
そうだ、そうだ! というように、ボルドンも気合いの入った声で吠えた。
「頼んだぞ、二人とも。マッサの運命は、今、おまえたち二人の肩にかかっている。」
『わかった、ぼくたち、がんばる! それじゃ、ボルドン、いこう!』
『ウオオオオーン!』
そう、一声吠えるやいなや、ボルドンはブルーを頭に乗せたまま、どどどどどーっと勢いよく走り出した。
茂みを飛び出し、何のためらいもなく、まっすぐに《死の谷》の崖に向かって走っていく。
ブルーは、片手にぎゅーっと糸玉を抱きしめ、もう片方の手と両足で、ぎゅーっとボルドンの片方の耳にしがみついた。
もしも、空中で吹っ飛ばされて、《死の谷》に転落することになったら、おしまいだ。
そうしているうちに、ボルドンは、あっという間に《死の谷》のふちにさしかかり――
『グオオオオオオオオッ!』
ひときわ気合いのこもった声を上げると、一気に、真下に向かって、切り立った崖の側面を駆け下りはじめた!
『ブルルルルルルーッ!』
ブルーは、気絶しそうになりながら、必死にボルドンの耳にしがみついた。
真下に向かって崖を駆け下りるなんてことができる動物は、きっと、世界中を探しても、ボルドンたちの他にはいないだろう。
まるで平らな地面を走るみたいに、垂直に切り立った崖の壁を、上から下へと走っていくんだ。
止まったら、落ちてしまうから、両手両足の爪で崖の面をとらえながら、落ちるよりも速く走るという、とんでもない荒技だ。
もちろん、そのスピードは、口では言えないくらい、とんでもない。
『ブルルルルルルーッ!』
あまりにも速すぎて、ブルーの顔の毛が、全部ぴたっと後ろ向きにくっついちゃって、変な顔になった。
でも、そんなことを言っている場合じゃないくらい、とにかく速い、速すぎる。
谷底にたまっている白い霧が、一瞬で目の前に迫ってくる――
あそこに突っ込んだら、何も見えなくなるぞ!
『グオンッ!?』
ボルドンの鋭い目は、霧に突っ込む直前の、ほんの一瞬、ちらっとだけ、霧の中から、何かが突き出しているのを見た。
黒くて、とがった――
あれは、枯れた木の、先っちょだ!
木が生えている、ということは、地面は、すぐそこだぞ!
『グオッ!』
ボルドンは、駆け下りてきた崖の壁を、ドン! とやわらかく四本の足で蹴った。
そして、空中でたちまち姿勢を変え、おなかを下にすると、
バフウウウゥゥン!
と、四本の足で、みごと、谷底の地面に着地した。
ボルドンの耳につかまっていたブルーは、着地の衝撃で、
『ギュウウウウウウッ。』
と、平べったくなったけど、ボルドンの耳からも、糸玉からも、絶対、手は離さなかった。
『ウオン、ウオーン?』
ボルドンは、警戒しながら、あたりを見回した。
真っ白で、何も見えない。
ウオン ウオン ウオン ウオン ウオーン……
どこからか、不気味な声が聞こえてきて、ボルドンは一瞬、びくっとしたけど、険しい山脈で生まれ育ったボルドンは、すぐに、それが「こだま」だということに気がついた。
でも、変なこだまだ。
普通のこだまは、ひとつの方向からだけ、聞こえてくるものなのに、ここでは、いろんな方向から聞こえてくる。
『グオッ、グオーッ……』
ボルドンは、半分気絶しながら自分の耳にぶら下がっているブルーを、大きな爪の先で、優しく、ちょんちょんちょん、とつついた。
『はっ!? ……なにも、みえない! ここ、どこ!?』
と、ブルーは、すぐに目を覚まして、ボルドンの頭の上できょろきょろした。
『まっしろ! なにも、みえない! ……はっ! ぼく、なんか、ふかふかするもののうえに、のってる! これ、なに!?』
『グオーン。』
ぼくだよ! と、ボルドンが教えてあげると、
『はっ! ボルドン!? ……あっ、そうか! ぼく、ボルドンの、あたまのうえ! ふたりで、マッサ、さがす!』
と、ブルーは、すぐに思い出した。
ボルドンは、ゆっくりと、頭を突き出して、あたりを探った。
すると、首のあたりが、ドン、と、何か、かたいものにぶつかった。
どうやら、枯れた木の幹のようだ。
『これ、なに? ……あっ。き、あった! ボルドン、そのまま、まってて。ぼく、これ、むすぶ!』
ブルーは、タータさんの上着をほどいて作った糸のはしを、枯れ木の幹にぐるぐるまきつけた。
そして、霧のせいでほとんど手元が見えないなか、ちっちゃな手の指を器用に動かして、しっかりと、かたむすびをした。
『よし!』
ぴっぴっぴっ、と、何度か引っ張ってみて、糸がほどけないことをたしかめたブルーは、ボルドンの頭を、ぽんぽんと叩いた。
『できた。ボルドン、マッサを、さがしにいこう! ゆっくり、ゆっくり、まえにすすんで!』