第七章
「たぶん、ココね」
名刺を手にしたアヤカ、ミナ、チカの三人は、
赤茶色のレンガ造りのビルを見上げた。
香椎駅から3分ほどの裏路地を入った所に、
青木弁護士の事務所はあった。
カフェやレストラン、パチンコ等の遊技場で賑やかなメイン通りの喧騒とは違い、
一本裏に入ればそこには静寂な闇があった。
昨日アヤカ達が行った香椎クレセントホテルは
歩いてすぐにある。
5階建ての低層な造りで、それほど大きいビルではない。
正面入り口には背の高い黒い錬鉄の洒落たガス燈が立ち、
オレンジ色の優しい光を周囲に放っている。
おそらく本物のガスは使っていないだろうけど、
その一角は、どこかイギリスの雰囲気を漂わせている。
まるでコナン・ドイルの小説に出てくる
あの街のあの場所のように。
紳士然とした雰囲気を持つ青木弁護士が構える事務所の
イメージにぴったりな気がした。
ビルの入口横に各事務所を表した金色のプレートが埋め込んであった。
その中に"4階 香椎法律弁護士事務所"
の名前もある。
どうやらワンフロアすべてが青木弁護士の事務所らしい。
念の為、もう一度昨夜青木弁護士に貰った名刺の
住所と照らし合わせてみる。
やっぱり合ってる。
よし、行こう。
ミナとチカを促し歩を進めると、
両開きのガラス貼りのドアが静かに開いた。
エントランスホールに入ると、
温かみのあるダークブラウンの木目調の壁、
仄かな明かりを灯した間接照明に迎えられた。
ほんのりと暖房の暖かさを感じる。
パキラと呼ばれるグリーンがいくつも置いてあり、
小さなソファセットも鎮座していた。
ここはいわゆる無機質なビジネスビルとは少し違うらしい。
悩みを抱えた依頼人が訪れた場合、
温かみのあるココを通れば、
少しは気持ちが軽くなるものではないだろうか。
そこまで計算してこのビルを選んでいるのかもしれない。
アヤカ達に協力を求めてきたが、
それをすべて鵜呑みにしてもいいのだろうか?
ミナの話によれば、福井家と青木弁護士は
公私に渡り家族ぐるみの付き合いらしい。
「姉さん、早く行こうよ!もういい時間でしょ?」
チカが言った。
アヤカはハッして
左手のクラシカルな『ハミルトン』の時計を
チラリと見やった。
短針は8を、長針は57分を指している。
「そうね、行きましょ」
そう言ってアヤカは着ていたグレージュの
ロングコートを脱いで手にかけ、
エレベーターの上のボタンを押した。
この話し合いで事件の進捗が変わるのだろうか。
それはまだわからない。
益戸神社の調査から急いで店に戻ったアヤカは、
そのまま車で15分程にある自分のアパートに戻った。
記録的な速さでシャワー浴び、
スエットに着換えてから
リビングのソファにブランケットを抱えて沈みこんだ。
身体が重い、眠い、とにかく眠い。
身体が悲鳴を上げて"休め"のサインを発している。
しかしこれからやることがまだある。
19時過ぎにチカが車で迎えに来てくれる予定だった。
アヤカのマンションから香椎駅まで20分ほどで行けるから、
せめて30分だけ仮眠しておこう。
と、ブランケットを身体に引き上げた。
少しでも身体を休めておこうと目を閉じたのだが、
なんとなくウトウトしただけ。
身体は疲れているのに
先程の神社の調査のことで頭だけが冴えて、
眠れなかったのだ。
特に"あの音"
どうもアレが気になる。
何があってそんな金属音がしたんだろう?
何かを倒した音かしら?
でもあの辺りに金属系なんて・・・
あ、あの巨大な灯籠にユミちゃんがぶつかったとか?
賽銭箱頭上の鈴というのもあるかも。
でも鈴の音なら三上さんが聞き慣れているはず。
もしかして神社の内部からとか?
中の・・・本殿とか?
本殿には神主様がいたらしいけど・・・。
10分ほどソファでゴロゴロとしたあげく、
アヤカは結局身体を起こしてしまった。
お湯を沸かし、カフェ・ヴェルデから
持ち帰ったアーモンドマフィンと珈琲で軽食を取った。
何か少しお腹に入れておかないと。
これから青木弁護士の事務所で大事な話が
色々あるらしいから。
青木弁護士の話の途中でお腹が鳴ってしまったら、
緊恥ずかしいし、緊張感が一気に無くなりそう。
アヤカは食器を台所に運んだあと、
弁護士事務所を訪問するに向いていそうな服を選ぶのに
ベッドルームのクローゼットの前に立った。
どれがいいかしら・・・法律事務所を訪ねるのに
相応しいモノって?
アヤカはハンガーから
ギャザーが入ったとろみのある黒のブラウスを取り出し、
黒のテーパードパンツを合わせてみた。
・・・ちょっと堅いかも。
じゃあ・・・っと、
グレーのツイードの膝下フレアスカートを合わせてみる。
このスカートはトコドコに銀糸が使われていて、
動くたびにキラキラと上品に煌めく。
ウエストのホックを止めようとしたら、
あれ、ちょっとキツイ!?
も、もしかして、太った??
このスカート、会社員時代にきていたモノだから。
あれから・・・どれくらい経った?
スイーツの試食をし過ぎたせいか・・・。
力を入れてグイっとホックを寄せる。
なんとか入った・・・ま、まぁいいか。
あとは黒のタイツを履き、黒のパンプスを履けばいいわね。
コートは『マックスマーラ』のグレーのコートを着よう。
アヤカが出版社に務めていた時代に、
清水から飛び降りるつもりで購入したモノだ。
アヤカの手持ちの中で
唯一といってもいいほどの上質な品である。
バッグは『ロンシャン』のハンドバッグにしよう。
クラシックでカーフの革のバッグは
正統派で真面目な印象を与えてくれるはず。
おっと!
探偵ノートとペンを忘れずに入れなきゃね!
コレだったら弁護士事務所を訪問しても
おかしな格好だとは思われないわよね?
あ、もうすぐ時間!
化粧もしなきゃ!!
