最終章
「キャーーー!!姉さんっ!!!」
背後からコートの袖が強く引っ張っられた。
振り返らなくても、
アヤカにはチカの恐怖が痛いほど伝わってきた。
八幡に首をロックされている三上さんは、
肩越しの拳銃を見ながら、
バッグを胸にギュッと抱いて震えていて、
今にも意識を失ってしまいそうだ。
怖いのは、三上さんの体勢が崩れてしまったら、
銃が暴発してしまうかもしれないこと。
横をチラッと見ると、稲川さんは拳を握りしめ、
八幡に飛びかからんばかり。
いざという時は、
自分の身を挺してでも立ち向かうつもりに違いない。
アヤカも震えが止まらないのは同じだ。
八幡と話しているうちに、
ひょっとして誰かが通りかかり、
助けを呼んでくれるのだはないかと
淡い期待をしていたのだが、
今のところそんな気配は無かった。
アヤカの背中を伝っていた冷たい汗は
とっくに乾いていた。
八幡は鈍く光る拳銃をこちらに向けて
狙いを定めている。
八幡が指に掛かった引き金に
ちょっとでも力を入れれば、
鉛の銃弾が飛び出し、
アヤカ、もしくはチカや稲川さんの
身体を貫いてしまうのだ。
そうすれば致命傷か、最悪、死。
・・・死ぬの!?
ううん、そんなのは嫌だ!
冷たい風がアヤカの頬を叩く。
絶体絶命の膠着状態。
もう!どうすればいいのよ!?
何とかしなきゃいけないのはわかってる。
皆、体力的にも精神的にもギリギリ限界にきていた。
・・・思い切って叫んでみる?
ああ、でもこの強風でアヤカの声は
かき消されてしまうに違いない。
それに一番近くの家屋までかなり離れている。
幸運にも誰かが聞いてくれて
通報してくれる可能性はゼロに等しい。
・・・八幡との距離は3m程度よね?
素早く近づいて飛びかかってみる?
パンチくらい入るかも・・・。
としてもこの間に撃たれるほうが早いわよね。
・・・ダメだ、、動けない。
アヤカはチラっと八幡の顔を見た。
身動き一つなく、隙がない。
キョトキョトと逃げ道を探している様子も
警戒している雰囲気もない。
慌てている様子もないし。
ん?
なんで?
なんでそんなにあの人は冷静なの?
わかっているの!?
今誰かが通りかかってこの場を見たら、
あなたがピンチなのよ!?
疑問がアヤカを急速に冷静にさせた。
八幡はなんというか・・・今までの犯人とは違う
気がした。
何でだろう?
焦りとかそんなものは感じていないみたい。
自暴自棄に陥っていない。
・・・・もしかして。
奇妙とも思われる考えがアヤカに浮かんだ。
まさか・・・この人は。
普段は勤務態度正しい真面目な警官で、
異常ともいえる片恋をしていた人。
この先どうしようというの?
・・・そうか。
少し先のことと
最悪のシナリオがアヤカの頭の中に浮かんだ。
そうなのね・・・・。
アヤカは大きく息を吸った。
凍るよう冷たいな空気が鼻を抜ける。
辺りはシンと静まり返り、
夜の闇と夕陽の光が溶け込んでいた。
昼と夜の境い目に私達はいる。
どちらかに転ぶか。
アヤカはフーッと大きく息を吐き出し、
ピタリと止めた。
覚悟を決めた。
「あなた・・・もう逃げる気ないんでしょ?」
「・・・何?」
アヤカの投げた言葉に、
八幡の表情が微妙に変わった。
アヤカと八幡の視線がカチっと噛み合う。
あああ・・・・まずかったかな?
怒らせたかな?
「お願いです・・・バカなことはやめて下さい」
何とか言葉を絞り出した。
「・・・・・・・」
「これ以上は無駄でしょう?」
「・・・・・・・」
八幡は何も答えない。
「自分を大事にして下さい。
ユミちゃんはきっとこんなこと望んでいません。
・・・お願い」
「・・・・・・・」
アヤカは静かに語りかけた。
八幡は何も答えない。
「・・・姉さん?」
震えるチカの声が微かに聞こえた。
怖い。
でも視線は外さない。
外すわけにはいかないのよ。
少しでも目を反らしたら
負けだとなぜかわかっていたから。
八幡はアヤカの言葉を
聞いているのだろうか?
私の言葉は届いているのだろうか。
心臓がバクバクしていた。
あれから何分経っただろう。
ううん、おそらく実際には
1分にも満たなかったのだろう。
その間、誰も声を出すことも
動くこともできなかった。
「・・・解放します・・・済まなかった」
ゆっくりと八幡が拳銃を三上さんの肩から離した。
そして、
思い切り三上さんの背中を突き飛ばした。
「ギャアアアぁぁ!!」
堰を切ったように三上さんが大声をあげた。
そのまま勢い余って
稲川さんの腕の中に飛び込み、
見事にキャッチした神主様と
一緒に二人共倒れ込んでしまった。
「アダダダ・・・・」
「ヒィ、ヒィ、ヒィ・・・」
稲川さんは腰を抑え、
三上さんは手をバタバタさせている。
二人共無事ね?
「姉さん、姉さん!アイツ逃げるわよ!?」
チカがアヤカの肩越しに指さした。
見ると八幡が大通りに向かって
一目散に走って行く。
「・・・いいのよ」
「いいって・・・捕まえなくていいの!?」
八幡の背中がだんだん遠くなっていく。
夕闇が彼の存在を隠すように小さくなり、
やがて神社の敷地内を出て、
右に曲がったように見えた。
八幡の姿が見えなくなりホッとしたのか、
チカは腰が抜けたように
本殿の階段にヘナヘナと座り込んだ。
アヤカも大きく息を吐き、
しゃがみこんだ。
(怖かった、本当に怖かった・・・・)
地面に手を付き、呼吸を整えた。
「と、とにかく皆んな無事だし。
・・・神主様、三上さん、大丈夫ですか?」
「・・・私はなんとか・・・三上さん?」
巫女さんはベタンと地面に座り、
セイゼイと息を荒げながら、
胸に手を押しあてていた。
話すことはまだ出来ないようだ。
チカが這うようにアヤカの横に来た。
「姉さん、アイツ逃げたわよ!?
