作りもの従姉妹
両親に何度鍵付きの洋服タンスをねだったかわからない。しかしそれは、高校に上がった今になっても果たされないままだ。タンスというものが相当値が張るものだということは知っている。それでも、私は鍵付きのタンスがほしいのだ。
一年の私たちにとっては先輩のお供だけだった夏の競技会も終わって夏休みも残りわずか、宿題の存在がいつの間にか重圧になってしまっていた。幼馴染で同じく陸上部に所属している幸人も似たような状況のようで、私たちは連日手分けして宿題を片づけていた。
窓を閉めてエアコンをかけていても、蝉の声を完全に遮断することはできない。ずっと屋外を駆けながら聞き続けていた声のはずだったが、今はそれが無性に癇に障った。
「蝉の声がうるさいから雨戸閉めていい? 日光を遮ればエアコンの省エネにもなるんだよね、確か」
どうしても集中力が維持できなくなった私は、たまらず向かいで数学の問題に向かっている幸人にそう提案した。
「えー、それは嫌だな。陰気くさいじゃん」
ノートに書きこむ手を止めずに、少し間延びした声で幸人は答えた。短距離の私と長距離の幸人とでは持続力が違うらしく、窓さえも貫いてくる声に集中を乱された様子はまるでなかった。
「じゃあ私の国語と幸人の数学を交換して。数学なら、一問一問インターバルの要領でまだやれると思う」
「はいはい、わかったよ。どうしたってできるだけ手分けして一問でも多くやらないとだからね」
日に焼けた、男子にしては細い腕を伸ばして、幸人は数学セットを差し出した。私は空いたスペースに国語セットを押しやってから、それを受け取った。互いの得意分野から外れてしまうことになってしまうが、これ以上ものを読み続けることに私は耐えられなかった。
気合を入れてダッシュで一問を解く。それから流して息を整えるように深呼吸を何度かして、ダッシュでまたもう一問。それでどうにか走れそうだった。幸人はと言うと、黙々と問題に向かっていて、時折さらさらとノートに答えを書いているようだった。
コンコン、カチャ。部屋のドアが開いて、微かな空気の流れが生じた。
「二人ともお疲れさま。ひと休み、どう?」
姉の里香がお盆にスポーツドリンクをふたつ乗せて入ってきた。日に焼けて宿題に疲れた私たちとは対照的に、姉はきちんと日焼け止めをした美白の笑顔をたたえていた。
「里香姉、ありがと」
片方を受け取った幸人は、ゆっくりとそれをのどに流していった。後から受け取った私の方が、先に飲み終わったくらいだった。
「幸くんは上品ね。里紗も少しは見習ってほしいくらい」
ちらっと私に横目で視線を送りながら、姉は嫌味を吐いた。
「習慣だから。一気に飲むと体が疲れるんですよ」
幸人は相変わらず少し間延びした声で答えて、ようやく一本飲み干した。ごく普通の答え方で、私のことをフォローしてくれることなどなかった。
「それならどうして里紗はそうしないの?」
「私は100mだから、走りながら飲むマラソンとは違うの。短距離と長距離じゃ同じ走るでも全然違うって、いい加減お姉ちゃんにもわかってほしいんだけど」
陸上にまるで理解のない姉をなじってはみたが、それは通じなかったようで、姉は表情ひとつ曇らせるようなことはなかった。
「今日もお昼ウチで食べていってね、幸くん」
結局最初の笑顔を絶やすことなく、姉は空のドリンクを持ち帰っていった。
「はい。ありがとうございます」
対する幸人は少し疲れたような、やつれたような表情で、礼を返した。多分私も、似たような顔をしていたと思う。
昼食時に宿題の進み具合を聞かれて良好だと答えた幸人は、昼食が終わると里香姉の部屋に呼ばれた。ドリンク差し入れの時からずっとにこにこしていた里香姉に嫌な予感を感じていたが、それが当たってしまったのだった。
