◎手を貸す者、導く者
寒くて、暗くて、怖い。それに加えて、私の中にはむくむくと、ある感情がわき上がってきた。目の前の、背の低い男への、怒り。といっても、私より五センチは高いけど。
「ちっ。これもダメか」
コタローは猟銃をぶらさげるヒモの一端を、私の腰につないでいた。私はヒモでつながれたペットか家畜みたいに、コタローに引っ張られてのろのろ歩いた。
コタローは片手で猟銃を持ち、暗い廃墟をずんずん進む。小さなくしゃみがでた。どんどん寒くなってきたし、暗くて怖い。はやく、どこかで夜を明かそうと言い出さないかな。
ここはエデンの外。地面はコンクリートでおおわれ、道の両側に建物がひしめいている。終わりの日に発展した大都市だ。
ハルマゲドンのあと、厭世家たちはこれらの都市を、手つかずのまま放っておいた。たった14万4千人では、広大なコンクリートジャングルをたがやすのは、とても不可能だったからだ。
終わりの日、愛を忘れた人々は、心にぽっかりあいたすき間を埋めるために、人の集まるところへ住みたがった。地球上にそんな場所はたくさんある。どんどん人が集まって、狭い土地に何人も住めるようにと、高い建物をいくつも建てた。そして、人の少ない場所は田舎と呼んだ。
彼らは都市に住む理由を、便利だからとか、仕事があるからと言ってごまかしたけれど、本当はそうじゃない。愛に飢えて、寂しさでいっぱいだったから、より人の集まる場所へ行きたがったんだ。だからこそ、こんなにも巨大な都市ができあがってしまった。
今では、人々は自然の中で、一カ所に集まることなく、それぞれのスペースを尊重しながら生きている。ゆるやかに暮らしていても心は焦らないし、どこにいても寂しさを感じることはないから。
また、ガンッと金属を蹴っ飛ばす音がして、私は飛び上がった。目が慣れてきて、星明かりの下でもコタローがわずかに見える。コタローは乗り捨てられた車をチェックしていた。乗れるかどうか、確かめているらしい。
「千年も前の遺物でしょ。動くわけないじゃん」
イラつきながら言うと、コタローは「はあ?」とけわしい顔を上げた。
「千年前の遺物を動かそうとしている馬鹿に見えるか」
見える、と言おうとして、口をつぐんだ。コタローはあきらかに、疲れて、イラついている。それは私も同じだったけれど。
「じゃあ、何してんの」
「この辺の車はな、迷子が乗り捨ててったやつかもしんねーんだよ」
ガン、とまた小型車のドアを蹴っ飛ばして、コタローは足を押さえてうめいた。
「ってー!」
やっぱ、馬鹿じゃん。
星の光が空を満たす。倒壊していない建物も多いけれど、やっぱりここでは空が狭い。四角くて背の高い建物がぽつりぽつりとシルエットを浮かび上がらせて、星空に食い込んでいる。
ガルは今頃、どうしているかな。まさか一人で星空の映画祭に行っているとは思えないけれど。腰のヒモを引っ張られて、私はまた、犬みたいにコタローのあとについていく。
四角いデザインの車のドアを開けるコタロー。思ったとおり、開けられないコタロー。で、蹴飛ばして、窓を割って、キーを探して、見つからなくて、
「あった!」
私はびくっとした。うそ。
でも、コタローは何度も試した末に、うんともすんとも言わない車に見切りをつけて、すごすごと出てきた。
「お疲れ」
あんまりしょぼくれて見えたから、本心からそう言ったのに、コタローは私を睨んで、「さっさと歩け」と命令した。もう二度と、同情なんかしてやるもんか。
「もう、無理だよ。諦めようよ」
一時間近くさまよい歩いたすえに、とうとう私は愚痴った。道のあちこちに車は乗り捨てられていたけれど、どれもさびついて、窓はひび割れ、中は厚くほこりが積もって、ガソリンも干上がっていた。
終わりの日の車は、水じゃなくてガソリンで動く。そんなもの、百歩譲って動く車があったとしても、どこで補給すればいいんだろう。無理筋すぎる。
私の言葉を無視し、黙りこくって車をあさるコタローを横目で見た。迷子たちって、こんな世界で、どうやって生きているんだろう? なんだか哀れになってきた。
意地を張らないで、素直に神を愛せばいいのに。そうすれば、エデンで楽しく暮らせるのに。いったいこいつらは、何がそんなに不満なの?
