第四章
朝8時過ぎ、アヤカとミナが忙しく開店準備をする中、チカが出勤してきた。
今朝は夫のミキヒコと姪のアンも一緒だった。
土曜日はミキヒコの会社もアンの幼稚園もお休み。
そういうわけで、カフェ・ヴェルデのいつもの朝ミーティングにこの二人も特別参加している。
「これを見てもらえないかな」
実は義弟が見せたいものがあるというのだ。
ネイビーの暖かそうなクルーネックセーターに首元からストライプシャツの襟をのぞかせ、
茶色のコーデュロイのパンツに包まれた足をテーブルの下で組んでいる。
足元はティンバーランドのアウトドアタイプのブーツ、ソファにはネイビーのピーコートと
グレーのチェックのマフラーがかかっていた。
ちなみにこのマフラーはクリスマスにチカとアンの二人で選んだものらしい。
2つ繋げたテーブルには真ん中に義弟のノートパソコン、
そして4人分の珈琲と本日のオススメ”レッド・ベルベットケーキ”が乗っていた。
レッドベルベットケーキとは、
赤いスポンジケーキに白いチーズクリームを乗せたアメリカではポピュラーなケーキだ。
ちなみに赤いケーキは食紅で色を付けたもので、バレンタイン時期にはぴったりな色合い。
赤と白というインパクト抜群のレッド・ベルベットケーキはインスタグラムにも映えそうだ。
大人たちが頭を付き合わせている横で、
アンは小さな体をソファに沈ませて大人しく絵本を読んでいる。
可愛らしいポンポンが付いた白の厚手のセーターに、
同じく白のニットスカートを合わせ、
赤と黒のチェックのタイツと暖かそうなボア素材の
茶色のブーツ。
これにピンクのダウンコートを合わせていた。
防寒もバッチリだし、さすがファッションセンスがいいチカの見立て、叔母バカなのもあるだろうがとても可愛らしい。
アンの目の前には小さいマグに入ったホットミルクが置いてある。
「ママとパパはオシゴトなんでしょ?タンテイの。
アンもやりたいのに、まだタンテイのオシゴトは早いってパパが言うんだもん。アン、つまんない」
頬をぷくっと膨らませたアンに、
チカが笑いながら小さめに切ったレッド・ベルベットケーキを仏頂面のアンに手渡す。
「アンがもう少し大人になったらね。
ほら、ミナちゃんのケーキ食べたら?」
途端に笑顔になるアン。
「じゃあ、小学校に入ったらいい?」
クリームチーズを唇の周りにつけながら、
レッド・ベルベットケーキを頬張るアン。
するとミキヒコも笑う。
「そうだね、あとニンジンも食べられるようになったらかな?」
アヤカは思わず目を細めた。
微笑ましい理想的な家族の絵だ。
正直ちょっぴり羨ましい。
一人で自由きままに生きていくのもいい、
誰かと一緒にパートナーとして暮らすのもいい。
そして・・・結婚して家族を持つのもいい。
女性の多様な生き方を認めてくれる今の時代に
アヤカは感謝している。
では自分はどうしたいのだろうか・・・それがまだわからないのだ。
35歳のオトナでもわからないものはある。
好きなヒトはいる・・・恋愛はしたい。
でも・・・結婚かあ。
それを考えるとため息とともに、
店のことで頭がいっぱいの自分に呆れてしまう。
このカフェ・ヴェルデはアヤカの宝物だ。
出版社で長年働いたささやかな財産を使い、
店の構想からメニューの開発、全てを一から作り上げた。
第一にまずこの店を、従業員の生活を守ること、
そして継続して、
出来ればもっともっと繁盛するようにすること。
こんなにたくさんのことを考えながら、
結婚生活をちゃんと送れるのだろうか。
でもちゃんと?
ちゃんとって何?