里紗の部屋と同じように学習机とベッドと本棚と洋服ダンスと二人で使うくらいのテーブルがある部屋なのだが、本棚の中身は見た目から明らかに違っていて、一段はまるまるアルバムだった。里香姉は昔から写真が趣味で、そのほとんどは幸人や里紗が被写体のものだった。
今日も今日とて机の上にデジカメが、ベッドの上には洋服ひと揃えが、置かれている。
「昔から幸くんはスラっと細っこくて、ホント可愛いんだよね」
午前中比三割増くらいのにこにこ具合で、里香姉が口火を切った。中学の頃に長距離向きの体形だと言われてずっと長距離をしているのだが、里香姉にとってはその細身の体形は別の意味を持っている。
「今日はこれ着て、付き合ってね」
ベッドの上にある服は、里紗が何度か着ていたのを見た覚えがある。それを里香姉は幸人に着せる気なのだ。幸人は憮然として黙ったままで、部屋の隅に目を泳がせた。それは、拒否しないことを意味していた。
もちろん、好んでこんなことをするわけではない。しかし、絶対に断れないのだ。それだけの材料が、本棚に並んでいる。
里香姉や里紗とは物心つく前からの家族ぐるみの付き合いで、二人の父の趣味の写真をいつごろからか里香姉が真似しだして、アルバムには幸人や里紗の小さいころからの写真が大量に保存されている。たくさんの、思い出したくないような恥ずかしい思い出さえも、そこにはきちんと保管されている。
それが幸人が断れない材料なのだ。スキャンダルの写真で脅されるアイドルの気持ちを、幸人と里紗は骨身に染みて知っていた。
真っ白な半袖のボレロカーディガンと、薄いベージュ地に小さな花柄の腰のあたりにリボンをあしらった膝丈のキャミワンピ。夏だけあってなかなか露出度の高いもので、それだけに抵抗感はひときわ大きかった。
「幸くんキレイに日焼けしているし、腕とかすねとか全然毛がないから、肌を見せるスタイルも似合っていいよね」
里香姉はさらにタンスから麦わら帽子を取り出しながら、改めて幸人を上から下までなめるように眺めた。その里香姉の視線に晒されながら、着替えもしなければならないのだ。一度下着が合わないとチェックされて里香姉の前でパンツさえ脱がされたことがあって、それ以降幸人は里紗の家に上がる時は下着を選ぶようにしている。
幸人は毎回恥ずかしくて仕方がないのだが、里香姉は見慣れたものを目の前にしているといった体だった。もしかすると、半分くらいは男だと思っていないのかもしれない。
程なく着替えを済ませると、里香姉は満足げに会心の笑みを浮かべてうなずいた。
「さっすが幸ちゃん。今日も可愛く決まったね」
女子の格好に着替えた幸人を、里香姉はちゃん付けで呼ぶ。そしてカメラを手にしてまず一枚、写真を撮った。写り次第ではあるが、当然これも新たな材料のひとつとしてアルバムに入ることになる。
撮れた写真に満足した里香姉は、幸人の手を引いて一人で待っている里紗の部屋に向かった。
「昨日からないと思ってたら、やっぱり幸に着せたんだね?」
これだから、鍵付きのタンスがほしいのだ。洋服が自分のタンスから消えるとそれは必ず姉の手元にあって、そして数日中には幸人に着せられることになる。ついでに言うと、その時には幸人のことを幸と呼ぶことを姉によって強制されている。
「そのために私がわざわざ選んだのよ。だからいいでしょ?」
他人が聞いたら間違いなくめちゃくちゃなことを、姉はさも当然のように答えた。女子にしてはやや長身の私と男子にしては小柄の幸人は、体形だけ見れば双子の兄弟みたいなもので、姉に言わせれば同じようなものが似合うらしい。だから姉が私に選んでくれる服の中にはそういう目的のものもあるのだが、悔しいことに私自身も自分に似合うと思えてしまうものばかりなのだった。