「青木さんと話して、何かわかるといいわね」
ミナは黒のロングコートをゆっくりと脱いだ。
ミナはハイネックのベージュのニットワンピース。
足元まで届くマキシ丈で、
グレーの『ネブローニ』のストラップパンプスを
合わせていた。
緩く結い上げたポニーテールでキレイなうなじが
チラリと見える。
ワンピースの上からゴールドのコインネックレス、
肩から黒のショルダーバッグを掛けている。
ミナにしてはドレッシーな部類のコーデだ。
「高松屋の『シェ・松尾』でお茶してきたのよ」
なるほど。
ミナが行きたいと言っていたのはソコか。
香椎駅直結のデパートの高松屋にある
フレンチレストランのシェ・松尾。
老舗のフレンチの店だが、
気軽に単品メニューや、お茶のみの利用もできる。
アフタヌーンティもあり、今後の参考にと行ってきたそうな。
「さすがだったわよ。
正統派のスコーンも美味しかったし、
ミニケーキも華やかで。
目でもとても楽しめた。
季節を意識したフィンガーフードも見事で
特にローストビーフとキノコのオープンサンドが
良かったわ。
ローストビーフね・・・一回作れば切るだけだから、
ウチでもやろうかしら・・」
ミナの目が宙をさまよう。
ミナには好きなモノを作っていいことになってるけど、
カフェ・ヴェルデの予算には厳しいモノがある。
ミナが作れば絶対美味しいモノが出来るに
決まってるけど・・・ちょっと予算が。
内心慌てたアヤカであった。
「えーー、ミナちゃん、松尾でお茶してたんだ!
私も行きたかったな〜〜」
そう言いながら、チカは肩に掛けた
グレーと白のチェックのストールを
スルリと脱いだ。
鮮やかなブルーのクルーネックニットに
ベージュのロングプリーツスカート、
少し濃いめのベージュのスエードのミドルブーツを
合わせている。
首元には短めのパールのネックレスで
華やかさを添えていた。
車移動なのでアウターは無し。
手には巾着型の『ヴァジック』のブラウンの
バッグを持っていた。
堅苦しくなく、かといって砕け過ぎない、
キレイ目なコーデでまとめてある。
さすがチカ、と心の中で唸る。
三人を乗せたエレベーターは緩やかに速度を落とした。
ゆっくりと扉が開くと、
すぐ目の前はもう青木弁護士事務所だった。
エレベーターから降りると、アヤカは
目の前にある白いカウンターの受付電話に手を伸ばした。
"受付1"と表記された案内表示を見て、
1の番号をプッシュする。
2回コール音が聞こえた後、誰かが出た。
「今晩は。
あの、鈴井と申しますが、青木弁護士をお願いします」
「今晩は。今開けますので少しお待ち下さい」
そう言って会話が切れた。
カウンターの背後は曇りガラスの両扉の玄関になっている。
どうやら、中で操作しなければ
開かないようになっているらしい。
弁護士事務所からか、セキュリティが高いようだ。
アヤカ達三人が扉前で待っていると、
音もなく入り口が開いた。
「今晩は、皆様ようこそいらっしゃいました」
そこにはグレーのツイードを着こなす青木弁護士が
にこやかに立っていた。
ガラス扉を抜けると、小さなエントランスになっていた。
右側にどっしりしたマホガニーのような濃茶の机に、
同じような椅子のセットがあった。
左側には同じようなマホガニーの小さなボードが置かれ、
オリエンタルな青い花瓶に、
様々な大輪の花が活けてあった。
この場所で秘書や案内人が客を迎え、
改めて訪問者の受付をするらしい。
営業時間外だからか今の時間は誰もいないようだ。
グリーンのカーペットを敷き詰めた通路は
左右と目の前に真っ直ぐ伸びている。
「いつもだと何人か秘書がおるのですが、
本日はもう帰しました。
右のほうが秘書室や、総務室になってるんです。
こちらの左の方は、小さめの応接室がいくつかあります」
ミナからの前知識によると、
青木弁護士事務所は、何人かの弁護士が在籍しており、
益戸や香椎一帯では中堅規模だということだ。
主に扱う案件は、企業関連の買収や訴訟などが多いそうだ。
青木弁護士はココの経営者、
そして主席弁護士としてふらんす屋はもちろんのこと、
大手企業の顧問弁護士をいくつも兼任しているそうな。
どうやら青木弁護士はやり手のようだ。
「左側は小さな応接室が3つ、
右側は秘書や事務員の部署、給湯室や更衣室に
なっています。
この左右の部屋はウチの弁護士達の部屋になっています。
今私以外に4人在籍していますが、
みな優秀な者たちです。
ミナさん達もお困りでしたらどうぞウチに」
茶目っ気たっぷりに先を行く
そんなやり手の青木弁護士に従い、
アヤカ達は廊下を真っ直ぐ進んでいった。
ダークトーンの木目調の壁の両側には、
明るい色調の油彩画が飾られ、いくつかのドアがあった。
各ドアの横には金色のプレートで
○○弁護士、△△弁護士というように記されていた。
歩くたびにグリーンのカーペットが
アヤカ達のヒール音を吸収していく。
一番奥に両開きの大きな部屋があったが、
青木弁護士はひとつ手前の右のドアを開けた。
ドア横に"青木ジロウ"とプレートがある。
青木弁護士に続いてアヤカ達が入る。
廊下と同じグリーンのカーペットが部屋まで続き、
黒の革張りの豪華なソファセットがアヤカ達を迎えた。
「さあ、どうぞお座りください」
青木弁護士に促され、
アヤカ達はソファに腰を下ろした。
ミナが改めて、アヤカとチカの紹介をする。
立ったままの青木弁護士がこくこくと頷く中、
アヤカは広い室内に目をさまよわせた。
大きなガラス窓を背景にアンティーク調の濃い茶色の、
かなり大きい机が真ん中にどっしりと鎮座していた。
トコロドコロに草木の彫刻が施され、色艶といい、
見事な品に見える。
それと同時に依頼人にこの部屋の主の
威風と格式を魅せる効果もありそうだ。
何冊かのファイルが積まれ、
ペンやメモ帳が定位置のように真っ直ぐ置かれている。
青木弁護士の几帳面さがわかる気がした。
机の後ろには焦げ茶の革張りのゆったりとした
肘付きチェア、
左には天井まで届きそうないくつもの棚。
六法全書と言われる法律書や、難しそうな本が
びっしりとひしめいている。
白ユリを生けた豪華な花瓶を乗せたハイテーブル、
窓際に小さなコーヒーメーカーが置いてある。
どうやら珈琲は沸いているようだ。
細い湯気がほのかにガラス窓を曇らせ、
その香りは部屋中に広がっている。
壁には何点かの風景画(あれはルノワールかしら?)
