マッサと《死の谷》の恐怖
* * *
どれくらい、気を失っていただろう。
はっと目を覚ましたとき、マッサは、真っ白な場所に、たった一人でいた。
(何だ、これ!?)
最初、マッサは、自分の両目が見えなくなってしまったのかと思って、焦った。
なぜなら、自分のおなかや足や、腕さえも、まったく見えなかったからだ。
でも、両手を、顔のすぐ近くまで持ってきてみると、ものすごーくぼんやりと、指の形が見えた。
その瞬間、マッサは、ぞーっとした。
『谷底に溜まっているもやもやは、毒ガスではなくて、真っ白な霧です。ただし、ふつうの霧とは違う。ミルクのように濃くて、中に入ると、自分の手の先さえ、見えなくなるほどだそうです。』
と、フレイオが話していた声が、耳の奥によみがえった。
ここは《死の谷》だ。
マッサは、ドリアスと対決して、大爆発に巻き込まれて、《死の谷》の底まで、落っこちてしまったんだ!
慌てて、シャツの下をさぐってみると、『守り石』は、ちゃんと胸にかかっていた。
あの高さから、普通に落ちたら間違いなく死んでしまうところを、『守り石』が、ちゃんと助けてくれたらしい。
でも、その『守り石』もはっきり見えないくらい、真っ白な霧があたりをおおいつくしている。
自分が立っている場所から、今、一歩、前に踏み出したとしたら、そこに切り立った崖のふちがあって、落ちてしまうのか、おそろしい生き物があんぐりと口を開けていて、かじられてしまうのか、それとも木や岩があって、ガツンと顔をぶつけてしまうのか、まったく分からない。
マッサは、ものすごく怖くなってきた。
ずっと前、オオアナホリモグラのモグさんに案内されて、長い長い地下の道を歩いていたとき、みんなとはぐれて、ひとりぼっちになってしまったときと同じ怖さだ。
おなかの底が、ぞうっとして、心臓が、ぎゅうっと締め付けられるみたいな――
「だれかーっ!」
マッサは、大声で叫んだ。
ここから見上げても、崖の上の様子は、なんにも見えない。
もちろん、崖の上にいるはずのみんなからも、マッサの姿は、まったく見えないだろう。
でも、こうやって大声を出せば、もしかしたら、誰かが気付いてくれるかもしれない――
そのときだ!
ダレカーッ ダレカーッダレカーダレーダレーカーッ……
「うわっ!?」
急に、ものすごく不気味な声がまわりから聞こえてきて、マッサは、心臓が止まるかと思った。
もしかして、恐ろしい化け物が、すぐ近くにいて、自分を取り囲んでいるのか!?
ウワッ ウワッ ウワ ウワ ウウウウ ワワワワ……
マッサは、怖すぎて、腰が抜けて、その場にドサッと座り込んでしまった。
ドサッ ドサッ ドサ ドサ ドサ ササササ……
いや……待てよ。
どうやら、これは、化け物じゃない。
これは、こだまだ。
マッサが出した声や音が、跳ね返って、こんなふうに聞こえてくるんだ。
でも、山なんかで聞こえてくる、ふつうのこだまは、決まった方向からしか聞こえないはずなのに、ここでは、まわり全部、四方八方から聞こえてくる。
『この、したの、しろいもやもや、こわい! なかにはいると、どっちが、どっちか、わからなくなっちゃう。』
と、ブルーが、ボルドンの説明を通訳していたことを、マッサは思い出した。
どうやら、この霧には、ものの方向をわからなくしてしまう力があるらしい。
だから、声や、物音まで、へんな方向から聞こえてくるんだ。
(こんなところ、もう、いやだ! どうしたら、ここから出られる? 落ち着いて、考えるんだ……どうしたら、ここから出られるか……うーん……あっ、そうだ!)
マッサは、思わず、ポンと手を叩いて、あたりから、
ポン ポン ポンポン ポポポポポポ……
と、変な音が返ってきた。
なあんだ、落ち着いて考えてみたら、簡単なことじゃないか!
だって、マッサは、空を飛ぶ魔法を使うことができるんだ。
怖がったり、悩んだりしていないで、今すぐに、びゅーんと飛び上がって、この不気味な場所から、さよならすればいい!
「タカのように早く
ヒバリのように高く
竜のように強く――
飛べーっ!」
ドサッ!
「……えっ!?」
トベートベートベーベーベー ドサッ ドサッ ドサササササ……
マッサは、飛べなかった。
魔法の力を持っていない人が、ふつうにジャンプしたときのように、一瞬、両足が地面から離れることは離れるけど、そのまま、地面に落ちてしまう。
正確に言うと、ほんのちょっとだけ、空中に引っかかるような感覚はあった。
でも、それはほんの一瞬で、たったの一秒も、浮かんでいることができなかった。
「うそっ!? ……いや、落ち着くんだ、落ち着けばできる! 飛べ、飛べ、飛べーっ!」
デキルデキルデキル トベトベトベー ドサッドサッドサッツ ドサササササー……
やっぱり、飛べない。
どうして、急に、飛べなくなってしまったんだろう!?