そんな姉の陰に隠れるようにして、幸人は麦わら帽子を胸元に抱いてうつむいていた。
「ほら幸ちゃん、里紗の隣に並んで。ツーショットで撮るよ」
幸人は姉に不満ひとつもこぼさずに、指示どおり私の隣に立った。そしてこれもいつもどおり、カメラを向けられると作り笑いを浮かべた。幸人のこのはにかんだような作り笑いは、姉が徹底的に叩きこんだものだという。怖いくらいに自然な、それと知らなければ間違いなく心からのものと思える、作り笑いだった。
しかしそれが本心でないのは明らかで、カメラが下ろされると同時に幻のように消えてなくなった。ばっちりカメラに向けられていた目線も、私や姉を避けてどこかにさまよっている。
「さて、それじゃ三人で映画見に行きましょう」
姉の方は心底嬉しそうな笑顔を浮かべて、私たちが驚くようなことを言い出した。これが始まればかなりの高確率で外に連れ出されるのではあるが、今は宿題が大事な時だった。
「ちょっとお姉ちゃん、今日は宿題やらなきゃダメなんだから」
私の抵抗は幸人の気持ちも代弁していて、幸人もこくりとうなずいて同意を示した。しかしそれはむなしい抵抗に過ぎなかった。
「大丈夫、いざとなったらお姉ちゃんが手伝ってあげるから」
姉のそれは本気なのだ。以前に何度か、本当にそんなことがあった。それでも私は渋ってはみた。
「ねっ、幸ちゃん」
しかしそうなると決まって、姉の矛先は幸人に転じる。幸人は絶対に抵抗しない。それができるくらいならば、始めから姉のこんな趣味に付き合うことなどないはずだ。しかし恥ずかしい思い出という弱みを握られている私たちが姉に逆らうことなど、できはしない。
すぐに返事をしないのが、幸人のささやかな抵抗だった。しかし姉はとどめとばかりに、口の端を釣り上げた悪そうな笑みを浮かべて見せた。
「まぁ里香姉がそう言ってくれるなら……」
麦わら帽子が歪みそうなくらいにぎゅっと胸に抱きしめて口元を隠した格好で、幸人がか細く答えた。私も大きくため息をついて、降参するしかなかった。外は日差しが強い。私もタンスからつば広ハットを出した。
「それでどうして恋愛ものを選ぶかなぁ」
私も幸人も映画には詳しくないので姉に一任したら、これだった。形としては女子三人だけど本当は男子が一人、それも別に付き合ってるとかいう関係でもない。そういう取り合わせでその選択かと、私は疑問に思ったのだった。ただしそれが恋愛ものだと気がついたのは、姉がチケットを買っている間に脇の画面に流れていた予告編を見たからであり、すでに手遅れではあった。
幸人がどう思っているかは、その表情からは読み取れない。何しろ外出時は常時あの作り笑いを張り付かせているのだ。ボロが出ないようなるべくしゃべらないようにするために口の形をそれで固定しているとのことだが、よく持続できるものだと毎度ながら感心さえする。
「幸は恋愛ものってどう? なんか恥ずかしいって言うか、照れない?」
だから、私から訊いてみて言葉で返してもらうしかない。
「私は、映画あまり見ないから何でも見てみたいとは思うよ」
割と普段通りの少し間延びした声で、言葉短めに幸人は答えた。ただし明らかに違うのは、一人称を私に切り替えていることだ。私にはそれは違和感しかないが、それを表に出すと姉ににらまれる。その行為がかえって周囲に違和感を持たれるからだという。
それはそれとして、幸人はそれを気遣いか何かで言っているのではなく、本心からそう思っていることはわかった。そうなると二対一で私が劣勢だ。下手に私の苦手なホラーにされるよりはマシだと、私は自分を納得させることにした。
「いやー、ああいう胸がキュンとするような恋って憧れるよね」
「里香姉にはそういうの、ないの?」
「それが全然まったくなくってね。こんな可愛い子たちをほったらかしにしとくなんて、リアルの男どもはいったい何をしてるんだか」