自分はそんなに器用な性格ではない・・・と思う。
仕事も毎日の生活もうまく回すことができるのだろうか。
結局どっちも中途半端になって、
どっちもダメになってしまうかもしれない。
私ももうすぐ36才・・・そろそろ答えを出さなくてはならないのかもしれない。
「ホラ、これを見てみて」
アヤカは義弟の声で妄想からハッと我に返った。
パソコン画面にはあるリストが表示されていた。
それはここ1年くらいの
益戸付近に出没する不審者情報だった。
ITエンジニアの義弟が昨夜、
益戸と隣りの香椎あたりの情報を集めてくれたのだ。
「昨日、チカちゃんから話を聞いてね、
僕なりに調べてみたんだ。そのストーカーについて。
・・・このあたりに出没した不審者情報はかなり多かった。
20代から60代までの男が多いらしい・・・年齢幅が広いね。
情報元はネットの書き込みや警察の不審者情報だけど、
その中で今回の事件に当てはまりそうなものをピックアップしてみたんだ。すると・・・」
ミキヒコが指で示したのはある不審者情報だった。
声に出して義弟が読み上げる。
「20代から30代のショートカットの髪で背が小さく色白の女性が被害者という事件が何件かあったみたいだ。
容疑者は男性で20代後半から40代前半の男と思われる。
被害者達は後をつけられたような気がして・・・肩を捕まれて足を払われて倒されるというのが共通している。
そこから考えて犯人は柔道などの格闘技をやっていたのかもしれないということだ。
それから女性達は・・・その・・・性的被害にあった。
伊戸川の土手沿いや、森や公園などに連れ込まれたらしい。
証言によると犯人の背は高くないようで・・・中肉中背でマスクなどをしていたらしい。
襲われた時間帯はバラバラ、夕方だったというのもあれば、朝早い出勤途中とか真夜中というのも。
同一人物かどうかはわからないが、
もしかしたら犯人は
わりと自由が利く仕事をしているか、学生かもしれない」
しまった・・・昨日のことをチカに話すのを忘れていた。
そう、最大の情報を。
アヤカは義弟に手を伸ばした。
「あ、あのね実は・・・」
しかしミキヒコは滔滔と報告を続けた。
「チカちゃんから聞いた今回の事件の被害者の容姿に当てはまると思うんだ。
犯人はストーカーらしいと聞いたし、
だからもしかしたらこれと同じ人物かなと思って」
せっかく調べてくれたのに悪いことをした。
「ごめん!あのね・・・」
アヤカは大声を出しミキヒコの話をストップさせ、
昨日久保刑事から教えてもらったユミの写真のことを話した。
そう、ストーカーは女性だったということを。
義弟はあからさまにがっかりした様子だった。
あまりにもかわいそうなのでアヤカが聞いてみる。
「ねえ、女性のストーカーはいないの?」
すると渋々といった感じで義弟がまたパソコンのキー叩いた。
「女性・・・女性ねえ・・・
そういうのはどちらかというと、
昔付き合っていた男性に未練があって
っていうのが多いらしい。
要するに不特定多数じゃなく、
知り合いってパターンらしいね。
あとは女同士の争い‥男性を取り合っているとか
ケンカしている女友達だったとか
彼氏を盗られた恨みとか。
あとは・・・浮気や不倫を疑って後を付けただとか・・・」
するとチカが興奮したように声を上げる。
「そっか!ねえ、もしかしてさっき言ってた銀行のお嬢さんじゃないの?その写真の女って」
アヤカはため息をついた。
「残念。実は昨日家に帰ったあとネットで調べてみたの。
その高田ユリさんのお父さんが勤める千花銀行のパーティーの記事があって家族写真が載ってた。
ユミちゃんが撮った写真の女性はもっと背が高くてスラッとしてたし、顔立ちが大分違ったわ」
「ホントだ・・・」
ミキヒコが素早くパソコンキーを叩き、ネットから高田ユリの写真を抽出していた。
みんなで画面を覗き込む。
高田ユリは身長が低くふっくらした体型で長い黒髪を持ち、可愛らしい印象だった。
髪型や体型はいくらでも変えられるけど、くりっとした目や身長まではそうそう変えられないだろう。
あの謎の女性エックスは背が高く、写真ではハッキリとはしていないが、きりっとした眉毛と切れ長の目をしていた。
チカが肩を落とす。
「なんだガッカリ。ユミちゃんはこっちで女友達もいないって言ってたし・・・
まさかユミちゃんに限って浮気はないわよね。
その福井さん以外の男性と二股していてその彼女につけられていたとか」
う~ん、まさかあのユミちゃんに限ってね。
ん?
でも・・・待って?
もしかしたら・・・もう一つの可能性に行き当たった。
「ねえ、浮気調査ではないけど、例えばその銀行のお嬢さんが
興信所とか探偵を雇ってユミちゃんを調べていたとしたら・・・どう?
ほら、福井タツヤさんから恋人がいるって聞かされたでしょう?」
「なるほど!恋のライバルのことを調べるってことね!
銀行のお嬢さんだったらお金はありそうだし!」
チカがパンっと両手を合わせた。
それに合わせて意気消沈していた義弟も復活。
「そうか・・・その可能性は大いにあるね!