『いつもは、わかるみち、もやもやのなかにはいると、わからない!』
と、ブルーがボルドンの言葉を通訳している声が、また、よみがえってきた。
もしかすると……この霧には、方向を分からなくするだけじゃなく、魔法の力を弱くしてしまうような力もあるのかもしれない。
『守り石』の魔法の力はとても強いから、なんとか、マッサは死なずに助かったけど、マッサ自身の魔法の力は、まだ弱いから、霧の力に負けて、飛ぶことができないのかもしれない。
(そんなあ! どうしよう、どうしよう、どうしよう……!)
マッサは、絶望のあまり、パニックにおちいりそうになった。
『なかにはいると、どっちが、どっちか、わからなくなっちゃう。いつもは、わかるみち、もやもやのなかにはいると、わからない! それで、まよって、おなかすいて、しんじゃう。だから、ぜったい、《しのたに》には、おりたらだめ。』
と、ボルドンは、おとなのクマたちから教えられたと言っていた。
じゃあ、ぼくも、おなかがすいて死んじゃうまで、一生、この《死の谷》から出られないっていうことなのか……!?
いや、落ち着け、ぼくは『守り石』を持っているんだから、死ぬことは、絶対にないはずだ……
でも、お腹がすいたり、喉が渇いたりすることまでは、防げないはずだ。
どうしよう。
ものすごーく、お腹がすいて、喉が渇いて、死にそうになっても、死なずに、この不気味な白い霧の中を、よぼよぼのおじいさんになるまで、ずーっと、一人で歩き回らなきゃいけなくなったら、どうしよう……!?
「うわああああああ!」
そう考えたら、あまりにもこわすぎて、マッサは、泣きながら大声で叫んだ。
「いやだ、いやだよー! 助けて! 誰か! みんなー! ぼくは、ここだよー!」
叫びながら、マッサは、前も見えないのに、やみくもに走り出した。
地下のトンネルで迷子になったときと同じだ。
あまりにも怖すぎて、パニックになって、じっとしていられなかった。
タスケテ タスケテ タスケテー ダレカ ダレカ ダレカー……
不気味なこだまが、まるでマッサを馬鹿にするように、あっちこっちから聞こえてくる。
ガツンッ!
「あいたぁっ!」
アイタ アイタ イタ イタ タタタタ……
前が見えないまま走り続けていたせいで、マッサは地面から突き出していた大きな石に思いきり足をぶつけ、前のめりに転んで、顔から地面に突っ込んだ。
霧のせいで地面がしめって、ぐちゃぐちゃになっていたせいで、前歯が折れることはなかったけど、鼻の穴や、口の中に、くさい泥がいっぱい入った。
「うううう……えっ、えっえっ……」
口に入った泥を吐き出しながら、怖くて心細くて気持ち悪くて、マッサは泣いた。
嫌だ、嫌だよ。
こんなところで、死ぬまで、一人ぼっちでいるなんて、絶対に嫌だよう……
『こっちよ。』
「…………うっ?」
泥の上に突っ伏して泣いていたマッサは、ぎくっとして、顔をあげた。
今、誰かが自分を呼ぶのが聞こえたような気がしたからだ。
「だれ……?」
『こっちよ。』
その声は、ふつうに耳に聞こえてくるというのとは、少し違う気がした。
耳じゃなく、胸の中に、そのまま響いてくるような感じだ。
『こっちよ。』
聞き覚えはないけど、なんだか、とっても優しくて、つい、そっちに近づいていきたくなるような感じの声だ。
……いや。でも、待てよ。
もしかして、これは、罠じゃないのか?
魔法使いが、怪しい魔法を使って、マッサをおびき寄せようとしているんじゃないのか?
それに、こっちよ、と言ったって、そもそも、どっちに行けばいいのか――
『こっちよ。』
「ん?」
ふと、マッサは、白い霧をすかして、すぐ近くの地面の上で、何かが、ぼうっと光っているのを見つけた。
その光は、どこか、あたたかいような、懐かしいような――
「あっ!」
泥の上に腹ばいになって、地面の上の光に顔を近づけたマッサは、それが何なのか気付いて、思わず声をあげた。
それは、一枚の、葉っぱだった。
まるで、細い金のすじで編んだ、細かい細かいレース細工みたいな――
《魔女たちの城》で、おばあちゃんが作って手渡してくれた、魔法の押し葉だった。