◎終わりの日の跡
霊者には二種類いる。
天使と、悪魔だ。
人間も二種類? いや、正確には三種類ある。
まず、厭世家。これは、ハルマゲドンより前の人たち。神に選ばれ、善い人間だとお墨付きをもらった人間だ。
じゃあ、ハルマゲドンの後に生まれた人間は、なんと呼ばれるか。厭世家とちがってこっちは数が多いから、わざわざ彼らを指す言葉は必要とされない。けれど、言葉がないわけではない。ハルマゲドンの後に生まれた人は、「無垢な人」という呼ばれ方をする。
すれた世を知らない、幸せな楽園しか知らない、無垢な人たち。汚れを知らず、無邪気で、素直。神の国は、まさにそんな子どもたちのためにある。
厭世家にとって、ハルマゲドンの後に生まれた人間は、祝福された子どもたちだ。だけど無垢な人間は、見方を変えれば、裁きを受けていない人間でもある。
彼らはときどき迷う。そしてときには、祈るのをやめてしまう。だから、無垢な人間は二つに分かれる。これは霊者の分け方と似ている。つまり、善い人間か、悪い人間か。
善い人間は、信者と呼ばれ。
悪い人間は、迷子と呼ばれる。
ガルと一緒に守護者の家に向かっていたとき、私は間違いなく信者だった。神を疑わず、愛に生きる、正しい信者。じゃあ、迷子たちにバスジャックされてトーキョーに向かう私は?
最悪だ。
私は迷子かもしれない。
意志の弱い人間。
堕落した女。
臆病者。
悪魔のささやきにだまされて、引きずりおろされているのに気付きもしない、哀れな人。
それが迷子だ。
「あのさー。下ばっか見てたら、酔うよ?」
ねっとりした言い方が鼻につく。下を向く原因は、まさにこれにある。
私のすぐ隣にどっかりと腰をかけ、片足を立てて椅子の上に乗せ、体をこちらに向けている男。私と同じくらい背が低いのに(まあ、これはおおげさだ。たぶん五センチはあっちのほうが背は高い。残念ながら)逆らえない威圧感がある。その正体は考えるまでもない。バスが揺れるたびに乾いた音を立てる、猟銃。そのせいで、私は顔を上げられない。少しでも目線を上げれば、のぞき込む男と目が合う。
「あー、もー、コタロー。腹減ったよー」
巨大な体をなんとか運転席に押し込み、バスを走らせている太った男が、文句を言った。
バスはノンストップで東に向かい続けている。山あいに残る道は広く、整備されていて、ときどき長いトンネルが山をくり抜いている。田舎道には点々と民家があるはずだ。猛スピードで走るバスを、誰もが怪訝な顔で見送るだろう。あんなに急いで、どうしたんだろう、と思うだろう。
迷子たちが信者を人質に、バスジャックをしているなんて誰も思わない。そんなひどいことをする人間がいるなんて、思いもしない。
だって彼らは無垢だから。悪いことをする人間がいると聞かされても、小首をかしげて、ぴんとこない顔をするだけだ。そしてこう言うだろう。「守護者の家に行ったら、きっと悔い改めるよ」とかなんとか。
「コタロー。腹減ったってば。なんか食いもんないの? なあ、まじで」
「うるっさいなあ」
コタローと呼ばれた猟銃の男が、乗せていた足をおろして床を強く蹴った。思わずびくっとする。それでも、顔は上げない。
「ほら、人質さんが怖がってるだろ。おまえはしっかり前だけ見てろ」
「このままじゃエネルギーが持たないよ。なあイトナ、なんか持ってない?」
一瞬の間。おそらく、スーツの男が黙って首を振るなりしたのだろう。運転席から、太った男の大きなため息が響いてくる。
コタローがゲラゲラ笑い、今度は反対側の足を持ち上げて膝を立てたのが伝わった。隣にいるからわかってしまうのだ。本当は、ひたすら無関心でいたいのに。
「イトナの言うとおりだよ、ガズラ。あと二十分もすりゃ、ゲートだろ。腹はすかしとけ」
「無理だよ、もうおれ、ホント疲れたもん……いてっ! 何すんだよ、イトナ!」
「はは、前見て運転しろってさ」
ちょんちょんと肩をつつかれた。私はじっと、握った自分の手元だけ見つめている。
「おまえ、もしかして祈ってんの?」
無視しようかと思った。これまでずっとそうしてきたみたいに。でも、私はしばらく考えて、そっと首を振った。
「あっそー。祈っててもいーのよ? つか、そうしてくれなきゃ困る。人質として使えねーじゃん」
私はますます強くこぶしを握りしめた。急に男の手が伸びてきて、私の両手を引きはがした。がっちりと握っていたはずなのに、あっという間にほどかれて、私は面食らって思わず顔を上げた。
「何すんのよ!」
「それ以上握りしめたら血出るだろ。おまえ、まあまあ爪長いし」
