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第一章

【プロローグ】


白い花・・・甘い香り・・・これはユリの花か。

無造作に手で掴んだ。

そして空に向かって勢いよく投げ入れた。


クルクルと宙を舞ったユリは

引力に引かれ、冷たい水面に、

枯れた草の上にそっと着地した。

そしてそれは美しい人形の上にも降り注がれた。

なんて美しい・・・これは芸術だ。

そう、私の作品。

うっとりとした恍惚にも近い感情に支配される。


ん?

ユリの残り香に混じって違う匂いがする。

・・・これは・・・何だ?



【第一章】


2月のカフェ・ヴェルデはチョコレートの香りに包まれていた。

菓子業界にとって一大イベント、そう、バレンタインの季節である。

特にチョコレート専門店の売り上げはこの2月に集中するという。

カフェ・ヴェルデでもバレンタインフェアとして

チョコレートを使ったメニューに力を入れていた。

「ショコラスティックパイ、お願いね?」

ミナが厨房の窓から店内の作業台に

トレーを勢いよく滑らせた。

「了解!ミナちゃん、オススメポイントは何て書く?」

受け取ったのはチカ。

手にはペンとメニューカード。

まだ粗熱が取れたばかりのようで、こちらにまで甘いチョコレートと香ばしい匂いが漂ってくる。

「まかせるわ。

ダークチョコレートをたっぷり入れたパイに、ピーナッツダイスを振りかけたの。

少しラム酒も入ってる。

端っこに試食用の小さいのがあるでしょ?

食べてみて?」

「やった!!いっただっきま~~す」

あ、ずる~い、チカってば!

アヤカの嫉妬の視線を受けながら、チカはかまわず一口で口に入れた。

「・・・うん、うん・・・この甘さ控えめのビターチョコにザクザクしたピーナッツ。

食感いいし、甘過ぎないし・・・このスティック形のパイ、

食べやすくって人気よね?

・・・じゃあね、『大人の為のショコラパイ。ブラック珈琲とどうぞ』・・・っていうのは?

シンプル過ぎる?」

するとミナがクスクス笑う。

「いいんじゃない?じゃあ、次は子供も食べられるお酒無しのも作らなきゃね」

「じゃあ、カードにはそう書くね」

アヤカは二人のやりとりを眺めつつ、

開店前の誰もいないカフェフロアのテーブルのひとつで、

今日の”オススメ”の撮影にいそしんでいた。

ミナの新作『マーマレードショコラシフォンケーキ』だ。

夏の間、新鮮なオレンジから作っておいたマーマレードジャムを

ココア生地に入れて焼き上げたシフォンだ。

チョコレートに柑橘類が合うのはわかっている。

そして、チョコレート系には珈琲が合う。

それに負けないようにストロングな味わいの珈琲を今日はチョイスしていた。

あ、でもふわふわにフォームしたミルクを乗せた

カフェ・オレでもいいかもしれないわね。

ここ最近、ミナの創作意欲は上がりっぱなしだ。

チョコレートで気持ちが高揚しているのかもしれない。

わがカフェ・ヴェルデが誇る専任パティシエ平原ミナは、

元々著名なシェフのレストランでパティシエをしていてその腕はお墨付き。

アヤカとは同じ歳の幼なじみで、

そのミナがお給料も待遇もいい店を辞めて、

カフェ・ヴェルデに来てくれたのは今も天からの贈り物だと思っている。

それにいつも沈着冷静なミナは、暴走しがちなアヤカの片腕として、

公私ともに何度もピンチを救ってくれていた。

妹の神宮寺チカがカフェ・ヴェルデで働きだしたのは想定外だったが、

今では頼もしい戦力の一角だ。

ウエイトレスの範疇を越えて、今では珈琲や紅茶の知識をものすごい勢いで吸収し、

菓子作りの技術すら腕を上げつつあった。

もし今チカに店を抜けられたら・・・と思うとアヤカは首を横に振った。

すでにこの店での3人の仕事のフォーメーションは出来上がっていた。

アヤカはといえば、カフェ・ヴェルデのオーナーとして今のところうまくやっている・・・と思う。

店を維持し、運営し、出版社時代に培った情報や流行にアンテナを張り巡らせ続けている。

もちろん店にも出て、掃除やウエイトレス、ミナのサポートまで何でもこなす。

このカフェ・ヴェルデは夢だった私の店。

現実は経費や税金などを考えて、夢ばかり見てはいられないけど。

それでもアヤカは白と黄緑の壁紙、緑のソファ、

美しいイングリッシュガーデンに満足気に目を巡らせる。

カウンターの上にはお菓子の重さで軋みそうなほど、

朝焼いたばかりのミナご自慢のお菓子がこれでもかと乗っている。

アヤカは思わず顔をほころばせた。

なんて幸せなの。

本当にそう思う。

この店を開いたことに後悔したことはなかった。

確かにオープンしたての頃にあるトラブルに巻き込まれたことはある。

しかしカフェ・ヴェルデの評判は上々だし、売り上げも確実に上がってきている。

この状態が続けば今のところ怖いものは無し!