探偵ってことか。
でもそういった調査する所とかだと調査員は顔出しは禁止されているはずだよね。
仕事に差し支えるし。
ネットで興信所のホームページを調べても顔は出ていないと思う・・・確認しようがないか・・・。
まあ一応調べてみるけど」
なるほど、確かに。
「そうね。一之瀬さんに聞いてみようかなと思う」
「でもそういう興信所とかって守秘義務とかあって警察でも情報提供とかしないみたいじゃない?」
ミナが言った。
「そうなの?じゃあ難しいかしら・・・。
あと私達はどの角度から調べればいいかしら。
グリーンフラワーマーケットからは事情を聞いたし、
ユミちゃんの実家は関係なさそうだし、
恋人の福井さんも事件には関係無かった。
ヨウコさんや益戸神社の神主さんからも話を聞いたし・・・あと怪しいのは高田ユリさんだけよね」
「その銀行のお嬢さんにはどうやって近づいたらいいかしら?」
チカが言うとう~~んと全員が悩みこむ。
その時沈黙を貫いていたミナが口を開いた。
「・・・もう一つ可能性がある」
え?とみんなの視線がミナに集中した。
「・・・お義母さんよ」
「お義母さん?」
アヤカがリピートするとミナがため息をついた。
「そう。その銀行のお嬢さんも怪しそうだけど、
私の元義母・・・小田ハツエもやりかねない人の。
もし・・・自分の息子が自分の選んだのと違う女性と結婚するとわかったら・・・きっと妨害してくる。
興信所に依頼してもおかしくない。
だって・・・長男は自分の意見を聞かないで結婚して離婚することになったんだもの。慎重にならざるおえない」
「ねえ・・・ミナ」
アヤカがずっと不安に思っていたことを口にする。
「もし・・・もしもよ?
そのお義母さんだけど・・・息子が言うことを聞かないでユミちゃんと強硬的に結婚しようとしたら・・・殺人してまで止めようとする人?」
「ありうるわね」
考える間もなく元嫁がきっぱりと断言した。
そのあとはあーだこーだといろいろな意見が出たが、
これからどうやって捜査を進めていこうかとアヤカは悩んでいた。
あとはどうすればいい?
やれるだけのことはやったと思う。警察が新発見をするのを待つしかないのかしら・・・。
するとチカが妙案を思いつく。
それはアヤカとしては避けたいアイデアだったが。
「ねえ、母さんに聞いてみたら?
ほら、母さんって一応歯科医院の経営者じゃない?
父さんはスウェーデンに行きっぱなしだから。
母さんはパーティ好きだからもしかしたらそのミナちゃんの元お義母さんにも会ったことがあるかもしれない。」
うーん・・・それはそうかもしれない。
しかしそれはまたウチの母を事件に巻き込むことになる。
心配だから・・・というよりも母が暴走する可能性のほうが高いのであまり喋りたくないのだ。
チカの案に義弟の顔が明るくなる。
「そうだね。もしかしたら知りあいかもしれないね。聞いてみてもいいかも」
・・・他に何か手はないの?
ミナの顔を見ると困ったような顔をしている。
うーんとそれぞれが考えに没頭しているとアンがぽつりと言った。
「ねえ、みんなヘンな顔してどうしたの?
ほら、ミナちゃんのケーキ食べなよ。
美味しいよ?食べれば元気でるよ」
アンのレッド・ベルベッドケーキの皿を押しやると全員が笑った。
アンが目をぱちくりさせている。
私達、そんなに難しい顔をしていたかしら?
大人は何やってるのってアンは考えているに違いない。
これじゃダメよね。
これからお客さんを迎えるカフェとしてこんな顔のままじゃいけない。
だってここは日常の疲れやいやなことを忘れて
美味しいお菓子と珈琲で
リフレッシュして頂くところだもの。
接客に響くようなことはしてはならない。
隣にいたチカがぎゅっとアンを抱きしめた。
「そうねアン。私たちも、このケーキが必要みたいね」
土曜日のカフェ・ヴェルデは一日中忙しい。
朝から休日の一日をのんびり楽しもうと
開店待ちをするお客様もいるぐらいだ。
「おはようございます。本日のオススメはこちらのレッド・ベルベットケーキです」
「ツナメルトキッシュですね?はい、こちらはツナとブロッコリーの・・・」
アヤカとチカはフル回転で動き続け、
裏の厨房でもミナが八面六臂のごとく、
オーブンと調理台を往復している。
キッシュは焼いても焼いても次々と無くなっていく。
ここで食べる分プラス、
テイクアウトされるお客様も多いからだ。
あれ?