「いや里香姉、それを私に言わないで……」
可愛らしい恋に憧れる気持ちは私にもあったが、姉のようにあんなに盛り上がれはしなかった。一人で盛り上がっている姉の相手をさせられて、幸人はたじたじだった。私には全然話を振ってこないあたり、もしかすると姉は幸人を困らせて楽しんでいるだけかもしれない。そんな中、突然電話の着信音が鳴った。
「あ、はいはい。うん、こっちはもう少しかかる……」
それは姉への電話で、姉は電話に出ながら私たちから二、三歩ほど離れた。それによって姉から解放された幸人は、明らかにホッとした様子だった。
「今日は忙しそうだね、お姉ちゃん」
電話が終わって私たちのところに戻ってきた姉に、私は開口一番に切り出した。映画の前後にも一度ずつ姉は誰かと電話をしていたので、何かの用事があるのかもしれない。それで今日の趣向が終わってくれればありがたいと期待したのだが、そうは問屋が卸してくれなかった。
「大丈夫、友達との待ち合わせだから。向こうはもうちょっとかかるみたいだから、先にMTPに行っていよう」
姉は楽しげに、幸人とっては恐ろしいことを平然と言って、行きつけの喫茶店へ向かって軽やかに歩き出した。姉の友達も交えて幸人をおもちゃにするという、かなり悪い部類の展開になっていた。当然幸人はそれが嫌だし、脇に置かれてそれを見ている私も面白くない。暑さに疲れるほど体力がない私たちでもないのに、私も幸人もとぼとぼと重い足取りで姉についていった。
白い壁に木枠の窓が並んだ建物の、窓と同じようにガラスがはめられた木製の扉を開くと、扉に据え付けられたベルが澄んだ高い音を立てた。MTP、不思議の国のアリスのマッド・ティー・パーティの略だという。看板に喫茶店と書いていないそこは、それと知らない人には入りにくいところで、いつも客は少なかった。
「いらっしゃい」
「おお柏木、来たよー」
エプロンドレス風にフリルがあしらわれたエプロンをつけて出迎えてくれた女性は姉の大学の同級生で、ここでバイトしている。その柏木さんが、窓際の丸テーブルの席に私たちを案内してくれた。
「従姉妹ちゃんも一緒とは、あんたたち本当に仲いいよね」
姉の友達の間では、幸人は私たちの従姉妹ということになっている。幸人は本当は男子だということは、誰も知らない。
「まぁね。アイスティーと、今日はケーキセットある?」
「お嬢様方は運がおよろしい。本日のケーキセットはこちらでございます」
柏木さんは役柄を間違った台詞っぽいことを言って、手書きのメニューを幸人に差し出した。例の笑顔を保ちながら幸人はそれを両手で受け取って、私にも見えるようにテーブルの真ん中に置いた。
確かに運がよかったらしい。この店のケーキセットは、日によってあったりなかったりするのだ。それが四種類もある日に出くわしたのは、私は初めてだった。私が迷っていると、突然幸人が窓の外に向かって会釈をした。
「おや、もう松原も来たのね」
「松原も呼んでたのか。店としては、お客さんが増えてくれて嬉しい限りだよ」
すぐにドアのベルが鳴って女性が一人入ってきて、姉が振り向いた格好で手を振って迎えた。
「里紗ちゃん、幸ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
柏木さんと同じく姉の大学の同級生の松原さんは、私と幸人を均等に見ながらにっこり挨拶をしてくれた。私たちがピッタリ揃えたかのように同時に挨拶を返すと、柏木さんがまた仲がいいこととクスクス笑った。
「私には挨拶なしなの?」
空いた席に腰を下ろした松原さんに姉が文句を言ったが、それで松原さんが動じる様子はなかった。
「北柳はいいでしょ。どうせ私をカメラマンに使うつもりで呼んだんでしょうから」