さて。

アヤカはノートパソコンを閉じ、ソファから立ち上がった。

今日のカフェ・ヴェルデのホームページの更新は終わった。

亡くなった祖母ミドリから受け継いだアンティークになりつつある古い時計の分針は9時56分を指すところだった。

さあ、また新しい1日が始まろうとしている。

「準備はいい?二人とも。・・・カフェ・ヴェルデ、開店よ」

アヤカは勢いよく店の扉を開けた。


「お早うございます!本日のスコーンはバターミルクスコーンです」

「番号札をどうぞ。お品物はお席へお運びします」

開店したばかりのカフェ・ヴェルデは熱気に溢れ、アヤカとチカは対応に追われていた。

いつもの光景だった。

この2月の寒い時期、暖かい珈琲や紅茶、それに朝焼きあがったばかりの絶品焼き菓子を求めて、

続々(ぞくぞく)とお客様が訪れる。

それにここ最近、カフェ・ヴェルデのメニューを少し変えたばかりだった。

今アヤカが応対しているこの女性のお客様も『キャロットポパイキッシュ』を選んでいた。

「はい、あとカレントスコーンと・・・カフェオレですね」

今まで朝のメインはスコーンや甘くないパイやマフィンがメインで、

それに合わせて珈琲や紅茶の注文が多かった。

しかし、キッシュを投入してみたところ、あっという間に朝のメインメニューになったのだ。

キッシュとはパイ生地に卵と生クリームを混ぜたアパレイユを流し込み、

ベーコンやほうれん草などの具を入れチーズを乗せて焼いたフランスのお惣菜だ。

パイとオムレツが合体したようなお料理なので、

朝食として食べるのにぴったりだ。

「あ・・・」

アヤカがお会計をしていると、お客様がふとカウンターに置いてあるお知らせを指差した。

「またアフタヌーンティーやるんですね?・・・えーとバレンタインアフタヌーンティ?」

アヤカが一瞬手を止めた。

「ええ、そうなんです。

今度はバレンタインに合わせて、チョコレートとチーズをメインにした

アフタヌーンティーを開催するんですよ」

「わあ!いいな~。この間のクリスマスのときも行きたかったのに

すぐ埋まっちゃって・・・これ、まだ予約空いてます?」

「ちょっとお待ちください・・・ええと、まだ13日と15日が空いてますよ」

アヤカはバインダーに挟んだ予約表を見ながら答えた。

「あ、じゃあ予約お願いします・・・え~と3人で」

「かしこまりました。それでは代表者のお名前とお電話番号を・・・」

カフェ・ヴェルデでは不定期ながら、アフタヌーンティーも開催している。

毎回テーマを決め、ミナは頭をフル回転させながらテーマに沿ったメニューを創作している。

カフェ・ヴェルデは焼き菓子中心の店だが、

アフタヌーンティでは普段出さないお料理や生菓子を用意するので、

特別なイベントになっている。

そして毎回人気を博している。

小さな店なので予約制にしているのだがすぐ予約が埋まり、

そこがまたプレミアム感を醸し出し、評判を呼んでいるようだ。

実はキッシュを出し始めたのも、

秋から始めたアフタヌーンティーで出したキッシュが好評だったからだ。

その後、アフタヌーンティーには毎回創意工夫を凝らしたキッシュを出している。

モーニングやランチがないカフェ・ヴェルデとしては、

キッシュを軽食代わりとして注文してくれるとアヤカは踏んでいた。

予想は大当たりでしかも想像以上に売れ行きがよかった。

しかし新しい試みをするにも厨房の女王クイーン

ミナの負担が増えてしまうんじゃないかと、アヤカは二の足を踏んでいたのだ。

しかし、ミナはそんなことは全く意に返してなかった。

「大丈夫よ、キッシュってそんなに手間がかかるものじゃないから」

本当はそんなことはないのだけれど。

ミナは困難が立ちふさがるほど燃えるタイプだったのを忘れていた。

そうミナに言われてしまったので、

試験的に2月からレギュラーメニューとして加えてみたのである。

しかも日替わりでキッシュに入れる具を変えている。

つまり”ミナのきまぐれキッシュ”ということだ。

そして今日も朝からキッシュが飛ぶように売れている。

ブランチやランチでも。

これならまたカフェ・ヴェルデの売り上げも伸びる。

夢で始めたカフェだけど、

やはり事業主としてはそういうお金の面も考えなくてはならない。

ミナやチカ、もちろん自分にも生活があるのだ。

売り上げを上げて、材料を買って、光熱費を払って、お給料を払って・・・。

考えなきゃいけないことはいくらでもある。

このままうまくいきそうだったら・・・

(サイドにサラダを付けて、スープも付けたら・・・ランチにもなりそうじゃない?