が飾られ、
部屋は青木弁護士の趣味や性格を伺わせる調度品で
占められている。
部屋はそのままその人物を語るというが、
そうすると彼は伝統や歴史を重んじ、
節度と調和を大事にしているのかもしれない。
ただ・・・。
青木弁護士はコーヒーメーカーから出来立ての
珈琲を入れてくれた。
アヤカ達が来訪する時間を考えて
セットしてくれていたに違いない。
「プロの方にお出しするのは
ちょっとお恥ずかしいんですが、
私も珈琲が好きなんですよ」
白い湯気と香ばしい焙煎の香りがアヤカの
鼻孔をくすぐる。
「豆は近くの成城石井で買ったモノですから、
たいしたモノではないのですが・・・」
そうはいっても、出来立ての珈琲に勝るものはない。
これは、リチャード・ジノリのカップ&ソーサーね。
伝統のクラシックなフォルムに
水彩画のような淡い青いバラの絵柄が描かれている。
コーヒーカップにも青木弁護士の趣向が伺える。
熱々の一口をすすると、コクと苦味が口に広がった。
酸味や甘みは控えめ。
ダークかイタリアンローストくらいかしら・・・。
熱々の珈琲は有りがたく、冷えた身体に染み渡る。
「私は濃いめの珈琲が好みなので、
よろしければミルクと砂糖をどうぞ」
普段ブラックかミルクを入れるのが好みだが、
今回はどちらも入れさせてもらおう。
「さて」
青木弁護士が裁判長のように、
机前の一人用ソファに座り込みと話を切り出した。
「皆さんに今夜こちらまでご足労かけて頂いたのは、
松田ユミさんの事件について、
あるお話をさせて頂くためです。
私としても、福井家の弁護士という立場上、
依頼者の秘密やプライバシーを守らなくてはなりません。
ですが・・・」
青木弁護士はアヤカ、ミナ、チカを順々に見た。
最後にミナをヒタと見る。
「・・・私は福井家とは、弁護士と依頼人としての関係
だけではなく、もっと親しい家族のような関係だと
思っています。
いや、だったと言うべきか・・・。
私は今やハツエさんから避けられている状態です。
学部は違いますが、亡くなったタツオミくんの父上と私は、
大学の同窓だったんです。
私は弁護士を目指し、
彼は家業を継ぐために経営を専攻していました。
彼が小さな街の洋菓子屋から、
苦労を重ねて事業を大きくしていく時も、
彼が若くして急死したときも、
私はずっと見てきました。
ハツエさんが夫に代わってふらんす屋を継いだ時も、
まだ学生だったタツオミくんやタツヤくんを
苦労して育てていた時も・・・ずっとです」
青木弁護士は一息でここまで言った。
「ミナさん、
ミナさんにとってハツエさんはいい姑では無かったと、
思います。
そこまで致ったのはふらんす屋も、
いろいろ危機があったからなのです。
過去には、
先々代から伝わるレシピを売られそうになったり、
信頼していた経理の責任者に金を持ち逃げされそうに
なったこともあります。
家を、家族を、会社を守るため、
常に厳しい生き方をしてきたのがハツエさんです。
家族以外を信用することができない・・・。
いや、そういう生き方をしなければならなかったのか。
ミナさん、
私はあなたとタツオミさんはいい夫婦になられると
思っていました。
二人とも美男美女でとてもお似合いでしたね。
ハツエさんがあなた方の結婚写真を
見せてくれたのです。
ハツエさんはあなたに対して冷たく
見えていたかもしれませんが、
本当に幸せになって欲しいと思っていたのですよ」
ミナに驚きの表情が走った。
アヤカとチカも顔を合わせた。
ミナの離婚当時は、本人から語られることは少なかった。
取り乱すこともなく、
いつも通りの落ちついた振る舞いだった。
ミナの性格を考えればそうかもしれない。
しかし、ミナのデリケートな部分は
長年付き合いのあるアヤカもチカも知っている。
内心は深く傷ついていたことも。
アヤカの母伝いにミナの両親から、
離婚の経緯を聞いていた。
ミナとアチラの家と合わなかったこと、
夫のタツオミとも生活のすれ違い、
うまくいかなかったことも。
だから、青木弁護士の話が訝しく思えたのだ。
青木弁護士はそのまま話を続ける。
「私も、あなた達の力になれなかったことを
残念に思います。
ミナさんにとっては心外だと思いますが、
お二人の離婚によって、
ハツエさんはあなたに裏切られたと思っていました。
それは、ハツエさんが第一に守らなくてはならないと考えているのはふらんす屋のことだからです。
亡くなった夫の会社を守ること、
そしてこれから
ふらんす屋の為にタツオミくんとミナさんが、
二人で力を合わせてくれることを願っていたからです。
あなたの元夫にこういうことを言うのは厳しいようですが、
タツオミくんはハツエさんにもっと立ち向かうべきでした。
ミナさんの夫として、あなたを守るべきでした。
しかし・・・あの頃の会社の内情は良くありませんでした。
いや、危機的状況でした。
実はふらんす屋の菓子の中に金属片が混入されていた
ことがあり、訴訟問題になっていたのです。
皆さんも飲食に携わられていらっしゃるなら、
おわかりでしょう。
ふらんす屋は廃業するか否かの大問題になっていました。
幸い、訴訟は和解し解決金はたいした額ではありません
でしたが、行政から指導された業務改革のために、
工場などの刷新や設備のための莫大な資金が必要でした。
当時社長だったハツエさんや
次期取締役副社長としてタツオミくんは、
銀行や行政との調整に奮闘し苦慮していました」
ミナが大きく目を見開いた。
「それは・・・知りませんでした、全く・・・。
元夫がいつも忙しそうにしていたのは知っていましたが、
そんな事は私には何も・・・」
青木弁護士が大きく頷く。
「ミナさん、あなたは何も悪くありません。
タツオミくんは、何とか自分達だけで会社の危機を
乗り切ろうとしていたんでしょう。
ミナさんを会社のゴタゴタに巻き込まないように。
それがミナさんとの結婚の約束だったそうですね。
タツオミくんはあなたには、パティシエとして
自分の道を歩いてほしいと思っていた。
タツオミくんの優しさが、
二人をすれ違わせていたんですね」
アヤカは胸がムカムカしていた。
なんなのよ、そのキレイごとは!
「失礼ですが、そんなの言い訳じゃないんですか?
今さらそんな事を聞かされたって!
・・・ミナがどんな思いでその間過ごしていたか。
夫婦じゃなかったんですか?