もしかして犯人はウチのキッシュファンとか?
キッシュを詰めた箱にはカフェ・ヴェルデの
店名が書かれている。
まさかね?
「はい、これ焼きたてよ!あと4枚焼くから!」
「サンキュ、ミナ!」
熱々を受け取りケーキサーバーに入れる。
まさかこれほどまでに人気が出るとは思わなかった。
これだと別の惣菜メニューも考えたほうがいいかも・・・。
義弟とアンはすでに帰ってしまっていた。
これから20世紀の森に遊びに行くそうだ。
森には広大な人口湖が広がっていて、
冬にはカモなどの渡り鳥が訪れるそうな。
「寒いけど景色はキレイだし、アンに野鳥を見せてやろうと思って」
「鳥さん、鳥さん!ねえパパ、白鳥さんも来るかな~~」
「どうかな~~来てるといいね」
仲良し父娘が退場すると、
見送るチカが少し寂しそうな顔をした。
飲食店で働く限り、土日は稼ぎ時だ。
カフェ・ヴェルデは日曜日を休みにしているが、
まだ幼い娘がいるチカにはつらいことかもしれない。
そろそろアルバイトを雇うことを、
考えなくてはいけない時期かもしれない。
店も軌道に乗っているし、
毎日とはいわないが週3日ほど働いてくれるヒトを
探したほうがいいかもしれない。
今のところこの三人のメンバーで、
ケガや長期の病気もなくきているが、
誰がいつどうなるかわからない。
そんなことを考えていると、また入口のベルが鳴った。
アヤカが振り向くとそこには三つ揃えのダークグレーのスーツを着た男性が立っていた。
歳は30代後半か40代、少し茶色がかった髪をぴっちりと七三に分け、
高級そうな黒のコートとブルーのストライプのマフラーを腕にかけていた。
「いらっしゃいませ。何になさいますか?」
カウンター越しにアヤカが声をかけた。
すると男性は店内をキョロキョロと見回しながら
低い声で言った。
「すいません、あの、平原さんはいらっしゃいますか?」
ミナ?
「ええ、おりますが・・・あの・・・お名前を伺っても?」
「私・・・福井タツオミと申します」
午前11時半だった。
アヤカは振り向いて背後の厨房に続く窓からミナを呼んだ。
「ミナ!来て!」
「なに?今パイを伸ばしてて・・・」
「いいから!今店にアンタの元ダンナが・・」
突然のことにアヤカはパニックを起こしていた。
乱暴な言葉使いになってしまったのは失礼。
反対にどういう状況なのかがわかってもミナは冷静だった。
「・・・そう。・・・ごめん、じゃあキッシュのパイを延ばすのを代わってくれる?
もう中身は作ってあるから」
そう言ってきちんと手を洗い、
ゆっくりとコック帽とシェフコートを脱いで
厨房のドアから出てきた。
すると元夫婦が入口で面と向かい合うことになった。
「ミナ・・・」
「・・・久しぶりね」
12時。
ミナの元夫は帰った。
およそ30分、奥の席で二人は顔を突き合わせて話していたようだ。
珈琲を置いてからアヤカは厨房に入り、
チカはカウンターとフロアを一人で動き回っていたので、
二人でどんな話をしたのかはわからない。
しかしミナの顔はなぜか穏やかだ。
そういう時のミナが危険な状態なのは幼馴染としてわかっている。
ミナにどういうことを話し合っていたのか聞いてみたい気もするけど、夫婦のことにしかも離婚した夫婦の会話をそう簡単に聞いてはいけない気がする。
「・・・来ると思ってたの」
閉店後、アヤカ、ミナ、チカの三人が揃って控え室であるカフェ・ヴェルデの2階で珈琲を飲んでいた。
いつもなら4時で店をあがるチカだが、今日は最後まで残っていた。
といっても7時には家族が車で迎えにくる。
打ち合わせのあと、三人揃ってファミレスに夜ご飯を食べに行くそうだ。
急いでやらなきゃいけないことが色々あった。
まずは来週に控えた「バレンタイン・アフタヌーンティ」の打ち合わせ。
これが最優先だった。
すでにミナはアフタヌーンティに出すメニューの試作を重ねていた。
アヤカたちも試食し終わっていたが、たくさんの候補の中からテーマに沿ったメニュー構成を考えなければ
ならなかった。
最初から最後までお客様に満足頂けるように完璧なコースを。
「紅茶は何にするの?」とチカ。
「チョコレート風味の紅茶を軸に考えているの。あとはチョコレートと合うように、ベリー系の紅茶もいくつか候補にしているわ」とアヤカ。
「チーズメニューも多いけど、それに合わせるのは?」メニュー表を見ながらミナが言う。