あ、でもそうするとまた厨房が忙しくなるかも・・・。

ん~でもスープは朝仕込めばいいし・・・)

アヤカはキッシュの売れ行きにホクホクしながら幸せな妄想にふけっていた。

しかし、アヤカはその時考えてもいなかったのだ。

まさか後々(のちのち)、カフェ・ヴェルデで人気のキッシュが大変な事件に巻き込まれるなんて。


「カフェ・ヴェルデさ~ん!おはようございま~す!」

朝8時。

開店準備をしていたアヤカとミナは厨房にいた。

手がパイ生地でベタベタしていて手が離せないミナに替わってアヤカがドアを開けた。

裏口に立っていたのは、グリーン・フラワーマーケットの元気印だった。

「アヤカさん!おはようございます」

「あらユミちゃん、寒いトコご苦労さま!」

「ご注文の『ネコヤナギ』をお持ちしました。どうですか、これ?」

ユミが持っていた紙袋からネコヤナギの長い枝がはみ出ていた。

薄グレーのふわふわした羽毛のような花を付けている。

カフェ・ヴェルデでは時々近所のグリーン・フラワーマーケットに

店に飾る花を配達してもらっている。

暖かい時期はカフェ・ヴェルデ自慢のイングリッシュガーデンから摘んだ木花などを飾っているが、

冬場はやはり庭の潅木も少し寂しくなる。

今回アヤカは冬の雪に見立てようとネコヤナギを注文していた。

「まあ可愛いわね!さっそく飾らなきゃ」

「ネコヤナギって枝を切ったものだと思われがちなんですが、

水際に自生する花なんですよ。

生け花にもよく用いられますし・・・あ、これからお隣にもこれをお届けに行くんです」

「あ、ヨウコさんのところ?」

「はい!次はお隣りの長谷川様のところなんです。

それからもう1件で終わりです。

でもまだ霧が晴れなくって・・・のろのろ運転で来たから少し遅くなっちゃいましたね」

アヤカが頷いた。

確かにユミの背中越しは

まだ白い霧が雲のように漂っていた。

「そうね、私もよ。

朝から霧がすごくって車でココまで来るのは大変だったもの。

いつもより暖かいのはいいんだけど・・・ユミちゃんも運転気をつけてね?」

益戸市がある千葉の北部は濃い霧が発生することが時々ある。

夜と朝の寒暖差が大きい秋口や、

春が近くなると多いのだが、

冬でもこういった急に暖かくなった朝に起こることがある。

「そうですよね、私もスクーターですし・・・あ、いい匂いがしますね」

ユミが鼻をクンクンさせていた。

その仕草がなんとも可愛いらしい。

こげ茶色の髪は長めのショートカットで、耳元には白い花のピアスを付けている。

ダークグレーのダウンから白いタートルネックが首元から覗き、

下はグレージーンズに白いコンバース。

寒さのせいで鼻先が赤くなっている。

二十歳半ばだと思うが、

大きな目がくりくりと動き、美人というよりは可愛らしいという印象だ。

ミナが新しい鉄板をオーブンに入れながら言った。

「キッシュがさっき焼きあがったのよ。今日はサーモンとほうれん草のキッシュ」

「美味しそう!お腹空いちゃうなあ・・・」

アヤカが言った。

「あ、じゃあ焼きたて持ってく?」

「わあ、いいんですか?あ、もちろんお金は払いますよ!?」

「あらいいわよ」

「いえ、そういうところはちゃんとしないと!アヤカさん達も商売なんですから」

ミナがクスクス笑う。

「言われちゃったわね、アヤカ」

するとユミもミナに同調した。

「そうですよ。・・・私も将来自分でお店を経営しなきゃいけないんですから、

商品に対して敬意を払う意味でも、御代はちゃんと払わせてもらいます」

いっけない・・・前にも言われたことがあったっけ。

私ってば商売を軽んじてるって。

こういうとこ・・・ダメよね。

するとユミがいたずらして怒られたかのように、舌を出して笑った。

「って私が言っても説得力ないか。いつも珈琲とお菓子をご馳走してもらってますもんね」

ミナが笑った。

「それはいいのよ。こっちは試食してもらって意見をもらってるんだから」

「うーーーん・・・じゃあそれはそういうことで。でもキッシュはちゃんとお支払いします」

ミナが包丁を持ち上げた。

「わかった。じゃあ何切れいるのかしら?」

「そうですね・・・じゃあ2切れで」

ミナがキッシュを切り始めると、

アヤカはカフェフロアからテイクアウト用の箱を持ってきた。

ミナが箱を受け取ると大きく切り分けたキッシュを詰める。

「はい、じゃあこれ・・・いくらなの?アヤカ」

「¥800よ」

ユミは斜め掛けしたポーターのバッグからお財布を取り出した。

「・・・じゃあこれで」

「確かに。毎度あり!」

アヤカが大阪商人のようにおどけて言うと、ミナもユミも吹き出し3人で笑い合った。


「おはよう、姉さん、ミナちゃん!今日は暖かいね~」

体を縮こませるように裏口から入ってきたのはチカ。

腕章が特徴の『モンクレール』のカーキのロングダウンに、白いジーンズを履き、

足元は黒の『エミュ』のブーツ、そして『LLビーン』の大きなトートバッグを持って立っていた。

「おはよ、チカ。・・・あったかいって言うわりにはすごい装備ね」

「ううん!自転車だとやっぱり寒くって!