「お困りかな?」
私とコタローは、二人して飛び上がった。もう何百台目かの車をこじ開けようとしていたときだった。いつのまにか、車の上に誰かがしゃがんで、私たちをにっこりと見おろしていた。
男の人だった。肌も髪も異様に白いのが、暗闇の中ではっきりわかる。だぼっとしたスウェットを着て、野球帽をかぶっていた。チャラチャラした格好とは裏腹に、紳士めいた、落ち着いた低い声で話す。
私は驚きのあまり何も言えなかった。このあたりには、人っ子一人いないもんだと思い込んでいた。コタローはぱっと身を起こして、夜目をこらしてその人物を見た。
「あんた、悪魔か?」
ぞっとした。車の上にしゃがみ込んだ男が、ふふふと不敵な笑い声をあげた。
「まあね」
「そうか、ちょうど良かった。車に乗りたいんだ。今日中に、『外』にある家に戻りたい」
「おんや。じゃあ君たちは、迷子かね」
「そうだ」
コタローは私に見向きもしないで言った。
悪魔に会うのは生まれて初めてだった。助けを求めて、何かしてもらえるとは思えない。むしろ、エデンから来た信者だと言ったら、何をされるだろう。
どきどきしていたけれど、どうやら悪魔は心をのぞいたりはできないようだった。よかった。そこは天使と同じらしい。霊者は、人間の心まではわからない。
「どれ。私が手助けしてやろう」
悪魔は言って、にやりと笑うと、風に吹かれたように、ふわりと私たちの前に降り立った。コタローはちょっとあとずさりして、肩をすくめた。
「どうも」
「遠慮はいらない。どの車がいい?」
「どれでも」
「はりあいがないなあ」
悪魔はぱっと笑顔になって、私を見た。
「君に選んでもらおう」
私は何も言えなかった。コタローを見ると、肩をすくめて、好きにしろとでも言いたげだ。
悪魔と口をきいたら、迷子になってしまうんだろうか。私はだまって、目の前の車を指差した。
「なかなか遠慮深い子どもたちだ」
悪魔は含み笑いをして、コタローを見た。そして、ほう、と笑顔を広げる。
「珍しい。君は日本人の血が流れているね」
コタローはもう一度肩をすくめて、「はやくやってくんない?」と横柄に言った。悪魔はふふふと笑ってこくりとうなずき、「待っててね」と言って車の下に潜り込む。
数秒とかからなかった。悪魔はもぞもぞとはい出してきて、「できたぞ」と言った。それから、思い出したようにポケットに手を突っ込み、キーをとりだす。
「タラーン! 私のキーホルダー付きだ」
そう言って、私の手に鍵を落とした。キーホルダーには、昔のサムライの人形がくっついている。
目を上げると、悪魔はスウェットの代わりにキモノとハカマを着て、野球帽の代わりにまげを結っていた。白い肌も髪も、いつのまにコタローと同じような色合いになっている。
「ありがとう」
コタローが礼を言ったので、私も頭を下げた。サムライの格好をした悪魔は、にやっと笑うと、頭を深く下げ、のしのしと歩いて遠ざかっていった。
「……なんだったの?」
悪魔が見えなくなってから、小声で聞いた。
「迷子に手を貸したがる悪魔はわりといる」
コタローはなんてことなさそうな調子で言った。
「天使だって、信者に手を貸したがるだろ? 別に放っときゃいいのにさ」
私はキーをつかんだまま、コタローを睨んだ。今のって、天使の悪口?
コタローはへらっと笑って「なんだよ?」と言った。
「気に触ったか? 迷子扱いされたくなかったってか」
「……べつに」
「おいおい、感謝してるぜ、信者様よ。おまえが黙っててくれたおかげで、気のいい悪魔が車を新品にしてくれたんだからな」
「それ、本当なの?」
信じられなかった。だって、あの悪魔はちょっと車の下にもぐっただけなのに。こんなふざけたキーを渡されて、信用できる?
「なんだよ、エンジンかけたら爆発するんじゃないかって、心配してんのか?」
「そんなこと、思わないよ!」
私はびっくりした。なんでそんな発想になるわけ?