せめて事情は話すべきだったんだと思います。
・・・私は未婚で結婚の経験はないので、
うまくは言えないけど、
タツオミさんはミナを不安なままにさせておくべきでは
なかったと思います」
アヤカは乱暴な口調になっていた。
「アヤカ・・・」
「確かにミナには会社のことで煩わせたくなかったのかも
しれません。
でもそれって優しさですか?
今の時代、色んな夫婦の形はあるかもしれませんが、
お互いのことは話さないとダメだと思います」
アヤカは息をついた。
「わかっています。
過去には戻れませんし、
ミナさんを傷つけてしまったことは取り戻せません。
しかし、そんな福井家をミナさんや、
あなた方は力になりたいと言って下さった・・・。
だから私は弁護士という立場でありながら、
あなた方を信頼して
事件についてお話する決意をしたのです。
ミナさん、あなたを傷つけるようなことをお話して
申し訳ありませんでした。
ですが、知っておいて頂きたかったのです」
青木弁護士は立ち上がり、
机上の電話の受話器を取り上げた。
「もしもし?ええ・・・こちらに来て頂けますか?」
電話の受話器を置いた。
アヤカはまだ胸がムカついていた。
今夜ココに来て良かったのか。
ミナを過去に戻し、苦しめるだけじゃなかったのか。
アヤカの目の前のミナは窓の外に顔を向けていた。
何かを見ているわけでもないようだが、心配になってくる。
今何を思っているのか・・・。
横にいるチカを見ると、下を向き、
モジモジとスカートの上に置いた手を組んだり、
指をからめている。
落ち着かない様子だ。
チカも家族がいる身の上だ。
青木弁護士の話には、自分にも思うことがあるのだろう。
ドアをノックする音が聞こえた。
立ち上がり、どうぞ、という青木弁護士の声と同時に
初老の男性が部屋に入ってきた。
ミナがアッと小さく声を上げる。
ん?誰?
黒髪が少し残る白髪に温和そうな表情を浮かべているが、
心なしか不安げに見えた。
濃いグリーンの薄手のVネックセーターに、
白シャツとネイビーのネクタイが覗き、
黒のスラックスパンツ、黒の革靴を履いている。
なんか見たことがあるけど・・・。
アヤカは首を傾げた。
青木弁護士が男性を自分の横に導いた。
「ご紹介します。
こちらは中村さん。福井家の運転手をされています。
中村さん、ミナさんはご存知ですよね。
こちらは鈴井アヤカさん、
向こうに座っていらっしゃるのが妹のチカさんです。
皆さん、益戸の"カフェ・ヴェルデ"という
喫茶店で働いていらっしゃいます。
さ、中村さん、コチラにお座りになってください」
あ、そうか。
昨日見た運転手さん!
あの時は制帽みたいのを被っていたから気づかなかった。
アヤカ達は軽く会釈した。
中村さんは小さく頷き、
今まで青木弁護士が座っていたソファに
ゆっくりと腰を下ろした。
青木弁護士は中村さんの傍らに立ち、説明した。
「今夜皆さんに来て頂いたのは、
こちらの中村さんの話を聞いて頂くためです。
・・・実は中村さんと私は福井家を通して長い付き合いで、
先日あることについて相談を受けたんです。
その真偽を確かめるために、
昨夜香椎クレセントホテルに行き、
ハツエさんに会いに行きました」
青木弁護士は机に片手をつき、身体を預けた。
「中村さんも福井家に長らく務めていらっしゃいます。
私のところに来られたのは、
福井家の、特にハツエさんのことを
心配してだったからです。
だいぶ迷われたようですが・・・。
さあ、中村さん、こちらのお嬢さん方にも同じ話を
して下さいますか?」
中村さんが不安そうに青木弁護士の顔を見ると、
青木弁護士は安心させるかのように無言で大きく頷いた。
中村さんはアヤカ達をややあって見渡し、
ポツポツと話し出した。
「・・・こんなことをお話するのは、
奥様や坊っちゃんを裏切るようで、
今でも良かったのかわかりませんが・・。
あの、若奥様、お久しぶりでございます。
憶えておいでかわかりませんが・・・」
「中村さん、ご無沙汰しています。
・・・なかなかご挨拶も出来ないままで・・・」
ミナがぺこりと頭を下げる。
「やめてください、若奥様!
こちらこそ・・・その、なんのお力添えもできないまま」
青木弁護士がコホンと咳をした。
「中村さん、積もる話もあると思いますが・・・」
「あ、すいません!・・・そうですね、すいません」
立ち上がりかけた腰を再び下ろした。
「その、若奥様、
青木先生からお聞きしたのですが、
なんでもこちらの皆様はあの益戸神社の事件のことを
調べていらっしゃるとか。
実は・・・私、あの事件のとき、そこにいたのです」
「え!?」
唐突な告白にアヤカ、ミナ、チカ、三人とも驚きのあまり、
大きな声を出してしまった。
中村さんはかまわず話を続ける。
「あの朝、私は奥様のお供で車であの神社に参ったのです。
前日、奥様から早朝車を出して欲しいと言われて
いましたので。
あのお若い女性、タツヤ坊っちゃんのご婚約者の方は、
お顔は存じませんでしたが、ご家族のお話などから、
少し聞きかじっていました。
・・・あの日の朝8時頃、奥様を乗せて
香椎のお屋敷を出発致しました。
かなり霧が濃く、いつもよりスピードを落として
運転しましたので、
益戸神社に着いたのは、8時半を過ぎていました。
・・・実はあの神社に参りましたのは、
あの日が初めてではありませんでした」
「え、どういうことですか?」
アヤカが質問する。
「実は2回、いえ3回伺ったことがあるのです。
それもやはり朝でした。
奥様はココに来ているのは誰にも知られないようにと
私に口止めしていらっしゃいました。
表向きには評判のパンを買いに行くということを
ご家族には説明していらっしゃいました。
実際神社の帰りにパンを購入して帰られていました。
益戸神社に参るときは道路に車を止めておりましたので、
そこを離れることが出来ず、
私は奥様と中までご一緒にしたことはございませんでした。
てすから、今まで奥様はあの神社にお参りのために
通っていると思っておりました。
しかし、あの日は様子が違ったのです」
中村さんは青木弁護士が入れてくれた珈琲を
グビっと飲み込んだ。
熱かっただろうに・・・大丈夫かしら。
しかし中村さんは緊張のせいか気にしていないようだった。
「あの日・・・私はいつもは車の中で
奥様のお帰りをお待ちしているのです。
ですが、あの日はなかなかお戻りになりませんでした。
また霧が濃いのもあって奥様のことが心配になり、
お迎えに伺おうと私は益戸神社の境内に入りました。
すると誰かがコチラに小走りに来るのがわかりました。
奥様かと思ったのですが、どうもお一人ではない様子で、
二人分の足音が聞こえました。
ですから一瞬別の方かと思ったのですが、
抑え気味でしたがどうやら奥様の声、
そしてもう一人はあまりよくきこえなかったのですが、
若い男性の声のようでした。
私は奥様に何かトラブルがあったのかと思い、
急いで駆けつけようとしたのですが、
その男が言った言葉で私は
身体が動かなくなってしまったのです・・・」
中村さんは声を落とした。
少し間が空いた。
どうしたんだろう・・・何だか迷っているみたい。
「・・・その・・・最初は聞き間違いじゃないかと・・・
思ったんですが、どうしても・・・それしか・・・」
「それで?中村さん?」
シビレを切らしたのか、ミナが促すように声をかけた。
「その言葉とは何だったんですか?」
「それは・・・『アンタが殺したんだ』という言葉でした」
部屋は静寂に支配された。
よく言われる針の音が落ちても・・・のようだ。
誰も音を立てず、声も発しない。
ただ珈琲メーカーのシューシューする
音だけが部屋に響く。
中村さんから発せられた言葉は破壊力が凄すぎた。
状況から考えると、
あのいけ好かないババ・・・(失礼!)