「ウバ茶やラプサン・スーチョンなんかが合うかと思って。ほら、スモーキーな風味がぴったりだし。
お土産の手配は?チカ?」とアヤカ。
「もう済んでるよ。火曜日に届く予定」とチカが言った。
事件は気になるけど、まずは本業を優先。
アフタヌーン・ティはカフェ・ヴェルデの名物というかイベントになりつつある。
毎日来て頂けるお客様も大切だけど、
アフタヌーンティに興味を持って初めて店に足を運んで来て下さる方もいる。
そこからまたリピーターになってくれれば・・・。
カフェ・ヴェルデは開店以来、順調に売り上げを上げている。
しかし、こうやって”攻め”の姿勢を忘れてはいけないとアヤカは考えている。
現状に甘んじていてはいけない。
常に新しい店ができては潰れている飲食業界で、
5年続けられるのは10%以下だと言われている。
長く出版界にいたアヤカはそういう店を多く見てきた。
泣く泣く閉店に追い込まれていった店も、人も。
自分の大切であっただろう店が無くなる悲しさ、虚しさ。
経営者としてそれは身を切られるほどの辛さだろうし、
一緒に頑張ってきたスタッフも同じ。
アヤカはカフェ・ヴェルデのオーナーとして従業員の生活を守る義務がある。
大変なことも多々あるが、
それを超えて夢であった店の経営は楽しいし、
アフタヌーンティは3人にとっても楽しみなイベントだ。
それにアイデアをお互い出し合い、
新しい味を創作し続けるのはカフェ・ヴェルデを
更に進化させる原動力になるとアヤカは考えている。
アフタヌーンティの打ち合わせが終わり、
アヤカとチカの姉妹はチラチラとミナに視線を送った。
あのことを聞きたい・・・でも聞いてもいいものかどうか。
そう、昼に突然現れたミナの元夫との話とは何だったのだろうか。
気になる・・・でも親しい仲とはいえ踏み込んでいいのか・・・。
その視線に気づいたらしいミナがゆっくりと口を開いた。
「聞きたいわよね、二人とも。・・・大丈夫よ、隠すことはないから。それに報告しなきゃいけないこともある。
・・・来るとは思っていたのよ。
昨日タツヤさんが来たしね。だから覚悟はしてた。
だけど、まさか店に来るとは思わなかった」
それが先ほどのセリフの続きだった。
「電話してくるのか・・・携帯番号は変えていないしね、
家に来るかと思ってた。
私に避けられるかと思ってココに来たんですって」
ミナが笑みを浮かべた。しかしそれはどこか弱々しい微笑みだった。
アヤカとチカは黙って頷いた。
「・・・まあ、アレからどうしてたかって話が大体だったけど。
あちらの会社はうまくいっているみたいね。
彼が社長になってから通販も始めたみたいだし、
ローカルだけどテレビCMもしてるし。
彼、少し変わったみたいだった。
社長に就いたからかしら、顔つきが変わったし前よりも自信がついたのか喋り方も堂々としてた」
そう言って珈琲マグをテーブルに置いた。
「ちょっと見直したかな・・・ってそんなことを聞きたいんじゃないわよね」
イエイエ聞きたいです・・・とは言えない。
ミナの顔が真剣になった。
「事件について色々教えに来てくれたの。
ユミちゃんのことはタツオミさんも以前から知ってたみたいよ。タツヤさんから紹介されて2回ほど会ったことがあるらしいわ。ユミちゃんの印象はタツヤさんよりも年下なのにしっかりしたお嬢さんだと思ったって。結婚の相談もされていたらしいわ」
「ねえ、ミナちゃんの元旦那さんはユミちゃん達の結婚は賛成だったの?」
チカが聞く。
「最初は反対だったらしいわよ。
・・・ほら、私とのことがあったでしょ?
お義母さんに反対されて強行的に結婚したけど、
私達うまくいかなかった。
でも、ユミちゃんの人柄を知って
今度は自分が社長になったし、
自分とタツヤさんの二人でユミちゃんの味方になれば
大丈夫だって思ってたらしいわ」
「でもさー、そうやって息子が二人とも
ユミちゃんの側につくと、
結婚してもますます辛く当てられたんじゃないかなー。
ほら、今まで大事に育てた息子が味方じゃなくなって
妻寄りになっちゃうじゃない・・・。
オトコってそういうトコわかってないよね~~」
さすが唯一の既婚者のチカ。
言う言葉が・・・重い。
でも、そうかも。
息子を取られたような気になるのかも。
「でも、弟のタツヤさんが会社を辞めるのは
反対だったそうよ。
兄弟二人でもっと事業を広げたいと
色々進めていたんだって。
ほら、フランスにタツヤさんが行ってたでしょう?