いいの?!」
アヤカは震える手でチカの肩に手を置いた。
「わかってる。これから一之瀬さんに電話する。
・・・大丈夫、きっと捕まえてくれる」
アヤカは一之瀬さんに連絡した。
電話の向こう側の警部補は、
言葉に詰まり、絶句していた。
それから数分もしないうちに
サイレンの音が聞こえ始めると、
パトカーが何台も到着した。
赤く染められた益戸神社は、
たちまち警察関係者で溢れ返った。
あちこちに置かれた
警察仕様の照明が強烈な光を放ち、
いつもならそろそろ夕闇に閉ざされる
ひっそりした神社は、
まるで昼間のように明るくなった。
その中を一之瀬さん、久保さんはもちろん、
警官、鑑識、警察犬までもが動き回っている。
更には救急車まで到着していた。
写真のフラッシュの光、
無線のガーガーいう機械音や、
警官同士の会話で騒がしい。
黒い大きな犬達は、
賢そうなその鼻で辺りを職務を果たすべく、
クンクンとあちこちを嗅ぎ回っていた。
さらに異変に気づいたご近所の住人や、
通勤帰りの人々が神社を取り囲んでいるのが、
アヤカ達からも見られた。
恐らくニュース関連の色んなメディアも
遅かれ早かれ嗅ぎつけて来るだろう。
神社に規制線が張っていなければ、
たちまち大混乱に陥っていたに違いない。
神社を囲む人々は、
まだ何が起きたかはわからないだろうが、
重大なことが起きたということはわかるようだ。
なんせ数日前にも事件が起きた場所だ。
きっと今夜か明日のニュースで取り上げられる。
またしても益戸神社は、
多様なメディアで取り上げられ、
再び注目を浴びてしまうことになるだろう。
そうなればまた神主様は不本意ながら、
押し寄せる好奇心旺盛な来訪者の対応に
苦労するに違いない。
アヤカは警察が到着する前に、
緑川さんに事情を話し、ミナにも電話した。
緑川さんは理解が早かった。
「・・・わかったわ。
でも皆んな無事で良かった」
後日、詳しい話をすることを約束し、
今日はそちらに行けないことを謝罪した。
ミナはまだカフェ・ヴェルデに残っていたので、
電話を切った途端にすっ飛んできた。
ミナが加わってアヤカ達は、
一之瀬警部補から簡単な聞き取りや、
怪我の有無を確認されてから、
この場所で待機するように言われた。
二人の警官にまるでVIPのように守られ、
被害者の四人+ミナの五人は、
本殿の階段に横並びに無言で座り込んでいた。
気力も体力も使い果たしたアヤカ達は、
ボーっと経緯を見守っていた。
グリーンフラワーマーケットに
持って行くはずだったまだ熱い珈琲を啜りながら。
ミナが気を利かせて、
注いで配ってくれたのだ。
更に救急隊の方が配ってくれた毛布に
包まっているので身も心も段々と暖かくなっていた。
あれほど吹きすさんでいた強風は
いつの間にか止んでいた。
チカは毛布に顔を埋め、体育座りをしていた。
アヤカとしては限界をとうに過ぎた妹を
すぐ家に帰らせてあげたかったが、
そうもいかなかった。
時折、声を掛けながら背中を擦るのが精一杯。
いつもならよく喋る巫女さんは
魂がどこかに行ってしまったように、
ボーっとしている。
神主様はショック状態からいち早く
抜け出していた。
警官からの求めに応じて
益戸神社の責任者として質問に答え、
時折立ち上がって案内し、
今やるべきことをしていた。
流石の一言に尽きる。
どのくらいの時間が経っただろうか。
一之瀬さんと久保さんが
アヤカ達の元へ再びやって来た。
疲労と悲壮感が漂っていた。
「・・・お待たせして申し訳ありません。
皆様に改めて謝罪させて頂きたい。
・・・申し訳ない。
本当に申し訳ありません。
市民を守るべき警官がこのような不祥事を
起こしてしまい、
皆様を危険な目に合わせてしまいました。
大変申し訳ありませんでした。
警察機関を代表して深く、深くお詫び致します」
一之瀬警部補がアヤカ達に深く頭を下げた。
久保刑事も長身の身体を折り曲げて、
警部補に倣う。
すると、周りにいた他の警察関係者達も、
捜査の手を止め、
次々とアヤカ達に頭を下げた。
警察帽を脱いで謝罪の気持ちを
表す警官もいた。
アヤカは複雑な想いで周りを見渡した。
八幡との時間はそれは恐ろしいものだったけど、
本来警察の人達は、
市民を守り、市民のために働いてくれているのだ。
わかってる。
八幡のような人物は稀なのだ。
そう信じたいし、きっとそのはずだ。
「もう、顔を上げてください。
お気持ちはわかりました。
まだ、その・・・落ち着かないですけど、
皆んな無事でしたし。
・・・あの、八幡・・・さんは見つかりました?」
謝罪から全く顔を上げない一之瀬警部補に
アヤカが言った。
「一之瀬さん?」
アヤカが促すと一之瀬さんはやっと顔を上げた。
「・・・まだです。
警察は強固な非常線を
益戸、香椎、東京方面まで広く敷いてます。
鉄道も道路も幹線道路もすべて手配しました。
この辺りのすべての警察機関関係者が
総動員で動いています。
間もなく発見の連絡が入るはずです。
今、この辺りの監視カメラを急ぎ点検しています。
どの方向へ行ったか判明すれば、
範囲もかなり絞られます」
アヤカは少しぬるくなった珈琲に
口をつけながら、
すでにオーバーヒートしている灰色の脳細胞に
活を入れた。
まだ見つからない?
この大捜索網の中で逃げられるはずがない。
八幡は一体何処へ?
アヤカ達が警察に連絡するまでの時間差が
あるとはいえ、
捜索のプロである警察から逃れられるはずはない。
しかし、そういう八幡も警官。
捜査のノウハウは熟知しているはず。
もし、私なら・・・・。
どうする?
「あの、一之瀬警部補。
あの人・・・八幡さんは私達を撃つ気は
なかったんだと思います」
「え!?」
アヤカの言葉にチカが弾かれたように
顔を起こした。
「何言ってんのよ、姉さん!!