いや、小田ハツエがユミを殺した殺人者だということだ。
やっぱり!という想いと、
ミナのことを考えると複雑な心境がアヤカの胸に迫る。
青木弁護士は床に視線を落として、
苦痛の表情を浮かべている。
ミナは大きく目を見開き、
チカはあまりにもビックリしたのか、
珈琲カップを持ちながら固まっていた。
「すいません、いきなりこんな事を言って
脅かすつもりではなかったのです」
中村さんは不安気に青木弁護士を仰ぎ見た。
シーンとしたこの部屋の空気に耐えられなくなったの
だろう。
「中村さん、続けてください」
気を取り直した青木弁護士が、
落ちついたトーンで中村さんに続きを促した。
「・・・わかりました。
えっと・・・それでですね、
霧で奥様達の姿はよく見えなかったんですが、
声だけは聞こえてきました。
『アンタ、人殺しだ』と男が言うと、
どうやら二人とも立ち止まったようでした。
奥様の『あれは弾みだったのよ!ワザとじゃないわ!』
という声が聞こえ、
私はとっさに神社の入口にある
狛犬の後ろに隠れてしまったんです。
私が聞いてはいけない気がして。
奥様は・・・怯えているようなお声で話されていました。
そんな奥様は初めてです。
私は情けないことに、息が苦しくなり、
しゃがんで胸を抑えていました。
二人の会話がわからなくて。
その発言が信じられなくて。
すると、霧の向こう側で男が奥様を脅しはじめました。
バレたら困るだろ、とか、
黙っておくからとか、そんなことでした。
奥様は最初のうちは抵抗しているようでしたが、
だんだんと声がか細くなっていくのがわかりました。
そんなやり取りです。
私は何とか奥様を助けようと立ち上がろうとしましたが、
足が動かず・・・。
本当に情けないことです。
そうこうするうちに、奥様が男に連絡先を教えたようで、
『コッチから連絡する』という声が聞こえました。
その後、男は反対側へ去っていったようです。
私はようやく地べたから立ち上がり、
奥様のところへなんとか参りました。
奥様は、微動だにせずそこに立って
男が去っていった方向を睨みつけておいででした。
最初、私が話しかけても耳には入らないようで、
ようやく私に気がつかれると
「中村、帰りますよ」と言い、
何も無かったかのように、お振る舞いになられました。
私の方は動揺していましたが、
気持ちを抑え、なんとか普段どおりにしようとしたのです。
あの後、どうやってお屋敷まで無事運転出来たのか・・・。
今でも不思議です。
奥様には、あのやり取りを私が聞いていたかどうか、
聞かれたことはありません。
私が全く知らないでいるか、
もしかしたら私に聞かれていたことが
わかっているのかもしれません。
それは私を信用して頂いているからかなのですが。
そのあと、私はニュースであの事件を知りました。
タツヤ坊っちゃんの婚約者の方が殺された事件を。
益戸神社で、あの時間に起きたということ・・・。
私は震え上がりました、まさか、この事か、と。
奥様がそんなことを・・・。
私はニュースや新聞を読み漁りましたが、
未だ犯人は捕まっていないらしい。
お屋敷に警察も来ました。
ご家族はもちろん、私も事情聴取とやらを受けました。
奥様はあの朝のことについて嘘をつかれました。
家にいたと。
奥様がそう言われて私も・・・嘘をついたんです。
私はどうしたらいいものか・・・。
家族に話すことも出来ず、
旦那様や坊っちゃん達にお伺いするわけにもいかず、
ずっと悩んでいました。
それでたまたまお屋敷にいらした青木先生に
助けを求めたんです」
青木弁護士が道永さんの肩に優しく手を置いた。
「中村さん、ありがとう。
よく私に相談してくれました。
皆さん、私が中村さんから話を聞いたのは、
仕事のことで福井家にタツオミくんを訪ねて行った時です。
事件が起きた翌々日でした。
益戸神社の事件のことはニュースや
新聞を通して知っていました。
しかしその時は、ただ地元のニュースとして
頭の片隅にあっただけで、
それまではゆきずりか通り魔などの、
失礼ですが、ごくありふれた事件だと思っていたのです。
しかし、その殺された女性がタツヤくんと
お付き合いされていたお嬢さんだと知ったのです。
タツオミくん達から聞いて驚きました。
まさか殺人事件に福井家が関係しているとは・・・。
さらに福井家を辞そうとした時です。
中村さんから呼び止められ、
ハツエさんのあの日のことを聞かされた時は、
本当にビックリしました。
長年弁護士を生業にしていますが、まさかこんなことがと」
青木弁護士はクルリと背を向け、
珈琲メーカーから新しい珈琲を自分のカップに注ぐ。
湯気が立ち昇り、窓を曇らせる。
外のネオンや喧騒はここまで届かない。
「私がまず遺憾に思ったのが、
それまで福井家の誰からも事件のことを
すぐ聞かされていなかったことです。
福井家の警察からの事情聴取などにも、
私は立ち会うために呼ばれませんでした。
・・・私は何のための弁護士か。
ハツエさんに抗議を兼ねて聞いてみると、
被害者はウチとは関係ないからだ、と。
そういう返答でした。
タツオミくんにも聞いてみたが、
事を荒立てたくなかったから、という回答でした。
・・・失望しました。
私はこんなにも信用されていなかったのかと。
私だけだったのか・・・家族のような関係だと
思っていたのは」
戻ってきた青木弁護士が力無く言った。
心なしか、もともと小柄な身体が小さく見えた。
「それから私は中村さんと密かに連絡を取りつつ、
この事件の経緯や状況を調べ始めました。
中村さんから、ハツエさんが脅迫されていると聞き、
福井家の財政を調査したのです。
財政や投資などは私に任されていますので。
すると、ハツエさんの個人口座から200万が二度に
分けて引き出されていることがわかりました。
ハツエさんにとっては、少額にあたるでしょうが、
現金でというのが、らしくありません。
買い物でしたらいつもならカードなどを使っています。
そこで、コレは脅迫してきた人物に渡す為の金だと