あれも新しい商品開発や新しい素材なんかを
発掘するためだったって。
タツヤさんが辞めなくていいように
タツオミさんもなんとかしようとしていたらしいんだけど・・・」
そう言ってミナは大きなため息をついた。
ミナの元旦那はユミの味方だったらしい。
でもそれってユミが亡くたった今となったから
言えることなんじゃないの?
もし、弟とユミが結婚しようとしていたのを
心の中では反対していたのかも。
ううん、実はユミには直接結婚反対を
言っていたのかもしれないし。
それで実力行使した可能性はある。
「実はね、昨日の朝警察が福井家に来たんですって。
‥お義母さんはヒステリーを起こす寸前だったらしいわよ。なんでウチに警察が来るのかって。
無関係なのにって。
全員のアリバイを確認しに来たらしいの。
ユミちゃんが殺害されたっていう時間ね。
一昨日の9時前後のことを聞かれたそうよ」
「で、どうだったの?」
興味津々のチカが身体を乗り出す。
「ええ、一昨日の朝は家族全員が家にいたって証言したらしいわ。
ただし、みんなアリバイがちょっとあやふやみたい」
「どういうこと?」
チカが顔をしかめる。
「福井家は香椎市の南香椎にあって、
私は結婚した時タツオミさんと近くのマンションに
住んでいたから、何度か伺ったくらいだけど、
そうね・・・10LDKくらいかしら、大きなお屋敷なの。庭も広くてね、そこに今はタツオミさん、お義母さんのハツエさん、新しく再婚した小田さんの三人が住んでいるの。
タツヤさんは別のところに住んでいるそうよ。
香椎の駅近くって言ってたかしら。
あと家族じゃないけどお手伝いさんと運転手さんが 通いで来ているわ」
「すごい!運転手さんがいるんだ!お金持ちは違うわね~」
チカが興奮しながら言った。
「そう。家には今もかしら・・・当事ベンツがあって、
タツオミさんが会社に行くときとか、
お義母さんが出かけるときに運転してもらうの。
その他に車は二台あったと思うけど、
・・・でも私はお義母さんが車を運転している姿は
見たことがないわ。
免許を持っているかどうかも・・・。
お手伝いさんは近所から通ってて、
朝7時に来て朝食の用意をしてくれるそうよ。
そのあと掃除や洗濯なんかもして仕事は午前だけみたいだけど、まあそれは今はいいわね。
で、お手伝いさんいわく、
いつもだと家族は8時頃に食堂がある階下に降りてくるんだけど、
その朝に限って全員降りて来なかったんですって。
タツオミさんは前日若手の社長達の集まりがあって、
お酒を飲んで夜中に帰ってきたので
起きられなくて部屋で寝てたって。
タツオミさんが帰ってきたのは家族の誰も
知らなかったみたい。
それで下に降りてきたのは11時頃」
「ふんふん、それから?」
チカってば、目を輝かせちゃって!
「お義母さんは10時前に1階に降りてきたそうよ。旦那さんの証言だけど・・・寝室は別だそうで9時半に部屋を覗いたらまだ寝ていたそうよ。頭痛がしてもう少し寝てるって言ったって」
「じゃあ、その新しい旦那さんは?
あ、ちなみに仕事は何してるの?
やっぱりふらんす屋関係?」
「絵描きさんですって。
お義母さんとの出会いはフランスだったみたい。
そこで恋に落ちて‥映画みたいね、それから日本で結婚。
たまに個展を開いたりしてそこそこ売れているらしいわよ。
小田さんは前日夜遅くまで仕事してて寝坊したらしいの。
食堂に降りて来た時は、家族の誰もいなかったって。それで朝食の用意をお願いしたくてお手伝いさんを呼んだのが9時半過ぎ。
これはお手伝いさんの証言を取ったらしいわ」
「じゃあ運転手さんは?いつも家にいるの?」
「確か毎朝10時に家に来るのよ。そのあとタツオミさんを乗せて会社に出勤するから。
だからその日もそうじゃない?」
「まあ事件にお手伝いさんも運転手さんも関係ないか・・・姉さんはどう思う?