アイツ、アタシたちに銃を突きつけていたじゃない!!」
するとそれまで意気消沈していた三上さんも
ガバっと身体を起こしてチカを援護する。
「ホントにそうよ!
ほんっとに生きた心地がしなかったんだから!
もう、もう、あたしゃ死ぬかと!」
アヤカは二人のあまりの迫力に
ちょっと身を怯ませた。
「・・・確かに、八幡さんは私達に銃を向けました。
でも、あの携帯していた拳銃で私達を撃てば、
すぐに誰がやったか、犯人かわかるはずです。
その、拳銃ってそれぞれ特徴というか、
どの拳銃から打たれたか、持ち主は誰のものかとか、
わかるんですよね?
そんなことは警官のあの人も百も承知のはずです。
八幡さんの様子は冷静そのものでした。
私は、彼は破れかぶれで撃つようなことは
ないと思いました」
「でも・・・!
あの人、三上さんを人質に取って・・・!」
チカが食い下がる。
「うん、そうだね。
・・・でも、でなきゃ私達、
みんなバラバラに逃げ出してたんじゃない?
そしたらあの人、止めるために本当に誰かを
撃っていたかもしれない」
「そんな・・・」
「あの人、撃ちたくなかったんだと思う。
だから、三上さんを人質に取ったんだと思う。
全員殺すつもりなら、すぐ出来たはずでしょ?」
「・・・・・・・・」
「それに、たぶんあの人、覚悟を決めてた」
「覚悟?」
「もう逃げないってこと」
「逃げないって・・・!
だって、あの人、結局逃げたじゃない!」
「そうじゃなくて・・・。
たぶん、もう何処にも
逃げられないとわかっていたんだと思う」
「なんでそう思ったの?」
背後で黙って聞いていたミナが口を挟んだ。
「・・・・わかんない。ただなんとなく」
「・・・そう」
「私達さ、今まで何人かの事件の犯人と話したけど、
みんなどこか開き直った態度で
自信満々な感じだった。
自分のやったことを自慢するような、
頭の良さみたいなのをひけらかして、
言い訳のように自分は悪くない、
周りが悪いんだって言ってた」
「・・・うん・・・そうだったね」
「でも、八幡さんはなんか・・・冷静で、
落ち着いていたけど、目が寂しそうだった。
それに・・・あの人、
私にずっと話をさせていたでしょ?
その間に誰かが通りかかるかもしれないのに。
そうしたらあの人、通報されて終わりだった。
逃げる様子も無かったよね?チカ。
だから、たぶんだけど、
自分の話を聞いてもらいたかったんじゃ
ないかと思って。
本当のことを、真実を
知ってもらいたかったんじゃないかな?」
「じゃあ、なんで急に逃げ出したのよ?
もし姉さんの言う通りだったら、
アイツ、この場で大人しく
警察が来るのを待ってるはずじゃない?」
「別の逃げ方を決めていたんだと思う、最初から」
「別の?・・・誰か仲間が来るとか?
それで車で逃げるとか?」
アヤカは大きなため息をついた。
「ここ、ユミちゃんが亡くなった場所よね?
あの人、なんで此処に来たんだと思う?」
「なんでって・・・あの人、益戸神社は
毎日巡回してるって言ってたよね?」
「それもそうだけど・・・」
チカがハッとした。
「・・・もしかして、ユミちゃんのお参り?」
アヤカはコクリと首を動かした。
「たぶん、そうだと思う。
毎日のパトロールもそうだけど、
この場所でユミちゃんは亡くなった。
あの人は事件を目撃し、ユミちゃんを花で葬送した。
毎日、心のなかでユミちゃんを供養してたんじゃないかな?
・・・私の想像でしかないけど、
ユミちゃんへの思いや、後悔、千田への
恨みを抱えていたんじゃないかと思うの。
だって千田を捕まえるんじゃなくて殺すくらいに、
ユミちゃんのことが好きだったんだもの。
・・・でも、昨日のあの探偵さんの事件、
あれも八幡さんのしたことだとすれば、
もう自分が捕まることは時間の問題だった。
警官だから、探偵さんが生きていたっていう
情報は知っていたのよね?
もしその探偵さんの意識が戻れば、
自分の顔とか覚えているかもしれないもの」
「じゃあ逃亡する前にここに、と?」
ミナが簡潔に言った。
アヤカはミナの問いに答えず、視線を遠くに投げた。
「この川、このまま辿ると伊戸川に合流するよね。
そしてそのまま海に出る・・・・・」
「・・・まさか」
神主様にはわかったようだ。
目を瞑り、静かに首を横に振った。
「・・・そういうことだと思います」
アヤカは一之瀬警部補を見やった。
私の考えは間違っているのかもしれない。
それならいいのだけれど。
「・・・覚悟していたと?」
それまでずっと黙ってアヤカの話を聞いていた
警部補が口を開いた。
「・・・たぶん。
だから、誰かにコトの真相を
聞いてほしかったんじゃないかと思ったんです。
もう・・・自分で語れなくなる前に」
「・・・わかりました。
道路や鉄道だけじゃなく、
この川や伊戸川にも捜索の手を広げましょう。
・・・河口にも」
一之瀬警部補はサッと踵を返し、
スマホを取り出して去っていった。
神社の外ではまだまだ野次馬の人の群れが絶えず、
あちこちで光るスマホのフラッシュが眩しい。
アヤカは空を見上げた。
漆黒の冬空にはか弱くも美しく瞬く星々が
天井を彩っていた。
・・・・こんなに美しい冬夜なのに。
誰かはもっと深い闇にいる。
誰も何も救われないまま。
この突き刺さるような冷たい闇夜に。
翌朝。
今朝も通常通りにカフェ・ヴェルデが始まった。
香ばしい珈琲の香り、
厨房から流れる焼き立てのお菓子の香り、
華やかな紅茶の匂い、
今はそれが気持ちを落ち着かせてくれる。
来店するお客様の人数にも変わりなく、
朝のひとときをカフェ・ヴェルデで
過ごそうと笑顔で溢れていた。
しかし、昨日の事件の影響はあるようで、
アヤカがテーブル間を歩いていると、
時折その話がお客様の口から漏れ聞こえてきた。
チカもいつも通りに出勤していた。
明るく接客も対応もしているが、
無理しているのがアリアリとわかった。
もちろん、アヤカも万全ではないのだけれど。
昨日、ミナ以外の神社にいた四人は、
警察の覆面パトカーに送られてそれぞれ家に帰った。
解散間際、ミナが今日の営業は止めようかと
言ってくれたのだが、そうもいかない。
確かに誰もがショックを受けていた。
本当にそうしようかとアヤカも思ったが、
こういう時こそ日常のいつもの営みが、
ありがたいこともある。
チカには無理なら休んでもいいと
言ってみたのだけれど、
「明日もいつも通り営業するんでしょ?