考えました。
そこで中村さんにハツエさんを見張るように
お願いしました」
中村さんに話を交代する。
「青木先生から、奥様を監視するように頼まれたときは、
迷いました。
なんだか、奥様やご家族を裏切っているようで・・・。
でも、これがご家族を救う道だと青木先生に説得され、
私は奥様のことをこっそり見張り始めました。
ある日、昼間に奥様がガレージにある旦那様のお車を
こっそり出しているのを見たのです。
その日ご家族は全て出払っておいでで、
お屋敷にいたのは奥様だけでした。
そのまま、旦那様のボルボで外出されるのかと
思ってあせったのですが、
車庫から出したり、少し動かす程度でした。
それで私はおそらく奥様は運転される
練習をされているのだと思いました。
奥様は普段ご自分では運転なさいません。
私は普段、ベンツで朝と夜のタツオミ坊っちゃんの
送り迎えや、会社から関係先への移動、
または奥様のお出かけの送迎をしております。
福井家の近くに住んでいるものですから、
緊急に呼び出されることもありますが、
運転の予定がない時は、自宅で待機しているのです。
私はこの事を青木先生にお知らせしました」
「中村さんからハツエさんが車の練習をしていることを
聞いて、私はハツエさんが自分一人で脅迫者に会いに
行くつもりだと思いました。
そうすると、いくらなんでも
もう中村さんお一人で監視することは不可能です。
そこで、私は信頼している調査会社にハツエさんを
24時間見張るように急遽依頼しました。
逐一報告を受けていたのですが、
ある夜、とうとうハツエさんが不穏な動きをしていると
連絡を受けたのです・・・」
アヤカはゴクリと唾を飲み込んだ。
「夜の8時頃でした。
ハツエさんが香椎のふらんす屋本社から、
タクシーに乗ったと報告を受けたのは。
調査員の二人が車で後をつけ、
益戸方面に向かっているとのことでした。
私はこの事務所にいたのですが、
いても立ってもいられずとりあえず車に乗りました。
意外でした・・・私はご自宅から車で向かうものかと
思っていたからです。
何か急に予定が変わったのかもしれませんね。
とにかくハツエさんはタクシーで北益戸まで行き、
駅前で降りたとのことでした。
ハツエさんはそのまま、本郷寺方面に向かって
歩き出したそうです。
ハツエさんは黒いつば広ハットに、黒のロングコート、
サングラスという装いで、
恐らくは目立たない配慮をしていたと思います。
調査員の一人は車を降り、ハツエさんのあとを付けました。
その後、ハツエさんは駅から300メートル程離れた
住宅街の中にある益戸北之台公園というところに
入って行ったと連絡を受けました。
夜の8時半ごろは、帰宅途中の人が大勢いたようですが、
公園にはほぼ誰もいなかったそうです。
そんな時間には子供は遊んでいないし、
街頭なども薄暗いので、
時々公園を突っ切ろうとする人だけでした。
ハツエさんはしばらく公園で所在なく
ウロウロとしていたそうですが、
間もなくベンチに座りました。
なるべく目立たないようにしていたいようでしたが、
キョロキョロと周りに目を配っていたようです。
しばらくしてハツエさんの電話が鳴り、
男が近づいてきたそうです。
背の高いガタイがいい男で、黒のニット帽を被り、
ダウンジャケット、スエットのようなパンツ、
スニーカーという出で立ちでした。
コチラがその男の写真です」
青木弁護士がテーブルに2枚の写真を置いた。
アヤカ達は身を乗り出してその写真を
食い入るように見つめた。
バレないようにかフラッシュは炊いていないので、
ほぼ色味がない写真だった。
1枚目は手前に小田ハツエ、その向こう側に男が写っていた。
茂みに隠れて撮ったのだろう。
葉っぱや遠目のため顔はよく見えない。
2枚目は別の角度から。
男が一人で歩いているところだ。
コレはどうやら車の中から撮ったらしい。
「ハツエさんは男と会うなり、持っていたバッグから
封筒らしきものを取り出し、男に渡したそうです。
離れていたので、会話はよく聞こえなかったようですが、
『これで終わり』とか『写真』とか『また今度』とか
切れ切れには聞こえたみたいです。
ハツエさんは最初冷静だったみたいですが、
だんだん興奮してきて、怒り出したようです。
男は時々笑いをもらしていたようですが。
その男と接触したのは1分程です。
その後、二人は別れ、ハツエさんは公園を出て
元来た道を戻りだし、
男は駅とは逆の本郷寺方面に歩き出しました。
調査員の一人はそのままハツエさんを尾行し、
家まで無事に着いたのを確認しました。
男は車で待機していたもう一人の調査員が尾行し、
この写真を撮りましたが、
途中男は駐輪場に入り、バイクで出てきたそうですが、
細い道に入り見失ったとのことでした。
男のことは、ハツエさんのその・・・事件のことが
ありますから、調査会社には話していなかったのです。
私が依頼したのは、ハツエさんを尾行して連絡してもらう
ことだけでした。
それでも、その男の写真を手に入れたことは幸運でした。
おかげで色々対策が練ることが出来そうです。
ミナさん、この話が皆様方に聞いて頂き、
ご相談させて頂きたいことです。
・・・ハツエさんのお立場はかなり悪い。
益戸神社のことも男に金を渡したらしいことも、
全て不利な状況です。
私はなんとかしなければとハツエさんと
連絡を取ろうとしましたが。
しかし電話にも出てもらえず、
どうやら私は避けられているようです。
小田さんやタツオミくんやタツヤくんには、
まだ話していません。
脅迫してきた男の素性もわからないままでは
あの写真だけじゃ、
さすがに調査会社でもわからないでしょうね。
そこで昨日、香椎クレセントホテルへ行き、
ハツエさんと何とか話し合おうとしたのですが・・・。
皆さんが見ていたように、相手にされなかったのです。
私・・・は弁護士失格ですね」
そう言うと青木弁護士は額に手を当て、
大きくため息をついた。