誰が怪しいと思う?」
それまでずっと沈黙していたアヤカが口を開けた。
「困るのは三人とも9時の確実なアリバイが無いってことよね。
ミナの元旦那さんは自分の部屋で寝てたってことだけど、
こっそり家を抜け出して益戸神社まで
行って帰ることができる。
運転はできる?あ、じゃあ出来るのね。
これは元お姑さんも同じね。
もし、免許を持っていればだけど、
益戸神社まで一人で行って帰って来られる。
動機は充分だしね。
新しい旦那さんは9時半にお手伝いさんと顔を合わせてる。
益戸神社から南香椎まで車で約30分くらいかしら・・・ギリギリなんとか帰ってこれそうだけど・・・ユミちゃんを殺す理由はなさそうね」
「えー!でもミナちゃんの元旦那さんにもないでしょ?」
チカが頭上の時計を見ながら言う。
そろそろお迎えの時間だ。
アヤカが首を横に振る。
「・・・ミナには悪いけど、
弟のタツヤさんとユミちゃんとの結婚を
賛成していたってことだけど、心の中まではわからないわ。本当は反対していたのかもしれない。
弟が会社を辞めるとなったら、
それがユミちゃんを殺す動機になるかもしれないわ」
テレビから聞こえてくる朝のニュースを流し聞きながらアヤカは出かける用意をしていた。
チャンネルは地元のローカルに合わせてある。
「・・・・七つ崎で玉突き事故・・・・死傷者・・・・・二十世紀の森・・・フェス・・・
益戸・・・男性作業員・・・・不明・・・・」
あれから数日が過ぎ、事件の進展はないままだった。
神聖な神社でうら若い女性が殺されるという
センセーショナルな事件だったが、
人の噂も何日やらというわけで、
地元の動揺も落ち着きを取り戻しつつあった。
今朝は昨日の残りのキッシュをレンジで温め、
キャンベルのトマトクリームスープ、
カフェオレをテレビ前のローテーブルに運んだ。
ホントならこれにサラダかフルーツを付ければ
完璧なんだけどな。
しかしここ最近カフェ・ヴェルデでも毎日が忙しく、
昨日はスーパーに寄る元気もなかった。
そして事件のことは頭のスミにいつもありつつも
実際調査する時間がないまま、
もやもやとした日々だけが続いている。
レンジでチンした火傷しそうな熱いカフェオレを
ゴクリと飲んで、今日一日に立ち向かう気力を奮い起こす。
今日は待ちに待った"バレンタイン・アフタヌーンティ"の
初日だ。
木曜日のこれから3日間、さらにカフェ・ヴェルデはてんやわんやになる。
事件は気になるけど今日はこれが先決。
あれから一之瀬さんからも久保さんからの訪問もない。
新しい情報がないままだ。
捜査が難航しているのか、証拠がないのか。
せめて近況報告でもしてくれたらいいのに。
「・・・本郷寺・・・なお・・・・・・」食事が終わりカチャカチャと食器を流し台に運び、
流し聞きしていたテレビのスイッチを消した。
アヤカは手持ちで一番暖かいダウンコートを着込み、
お気に入りのバッグを掴んだ。
とにかく今は本業(?)に集中よ。
気持ちを引き締めて、
寒空が待ち受ける外へのドアを開けた。
「ミナ、またキッシュが完売よ!ストックはある!?」
「もちろん。はい、これ出すわよ!
私はこれからアフタヌーンティの仕上げに入るから」
「姉さん!空いたテーブルからリザーブ札を置くからね!」
朝から通常業務の大量のお菓子を焼き、
加えてアフタヌーンティの準備もしなければならない。
午前中は戦場のような忙しさで目が回りそうだった。
そして時がきた。
午後2時前になると、
アフタヌーンティの予約者たちがチラホラと現れ始めた。
今回のバレンタイン・アフタヌーンティはチョコレートとチーズがメイン。
テーブルセッティングには赤と茶色とベージュのものを中心に揃えた。
テーブルにはベージュのテーブルクロス、一人一人の席の前には赤いマット、
その上に白い大きな平皿を置き、ブラウンの膝掛けナプキンを縦長に丸め、赤いリボンで結ぶ。
右手にはガラスのコップと白い紅茶カップが置かれている。
そしてテーブルの真ん中には赤いティーローズ。
ミニサイズのバラは可憐な美しさを放っていた。
アヤカの気のせいかもしれないが、アフタヌーンティに来て頂いているお客様はどことなくいつもより
オシャレにして来られる方が多い。
それは老若男女にいえることだった。
今回のテーマに沿ってか、
いつもよりも男女ペアのお客様が増えている。
男性から女性へのアフタヌーンティのプレゼントといった趣向のお客様も多いようだ。
ちょっと羨ましく思うアヤカがだったが、仕事、仕事!