大丈夫、私も出る」
まだショックを受けたままで、
震える声でチカが答えた。
「・・・わかった。でも、ホントに無理なら・・・」
「大丈夫、ホントに。
姉さんもミナちゃんも出るんなら私も出るから。
・・・子供扱いしないでね?
もうイイ大人なんだから」
「そんなつもりは・・・ただ、心配で」
「ごめんね、チカちゃん。
傷つけるつもりはなかったの」
アヤカとミナが謝った。
「いいよ、謝んなくても。
二人とも心配してくれてるのはわかってるから。
まだ、その、混乱しているけど、
ひと晩休めば大丈夫だと思う。
・・・姉さんこそ大丈夫?
一人で家にいられる?
良かったら、ウチに来る?
ほら、ママもいるし」
強くなった。
チカは本当に。
「私は大丈夫よ。
・・・ほら、こういうの慣れてきたし」
自虐混じりに言うとチカが微笑んだ。
「さすが姉さん!
でも犯人と対峙したの、私、初めてだったのよね。
もうコレで怖いもの無しじゃない?」
・・・そこまで強くならなくていい。
今日はすべてが穏やかに思える。
昨日の自分たちに起きたことは本当だったの?
夢だったんじゃないのかしら。
朝、沢山の報道番組がメインニュースとして、
益戸神社や益戸駅の映像を流していた。
現役の警官が、人質を取ったうえ、
逃亡しているということ。
まだユミちゃんの事件や、
千田、香椎公園の事件のことは
関連付けされていなかった。
八幡警官の写真が何度もテレビに映し出され、
ショッキングな事件として、
道行く人にインタビューしていた。
「怖いわね〜本当に。
だってお巡りさんでしょう?」
「戸締まりしっかりしなきゃねぇ〜〜」
「こんな住宅街にねぇ・・・・」
今朝からこの辺り一帯に警戒網が敷かれていた。
パトカーが巡回し、時折地域のスピーカーで
身の安全を守るように放送が流れている。
小学生は大人に付き添われながら、
集団登校していた。
姪のアンの幼稚園も本日は臨時休園になっていた。
それでも八幡が捕まったという一報は
まだ入ってこなかった。
数日後。
一之瀬警部補と久保刑事が
カフェ・ヴェルデに訪ねてくると連絡があったのだ。
閉店後ということで片付けをしつつ、
軽食を用意して待つことにした。
ミナは本日のキッシュの
ラタトゥイユキッシュと小さなサンドイッチ、
ガトーショコラ、珈琲、紅茶を用意していた。
ちなみになぜか、母とお隣のヨウコさん、キクさん、
そしてチカ家族も来ていた。
「本当にね、二人共無事で良かったものの、
あの刑事さんに一言、言ってやりたいのよ!」
母は憤っていた。
まあ?
娘二人が危険な目にあったのだから?
そういう反応は至極真っ当なのかも。
事件のあった夜、アヤカの携帯電話には、
母からの着信が鬼ほど残っていた。
身体も心も疲れ果てたアヤカは、
家に帰るなり服を脱ぎ捨てて、
ベッドに潜り込んで寝てしまったので
母に連絡したのは真夜中を過ぎてからのこと。
お腹が空いて、ふと目が冷めてしまったのだ。
心配していたのだろう、母はすぐ電話に出た。
母は帰宅したチカから話を聞き、
チカにアレコレ世話を焼いてから、
アヤカの家に来ようかとしていたところ、
全く電話に出ないため、
諦めて自宅がある香椎に帰っていたらしい。
それでもこれからウチに来るというのを、
何とか制して、
くれぐれも家のセキュリティは
万全にするとの約束をさせられてから電話を切った。
しかし・・・うーむ。
母ショウコと一之瀬警部補の相性は
すこぶる悪い。
前回(秋のアフタヌーンティは葬送曲と参照)の
事件の時、
母のハイヒールの先っちょが
警部補の額に食い込んだのが痛かった。
それ以来、一之瀬警部補は
ウチの母を苦手としている(みたい)。
「まさか・・・・警察の方がねえ」
「ホント、世の中おかしいですわよねぇ、奥様」
ヨウコさんとキクさんは怪訝な顔で
顔を突き合わせていた。
「この辺りをパトロールしていらした方でしょう?
有り難いことだと思っていたのだけれど。
こんなことになるなんて・・・残念だわ」
「もう誰を信頼していいのやら、
わからなくなりますね、奥様。
・・・もう警察は正義というのも
駄目なんでしょうかねぇ」
夜6時。
予定の時間キッカリに
二人の刑事がカフェ・ヴェルデに現れた。
アヤカが玄関ドアを開けて迎えた。
扉にはクローズの札が掛かり、
店内にお客様の姿はすでに無い。
身内ばかりだ。
かなり疲れているな、
というのがアヤカの一之瀬警部補の印象だった。
今までも渋いオジサマだとは思っていたが、
一気に5歳は更けてしまったかのようだ。
母は一之瀬警部補に文句を言う気満々だったが、
憔悴した様子を見て、
開きかけた口を閉ざすしかなかったようだ。
「・・・一之瀬さん、大丈夫ですか?」
「もちろんです」
アヤカが話しかけると、
警部補は厳しい顔で力強く頷いた。
続く久保刑事はいつも通りの隙のない
スーツ姿だったが覇気のない顔をしていた。
いつも朗らかな笑顔でお店に来ていたのに。
無理もないけど、
どれだけここ数日が大変だったかを物語っていた。
アヤカは二人の刑事を席に案内し、
各自飲み物を配った。
すると、ミッキーが立ち上がった。
「アン?庭に出て遊ぼうか?