「えへへ、その通りだけどね。わかってるなら早速お願いします」
松原さんが返した嫌味もまた、姉を動揺させることはなかった。私の知る限り、付き合いの長かった高校までの友達と同じくらいに仲がいいようだ。姉はバッグからデジカメを取り出して、松原さんに渡した。
「お嬢様方、そろそろご注文よろしいでしょうか?」
お冷やを持って戻ってきた柏木さんが、わざとらしく音を立ててコップを置いて注文を急かした。
「ねえ、せっかく今日はケーキセットが四種類もあるんだから、四人で四種類頼もうよ」
普段甘いものなど食べ慣れていない幸人が最後まで決められずにいるところに、姉がそんな提案を持ち出した。
「あ、実はそれ助かる。レアチーズケーキはあとひとつしかないのよ実は」
突然のことでテーブル席の三人が面食らっているところに、意外なところから賛同が寄せられた。そばに立っている柏木さんが、いたずらっぽく歯を見せて笑っていた。
「それで好きに一口交換したりすればいいと思うよ」
柏木さんの勧めに、姉が大きく二度うなずいた。
「他のだったら、四人分あったりしますか?」
あの我が意を得たりといった感じのうなずきは、食べさせ合いを狙っているのに違いないと読んだ私は、すかさず異議を唱えた。
「他のならば、どれも人数分はあるね。でも」
「でも、ここのおススメはそのレアチーズなのよ」
柏木さんがほんの少し遠慮して出しかけて止めた言葉の続きを、松原さんが継いでくれた。それは私も知らないわけではないが、問題はそこではない。
「せっかくのレアチーズ、みんなでちょっとずつ食べよう」
押し切るときの姉の切り札、幸人へのお願いがまたしても炸裂した。こうなれば答えはもう決まっている。諦め顔の私の隣で、幸人は口は開かずにこくりと小さくひとつうなずいて返事をした。注文を取った柏木さんが、カウンターの向こうへと姿を消した。
「里紗ちゃんと幸ちゃんって、本当に仲がいいのね。仲良く揃って日焼けしちゃって」
ケーキセットを待つ間、他愛もないお喋りを交えながら、松原さんが姉のカメラで私たちの写真を撮った。そこに姉が入ったり、松原さんが入って姉がシャッターを切ったりして、けっこう忙しなかった。そんな中、幸人はあまりお喋りには加わらずに、しっかり例の笑顔を絶やさずにいた。それは他人には、控えめだと好意的にとられるもののようだった。
「それにいつも思うんだけど、服の趣味も似てるよね。着せ替えて遊んでみたいかも」
私はその言葉に怖くなって、思わずすがるように姉の方を向いた。
「あの、それはちょっと……」
幸人は店の奥に目を泳がせた。注文してからしばらく経ったはずだ。ちょっと遅すぎはしないだろうかと思ったのは、私が焦っているせいなのだろうか。
「お嬢様方、大変お待たせして申し訳ありません。ご注文のケーキセット、四種盛でございます」
現れた柏木さんの持つお盆には、予想外の大皿が乗っていた。
「いや四種盛とか、お刺身じゃあるまいし」
さらに何かを言いつのろうとした姉の口が、テーブルの真ん中に置かれた大皿を見て止まった。注文したレアチーズケーキ、ベイクドチーズケーキ、いちごタルト、チョコケーキの四種類が、すべて四つに切り分けられていた。
「ああ、これは本当にある意味お刺身みたいだ」
「当店のサービスでございます」
感心する松原さんに柏木さんが得意げに答えて、私と幸人の前にアイスティーを置いた。全員アイスティーを注文しているので、私は松原さんに、幸人は姉に、カップを回した。特に意識もせずに先輩を先に立てようとするのは、運動部根性の成せるものなのだろう。
「いや、そういう気づかいも可愛いね。でもここはセルフじゃないし、お任せしてくれればいいのよ?」