さっきアンを幼稚園に送って行ったんだけど、他のみんなはもっと重装備よ」

コートをいそいそと脱ぎながらチカは言った。

「車で来ればいいじゃない」

「そうはいかないのよ。雨や雪の日ならまだわかんないけど、

他のママたちはみんな自転車で来てるんだから」

ミナがのんびりと言った。

「そんなの気にしなきゃいいんじゃないの?」

すると、チカが腰に手を当てて言う。

「あのね~ミナちゃん。それだとダメなの。

ママ達っていうのは”平均”が大事なの。目立ったりしちゃダメなの。

車で毎回送り迎えしてたらすぐ浮いちゃうんだから」

ミナがやれやれという表情を浮かべる。

「・・・大変なのね」


「アヤカさん大変!!」

11時半、店のドアが開いて、鈴の音を掻き消すかのように大きな声が店内に響き渡った。

店の入口でドアを支えにして肩で息しているのは、カフェ・ヴェルデのお隣りさんだった。

長谷川ヨウコさん。

およそ8・・・いえ、年齢を上手に重ねた気品溢れる未亡人で、

お隣の日本家屋のお屋敷で華道と茶道の教室を開いている。

そしてアヤカとチカの亡くなった祖母ミドリとは友人関係であった。

アヤカたちとも今は大人の女性同士として親しくしてもらっていて、

カフェ・ヴェルデの常連さんでもある。

カフェ・ヴェルデがこの場所で受け入れられたのも祖母ミドリと

このヨウコさんのおかげでもある。

そのヨウコさんが大きな声で店内に飛び込んできた。

一体どうしたのだろうか。

普段はもの静かな人なのに。

フロアにいるお客様もどうしたのかとチラチラとヨウコさんに視線が向けられている。

玄関の一番近くにいたチカが走り寄った。

「どうしたんですか?ヨウコさん」

「あ、あの花屋の娘さんが・・・」

「・・・え!?」

アヤカもカウンターを出てヨウコさんに駆け寄ろうとした。

「お、奥様~~!!ま、待ってくださいって~~!」

そう言いながらまたドアが開き、第二のお隣さんが登場した。

ヨウコさんの住み込みのお手伝いさん、岡本キクさんだ。

ヨウコさんとキクさんは主従関係になるが主人と使用人というよりも、

もっと親しい関係で結ばれた親友同士といったほうがいい。

お互い夫君を亡くしているのもあって、状況的にも気が合うのだろう。

キクさんは胸を押さえて激しい息を押さえようとしていた。

「はぁ、はあ、あ、アヤカさん・・・」

「と、とにかくこちらへ」

アヤカは急いで二人の背中を押しながら、奥のソファ席へと連れていった。

第二の妙齢のマダムが現れたことによって、ますます店内の視線を集めていたのだ。

チカが慌てて作業台でお冷やをグラスに注いでいた。

ヨウコさんはソファに身を沈めると大きく息を吐き出した。

「も、もう大丈夫ですよ・・・ありがとう」

ヨウコさんはチカが差し出した水を上品に飲み干した。

そして一気に言い放った。

「・・・亡くなったんですのよ!」

チカが聞き返す。

「え!?だ、誰がですか!?」

「だから、あの花屋の娘さんですよ!」

アヤカが言った。

「それって・・・まさか緑川さん!?」

「違い・・・ますわ」

キクさんもぐったりしながら水を飲んでいた。

「ほら、あの若いほうのお嬢さん、今朝お花を届けてくれた・・・」

アヤカがキクさんを凝視した。

「え、じゃあ・・・ユミさんのことですか!?」

「そうみたいですわ・・・とにかくそのお嬢さんが

益戸神社で亡くなっているのがさっき発見されたんですって!!」