コタローはにっと笑って、自分のほっぺたをちょんちょんつついた。
「ほら、笑えって。かわいい顔が台無し。なーイトナ?」
運転席の横に寄りかかっていたスーツの男は、相変わらずひと言も喋らない。ただ、じっと、冷たい目でこちらを見てくる。うすら寒くて、身震いした。
「あ、なんだ、寒いの? つかおまえ、よく見たらノースリーブじゃん」
「……大丈夫です……」
「あのへんって、夜だとガチで寒くなる避暑地だぜ? それで映画観ようと思ってたの?」
「……」
「おい、また無視すんなよ」
私はそっぽを向く。バスの窓からのぞく景色が、すっかり変わっている。緑が減り、心なしか、荒廃しているような雰囲気だ。空はゆっくりと琥珀色に変わり、日が落ちている。
コタローはしばらく黙っていたけれど、急に動く気配がした。服がこすれる音がして、ガチャ、と金属音がする。ジーッとファスナーをおろす音が聞こえ、思わず振り向いた。
コタローはたすきがけにしていた猟銃をおろして前の座席に立てかけ、茶色の革ジャケットを脱いでいた。白の長袖シャツでにやっと笑い、私の背に革ジャンを引っかける。
「ちょっ、やめてよ!」
「へえ、気が強いね。上出来、上出来。その調子で神に助けを求めてよ」
へらへら笑って、前の座席の背もたれに肘をかけ、頬杖をつく。
「運がよけりゃ、天使が迎えに来てくれる」
のんびりと、まるでそれを心から望んでいるかのように、そう言った。
気味が悪かった。
こいつ、迷子のくせに、何言ってんの? 天使が来たら、こいつらにはこれっぽっちも、髪の毛一本分も、勝ち目はないのに。いいことなんか、ひとつだってないはずだ。自分の立場を悪くするだけ。それがわからないの?
ああ、そうか。
わからないから、迷子なんだ。
私は再び顔を背けた。背にかけられた革ジャンを床に脱ぎ捨てることもできたけれど、怖くてとてもできなかった。迷子は頭がおかしい。怒ったときに、何をしでかすかわかったもんじゃない。殴られるのだろうか、蹴られるのだろうか。どっちも経験がない。それはどれくらい、痛いんだろう。
「ああ、そうだ。もうすぐエデンの外に出るわけだけど、ひとつ約束してくんないかな」
日は完全に地平線の下へ落ち、あたりは闇に包まれはじめていた。終わりの日に建てられた四角四面な建物がぽつりぽつりと視界の中に転がりはじめ、コンクリートと汚れた土が丸はだかで広がっている。こんなところまで、来たことがない。この先は、誰も寄りたがらない、悪魔の巣窟?
「おい、聞けよ」
コタローの手が私のあごを強引に上げた。その黒い瞳と、目が合う。
「間違っても、『迷子』にはなるな」
「……は?」
背筋に、生あたたかくて気持ちの悪いものが、はっていくような気がした。コタローは笑っているのに、その目は全然、笑っていない。
「迷子だと、人質の価値が下がっちゃうだろ?」
にっこりと、首をかしげてそう言われた。
私は何も言えなかった。コタローは私から手を離して立ち上がると、猟銃を拾って肩に引っかけ、椅子の背もたれを両手で伝いながら前へ歩いていく。
「見えてきたな」
「おう」
コタローとガズラの声に、私はゆっくりと目を上げた。
空には星がまたたきはじめ、しんしんと夜がふっている。それでも、真っ暗ではない。透き通った闇の中には一種の明るさが残っていて、遠目にも、地平線や建物の輪郭がはっきり見える。
バスが向かう先、闇の中に、黒いシルエットが浮かび上がっていた。真っ黒な巨大な建造物。それは左右にどこまでも伸びていて、地上に境界を刻んでいた。こっち側と、あっち側を分断する、どこまでも続く巨大な柵。悪魔と迷子たちを放り込んでおく、檻だ。
柵に向かって、バスはスピードも変えずに突っ走る。距離があるのにはっきり見えているということは、本当に巨大な柵なんだ。
じっと見ていると、得体の知れない悪寒が走った。あれは迷子たちを囲っている檻なの? それとも、信者たちを囲っている檻?
バスが向かっている先に、四角いシルエットが見えた。そこだけ柵が途切れて、門になっている。門は開け放され、向こう側がはっきり見える。荒廃した大地が。
歯がカタカタと鳴り出した。私、本当にエデンの外に行ってしまうの? ここから外へ? 悪魔と迷子のはびこる世界へ?
無理だ。
行けない。
生まれてこのかたーーといっても、たった27年だけどーー私は「無垢な信者」だった。
天使の死に遭遇した? あんなの、私のせいじゃない! 人間が霊者を殺せるはずがないのだから。私はまだまだやり直せる。ガルがきっと味方になってくれる。私はまだ「信者」だ。「外」へなんか、行けるもんか!