移動しようとしていた柏木さんは幸人の脇で足を止めて、またいたずらっぽく笑って見せた。それから私の前にもカップが置かれて、全員分が揃った。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
挨拶を残して、柏木さんはカウンターの向こうへ戻っていった。
「せっかく切ってくれてあるし、早速いただきましょうか」
松原さんはカメラを姉に返して、近くにあったいちごタルトを一切れほおばった。私も同じようにチョコケーキを一切れいただいた。これ以上切ると細かくなりすぎそうだが、一口で食べるにしては少し大きかった。
「あら、やっぱ幸ちゃんは上品だね」
ベイクドチーズケーキのいちばん外側、幅の広い部分をフォークでふたつに切って、幸人はその片方を口に入れた。女の子は大口を開けないものという姉の教えを、ここでも律儀に守っていた。
「ではその残りはお姉さんが、」
姉はそこで言葉を切って、幸人をじっと見つめた。わざとらしい視線に、幸人は怯えたように首をすくめた。その魂胆がわかった私は姉をにらみつけたが、姉の視線は幸人にだけ向けられていて私の威嚇は届かなかった。
「……どうぞ」
しつこい姉の視線に耐えられなくなった幸人は、おずおずとそう返事を返した。それも無視するかのように姉はさらに幸人を見つめていたが、突然弾けたように笑いだした。
「やだなあ、幸ちゃんの分を取ったりなんかしないよ。私が食べさせてあげる。はい、あーん」
姉はそう言うなり幸人の返事も待たずにチーズケーキのかけらをフォークに刺した。私の思った通りのことになってしまったが、もう止めることはできなくて、私はいやにゆっくりに見えるその様子をただ眺めていた。
カシャ。突然のシャッター音に、私は反射的に音の鳴った方に首を回した。いつの間にか松原さんの手にカメラが戻っていて、食べさせる瞬間を撮ったらしかった。
「どう、松原? うまく撮れた?」
ここまでたっぷり時間をかけたのは、このための時間稼ぎだったようだ。幸人と姉だけを見ていた私は、それに気づかなかった。
「まあまあ、それなりに撮れたと思うよ」
カメラを操作していた松原さんは、カメラに目を落としたまま答えた。その間に幸人はアイスティーのカップを手にして、自分を落ち着かせるかのようにゆっくりと、口に含んだ。取り残された私も間を持たせるようにゆっくりと、アイスティーを一口だけ飲んだ。
「それじゃ今度は、幸ちゃんが私にレアチーズケーキを食べさせて」
ガチャっ。カップが乱暴に置かれる音がふたつ、同時に鳴った。危なかった。口の中にアイスティーが残っていたら、間違いなく噴いていたと思う。姉は期待を浮かべた目をして、満面の笑みで待っていた。
「やだよ。恥ずかしいから……」
消え入りそうな声で、しかし必死に、幸人が抵抗した。私も何かを言って加勢しようと思ったのだったが、それよりも早く姉が仕掛けた。
「せっかくのケーキ、可愛い幸ちゃんに食べさせてもらったらもっとおいしいと思うんだけどなー。だから、お願い」
両手を合わせて頭を下げて、姉は頼みこむ姿勢をとった。その姿勢から上目遣いをされた幸人は真っ赤な顔でガクッとうなだれて、あっさりと陥落した。
「わかりました、やります」
幸人は食べやすそうな先端の部分を選んでフォークに刺して持ち上げた。姉は口を開けて待機していて、松原さんもカメラを構えてシャッターチャンスを待っていた。それがわかっていても、幸人はごまかすように素早く終わらせるなどということはしなかった。この時間も私には長く感じられたのは、そんな幸人への苛立ちがあったからかもしれない。
「ごちそうさま」
それを言ったのはまだケーキを味わっている姉ではなく、カメラを下ろした松原さんだった。
「私たちも、いただきましょうか。おススメレアチーズケーキ、どうぞ」