益戸神社はカフェ・ヴェルデから7分ほど歩いたところにある神社だ。

江戸時代初期に創建され、水戸徳川家から庇護を受け、

長く益戸の鎮守として信仰を集めている。

境内には江戸時代から現存する本殿、龍神を模した手水舎がある水神社、

防火の神を奉る秋葉神社などがあり、境内はそう広くはないが、

社殿以外にも多数の境内社がある。

春になると桜が咲き、坂戸川のすぐそばにあるので、地元では散歩コースとしても親しまれている。

ヨウコさんはやっと気持ちが落ち着いたようで、ゆっくりと温かい珈琲をすすっていた。

「そう、そうなの。その益戸神社で竹野内さんが見たんですって」

ヨウコさんの前に座っていたアヤカは首を傾げた。

チカには接客に戻ってもらい、アヤカが話しを聞くことにしたのである。

それでもやっぱり気になるらしく、こちらのほうをチラチラと見ているのだが。

「あのヨウコさん・・・竹野内さんって?」

「あら、ごめんなさいね。

竹野内さんはウチのお花の教室の生徒さんなの。

駅向こうに住んでいる方なんだけど、ウチに来るなりそのニュースを教えてくれたのよ。

いつも益戸神社にお参りしてからウチのお教室に来てるんですって。

それで、ウチの10時からのお教室に来る前にいつも通りにそこに寄ってみたら・・・」

「パトカーや警官がたくさんいらっしゃったんですって!」

今度はキクさんだ。

「あの黄色い警察のテープが張られてて、あまり見えなかったみたいなんですけど、

地面に置かれているブルーシートがあるのだけは見えたそうですわ。

それで、その側にあの花屋の緑川さんのお嬢さんがいらっしゃったみたいです。

で、その緑川さんが『ユミちゃん、ユミちゃん』って言って泣いてらしたんですって。

もう一人若い男性が一緒にいたみたいですけど、あの方もお店の店員さんかしら・・・」

アヤカはショックのあまり、声がしどろもどろになっていた。

「そんな・・・ユミちゃんが?・・・だって、だって、今朝ウチに配達に・・・」

アヤカが最後まで言えないでいると、キクさんも大きく頷いた。

「そうなんです・・・ウチにも今朝お花を届けてくれたばかりなんですわ。

応対には奥様が出られたんですけど、まさかその後で事故に合うなんて・・・」

「事故?事故なんですか?」

アヤカが聞いた。

「さあ・・・そこまで詳しくは。竹野内さんもそこに少ししかいなかったみたいですし。

今は晴れましたけど、さっきまで霧でしたし・・・。

お店のスクーターがあったみたいですからそれでかもしれないですね」

ヨウコさんが悲痛な表情を浮かべる。

「まったく・・・なんてことかしら。

私のようなものじゃなく、あんな若い可愛らしいお嬢さんが・・・。

しかも神社で・・・神様の御前で亡くなられるなんて・・・本当にお気の毒ですわ・・・」


午後2時。

お昼の混雑が過ぎ、店内は何組かのお客様しかいなかった。

ヨウコさん達が帰ったあと、アヤカはユミちゃんが亡くなったというのをミナとチカに告げた。

二人とも突然のことにショックを受け、黙りこくってしまった。

アヤカもヨウコさん達の話に動揺していたし、

すぐにでも確認したかったが仕事があった。

なんとか気持ちを押さえつけてお昼を乗り越えたので、

今、こうしてカウンターで3人で話していたのだった。

チカがエプロンを無意識にいじりながら言う。

「そんな・・・今朝ウチに来たのが8時頃なんでしょ?