あれが見えるかい?赤い実があるだろう?
ほら、あったかい格好にしよう」
「お外?行く!」
すでにホットミルクとサンドウィッチ等で
お腹が満たされていたアンは、
ピョコンと元気良くソファから滑り落ちた。
ミッキーはアンに暖かいダウンを着せていた。
「ママ、おばあちゃん達、いってきます!」
ミッキー自身も事件に興味津々だったし、
話を聞きたかったのだろうが、
娘のアンには聞かせたくなかったのだろう。
「ありがとう。・・・・後でちゃんと話すね」
チカが夫と娘を玄関まで見送った。
アンは大きく手を振りながら、
パパと一緒に外へ出ていった。
それを見送ってから、
一之瀬警部補は重い口を開いた。
「まず、大事な報告から申し上げます。
・・・八幡が見つかりました
一昨日、伊戸川の河口まであと3キロの
所で、水死体で発見されました。
シャツとズボンだけを身につけた状態で、
制帽や靴、警棒、手錠、スマホなどは
そこから上流の川辺に揃えて置いてありました。
・・・死因はこめかみに・・・・」
警部補の声が震えた。
「・・・八幡の頭部のこめかみに拳銃で撃った跡があり・・・自らを撃った後、そのまま川に転落した模様です」
アヤカはギュッと目を瞑った。
なんて壮絶な最後。
想像していたとはいえ現実にそうなってしまった。
給仕を一手に引き受けてくれていたミナが、
グラリと体勢を崩したが、
すぐ側にいた久保刑事が受け止めてくれた。
血の気が引いている。
「大丈夫ですか?」
「すいません・・・もう・・・大丈夫です」
「ミナ!大丈夫?ほら、コレ飲んで!」
アヤカがミナに紅茶を渡す。
「・・・あの、何か遺書みたいなものはあったんですか?」
アヤカの質問に、
自分のソファの場所をミナに譲った久保刑事が応える。
「ありませんでした。
身体からも、制帽が置いてあった場所からも
見つかりませんでした。
書かなかったのか、
もしかしたら川で流されたり、
風で飛ばされてしまったのかもしれません」
「じゃあ、もう事件の詳細はわからない
ということですか?」
母が質問すると、警部補が口を開いた。
「残念ながら。
しかし、鈴井さん姉妹が八幡から聞いたことや、
八幡が犯人だと想定すれば、
証拠はかなり残っていました。
八幡もさすがにすべての防犯カメラを
掻い潜ることはできなかったようです。
松田ユミさんの後をつけている画像や、
千田のアパート近くにいた八幡の姿も
確認できました。
それだけでは八幡の犯行だと確実とはいえませんが、
千田の部屋の押収物から、
八幡の髪の毛をいくつか発見しました。
恐らく揉み合っているうちに、
落ちてしまったんだと思います。
鈴井さん達に話したように、
アパートの住人を装い千田を襲ったようです。
・・・あるはずのないモノが、そこにあった。
これで千田シュウジの件は、
ほぼ八幡の犯行だと確定しました。
香椎公園で襲われた田辺アキホさんも
意識を取り戻され八幡の犯行を証言してくれました。
何枚かの写真を見てもらい、
その中から八幡の写真を選びました。
田辺さんは調査のプロでもありますし、
記憶もしっかりしていました。
このまま順調に回復すれば、
あと数日で退院できるそうです。
日常の生活にも問題なく過ごせるようです。
・・・そしてこの事件は、
このまま八幡の被疑者死亡のまま、
収束するものと思われます」
一気に話した一之瀬さんは硬い表情を崩さなかった。
警察官の犯罪、そして自殺という最悪の結末。
一之瀬さんにとっては身内の犯行という、
事件解決よりも重い結末になってしまったことが、
何よりも辛いことだろう。
いつも明るい久保さんの顔も暗いままだ。
「あのう・・・質問なんですけど、
ピストルはどうなったんですか?」
チカがそろそろと手を挙げた。
そうだ、さっきの警部補の話だと、
残されていた荷物の中に拳銃はなかった。
「拳銃は八幡が発見されたとき、
まだ身につけていました。
・・・拳銃をヒモで結び、
ズボンのベルトループに通していました」
「え!?何で?」
チカが驚く。
「・・・それは、もしそこに置いておいたら、
拳銃を誰かが持っていってしまうかもしれない。
それを考えて?」
ミナが言った。
「・・・恐らく」
八幡は、拳銃をヒモで結んでから、
覚悟を決めてこめかみに銃口を充てて、
自分自身を撃ち抜いた。
そしてそのまま・・・水の中へ。
壮絶過ぎて言葉が見つからない。
久保刑事が額に手を当てた。
「現役の警官の犯行など、
許されるものではありません。
市民を守る警官が。
しかも自ら生命を断つなど・・・。
自殺は最低な行為です。
人としても警官としても。
八幡のやったことはそれだけではありませんが。
・・・ですが、ギリギリ・・・警官として、
最後のケジメは守ったのだと、僕は思います」
苦しげに言葉を吐いた。
こんな時にナンだけど、
・・・イケメンは絵になるわ。
でも久保刑事が言ったことは本当だと思う。
そうだとしたら、なぜそこまで考えられるのに、
千田への殺意を止められなかったのか。
返す返すも本当に残念だし・・・悲しい。
それだけ千田が許せなかったのだろうか。