「えぇっ?」
そして何でもないことのように、姉と幸人がしたのと同じようにフォークに刺したレアチーズケーキを私に差し出した。まさか松原さんまでが乗るとは思ってもいなかった私はその場に凍りついてしまい、そんな私に松原さんはほんの少し首を傾げた。
「いらないの? なら私がもらうけど」
やはり何でもないことの確認をとるように、松原さんは言った。
「いえ、いただきます」
大きく口を開けて受け取ったレアチーズケーキは、おススメだけあって文句なくおいしかった。それを自分で取ってくればよかったと気づいたのは味の余韻を楽しんでいるときになってからで、私は急いでアイスティーを口に含んで、胸からあふれそうになった苦い思いを押し流した。
「ふふ、里紗ちゃん照れちゃって可愛い」
心境がすべて読まれた気がして否定しなければと思って顔を上げると、目の前にカメラのレンズがあった。カシャ。構える猶予さえなくて、感情だけが走った変な顔をばっちり撮られてしまった。私はただただ恥ずかしくて、不満を見せることさえできずに、膝の上に握りこぶしを置いてうつむいた。
「ごめんごめん。機嫌直して、ね」
少し慌てたような松原さんの声が私の耳に届いて、それからそっと髪を撫でられた。その手がすごく優しくて、私はちらりと松原さんの顔を横目で見やると、微笑みを返してくれた。
「ああ、涙目になっちゃって。これは本当に悪いことをしたな」
自分ではそんな顔をしているつもりはなかったので、私は驚いてしまい、ぱちくりと瞬きをひとつしただけで硬直してしまった。それが余計に松原さんを困惑させてしまったらしい。
「悪い、北柳。ちょっとやり過ぎた。もうこのカメラは返すわ」
「うーん、まあ里紗にならそれくらいはいいけど、幸ちゃんにやったら承知しないからね」
潮時と感じたのか、姉は受け取ったカメラをそのままバッグにしまった。そして誰も何も動き出せない、微妙な空気に席が包まれてしまった。何の話をすればいいのかあるいは勝手にケーキをもらっていいものか、私にはわからず、誰もがためらっているようだった。
長く水分をとっていないわけでもないのに、どうしてこういうときはのどが渇くのだろうか、多分私はそんなことをぼんやり思っていたのだと思う。しかし手を伸ばせばすぐに届く目の前のカップを取ることは、できずにいた。
「あの……、せっかく切り分けてもらったケーキですから、一口ずついただきましょう」
それを破ったのが幸人だったことが、私には意外だった。少し硬いが例の笑顔は取り戻していて、ただ意を決して切り出したその目がちょっとだけ鋭かった。
「そうだね。じゃあまだ食べてないそっちのいちごタルト、もらうね」
空気の弛緩に紛れて、それが違和感を持たれることはなかった。手始めとばかりに姉が腕を伸ばして、私の側にあるいちごタルトを一切れ持っていった。
それからしばらくは、松原さんと姉がそれぞれに高校時代の思い出話をしてくれた。
「あの頃って、私何を考えてたんだろうね。何を考えてそうだったのかはわからないけど、とにかくすごく楽しかった」
「あら、それじゃ北柳は今は何か考えて楽しんでるの?」
松原さんの指摘に、私は大きくうなずいて賛意を示した。妹の私の目から見る限り、そんな振り返り方をするような変わり方など、この姉はしていない。
「それを言われると、困ったな、返す言葉がないよ」
正直に白状した姉に、松原さんも私も、幸人までもが笑った。
「そこで笑うなんてひどいなあ。幸ちゃんまで」
「あ、ごめんなさい」
しかしそれでただやられる姉ではなかった。幸人に上目遣いを向けてたじろがせ、そこから形勢を取り戻したのだった。
アイスティーのお代わりをしながら日が傾く頃までお喋りして、私たちは家路についた。