それでヨウコさんの家に行ったとしても・・・

亡くなったのは、8時半頃から10時までの間ってことなのね」

ミナが暗い顔で言った。

「信じられない・・・一体どうして」

そこへカランと来客を告げる鐘が鳴り、ドアが開いた。

「いらっしゃいませ・・・お待ちしていました」

アヤカがカウンターを出て迎え入れたのは、益戸警察署捜査課の一之瀬いちのせさん。

年季の入ったグレーのツイードコートを着ている。

普段愛想がいいとはいえない人だが、時々予想外の気の効いた気転を見せることがある。

事件に取り組むときは厳しく、粘り強く努力を惜しまない。

後ろに制服の丸顔の優しそうな警官を一人従えていた。

いつも一緒に組んでいる部下の久保刑事の姿が今日はなかった。

アヤカの言葉に一之瀬さんは一瞬驚きの表情を見せた。

きっと来ると思ってた。

アヤカは一番奥の『リザーブ』と札が置いてあるソファ席に案内した。

案内すると、一之瀬刑事が奥に座り

アヤカは手前に座ったが、警官は傍に立ったままだった。

するとチカが珈琲3つと『ショコラ・コロネ』の皿を持ってきた。

チカが席を離れると見届けると開口一番、一之瀬さんが言った。

「鈴井さんは私がここに来るのがわかっていたみたいですね」

アヤカが重い口を開けた。

「ユミちゃん・・・益戸神社で亡くなったグリーン・フラワーマーケットのユミちゃんのことを聞きにいらしたんでしょう?」

「ああ、もう聞いているんですね。それじゃ申し訳ないが、話が早い」

そう言って、上着の内側から警察手帳を取り出した。

「お知り合いを突然亡くしてすぐお聞きするのは恐縮ですが、

・・・本日9時半頃、警察に通報がありました。益戸神社で女性が死んでいる、と。

通報者は名前を名乗らずに電話を切り、不明です。

いたずらかと思ったんですが、念のためにこの・・・」

そう言って一之瀬さんは傍らにいる警官に顔を向けた。

「神社から近くの益戸駅前交番のこの八幡やはた巡査に行ってもらったところ、

益戸神社傍の坂戸川に架かっている橋の下に女性が倒れていました。

境内にはスクーターが止められており、

スクーターの横には『グリーン・フラワーマーケット』と書いてありました。

八幡巡査が店を知っていたので、すぐ連絡をとり身元がわかりました。

被害者は松田ユミさん、25才、グリーンフラワーマーケット従業員」

アヤカがぼそっとつぶやいた。

「・・・ユミちゃんの苗字、松田って言うんですね」

「鈴井さんは知らなかったんですか?」

「会った最初に聞いたかもしれませんが・・・ずっと名前で、ユミちゃんって呼んでいたので」

「じゃあ、そこまで親しくないと?」

「そうですね。グリーン・フラワーマーケットに花を買いに行ったり、

時々ウチに配達に来てくれてました。

話はしていたんですが、世間話的なものでそれほど深い話はしたことがなかったんです。

でも、明るくて元気で・・・今朝も配達に来てくれていたんです」

ふいにアヤカの目から涙が溢れそうになった。

「そうですね、だから私が来たんです」

そう言うと、一之瀬警部補が珈琲カップも持ち上げた。

「ああ、濃くて美味しいですな。・・・目が覚める」

「・・・今日は、今日の珈琲は少し強めなんです。

あの、良かったらショコラコロネもどうぞ・・・そちらの警官の方もよかったら」

一之瀬刑事が立ったままの警官をチラっと見る。

「・・・八幡巡査、せっかくだから座って頂くといいだろう」

「・・・はっ、じゃあ失礼して」

そういうと、ソファに浅くチョコンと座り、珈琲をぐっと咽に流し込んだ。

入れたての珈琲は熱かっただろうに、そんな素振りも見せずメモを取る姿勢にすぐ戻った。

真面目そうな警官のようだ。

一之瀬さんの話が再開する。

「で、松田ユミさんは何時頃こちらに?」

アヤカはユミが来たときのことを思い出しながら答えた。

「朝8時を回ったころでした・・・」

一之瀬さんの口から次々と質問が飛び出す。

「何か変わった様子は?」

「話しているとき気になったことはありましたか?」

「そのときの格好は?」

・・・変ね。

一之瀬さんの質問に答えながら、アヤカはふと疑問が湧き上がってきた。

なぜこんなことを聞くのだろう?

まるで・・・ユミちゃんが・・・まさか・・・?