「あんたこそ、なんでそんな残酷なこと、平気で思いつくの? 信じられない!」
「そんなにびっくりされるとは、逆に驚きですねえ。エデンの外にいると、感覚狂っちまうのかな」
コタローは運転席のドアを開け、うやうやしくかがんで言った。
「では、残酷さをこれっぽっちも知らないとおっしゃる無垢なお方、どうぞご自身の手で運転なさってください。おれのようなチンピラが転がす車なんて、怖くて乗れないでしょうから」
恐怖とパニックと戸惑いと、それらを全部ひっくるめて腹立たしさが上回ったらしい。気付くとコタローにつかみかかって、力の限りに殴りつけていた。結局、思いっきり反撃されて、悲鳴を上げるはめになったけれど。
「さっさと乗れよ、クソが」
命令されて、震えながら運転席に乗り込む。あまりの快適さに驚いた。埃は一切落ちていないし、シートもハンドルも触り心地が最高で、しっくりと身体に吸い付く。あの悪魔、本当に車を新品にしてしまった。ただ、終わりの日に作られた設計は、本当に車なんだろうかと疑わしくなるほど、雑な作りだったけれど。
「操作は変わんねーよ。文明は終わりの日からろくに進んでねえしな」
助手席に乗り込みながら、コタローが言った。シートを倒し、居心地のいいように座り直して、ドアを閉め、私を睨む。
「エンジンかけろよ。大丈夫、爆発しても、道連れになってやるから」
「クラッチがない」
最後の方の言葉は無視して、そっけなく答えた。コタローは眉を吊り上げ、身をかがめて私の足元をのぞき込む。私はコタローに触れないように少しのけぞった。
「オートマだよ。一回くらい見たことあんだろ」
「ない」
「おまえ、いくつだよ」
私はうつむいた。
言うのがおっくうだった。
「おい、答えろよ」
「……27」
「は? ……まじか」
ほらね。いつも驚かれる。
人はめったなことで死ななくなった。それは、人口が増え続けるということ。自然、人々は子どもの数を押さえはじめる。
厭世家たちの世代では、10人や20人、子どもがいるのもおかしくなかったけれど、私の親の世代では、子どもの数は2、3人。姉や私の世代は、きっと1人か2人しか作らないだろう。
世の中はあっちを向いてもこっちを向いても25歳にしか見えない人ばかりになったけれど、実際の20代は、エデンを歩き回る悪魔並みにめずらしい。
でも、コタローは「若いなー」とか「まだまだ楽しみがいっぱいだね」なんて、信者のようなことは言わなかった。ただ、キーを指差して、言った。
「回せばかかる。マニュアルより簡単だ。ただ、ブレーキ踏んでないと勝手に動くから気をつけろ」
言われたとおりにブレーキを踏みながら、エンジンキーを回した。サムライのキーホルダーが、無知な私をあざ笑うようにカタカタと揺れている。あとで捨ててやる。
車は振動とともに低いうなりを上げ、私がペダルを踏むのを待ちかまえている。コタローが手を伸ばして突起のボタンを回すと、ライトがついてほこりだらけの暗闇を照らした。
「じゃ、この道を出てまっすぐ進め。しばらくは道なりだ」
私は黙ってハンドブレーキを下げ、ブレーキペダルから足を離した。絶対嘘だと思っていたのに、本当に車が勝手に動き出す。慌てそうになりながら、アクセルをゆっくり踏み込む。
ギアもクラッチもないなんて、変な気分。車じゃなくて、おもちゃみたいだ。終わりの日の人間は、人を殺せる車を動かしていたのに、こんな簡単な操作だけですまして、罪悪感にかられたりしなかったんだろうか。
ゆっくりと、車が闇夜を走り出した。
エデンの外はどっちを向いても荒廃していたけれど、道の真ん中だけは車や電柱が脇へよけられていて、なんなく車が通行できる。たぶんこの道は、迷子たちがよく使っているんだろう。ガズラとイトナは、バスでこの道を突っ切っていった。私たちも、今そのあとを追っているってわけだ。
ちらりと目を向けると、コタローは助手席の前にあるダッシュボードを開けて、車の持ち主のCDジャケットを物色している。このまま電柱に突っ込んでやろうかと思っていると、突然口を開いた。
「ガルって誰?」
本当に電柱にぶつかりかけて、私は慌ててハンドルを切った。
「危ねえな! ちゃんと前見ろ!」
「ごめん」
「ったく」
コタローは乱暴にダッシュボードを閉め、私を睨みつけた。
「で、ガルって誰だよ」
「……なんで知ってるの」
「あ? さっき言ってたろ。ガルー。おかあさーん。たすけてー、ってさ」
ぎりぎりと、ハンドルを握る手に力が入る。
あのビルに突っ込んでやろうか。
「ガルって男の名前だよな。兄弟?」
「……関係ないでしょ」
「言えよ、長旅なんだからさあ。黙りこくったまんま、一時間もドライブする気か?」
どうやら、好みのCDはなかったらしい。だからしつこく話しかけてくるのか。
コタローは助手席にもたれかかって、運転する私をじっと見た。ため息をつき、観念したように答える。
「……婚約者です」
「へー、なんで結婚してないの?」
「それは……」
「当ててやろうか。おまえがまだ若いから、お互いもう少し純愛を続けましょうってとこだろ? どうせ信者のおまえらは婚前交渉なんて絶対しないもんな。おい、ちがったら教えてくれよ。まさか処女じゃないとか言わないよな?」
顔が熱くなった。
もう、ほんとに、死んで!
「当たり前でしょ!」
「それを当たり前だと思ってるのが、おまえらの信者たるゆえんだよ」
コタローはくつくつと笑った。何がそんなにおかしいの? 淫行者め!
