マッサたちと《死の谷》
マッサたちは、それからも毎日、毎日、旅を続けた。
あいかわらず、ディールとフレイオの小さな言い争いは、何度も起こったけど、マッサがあいだに入って、二人をなだめたり、タータさんが「ごはんにしましょう!」と叫んだり、とうとう我慢の限界になったガーベラ隊長が「ディール、もう、いいかげんにしないかっ!」と怒ったりして、なんとか、大げんかにまでは、ならずにすんだ。
こうして、五日後。
旅の一行は、ついに《ふたつ頭のヘビ》山脈を抜けた。
けわしい山道歩きが、やっと終わった! と、みんながほっとしたのも、つかのまだった。
そこから、さらに、三日間進んだところで、
「おい、おい、おい……」
急に目の前に広がった景色を見て、ディールが、呆然として呟いた。
「これ……どうなってんだ!? いったい、どうやって向こう側に渡りゃあいいんだよっ!?」
ディールのその言葉に、すぐに答えられる人は、誰もいなかった。
みんなの目の前にあったのは、とてつもなく深く、幅の広い谷だ。
まるで、ケーキをナイフで真上からずばんと切ったみたいに、崖が、マッサたちの前で、ほとんど垂直に切れ落ちている。
崖の反対側は、何百メートルも向こうにあって、ここからではよく見えないくらいだった。
しかも、崖の底のほうは、何だか、白っぽく、もやもやしていて、これまた、様子がよく分からなかった。
どうやら、煙か、霧のようなものが、谷底にたまっているらしい。
ここが、マッサのおばあちゃんが言っていた《死の谷》に違いない!
「おい、ディール。私の足首を、しっかり握っていてくれないか。」
「ええ、絶対に放しませんぜ!」
ガーベラ隊長は、背負っていた荷物をおろすと、万が一にもバランスを崩して落っこちることのないように、地面に腹ばいになり、慎重に這って、崖のぎりぎりまで近づいていった。
そんなガーベラ隊長の両方の足首を、ディールががっちり押さえて、少しくらい崖の端が崩れても、絶対にすべり落ちないようにしている。
マッサたちは、その様子を、はらはらしながら見守った。
ガーベラ隊長は、崖のふちから顔を出し、真下をのぞき込んだ。
ひんやりして、何だか嫌なにおいのする風が、下から吹き上げてくる。
ガーベラ隊長は、そばに落ちていた大きめの石ころをひとつ取ると、崖の下に、ひゅーんと投げ落として、耳を澄ました。
みんなも、口を閉じて、真剣に耳を澄ました。
ヒュ――――――ン…………
小石は、風を切って落ちていく。
でも、いつまで耳を澄ましていても、底にぶつかって、カツーン! という音が聞こえてこない。
つまり、この下は、底無しか、さもなければ、ぶつかった音がこっちに届かないくらい、とてつもなく深いということだ。
「困ったなあ……」
マッサたちは、すこし崖から離れた場所まで引き返して、作戦会議を開くことにした。
「大魔王がいる『北』の方角は、この谷を越えた、向こう側だよね。つまり、ぼくたちは、どうしても、この谷を渡らなくちゃならない。……みんな、どうやって渡ったらいいと思う?」
「はい!」
さっそく、タータさんが元気よく手を挙げた。
「この前、みんなで川を渡ったときみたいに、マッサが飛んで、向こう側までロープをはる、というのは、どうですか?」
「うーむ……」
と、難しい顔で唸ったのは、ガーベラ隊長だ。
「それは無理だろう。この前の川のときとは違って、谷の幅が広すぎる。全員が持っているロープをすべて合わせても、長さが、まったく足りない。」
「ああ、そうか……」
「はい、はい!」
と、次に手を挙げたのは、ディールだ。
「こうなったら、いったん崖の下まで降りて、谷底を歩いて、向こう側まで行って、そこから、また崖を登るってのは、どうですかい?」