アヤカは意を決して聞いてみた。

「あの、一之瀬さん。何か変じゃないですか?そんな事ばかり聞くなんて」

「・・・・・・・」

一之瀬刑事が困ったたような表情になった。

もしかして・・・。

「・・・ユミちゃん、事故じゃないんですか?」

思い切ってアヤカが言うと、

一之瀬刑事は大きなため息をついてショコラコロネにがぶりと噛み付いた。

「一之瀬さん?」

アヤカが呼び掛けると、今度は珈琲をぐいっと一気に煽った。

「・・・全く、相変わらずカンがいいですな、鈴井さんは」

「え、じゃあ・・・」

「残念ながら、事故ではありません。被害者松田ユミさんは首を絞められて殺されました。

そして、川に投げ込まれた状況で発見されたんです」


「そんな・・・酷い・・・」

殺人。

事故じゃあなかった。

しかも首を絞められて、そのあと川へ?

酷すぎる。

その事実が受け入れられない。

アヤカは益戸神社を思い浮かべた。

益戸神社の横には幅が狭い川が流れている。

東京と千葉の間の伊戸川から分かれたのが坂戸川だ。

坂戸川はそんなに大きく、深い川ではない。

亀や(ふな)が泳いでいたり、鴨などが水面で遊んでいたりするが、

水中には水草や藻が繁り、お世辞にも綺麗な川とはいえない。

しかも今は2月。

土手沿いの草はほぼ枯れ、息を潜めて春を待っているところ。

今は寂しいかぎりだ。

その坂戸川に殺してから投げ入れられた?

わざわざ?

なぜ?

「・・・酷い仕打ちですよ。死者を愚弄ぐろうしている」

一之瀬刑事は苦虫を噛み潰したかのように顔を歪めた。

この百戦錬磨の冷静なベテラン刑事が。

「詳しくは解剖待ちですが、頭に打撲痕があり益戸神社本殿の階段で血痕が見つかっています。

足を滑らせたのか、無理やり頭を打ちつけられたか、

もみ合っているうちにそこに頭をぶつけたか。

今の段階では分かりません。

それから首を絞められ・・・川に投げ入れられたようです。

死体は人から見えにくい橋の下にありました」

「・・・・・」

「ちなみに・・・乱暴された跡は無く、金銭も取られていませんでした。

なので通り魔か、怨恨によるものと思われます。

・・・鈴井さん、大丈夫ですか?」

アヤカはなんとか声を絞り出した。

「・・・・・怨恨・・・つまり、恨みってことですか?

なぜ・・・彼女、ユミちゃんはいつも元気で明るくて・・・

敵を作ったり怨まれそうな感じのコじゃなかったのに」

「それは調べてみないと分かりません。

しかし花屋のオーナーもそういってましたよ。なんでこの子がって・・・」

「緑川さんがユミちゃんを・・・その、確認したんですか?」

「そうです。我々が川から引き上げて、対面をお願いしました。店の若いバイトの男性と一緒に。

・・・ちなみに、店の中でいざこざがあったとか聞いてませんか?」

「・・・いえ、聞いていません。

それに私はそのバイトの男性は知らないんです。

緑川さんとは親しくしていますけど・・・まさか一之瀬さん、緑川さんを疑ってるんですか?」

一之瀬さんが頭をぽりぽりと掻く。

「まあ・・・こういう他殺の疑いが有力になれば、身近な人からというのがセオリーですから。

ご両親は小田原にいると確認がとれたので、すでに除外されています。

益戸で殺人をしたあと、小田原までは1時間半では帰れないでしょう?

あとは、周りにいる友人や、仕事仲間、それと恋人、ですね」

「もしくは通り魔ですか?」

「それも可能性はありますが、確率は低いですね。

バッグやお財布は取られていませんでしたし、

金銭を奪うにしても、死体を川にわざわざ投げ込む必要はないはずです。

普通犯人は一刻も早く現場から逃げ出したいと思うものなのです。

ということは怨恨の線が濃い・・・それと妙なことが一つあるんです」

「妙なこと?」

アヤカが首をかしげた。

「松田ユミが乗っていたスクーターですが、神社本殿の裏にあったんです。

目立たないところに。ちゃんとスタンドを立てて起立していました」

「え、でもそれって・・・ユミちゃんがそこに置いたとかじゃないんですか?」

なんでそんなことが気になるの?

「いや、奇妙なところはそこじゃありません。

・・・彼女の遺体の周りに白いユリが散乱していたことなんです」

「ユリが・・・?」

「そうです。

そのユリは神社に届けられる花だったようです。

ユリはスクーターの後ろのボックスにまだ少し残っていました。

スクーターが倒れて、偶然彼女の上に花が落ちた・・・ならわかります。

しかし、スクーターが置いてあったのは神社の裏。

川からは離れています。

しかもそのユリが遺体の傍だけじゃなく、身体の上にもあったんです。ということは・・・」

「・・・犯人はユミちゃんを川の下に落としたあと、わざわざスクーターに積んでいたユリをバラまいた」

なぜ?