ユミちゃんへの恋心がそうさせたのか。
「・・・その人のご両親は?」
母が口を挟む。
「伝えました、全てを。
八幡の故郷は千葉の南で両親は飲食業をしてます。
父親が一人で・・・遺体に面会しました。
母親はショックを受けて入院してしまったそうです。
父親は我々の話をじっと聞いていました。
そして何度も、何度も頭を下げられました。
その後、父親と私同伴のもと、
八幡は益戸で荼毘に付されました。
そして・・・そのまま故郷に帰りました。
・・・事情が事情ですので、
我々は見送ることが出来ませんでした。
・・・なんとも寂しい出立でした」
「・・・お辛かったでしょうね、お父様、お母様も。
息子さんが警官になって、
誇りに思っていたでしょうに、
こんなことになって。
・・・一之瀬さんも辛いお立場でしたね」
母の言葉に一之瀬警部補は膝の拳をギュッと握った。
「八幡の父親は、千田シュウイチの家族や、
松田ユミさんのご家族、
鈴井さん姉妹、益戸神社の方々、
すべての方に謝罪したいと言っておりました。
・・・ですが、今はやめた方がいいと
こちらから止めさせて頂きました。
まだ、関係者の方達の精神状態を考えると
難しいでしょう。
あなた方も今は・・・・」
・・・うん、そのほうが良いと思う。
私も・・・八幡の父親に謝られても・・・。
それに一之瀬警部補や久保刑事、
益戸警察の人々もここ数日辛かったはずだ。
連日、テレビやネットなどで
この事件がひっきりなしに取り上げられている。
一之瀬警部補達は何も言わないけど、
色んな誹謗中傷が益戸警察に殺到していたことは
安易に想像ができた。
警部補達は色んな気持ちを押し込め、
黙々と捜査していたのだろう。
仲間、同僚であった八幡を容疑者として
捜査しなければならないことに葛藤を抱えながら。
「事件の詳細は、明日会見を行う予定です。
恐らくまたこの界隈は騒々しくなると
思いますが、
・・・とにかく決着はつきました。
本当に・・・・」
一之瀬警部補が立ち上がる。
「皆様にはご迷惑と危険な目に合わせてしまい、
改めて謝罪申し上げます。
それと捜査にもご協力頂き、
ありがとうございました」
久保刑事と共に深々と頭を下げられた。
「え、あ、もう・・・大丈夫ですから。
皆無事でしたし」
アヤカが手で制した。
「そもそも私達が勝手に事件に手を突っ込んだん
ですから」
「しかし・・・我々だけでは、
八幡が怪しいと思わなかったことは事実です」
するとそれまで黙って聞いていた
ヨウコさんが口を挟む。
「それは、お身内だからでしょう、一之瀬さん。
警官の方々も私達と同じ一般人だということを
忘れがちですから。
・・・もちろんあなたもね」
「・・・恐れ入ります」
ヨウコさんの声はとても穏やかだった。
「私みたいな歳になりますとね、
お若い方が亡くなられるのは、
どんな方でも悲しく思うものですよ。
その亡くなられた警官の方も、
お話を聞くと、
とても純粋な方とお見受けしました。
・・・ただ残念ですわね。
人生もそうですけど、
世の中には沢山の美しいものがある中で、
残念なことに不純な悪いモノもございます。
悪いモノを捨て去るのではなく、
それらとうまく合わせて
付き合っていかなければということが、
お若い方々にまだわからないのです。
経験していく中で何とか自分の中で、
折り合いをつけていくものですけどね。
その方もほんの少し、
力を抜いた生き方が出来れば良かったでしょうに。
・・・そうすれば、何かが変わってたのかも
しれませんわね」
「・・・でもこれで終わったのね」
母がポツリと言った。
「その花屋の娘さんもこれで
浮かばれればいいんだけど。
・・・アヤカ達もご苦労さまね」
母が微かに微笑んだ。
「母さんもね。
色々調査に協力してくれて助かっ・・・」
するとカランと音を立てて突然店のドアが開いた。
あれ?
確かクローズの札を下げていたのに。
入って来たのは・・・福井タツオミだった。
セットしていない無造作な髪の毛に、
グレーのツイードのジャケット、
ブルーのオックスフォードシャツ、
グレーの細身のパンツ、
黒のベロアのアディダスのスニーカーを
合わせていた。
首元には見るからに質の良さそうな
黒のマフラーを緩く巻いているだけで、
コートは着ていなかった。
恐らく車で来てどこかに駐車したのだろう。
タツオミは店にいた大勢の人に
一瞬ギョッとしたようだったが、
気を持ち直したようだ。
「あの、すいません。
・・・表のクローズは見たんですが、
その、ミナ・・・さんと話したくて」
「・・・どうしたの?急に」
立ち上がりながらミナが声をかけた。
「昨日の話のことで・・・」
昨日?
ミナってば、元夫と会ってたの?
一人で?
「電話のこと?・・・あれは・・・」
ミナが困り顔で俯いた。
電話?何々?
どういうこと?
カフェ・ヴェルデ中の耳という耳が
ピンと逆立った。
「ミナ、せっかくだから座って頂いたら?」
好奇心を押し殺してアヤカが言った。
「あ・・・ええと・・・」
「いや、けっこうです。
ありがとうございます。
・・・ミナ、少し外で話せないか?