「ううーむ。」
ガーベラ隊長は、また、難しい顔で唸った。
「崖の高さが、もっと低ければ、悪くないアイデアかもしれんな。……だが、さっき私が石を落としてみた感じだと、この谷は、深さも相当なもののようだ。我々が崖を降りるには、ロープを伝って降りるしかないが、もしも、その長さが、途中で足りなくなったら――」
「あーっ、くそっ、そうかあ……いい考えだと思ったんですがね。」
「それに、崖の下に降りるのは、何だか、危ない気がするんだ。」
と、マッサも言った。
「だって、この谷の名前……《死の谷》って言うんでしょう? 底のほうに、何だかわからない、白いもやもやが溜まってるし……あれが、もし、毒のガスとかだったら……」
「降りて、吸い込んだ瞬間に、死んじまう、って可能性もあるわけか……」
「うん。ぼくには《守り石》があるから、飛んで降りて、偵察してきてもいいけど……ぼくには、毒ガスも何も効かないから、みんなが降りたときにどうなるのかは、結局わからなくて、偵察の意味があんまりないし……」
「そうか、見た目だけじゃ、毒なのか何なのか、分からねえしなあ。」
腕組みをして、ううううーん……と唸ったディールは、
「おい!」
と、いきなり、フレイオに向かって言った。
「おまえ、さっきから、何も言ってねえじゃねえか。黙ってねえで、何か、役に立ちそうなことを言えよ!」
フレイオは、じろっとディールを見た。
そして、何か言い返そうとしたけど、
「そうだ! フレイオは、すごくいろんな本を読んで、勉強してるから、こういうときにヒントになりそうなことも、何か知ってるんじゃない? ぼくたちに教えてよ。」
と、マッサが横からすばやく言ったので、フレイオはディールとの口げんかをやめて、マッサのほうに向き直った。
「そうですね……《死の谷》の言い伝えは、確かに、昔、読んだことがありますよ。それによれば、あの、谷底に溜まっているもやもやは、毒ガスではなくて、真っ白な霧だそうです。
ただし、ふつうの霧とは違う。ミルクのように濃くて、中に入ると、自分の手の先さえ、見えなくなるほどだそうです。」
「えっ、そうなの!? 危ないところだった……うっかり降りていってたら、何も見えずに、迷っちゃうところだったね。」
「やはり、たくさん勉強していると、いざというときに、役に立つんですねえ!」
マッサとタータさんは、感心してそう言ったけど、
「何だよ、まったく! 知ってることがあるなら、聞かれる前に、さっさと言えよなあ。」
と、ディールは、ぶつぶつ言っていた。
いつもなら、ここでガーベラ隊長がディールを怒るところだけど、そのガーベラ隊長は、
「景色が、まったく見えない……」
と、何か考えこむように、小さく呟いていた。
「どうしたんですか、ガーベラ隊長? 何か、思いついたんですか?」
「いや……まだ、使えるアイデアかどうかは、分かりませんが。」
ガーベラ隊長はそう言うと、一番後ろで、みんなと同じように困った顔をして座っていたボルドンに向かって、話しかけた。
「ボルドン、君は、これまでの《ふたつ頭のヘビ》山脈の旅のあいだ、一度も迷わずに、みんなを案内してくれた。……ブルー、すまないが、今のを通訳してくれないか。」
呼ばれたブルーが、マッサのリュックサックから、ぽん! と顔だけ出して、隊長の言葉を通訳すると、
『グオッ!』
そうそう! というように、ボルドンは、元気よくうなずいた。
「ということは、ボルドン、君は、たぶん、すぐれた方向感覚の持ち主なんだ。動物たちや鳥たちの中には、太陽や、そのほかの目印を目で見なくても、なんとなく、北がどちらなのかを感じ取ることができるものがいると聞いたことがある。……もしかして、君にも、そういう感覚があるんじゃないか?」