「それで、ガルは大人しくも、清い交際期間を設けて結婚を遅らせてるってわけだ。そいつはノータリンだな。本当に愛してたらさっさとやっちまえばいいのに」
「私が、待ってくださいと言ったの」
きつい声が出た。コタローがはあ? とけげんな顔をする。
「なんで」
「私が一人前に働けるようになるまで、待ってくださいと言ったの。ガルはどっかのチンピラとちがって、私の意思を尊重してくれてるんです」
「へーえ、愛されてんだねえ」
嫌みっぽくぱちぱちと拍手して、コタローは身を乗り出した。
「おまえ、働きたいの?」
「悪い? でも、夢なの」
突っぱねるように言って、前だけ見てた。だけど、嫌でも気付く。興味津々の視線が自分に向けられていれば。
「へんな女。いいか、昔の人間はな、だーれも働きたくなかったんだぜ? せっかく働かなくてもいい時代に生まれたのに、物好きにもほどがある」
「なんとでも言って」
「ガルはなんて言ってんだ?」
「ガルは……私の好きなようにしたらいいって、言ってくれてる」
そう、ガルは優しい。ちゃんと私を尊重してくれる。
「おまえそれ、気のすむまで試して、しっかり諦めてこいって意味だぞ」
この男は最低だ。うがった見方しかしない。仕方ないか、それが迷子たるゆえんなんだから。
私は声に出して祈った。
「神よ、この男をお赦しください。この男は自分が本当には何を言っているのか、理解していないのです……」
「それはおまえだろ。おまえ、そのガルって奴の、何を知ってるって言うんだよ?」
ブレーキを踏み込み、車がキッと止まった。
「おいてめー、止まんじゃねえよ。まっすぐ……」
「誰かいる」
「は?」
私とコタローは道の先を見つめた。暗い夜道を、ゆらゆらと明かりが動いている。ゆっくりと、確実に、それはこちらへ向かっていた。
「また、悪魔?」
ゆれる明かりを見つめながら聞いたのに、返事がない。見ると、眉を寄せて不可解そうな顔をしていた。
「なによ、エデンの外には悪魔や迷子がうじゃうじゃいるんでしょ? あれもそうなんじゃないの」
「迷子たちがいるのはもっと都市部だ。さっき国分寺の表示があったから、まだ先」
何それ。迷子は固まってないと生きていけないの? っていうか、この男、終わりの日に書かれた文字を読めるの?
「じゃあ、悪魔じゃないの」
「……霊者があんな明かりを持って歩く理由がない。あいつらには昼も夜も同じだ」
「じゃあ……」
霊者でも迷子でもないのなら、いったい誰がエデンの外なんかに来る? こんなところに来たって、堕落した人間しかいないのに。いや、だからこそ、彼らを正しい道へ導く人間が、定期的に境界を越えて外へ行くんだ。
聞いたことがある。そのために、ゲートはいつも開いているんだって。厭世家のために。
明かりを持った人影がだんだんと近づいて、くっきりと目でとらえられるようになってきた。車の中がしんと静まり返る。私はハンドブレーキを上げた。
たった一人でこちらへ歩いてくるその人物は、どうやらランプ式の懐中電灯をたずさえていた。膝丈のスカートをはいた女の人で、薄茶色の髪を後ろでお団子にしてまとめている。七部丈で胸元のあいた服は、その人を大人びた印象に見せていた。
表情がわかるくらいに近づいてくると、畏怖の念を感じた。その目があまりにも冷たくすんでいて、気の遠くなるような年月を感じさせたから。
「おい。あれーー日本刀だよな?」
コタローの声がぶっきらぼうに響く。私も同じことに気付いていた。車のライトに反射して、女の人が持っている、むきだしの刃先がぎらりと光る。
女の人は私たちの車の目の前に立ち、迷わずコタローの方へ回り込んで窓ガラスを叩いた。コタローがしぶしぶ窓を開ける。女の人はちょっと眉をつり上げた。
「あ、そうか。日本の車は右ハンドルだったわね」
「なんの用だ」
コタローが噛みつくように言った。女の人は動じることなく、相手を迷子と知った上で対峙している。お高くとまって、どこか怒りを感じさせる顔。迷子なんかと口をきかなくてはならない自分の仕事に、どこかで理不尽な思いを抱えているみたいに。
女の人はコタローと私の顔を確認し、後部座席に誰も座っていないことを確かめると、とりすまして答えた。
「ノーム殺害の重要参考人として、逃走した女性を捜しています」
ひやりとした。氷をまるごと飲み込んでしまったみたいな。
コタローが「はあ?」と大声を出す。
「ノームって、天使だろ。殺害って、なんのことーー」
「やっと見つけたわ。あなたがカヤね?」
女の人はコタローを無視し、まっすぐ私の目を射抜いた。
「私は厭世家のコバ。あなたを連行します」