アヤカは急に寒気を感じ、自分で自分を抱きしめた。

「もしくはすべて・・・その犯行が終わったあと、わざわざスクーターを立て直した、ということになります。

・・・犯人は異常者ですよ。頭がおかしい奴なんです。

しかしそういう奴に限って、普段は日常に溶け込んで我々と同じように生活しているんですよ」


「これからヨウコさん、いえ、お隣の長谷川さんのお宅にも伺うんですか?」

アヤカが聞くと、一之瀬さんは渋い顔をする。

「・・・そういうことになりますな。

松田ユミの朝方の足どりを追っているので、次はお隣さんですな。

しかしどうも・・・あのお宅は苦手なんですが・・・」

実は以前、お隣のヨウコさん宅で事件があり、

その後、他の事件でも一之瀬さんとヨウコさん達は顔を会わせているのだ。

すっかり顔なじみになったようだが、

かなり妙齢なお年頃のヨウコさん達は、

かつて警察を押しのけるほどの気概で、一之瀬さん達警察をビビらせたことがある。

それ以来どうも苦手な対象らしい。

一之瀬さんが席を立とうとした。

「それじゃ、色々お話ありがとうございました」

「いえ・・・あ、そうだ。あの、キッシュはどうなりました?」

「キッシュ・・・とは?」

一之瀬さんが不思議そうな顔でアヤカを見た。

「キッシュ・・・えーと三角形の、パイ生地にタマゴ液を流し込んで焼いたオムレツのようなものです」

「それが?」

「それがって・・・・今朝、ユミちゃんがココに来たときにウチで買っていったんです。

2切れ箱に入れて・・・」

一之瀬さんの顔が急に渋くなった。

「・・それは初耳ですな。・・・じゃあ、そのキッシュというお菓子が消えたということですか」

アヤカが首を振る。

「いえ、お菓子じゃなくて・・・フランスのお惣菜の一種で・・・ちょっと待ってください」

アヤカが急いでカウンターの上からキッシュが入ったケーキドームを持ってきた。

「これです。こういうモノなんですが・・・」

「・・・私は見ていませんな。そういうものがあったという報告も受けていません」

「え?・・・じゃあ・・・」

一之瀬刑事が首を振った。

「・・・どういうことですかな。

このキッシュとやらを松田ユミが今朝こちらで買ったというんですね?

しかし現場にはそんなものはあったという報告は私は

受けていませんな。

まさか一人歩きはしないでしょうね?」

これは一之瀬刑事流の冗談かしら?

聞き流しながらアヤカが言った。

「ユミちゃんはスクーターだったから手では持たないはずです。たぶん後ろの花が入っているボックスに入れて置いた筈ですよね。

それがないってことはウチで買って、益戸神社に行く前に

食べてしまったか‥それともどこかへ置いてきたか・・・」

その先を想像してアヤカは驚きの表情を浮かべた。

「それとも犯人が持ち去ったか」

続きを一之瀬刑事が言ってくれた。

「・・・どうやら謎が一つ増えたようですね。

キッシュ・・・キッシュですか。鑑識にそれも確認しなくては」

一之瀬刑事が今度こそ本当に立ち上がった。

一言も発せずメモを取り続けていた警官もあわてて一緒に立ち上がった。

「さて、そろそろお隣へ行ってきましょうかな・・・鈴井さん、どうせまたやるんでしょう?」

「え?」

「また捜査に首を突っ込むんでしょう?」

「それは・・・」

口ごもりながらも、アヤカの決意はとっくに固まっていた。

もちろんやるわよ。

毎日のように言葉を交わしていた親しい人が殺されたんだもの。

しかもむごたらしい殺され方で。

許せない。

アヤカは怒りに燃えていた。

何も言わないアヤカに一之瀬さんが仕方なさそうに、

ため息をついた。

「しょうがありませんなあ・・・我々の捜査を妨害しないかぎり私としては止める権利はありませんから。

捜査内容は基本秘密ですが・・・たまにココに寄って世間話をすることもあるでしょう。

ここの珈琲は美味しいですからね。

ただし、我々にはわかった情報は包み隠さず教えてくださいよ。

そして少しでも危険を感じたら、すぐ手を引くこと。

それが条件です。いいですね」

アヤカは驚いた。

あらら、なんとなくだけど許可が出ちゃった。

じゃあやるわ。

そうよ、私にはこういう時の頼もしい協力者達がいる。

みんなもきっと協力してくれる。

好奇心とミステリーに興味津々の人達が。

絶対、こんな酷いことをした犯人を捕まえてやるんだからね!

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