その、二人だけで話したい」
「・・・話したいのならここでして」
ミナがタツオミの前で首をふる。
一瞬ためらいを見せたが、
福井タツオミは意を決したかのような
真剣な顔をしていた。
「・・・わかった。
先日コチラの刑事さん達から事件の説明を受けた。
みんな、家族揃って。
・・・聞いたよ、色々と。
松田ユミさんのことも、
こないだの益戸神社のことも。
アヤカさんとチカさんが危険な目にあったことも
聞いた。
・・・・申し訳ない。
僕が、事件を調べて欲しいと言ったばかりに、
お二人を危険な目に合わせて。
大変、申し訳ありませんでした」
タツオミが頭を深々と下げた。
アヤカとチカは顔を見合わせ、
ぎこちなく頭を少し下げた。
「刑事さんから話を聞いた後、家族会議をしたんだ。
それでお袋・・・母はふらんす屋の会長を
降りると言った。
社内でもお袋のその・・・事件に
関係があると噂が広がってね。
このままだと会社にもダメージが出てくる。
僕達家族だけじゃなく、
従業員達の生活にも関わってくるしね。
僕には会社従業員の生活を守る義務がある。
社長として従業員達に、
出来る限り説明をするつもりだ。
松田ユミさんの事件に直接ではなかったが、
母にも大いに責任がある。
・・・いや、むしろ母の行為がきっかけになったんだから。
青木さんとも相談して、会社のことや
お袋のことも引き受けてくれることになった。
もしかしたら、お袋のにも弁護が必要になる。
・・・青木さんには感謝しかない」
「・・・そう。大丈夫なの?会社は」
ミナの顔が曇る。
「青木さんが極力会社に被害が及ばないように、
動いてくれてる。
・・・だけど、今回のことで
離れていく従業員もいるだろうし、
誹謗中傷の電話や取引先停止なんかも
来るかもしれない。
もしかしたら、ふらんす屋が廃業の可能性もある。
・・・そうなっても仕方ない。
覚悟している。
それだけのことをしたんだから」
「・・・・・・・・・・」
「親父さん・・・義父さんが母を連れて
軽井沢にある別荘に引っ越ししようかと
言ってくれてね、
あの母が、すっかり気力を無くしている。
ずっとボーッとしていてね、
君にはそんなお袋の姿は想像つかないと思うが
・・・このままじゃ。
静かな場所で静養したほうが俺も良いと思う」
「・・・タツヤさんは?」
「タツヤはお袋のことを許していない。
当然だな・・・タツヤの気持ちはわかる。
愛する人を失ったばかりか、
自分の母親が彼女の死に関わっていたなんて
・・・許せないよな。
この先も弟が母を許すことはなくてもしょうがないと思う。
・・・俺もお袋に対して色々思うところは
かなりあるが、放っておくことはできない。
・・・家族だからね。
少し話したけど、
タツヤはこのまま日本を離れるそうだ。
しばらく一人でいたいと言っていた。
・・・俺もそれが良いと思う。
日本を出て、少しでも気持ちの整理を
つけられれば・・・いつかは」
そう、一番傷ついているのは
突然愛する人を失った福井タツヤだろう。
これから築いていくユミちゃんとの
幸せな未来を描いていただろうに。
すべて打ち砕かれ、
しかもそれに家族が関係していたなんて、
ショックなんてものじゃなかっただろうに。
「ユミさんのご家族にも、
何らかの形で謝罪させて頂くつもりだ。
・・・今は向こうのご家族のことを思うと、
すぐにはお会いすることは出来ないだろうが。
こちらの刑事さん達にも控えたほうがいいと
アドバイスを頂いた。
・・・でも、いつか必ずお詫びはしたいと思う」
「そう・・・わかったわ」
タツオミはそのままミナをジッと見つめた。
「・・・ミナ、断られること前提で言う。
この間電話で話したこと、
考えてくれたか聞きたくて」
「この間のことって・・・あの、冗談よね?
あなた、この事件でちょっと・・・
不安になっているのよ」
何のこと?
固唾を飲んで見守る一同。
突然タツオミの手がミナの両肩を掴んだ。
「ちゃんと申し込むよ。
こんな状況だが、
お願いだ、もう一度やり直してくれないか?」
えーーーーーーーー!!!
声にならない声が出た!
それはここにいる全員も同じ。
ヨウコさんとキクさんはシンクロしたように、
手を口に当てて目を見開き、
母と妹は口をアングリアと開けていた。
「自分も会社も家族も、こんな最低なときに
ミナにこんなことを言うのは間違いだと思う。
だけど・・・お願いだ!
俺には君が必要だ。
・・・今回、改めてそう思った。
君にはもう無理はさせない。
ふらんす屋にはもう一切関わらなくていい。
家族とも関わらなくていい。
ここの仕事を続けて、今と同じのままでいい。
・・・どうか、考えてくれないか?」
ちょっと!!
何言ってんの!?
思わず立ち上がって抗議しようとしたが、
隣のチカに腕を掴まれた。
だって・・・!!!
チカが黙って首を振った。
口を挟むなってこと!?
でも!!
事件のせいで忘れてたわけじゃないけど、
コイツのせいでミナは苦しんだのに!
それをまた繰り返すですって!?
「今すぐじゃなくていい。
・・・母も君に感謝してるんだ。
君に冷たくしていたのに、
今回のことで色々助けてくれた。
君の優しさや機転の凄さに驚いていた」
何を今さら!
アヤカはカッとなる自分を必死で押えた。
「君と離婚した後、お付き合いしていた女性もいた。
でも、どうしても君のことが忘れられなかった。
・・・僕は情けない男だったね。
母の目を気にして君のことを第一に考えていなかった。
でも今は違うつもりだ。
前よりは成長したと思う。
どうか・・・ミナ・・・・」
タツオミの声が震えた。
「・・・戻るつもりは、ないわ」
「すぐにとは言わない」
「今回のことはユミちゃんの、
友人のために調査したことよ。
あなたの為ではないの」
ミナが肩に置かれたタツオミの手をそっと外した。
「私はもう過去には戻らない。
あれから私は前に進んでいるの。
・・・私は、今、幸せよ」
ミナのキッパリとした返事に
タツオミが顔を曇らせ俯いた。
「・・・そうか、わかった。
ゴメン、今回のことで久しぶりに君と再会して
・・・また、甘えてしまった」
「・・・・・・・」
「そうだね、今の君を見ればわかるはずだった。
前より・・・僕といた時よりも、
ずっと、ずっといい顔してる」
「・・・ごめんなさい」
「謝らないでよ・・・僕が勝手だった。
・・・諦めるよ。
ゴメン、君を困らせて。
僕はまだ前に進めていないんだね。
ミナ、君は本当に尊敬すべき人だ。
・・・これからの君の幸せを祈るよ。
でも何か困ったことがあったら言ってほしい。
迷惑かもしれないけど・・・心の片隅にでも覚えておいて。
・・・じゃあ皆さん・・・」
タツオミが真面目な顔でアヤカ達に向き合った。
「今回のこと、本当にありがとうございました。
あの、これ少ないですが・・・・」
タツオミがジャケットの内側に手を入れる。
「調査をお願いしたお礼です。
受け取ってください・・・ミナ」
タツオミがミナに封筒を差し出した。
「それはいいわよ」
「これは受け取って欲しい。
・・・本当にありがとう」
「・・・・わかったわ」
「・・・それじゃ、失礼します」
踵を返し、タツオミが店を出ていった。
チラと見えた横顔は寂し気だった。
アヤカは少し、ほんの少しだけど同情した。
でも・・・コレでいいのよ。
過去は過去。
ミナの気持ちはとっくに離れている・・・のよね?
