守護天使
「昨日の晩、すごくよかった」と横で寝たわる彼女は言った。「途中で首を絞めてきたり、おしりを激しく叩いて来たり。貴方がそんなことをできる人間だなんて思ってなかった」
「ああ、俺も思わなかった」
君は彼女の言葉に笑みを返すが、正直に言えば昨晩のことはよく覚えていない。何年振りにも酒を飲んで、ベッドに入ったせいだろう、昨晩の記憶は霧にかかったようにぼやけている。俺は酒で人が変わってしまう人間であるらしいと君は思った。
君は良く覚えていないだろうが、昨日君は友人に無理やり連れて行かれてクラブに行ったのだ。そこで自分と同じく一人でつまらなさそうにしている彼女に目を付けて話しかけた。初対面だったが、彼女が酒を飲み、君にも酒を飲ませた。アルコールも手伝って君たちはとても上手くいき、君は彼女を家に連れ込むことに成功した。
ヘッドボードに置かれた目覚まし時計を見ると、針は朝の七時三十分を指していた。俺が眠っている間にも針は勝手に進んでいるのだと君は思う。ベッドから出た君は、浴室に向かった。いつもと違って顔が脂ぎっていて、まるで違う人間のようだと君は思った。顔を洗った後、キッチンにある冷蔵庫へ向かう。牛乳パック、オレンジジュース、水の少し入った一升瓶があった。君は一升瓶を手に取る。水を口に注ぎ込ぎこみながら、キッチンと寝室とにある光源で自分の影が二つに分かれているのを君はぼんやりと見ていた。水が一口分だけ残った。あとで寝室で飲もうと君は思った。
君は朝食代わりのものがないかと冷蔵庫を探すが、生憎にもバナナが一房、しかも二本しかついていなかった。
「朝食はバナナでいい?」
部屋に戻ってベッド脇のテーブルに一升瓶を置いて、そう尋ねると、ベッドで寝たままの彼女は眉をひそめた。
「貴方が昨日の晩、『僕がおいしい朝食をおごるよ』て言ったんじゃない。忘れちゃった?」
そうだったろうかと君は訝しがる。生来の弱い記憶力に加え、アルコールが入ると加速的にもの忘れがひどくなるらしい。普段から、送った記憶のないメールが送信されていたり、鍵を見覚えのない場所に置いていたり、自分がどんな帰り道を通ったのか忘れていたりする。忘れまいと君はよくメモを取るのだが、そのメモに書いた覚えのない言葉が書かれていることがしょちゅうだった。
「まあ別にお腹へってないからいいけどさ。それよりもさ」
彼女は笑った。
「続きをやろうよ」
君は喜んでベッドに戻った。
それは非常にぎこちないものだった。それは君に義務的な快楽をもたらしたが、彼女にとっては不快ですらあるようだった。
行為の途中、彼女は懇願するように言った。
「首、絞めてみて」
君は頷き、両手で彼女の首を絞め始める。しかし加減を知らなかった君は、つい全力で首を絞めてしまったようだ。しばらく経って、彼女が手で君の頬を何度か叩いたときにようやく、彼女を殺しかけていることに君は気づいた。彼女の顔はほとんど紫に染まっていて、眼は少し充血していた。
君が手を解くと彼女は君を突き飛ばし、ベッドから降りて何度も咳き込んだ。
「あんた、私を殺す気?」
そう言って君を睨む。充血した眼のせいか殺気立ったように見えた。
「すまない。力を入れすぎた」
彼女は掠れた声で絶叫する。
「ふざけんな。本当に死ぬところだった」
「俺は謝ってるだろう」
彼女は聞く耳を持たないようだった。顔を真っ赤にして、脇に置かれていたバッグから携帯電話を取り出す。
「警察に通報する。男に家に引き込まれて暴力を受けたって。今すぐ殺されそうだって」
彼女は携帯電話を耳に当てながら言った。
「あんたは最低の人間よ」
君は怒りで我を忘れた。
ふと目覚めると君は、目の前に彼女の身体を発見して激しく狼狽する。彼女は床に倒れ、ぐちゃぐちゃに潰れた頭を中心にした血溜まりがあったが、既に半ば乾いている。肌が漂白したかのように異常に白い。死んでいるのには間違いなかった。けれども君には彼女を殺した記憶などなかった。けれどこの数時間――時計を見ると八時三十八分になっていた。一時間弱の時間が経ったらしい――の記憶は全くの空白だ。殺していないことを支持する記憶もない。
茫然自失としながら、君は彼女の手に握られた携帯電話を目にする。今すぐ警察に電話して出頭すべきだろうか。いやまだ俺が彼女を殺したのだという決定的な証拠があるわけではない、記憶もないのだ、そう思っていると、やけに右手が重い。見ると、君の手には血塗られた一升瓶が握られている。目を見開く。確実に自分が殺したのだと君は確信する。出頭すれば罪は軽くなるだろうが、長い懲役は免れないだろうと君は考え、恐ろしくなる。
しかし君が心配することはない。
君は殺人を犯してなどいないのだ。彼女を殺したのは君ではなく僕なのだから。
もし殺人罪で捕まっても罪に問われることはない。アメリカでは、ある人が重罪を犯して捕まったが結局無罪になった。なぜなら、彼――いや彼らと言うべきだろう――は多重人格障害だと判明したからだ。きっとここでも同じように、僕らは無罪になるだろう。