午後2時、本日の予約者が全員揃いバレンタイン・アフタヌーンティの開幕。
アヤカとチカがまず、ファーストティーをポットを持って
各テーブルを回った。
選んだのは"ルピシア"の"テオ・ショコラ"
ビターチョコレートをイメージし、
カカオとココアパウダーを紅茶にブレンドしたものだ。
まずはこれから始まるバレンタインのテーマに染まっていただくため、
チョコレート風味を楽しんでもらおうとを選んだ。
そして、最初のお料理を運ぶ。
「最初の一皿、ローストビーフのサラダ仕立て、チョコレートバルサミコソース」でございます。
アヤカが説明する。
お客様の目の前に置かれた一品目は、
チコリやアルファルファの葉野菜の上に
ローストビーフが乗っていた。
ローストビーフは赤身部分を使用し、
低温でじっくりオーブンで焼いたものだ。
その上から酸味が効いたバルサミコ酢にダークチョコレートなどを合わせたソースをかけたミナ渾身の一品。
「肉にチョコレート!?え、合うの?」
「これ・・・美味しいのかしら?」
驚きの声を上げながらも料理を恐る恐る口な運ぶお客たち。
アヤカはその様子を観察していたが、
声は次第に感嘆の言葉に変わる。
「意外と、美味しい!!」
「甘いのかと思ったら、
チョコレートの苦味が肉に合うわね!」
「こんなの初めてね!」
やった!好評じゃない。
厨房の窓に目を向けるとミナと目が合った。
アヤカがオッケーマークを手で作ると、
ミナが微笑しながら大きく頷いた。
そのあとはカブとチーズの温かいスープ、
これにはチーズクラッカーが添えられている。
そして野菜のマリネを乗せたカリカリに焼いたチーズガレットが続き、
一口ブラックカルボナーラをお出しした。
このお料理はチーズたっぷりのカルボナーラにチョコレートのフレークを振りかけたものだ。
ブラックチョコレートがこってりしたカルボナーラに
コクとアクセントを加えている。
こちらも好評だった。
そしてアフタヌーンティのメインディッシュ、 三段ティースタンドが登場する。
この時はいつもお客様から自然と拍手と歓声が起こる。
もちろんアヤカとチカもこの瞬間をいつも楽しみにしていた。
今回のティースタンドは・・・
一番上の段には、トロトロのチーズタルト、ミニチョコレートパイ、チーズスフレ、オペラケーキ、
ミニレッドベルベットケーキ、
イチゴのチョコレート掛けが並ぶ。
全部がすばらしい出来栄えで、
どれから食べていいか迷ってしまう。
二段目はスコーンが二種。
チーズとブラックペッパーの大人なスコーンと、
チョコレートスコーン。
いつもならこってりとしたクロテッドクリームを
添えるところだが、
今回はクリームチーズとイチゴジャムにした。
三段目は海老とチーズのミニキッシュ、
ナッツとバナナのチョコレートオープンサンド、
パイナップルとカマンベールチーズのサンドウィッチ、 ミニチョコレートコロネとこれまた豪華。
これでもかというスペシャルなティースタンドに あちらこちらから感嘆の声が上がる。
この間にもアヤカとチカはせっせとテーブルを回り、
紅茶を注ぎ続け、希望があれば珈琲もお出しした。
カウンターにはミナが付き、
アフタヌーンティ以外のお客様をさばいていた。
アフタヌーンティの最後の〆には"ルピシア"の"アールグレイショコラ"と、チーズサブレをお出しした。
お持ち帰り用のプチギフトは京都のチョコレートの名店、
”サロンロワイヤル”のピーカンナッツショコラ。
チョコレートで香ばしいペカンナッツ包んだ
一口サイズのショコラだ。
お腹も心も満足し一段落したお客様たちは、
さらにカフェ・ヴェルデの味を持ち帰ろうと、
カウンターへ買い物に向かっていた。
アヤカもカウンターに回り、
せっせと店オリジナルのグリーンのショップボックスに
パイや焼き菓子などを詰めていく。
テイクアウト用の注文を捌き続けた。
あちらこちらで会話が弾み、
お客様はどのお顔も笑顔に溢れている。
この調子ならあと2日もうまくいくだろう。
アフタヌーンティは準備するのも当日本番も
大変なことばかりだが、
最後にはいつも満足感と達成感に包まれる。
これがあるから大変でもやめられないんだわ。
アヤカはフロアを見渡しつつ一人微笑んだ。