アヤカはこの驚くべき話を何とか理解しようとしていた。
どう考えても小田ハツエがユミを殺した犯人だ。
息子のタツヤとの結婚を反対していたこと。
ユミが殺された時間に益戸神社にいたこと。
男との怪しい会話。
どうやら口止めに男に金を渡したこと。
動機も状況もある答えを指している。
しかし・・・。
「こうなったら、私はハツエさんに自首を勧める
つもりです。
まだ警察はハツエさんを疑っていない。
今なら私が付き添い、
ハツエさんをお連れすることができます」
青木弁護士は言った。
「でもまだお義母さんから話を聞いていないんですよね?」
それまで黙って話を聞いていたミナが口を開いた。
「確かに今お話しを聞いてきた限り、
お義母さんはユミちゃんの事件にかなり深く
関わっていると思います。
でもまだお義母さん自身から話を聞いていません。
決めつけるのは早いと思います。
お義母さんは・・・」
ミナは下を向いた。
「お義母さんは確かに厳しい人です。
キツイ物言いもしますし、不快に思うこともありました。
でも自分にも厳しく律している方です。
誇り高い方です。
カッとしても手を出すとは考えられない。
間違っても人を傷つけるようなことはしないと思います」
ミナ・・・。
そう・・・よね。
まだ決めつけるのは早いかもしれない。
確かに小田ハツエの状況は不利だ。
警察だったら容疑者として逮捕してもおかしくない。
「そうよね、ミナ」
アヤカは冷めた珈琲をかまわずすすった。
気づいた青木弁護士が全員の珈琲を入れ替えようと
言ってくれたが、かまわず飲み干す。
「青木さん、今晩私達をよんでくれたのは
このお話をされる為ですよね。
でも、まだ聞いてみただけで検証をしていません。
中村さん、質問させて頂いてもいいでしょうか?」
名指しされた中村さんがびくっと身体を震わせる。
「は、はい!何でしょうか?」
「益戸神社でハツさんと男が話をしていた時、
霧で全く姿をは見えなかったんでしょうか?
どのくらい離れていましたか?」
「そうですね・・・声が聞こえた感じからですが、
私がいた場所から3メートルくらい離れていたと思います。
奥様達の姿は何となく、ぼんやりとしたシルエットだけ
見えていました」
「それは間違いないなく小田ハツエさんでしたか?
他には誰かいませんでしたか?」
「それはもう!
姿は見えずとも奥様の声を間違えるわけがありません。
長年、お仕えしていますから。
それと聞こえてきた声は二人・・・ええ、そうです。
もし、もうひとりいたら、
こちらに歩いてくる足音でわかったと思います」
「では、話している相手に方言などはなかったでしょうか?
以前から益戸神社に通っていたということでしたが、
それはその男に会いに行ってた可能性はありますか?
もしくは知り合いとか」
「それはないと思います。
会話の様子では、偶然行き会ったとしか。
親しげな話し方ではありませんでしたし。
あと、相手の男に方言は無かったですね。
普通の標準語でした」
「では、話の内容以外で何か音とかを聞きませんでしたか?
例えば鈴の音とか」
アヤカが言うと、中村さんがうーんと唸った。
「音・・・音ですか・・・。
うーん・・・あの日は私達の他に
参拝に来ている人はいなかったと思います。
鈴の音も、砂利道を踏む音も聞こえませんでしたから。
遠くで自転車の音は聞こえてはいましたが。
奥様達の話している辺りからは地面を擦る足音と、
何かガシャガシャした音はしていました・・・かね」
その音!!
アヤカの目がパッと輝いた。
「それ、ソレです!!」
思わず大きな声を出してしまった。
「え!?ソレって何のこと?姉さんどうしたの?」
チカがギョッとしてアヤカの顔を見た。
チカだけじゃない、部屋中の視線がアヤカに集まる。
アヤカは自分の顔が赤くなるのがわかった。
「アヤカ?説明して」
ミナは冷静だ。
アヤカは今日の午後、益戸神社で調べたことを皆に話した。
巫女の女性が聞いた金属音のことを。
「それがどうかしたの?姉さん」
チカが訝しげに首をかしげた。
「つまりそのガチャガチャした音は、
小田ハツエさんが話していた相手から発していた
音ってことよね?
中村さん、小田ハツエさんはそんな音がするものを持って
いなかったんですよね?」
「え?ええ・・・あの時は、
奥様は小さなハンドバッグを持っていらっしゃいましたが、
そんな音はしていませんでした」
「じゃあやっぱりその話していた男からの音よね。
神社の鈴の音や銅鑼の音などではなく。
朝からそんな大きな金属音がするような物を
持ち歩くような人は限られるんじゃない?
例えば、例えばですけど・・・
工具を持つような整備士とか、電気工事の人とか、
内装の人とかじゃないかしら?」
「なるほど!
つまり普通のサラリーマンや学生ではないということですね。
しかし、それでも範囲は広いですね・・・」
青木弁護士が言った。
「でも学生でも運動道具とか持ち歩く可能性があるわよ」
とミナ。
「いえ、若奥様。
聞こえた声や口調は10代ではありませんでしたし、
大学生のような、若者ではありませんでした。
もっとその・・・世慣れたというか、
アレは成人した大人の男だと思います」
中村さんが言った。
・・・あれ?
何か引っかかる。
確か、誰かと話していた時に
こんな話があったような・・・。
あーーー!
アヤカは部屋に響き渡るような声を出した。
青木弁護士は熱い珈琲を入れ替えようと
盛っていたコーヒーサーバーを落としそうになり、
中村さんは弾かれたように身体を起こした。
「ど、どしたの?姉さん!大きい声出して」
チカがアヤカの袖を掴んだ。
そうよ!
「ねえ、ミナ、チカ、憶えてない?
ヨウコさん達が調べてくれたこと!
あの日、益戸神社の近くで水道工事があったって!
ほら、近所の、えーと・・・そう!山古志の奥さん!」
アヤカはバッグに飛びつき、
中から"探偵ノート"を取り出した。
パラパラとめくる。
アヤカの手元に皆の目が集中する。
「えーと・・・あった、コレよ!