急に立ち上がったので、一瞬目の前が真っ暗になった。だけど、かまうもんか。手探りで椅子の背もたれに触れ、歩く。二、三歩目で視界はすぐに戻ってきた。
バスの前方で、スーツの男が私に気付いて背筋を伸ばし、コタローが気付いて振り返る。
「なんだよ、怖じ気づいたのか?」
コタローは肩に下げた紐を持ち上げて銃を手に取り、両手で抱え持った。銃口は下を向いているけれど、だらりと下げたその持ち方は、いつでも撃てるように引き金と持ち手の部分に手が置かれている。
「ほら、さっさと席に戻れ。ゲートをくぐるときに舌噛むぞ」
私は動かなかった。乗客たちが次々と飛び降りたあのドアまで、一メートルもない。
「おい。聞こえてねーのか」
「聞こえてる」
私は短く答えた。コタローが銃をちょっと上げる。
「なら従え。撃ち殺されたいのか?」
バスのスピードが遅くなった。コタローが舌打ちする。
「おいガズラ、スピード上げろ!」
「無理だよ、『境界』なんだ。あんまり速いと、はね飛ばされる」
「くっそ。おい、ドアから離れろって!」
「迷子の命令なんかきかない」
言うがはやいか、私は動いた。ロックをはずし、ドアが勢いよく開く。
「コタロー、おれ、停まるつもりはないよ。はやく帰って、なんでもいいから食べたいんだ」
「くそっ!」
飛び降りる私の腕を、コタローの手が掴んだ。
次の瞬間、私とコタローは走るバスから転げ落ち、もんどりうって丸まった。とっさに頭を守り、目を閉じた。固い地面の上の砂利がほこりを巻き上げ、手に、肩に、背中に石のかけらが食い込む。
想像より痛い。でも、死んではいない。
バスはスピードを落としたままだったけれど、停まる気配もなかった。そのまま、四角い門構えのゲートを抜ける。バスは吸い込まれるように境界を越えると、急に速度を上げて走り去った。
痛みをこらえながら、地面に手をつき、身を起こす。やばい、ホントに痛い。一メートルも離れていないところにコタローを発見して、ぎょっとした。力を振り絞り、立ち上がる。だけど走り出す前に足を掴まれ、つんのめって倒れた。
コタローが馬乗りになって腕を掴もうとしてくる。私はバシバシ叩いて抵抗した。これまで出したこともないような、悲鳴とも雄叫びともつかない声が自分の喉からひねり出されて、びっくりした。コタローのほうでも、うなり声を上げながら、私を殴った。
不思議と痛みがなかった。これがアドレナリンってやつ? ずいぶん心強いじゃない。
身をよじり、足でコタローを蹴っ飛ばし、つばを吐く。どけ、どけ、どけ! 私の前から消えろ! 犯罪者!
五分くらいの格闘の末、勝利した人間がゆらりと立ち上がった。
コタローはゼイゼイ言いながら私の髪をわしづかみにし、ゲートへ向かって歩きはじめた。引きずっていかれながら、掴まれた髪を必死でつかみ、私はわめいた。
「神様! 天使様! 助けて! 迷子です、心の汚い迷子が私をさらおうとしてる! お願い助けて! 聞こえますか? 神様ーっ!」
「神ってのがなんなのか、教えてやろーか!」
急に立ち止まり、コタローが吠えた。
「祈っても無視する奴だ、くそったれ!」
汚い言葉でののしりながら、コタローはときどき私を蹴っ飛ばし、ゲートに辿り着いて、境界を越えた。それでもまだ心配だといわんばかりに、コタローは50メートルも私を引きずり続け、そこでやっと髪の毛を離した。私はゲートに向かって走り出そうとした。でも、失敗した。コタローにつかまるほうが早かった。私はまた引きずり倒され、蹴りを入れられた。
コタローは「返せっ!」と言いながら、自分で貸してくれた革ジャンをひっぺがした。もう一度私を蹴って地面になすり付けてから、手首を踏みつけ、動きを封じられてしまった。
コタローは銃を持ち直しながら、革ジャンを着こんだ。踏まれた手首が引きつるように痛む。皮膚がやぶけて肉が飛び散っていきそうな気がした。動けない。涙が出た。
「てめーのせいで、ガズラに置いてかれたじゃねーか、クソ女」
「帰して……帰してよ!」
「うるせー。目ん玉えぐり取られたいのか、サムソンみたいに?」
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……神様! 天使様……」
「黙れ。もう聞こえやしねーよ。ここはもう『外』だ」
コタローは踏みつけていた私の手首を掴むと、荒っぽく立たせた。涙が止まらない。顔をぐしゃぐしゃにゆがめながら、私は首を振った。怖い。嫌だ。こんなところにいたら、殺される。
「嫌だ……いやだよ……ガル……おかあさん……」
「それみろ」
コタローは吐き捨てるように言った。
「そっちの名前のほうが、大事なんだろ」
コタローの言葉の意味はわからなかった。ただ、私はたった今、安全から切り離された。そう感じた。
暗くて冷たい、廃墟の町。広大で、荒廃した、過去の大都市。終わりの日の遺物。隣には、粗野で気まぐれな、狂った男が私を捕まえている。
エデンの外。
悪魔と迷子の界隈へ、迷い込んでしまった。