目を移すと、どこか複雑な表情を浮かべた
立ち尽くすミナがいた。
そこへチカが湯気が昇る温かい珈琲を
そっと差し出した。
「ミナちゃん、これ飲んで」
「・・・ありがと」
「・・・一度夫婦になった仲だもんね。
わかるよ、何となく」
「・・・うん」
そうなの?
結婚未経験の自分にはわからないけど・・・。
離婚したとしても情とかそういうものが
残っているのかもしれない。
・・・決してお互い嫌いになって
別れたわけでは無かったし。
結婚は二人の気持ちだけではダメで・・・
きっと復縁してもタツオミの家族と
全く関係無く過ごせるとは思わない。
これでいいのよね?
でも結婚とは・・・・うーむ。
「ミナちゃんはそのままでいいんだよ?
自分のしたいように。人生一度きりなんだし」
すると母が口を挟んだ。
「そうよね。
ミナちゃん、これからよ?あなたの人生は。
30代なんてまだまだよ!
大体ね、結婚は夫次第なんだから。
夫は妻よりも自分の母親を優先するんだから。
みんな、そう!」
おや?
「わたくしもそう思いますわ。
残念なことですけどね、
殿方はいつまでたっても子供のままで
いたいんですわ」
ヨウコさんも加わる。
「そうですよ!
ミナさんはこんな美味しいお菓子を作れるのだし、
美人でいらっしゃるし。
私達も付いていますわ!
男性がいなくでても全然大丈夫ですわ!!」
ウォホン、オホン!
「・・・なんだか、肩身が狭いですな」
一之瀬警部補が咳込んだ。
「・・・なるほど」
ミナと元夫のやり取りを、
ずっと思案顔で聞いていた久保刑事が
ポツリと呟き、まだ玄関に立っていた
ミナの側に近づいた。
そして長身を曲げてミナの顔を覗き込んだ。
「あの、不躾な質問なのですが、
今後平原さんは、
再婚するおつもりはないんですか?」
突然の問いにミナが驚いていた。
ちょ、ちょっと!
そんなストレートなことを!
「・・・・そうですね。
結婚は、私には向いていないようです。
ありがたいことに、今は仕事も友人も家もあります。
今はそれで充分です」
戸惑った様子でミナが応えた。
「それはこれからも変わりませんか?」
「それは・・・絶対とは言えませんが・・・」
「・・・では、平原さん。
僕とお付き合いして頂けませんか?」
ええっ!
聞いてた!?
今のミナの言葉!
「僕のこと、お嫌いですか?」
「は!?い、いえ、そんなことは!!」
ミナが真っ赤な顔で否定する。
「この半年程、僕は平原さんのことを見てきました。
あなたの仕事に対する姿勢や、情熱、
友人への思いやりの深さ、バイク好きなところ、
そして少し不器用なところなどをすべて含めて。
・・・今まで通りでいいんです。
あなたが今の生活を変えることはありません。
それに、僕に合わせる必要はありません。
僕は刑事という仕事に誇りを持っていますが、
平原さんは僕の仕事も尊重してくれています。
僕も平原さんのことを尊敬している。
お互い仕事に邁進しながら、
うまくお付き合いできると思います。
・・・いかがですか?僕は」
ミナは口をパクパクさせて返事も出来ないようだ。
・・・良かった、元夫がいなくなった後で。
ミナはいきなりの事で
かなりパニックに襲われている。
こういう突発的なことは昔から大の苦手だ。
しかし、この場で一番焦っているのは
一之瀬警部補かもしれない。
「く、久保!
ちょっと待て!
お前・・・こんな、恥ずかし気もなく・・・」
「何がですか?警部補」
「いや、お前、こんな公衆の面前で・・・」
「皆さんの前だから言うんです。
平原さんのことを皆さんが大事にされていることが
わかるからです。
ですから、心配されないように皆さんの前で」
「お前、それは、その、愛の告白だよな!?
あ、愛の告白など・・・・。
そ、それに、平原さんは一人の自立した
女性だぞ!?
そんな中途半端な覚悟で・・・」
「中途半端、とは?」
「その、中途半端な関係でだな、
その、一人の女性の将来を、
なんだ、その、不安にさせるような・・と」
警部補はしどろもどろだーー!
「僕はどちらでもいいのですが・・・
では結婚前提にします」
キッパリ言い放ったーー!!
「ではって・・・お前っ!そんな簡単に!」
一ノ瀬さんは、
空気を求めるように口をパクパクさせ、
すっかり冷めてしまった珈琲を喉に流し込んだ。
「・・・簡単ではこんなこと言いませんよ、警部補。
ずっと考えていたことです。
僕は彼女のことはまだすべて理解しているとは
思ってはいませんし、
それはオゴリでしかありません。
これまで、いい関係は築けてきたと思っています。
そして僕はこれからも彼女と時間を
共にしていきたいと真剣に考えているのです。
・・・ただ、平原さんの気持ちや生活もあります。
だから、僕の気持ちが平原さんの
重荷になるようなことはしたくないのです。
約束して縛るようなことはしたくないんです」
「・・・・・・・・・」
久保刑事が真顔でミナの顔を見つめ、
そっと両手を取った。
「僕はそういう気持ちで
あなたに交際を申し込みました。
あなたは一度結婚している。
二度目となるとあなたの重荷になりかねない。
だから、僕は貴女の気持ちを尊重して、
お付き合いしていきたいです。
そして、その先にまた違う未来が
見えたのなら、変えていけばいいのです。
・・・どうでしょう?」
愛の告白っていうか、
これってプロポーズじゃないの!?
初めて生で見た!!
ちょ、ちょっと母さん!!
母ショウコはいつの間にか
スマホで画像を撮っていた。
「証拠は残しておかないとね」
そうだけど!!
久保刑事も長身だが、ミナも女性にしては
高身長だし、スタイルもいい。
しかも美男美女の二人。
こう見るとお似合いだが・・・。
そこへ庭で遊んでいた仲良し父子が帰ってきた。
「あれ?どうしたの?・・・なんか変な雰囲気だね」
ミッキーがキョトンとしていた。
「どしたのミナちゃん?顔、真っ赤っ赤だよ?」
手を取られたまま硬直しているミナを見て、
アンが可愛く首を傾げていた。