そうよ、ヨウコさん達が山古志さんに聞いてくれていたのよ!
あの朝、誰か通りかからなかったかって。
その中に近所でやってた水道工事の人がいたと言ってたわ。
ガチャガチャした音は、
そういう工事のひとが持っている道具を入れた
バッグの音よ!!」
「見せて!・・・ホントだ!書いてある!
それだったらそういう音がするバッグ?袋?を
持っていても自然よね!
格好もきっと作業着とかだし!」
チカがアヤカの手元を覗き込んだ。
「つまり、小田ハツエさんと一緒にいた男は、
偶然通りかかった工事の人って可能性が高いのね」
アヤカが言った。
青木弁護士が大きくビザを叩いた。
「なるほど!
この写真に写っている人物もガタイがいい男です。
身体を使っているような仕事をしているような。
確かに条件には合います!
鈴井さんがおっしゃっていることは可能性が高い。
市に問い合わせれば、
どこの会社が工事を請け負っているかわかるでしょう。
本来は警察に知らせるべきですが、
できれば先にその男に話を聞いてみたいですね。
その時の状況がわかりますし、
そうすれば弁護の時にも役立ちます」
「そうすればお義母さんからも
話が聞きやすくなるかしら?」
ミナが言った。
「そうですね、その脅迫男のことを持ち出せば、
ハツエさんも話してくれるでしょう。
・・・例え、罪を犯したとしても、自首のほうが
少しは印象がいいでしょうから・・・」
アヤカは複雑な思いだった。
ユミを殺害した犯人は憎い。
しかしそれがミナの元姑となると、
せめて自ら罪を認めて自首して欲しかった。
「いや〜、まさかこんな話の展開になるとは。
ミナさん達にお話して良かったです。
本当に、私だけではどうしようかと考えていました。
しかし、中村さんの話ではハツエさんは
ワザとではないと言っていたということですし、
その男から話を聞けば故意ではない事故という
可能性もある。
男は探し出せると思います。
ハツエさんとの金のやり取りの時、
バイクで来ていて駐輪場で止めていたということは、
近くに住んでいる可能性が高い。
それこそ本郷寺あたりかもしれません。
何としても探し出さなくては」
アレ?
またなんか引っかかる。
この感覚は、前にもあった。
そう、以前の事件のときにもあった、
頭の中の情報のピースがぐるぐるぐるぐる回って、
ジグソーパズルのように
正しい場所に着地する感じ。
モヤモヤした霧が取り払われるように。
新しいビジョンを創り出す。
あっ・・・・。
アヤカは突然立ち上がった。
思い出した!!
「今度はどうしたの?姉さん!!
顔が・・・青いけど・・・」
頭の上から下にザーーっと血が落ちてくる音が
聞こえるようだった。
待って、待って・・・まさか、そんな。
「どうしよう!」
「何が?アヤカ・・・どうしたの?貧血?」
ミナが立ち上がり、アヤカの側に立った。
「・・・ミナ、チカ、二人に話していないことがあるの。
本郷寺とお金で思い出したの!
今、久保刑事が調べている事件!
そうよ!当てはまる!!
まさか、そんな・・・じゃあ、あれはどういうことなの!?」
「落ち着いてよ、姉さん!!ちゃんと話して!」
チカがアヤカを揺さぶった。
「う、うん。
この間久保さんが来た時、久保刑事は一之瀬さんとは
違う事件を調べていると言っていたの。
それは本郷寺のアパートで土木作業員が殺されたという
事件だったわ」
「本郷寺!?殺された!?
・・・ああ、待ってください・・・。
そう、そんな事件がありましたね。
小さな記事でしたが・・・強盗事件でしたか?」
青木弁護士が口を挟んだ。
「そうです!
本郷寺のアパートで土木作業員が
首を締められて殺されているのが発見されました。
確かユミちゃんが殺された後の事件です。
しかも現金100万円近くを持っていた可能性があり、
それを盗られています。
・・・あ、でもハツエさんが引き出した金額は
200万でしたっけ、青木さん」
「いや、彼女が全額渡したとは限りません。
脅迫してくるヤツは、何度も強請ってきますから。
ハツエさんは男から言われて
100万円だけ渡した可能性があります。
まさか・・・その殺された男が?」
「おそらく、そうです。
とすれば、その土木作業員を殺害する動機が
ハツエさんにはある。
ですが、その刑事さんによれば、
その男は誰かに絞め殺されたということです。
女性ではそんなガタイのいい男の首をしめるのは、
体力的に無理、犯人は男だということです。
しかも単独犯らしいです。
ということはハツエさんじゃない」
「なんということだ・・・」
青木弁護士は髪を掻きむしらんばかりだった。
「・・・やはり早急にハツエさんから話を聞かなければ。
もう一つの事件・・もしそれが関わってくるのならば、
私一人では抱えられない。
明日、福井家に参ります。
アポを取ると断られそうですから、
朝一に突然伺うつもりです。
ハツエさんから話を聞いてから、警察に行こうと思います。
ミナさん・・・」
話しかけられたミナは青木弁護士を見やった。
「こんなことをお願いするのは心苦しいのですが、
ミナさん、それに鈴井さんのご姉妹方、
お願いです、どうか私と同行して頂けませんか?」
話し合いを終え、ビルを出たアヤカ、ミナ、チカは
凍える冬空の下に立っていた。
青木弁護士とは明日の朝、
福井家の前に集合する約束をした。
中村氏も同席する。
小田ハツエと話し、真実を聞き出すこと。
こうなってはもう避けられない。
ミナも立ち会うことを承知した。
その代わり、青木弁護士とはその話し合いのあと、
警察を呼ぶことを約束していた。
小田ハツエを引き渡すこと。
それには、二重の意味があった。
松田ユミを殺害したのは小田ハツエかもしれない。
しかし、あの本郷寺の男を殺したのは男性だ。
小田ハツエではない。
しかし、アヤカ達の推理が当たっているとすれば、
小田ハツエはもしかしたら、その男に狙われるかも
しれないのだ。
小田ハツエの安全確保。
とにかく明日だ。
明日、すべてではないが、謎の一部が明かされるはずだ。
今はそれを祈ろう。
そしてアヤカには全く違う不安があった。
ささいなことかもしれない。
考え過ぎなのかもしれない。
青木弁護士の部屋に飾られていた花が、
死体となって発見されたユミの周りに散乱していた
ユリと同じだったことを。