「ありがとうございました。またいらしてください」
そこそこな売り上げに上機嫌な柏木さんが、入り口のドアまで出て見送ってくれた。
「あのさ……、今日は、ありがとう」
ようやく姉から解放された幸人が、宿題一式をカバンにしまいながら私にぽつりと言った。何に礼を言われたのか、私にはわからなかった。
「いや、むしろいつものことだけどごめんね、お姉ちゃんの無茶につきあわせちゃって」
だからいつも言っている白々しいことしか、返事ができなかった。
「その里香姉にかなり抵抗してくれたでしょ? 何度も、MTPでだって」
幸人が、自分が辛い状況に置かれているのにもかかわらずよく見ていることに、私は驚いた。
「まぁ、でも、結局何にもならなかったけど」
それで焦ってしまい、しどろもどろになってしまった。
「俺、嫌なんだよ」
幸人の声が、さらにしぼんだものになった。ただ、その表情は窓から差し込む夕日が逆光になって、わからなかった。
「私だって嫌だよ、勝手に私の服持ち出されるし」
「ごめん……」
嘘偽りない私の気持ちではあったが、被害者である幸人にそれを言ってはいけなかった。私は慌てて両手で口を押さえたが、出てしまった言葉をなかったことにすることなど、できるはずもなかった。幸人がうなだれたのが、はっきりと見えた。
「私の方こそデリカシーなかった。許して」
本当に申し訳なくて、私は勢いよく頭を下げた。
「ううん、それはいい。俺が一番嫌なのは、」
途中で言葉を切った幸人が、一呼吸置いたのがわかった。大事なことを言おうとしているのかと思って聞きもらさないように下げていた頭を上げると、幸人もまたまっすぐ私に顔を向けていた。
「一番嫌なのは、里紗に半分女みたいに思われることなんだ。それだけは耐えられない。でも里紗は里香姉に逆らってくれたから、そうじゃないって思えたんだ」
私はまた両手で口を押さえた。とっさのことでなぜそんなことをしたかは、わからない。
「それがわかれば俺は大丈夫。だから里紗は謝らないで」
押さえた口から変な声が漏れそうにあった。それは手でふさがれたが、押さえられていない目から涙が一粒こぼれた。それは幸人にも見えたようで、涙を指の背でぬぐおうとするのか、おずおずと右腕をこちらに伸ばしてきた。
「わ、私だって」
絞り出されたような声が、幸人の動きを止めた。
「幸人が女の子みたいにされるのは嫌だよ。ちょっと可愛いって思っちゃう時もあるけど、でもやっぱりちゃんと男の子の幸人でいてほしい」
「一言多い」
伸ばされていた幸人の腕がさらに持ち上げられて、私はおでこをつつかれた。
「ごめん」
しかしそれに悪気がないことがわかったから、自然と笑みがこぼれた。やはりその表情は逆光でよくわからないが、幸人も笑ってくれていると思う。そう感じられたことが切ないくらいに嬉しくて、頬に涙が一筋伝った。
「やっぱり女子ってずるいと思う」
しばらく無言だった幸人が、少し間延びした声でつぶやいた。
「ニコニコしてるだけで結構ちやほやされるし、そうやって泣かれるともうどうしたらいいかわからないくらいドキドキする」
そう言って遠慮がちに私の頬に触れた幸人の指は、ほんのり温かかった。私の頬が赤くなったのは、その熱が移ったのか、それとも私自身が上気したのか。
「だったらまた女の子になってみる、幸?」
私は何かをごまかすように、姉の真似をして悪そうな笑みを浮かべて幸人に顔を寄せた。一瞬だけ、幸人が硬直したのがわかった。
「里紗だって嫌なくせに」
「そうだけどね」
呼吸ひとつの間目が合って、それからどちらからともなく噴きだすように笑った。実際は何も解決していないのに、そんなことは何でもないことのように笑うことができた。
あと一押し。蝉の声に混じって、どこからかそんな言葉が聞こえたような気がした。