*天使の間違い
その日、私とイトナはトーキョーで一番高い建物に辿り着くことはできなかった。私は疲れてしまった。誰かとセックスをしたくてたまらなくなった。
イトナに手を差し出すと、彼はだまってつないでくれたので、セックスはどうでもよくなった。それで二人で並んで家に帰ることにした。
イトナは道を歩くときに、いつも白いステッキをたずさえている。これは町中にいる迷子たちから身を守るためのものです。
トーキョーには迷子が増え続けていて、彼らはみんな知り合いというわけではない。エデンの外にはたくさんの悪魔がいて、迷子たちに邪悪な考え方を教え込んでいる。
神様にそむいた罪悪感をかかえた迷子たちは「邪悪にならなければ」という、よくわからないあせりを感じている。だから迷子たちは本当は優しいとしても、悪ぶって悪いことをしようとする。
だからトーキョーを歩くのは危険だそうです。私はあまり危険だとは思わない、けど、イトナはステッキを持ち歩く。
イトナがトーキョーを歩いていると、たいていの迷子は「やあ」とあいさつします。これはみんな同じ。迷子たちはお互いに知っていようと知らない相手だろうと、あいさつします。
それで相手がにこにこしてあいさつを返せば何も起こらないし、無視をすれば「失礼なやつだから殴ってもいい」と考える人がいる。
それで、イトナはいつも「殴ってもいいやつだ」と思われてしまう。イトナは耳が聞こえないからあいさつを返せない。しかし迷子たちは耳が聞こえない人が存在するなんて思ってもいない。だからみんな、イトナは失礼で、あいさつを無視すると早合点します。
仕方がないのでイトナは殴りかかってくる相手を殴り返すしかない。イトナは生まれつきとても背が高いので人より筋力があります。なのでイトナはステッキさえあれば1対1で負けることはありません。
相手が二人や三人になれば負けるときもあります、それから五人や十人のときもある。そしたらイトナは血だらけで家に帰ることになる。
トーキョーでは誰かが死ぬこともあります。迷子たちは加減を知らない。どれくらい叩くと致命傷になってどれくらい蹴ると内蔵が壊れるかを知らない。
だから、いつかイトナは迷子たちに殺されてしまうかもしれない。あいさつを返さなかったという理由で。相手が手話を知らなかったという理由で。
イトナは人を殴るのは好きではない。彼には厭世家の両親がいて、暴力はよくないときかされて育った。
両親は加減を知っていた。どれくらい叩くと人は死なずにすんで、どれくらい蹴れば痛いだけですみ、怪我にはいたらないかを知っていた。だから暴力について何も知らない人が「よくない」と言うよりも、彼らの言葉には重みがあった。
それでイトナは未だに暴力をふるうことに抵抗がある。イトナは賢くて優しい。だから彼は正当防衛であっても、殴り返したりはしたくないはずです。
イトナが仕方なく相手を殴って家に帰って来ると、彼はいつでもイライラとして爪を噛むくせがある。手の爪を十枚ともぎりぎりまで噛んでしまって、仕方がないので足の爪を噛んでいるのも一度だけ見たことがあります。それはまるで自分のしっぽを飲み込もうとしているヘビみたいだった。イトナは目がヘビのようにするどいので余計にそう見えた。
私とイトナが手をつないで帰っているとき、イトナの右手には私の左手があって、イトナの左手には例のステッキが握られていました。
廃墟に群がる緑のツタをぼんやりと眺めていると、前の角から大きなバイクがあらわれて止まった。バイクにまたがっていた人は私たちを見てエンジンを切りました。それはコタローだった。
コタローは茶革のジャケットを着て、古ぼけたジーンズをはいています。そして背中には猟銃がある。これは終わりの日に人間が作った武器です。
終わりの日にはまだ人間が野生の動物を撃って食べたり毛皮を利用することがあった。しかし今ではこうした銃や、戦争のために作られた剣や刀はありません。それらはスキやクワにとってかわられた。迷子にも、こうした武器を持っている人はいない。
コタローが武器を持っているのは、彼が厭世家だから。厭世家には武器の所持が許されている。彼らが境界を越えてエデンの外へやってくるときは、武器を常に持ち歩きます。それはイトナがステッキを持ち歩くのとまったくおなじ理屈です。
迷子たちは荒っぽくて暴力的で、おまけに加減を知らない。だけどコタローは迷子なんか怖くない、と言ったことがある。彼らは終わりの日の悪人に比べたら、かわいいものだそうです。
迷子たちは自分を「悪人」だと思っているけど、終わりの日の悪人は、自分を悪人だとすら思っていなかったらしい。悪がはびこりすぎて、日常的すぎて、意識にものぼらなかったらしい。
私にはよくわかりません。
私は終わりの日を知らないから。
今の時代しか生きていないから。
だからコタローが真実を言っているのか、おおげさにわかりやすく言っているだけなのか、よくわからない。
コタローはバイクから降りると、私たちに近づいて言った。
「アリトンはいるか?」
それでイトナは首をふった。するとコタローは舌打ちしてから言った。
「話がある。お前たちの巣で待っていてもいいか?」
コタローは私たちの家のことをいつも「巣」と呼びます。これは私たちを人間として扱っていない証拠です。こういうところでイトナはコタローが嫌い。
イトナはちょっぴり不満そうな顔をしたあとに、つないでいた私の左手を離して、人差し指を立てて左右に振った。これは「何?」という意味です。つまりイトナはコタローに「アリトンと何の話をするつもりだ?」ときいている。
それでコタローは答えた。
「ノームのことだ」
私はコタローの前にぴょんと飛びついて、その手をとってにっこり笑った。
「ノームがどうしたの。また私の家に会いに来る?」
するとコタローはだまって私の手をふり払ったので、私は傷ついた。コタローは決して私に笑いかけてくれたことがありません。
イトナは私に自分のステッキを持たせた。これは珍しいことです。彼が両手で手話をするときは、たいていわきにステッキをはさむので、誰かに渡したりはしない。しかしイトナは今、私にステッキをあずけ、コタローに手話で話しかけた。
「おまえはアリトンと話す必要はない」とイトナは示した。するとコタローは言った。
「どういう意味だ。なんでおまえが決める?」
それでイトナは示した。
「アリトンは関係ないからだ。おまえの天使と話せ」
コタローはだまりこんだ。
厭世家には一人ずつ、付き従うべき天使が割り振られていて、コタローの場合はイズルがその担当天使です。
もともとコタローはイズルと一緒にアリトンに会いに来たのがはじまりだった。
イズルはアリトンが悪魔になる前からの友達で、私は何回か会っている。彼はとても公正で、相手が悪魔だろうと仲良くなれるほど器が大きい。けど、コタローは器がちいさいのでイズルに対して不満を持っていた。
コタローはイズルが悪魔と仲良くするのをよく思っていなかった。なぜなら天使は潔癖でなければいけないと、コタローは考えていたから。天使はきれいでなければいけない。イズルは天使なので自重すべきだ、とコタローは考えている。
けど、私はイズルをきれいだと思ったことはない。イズルは男らしくてたくましいけど、きれいとはちがうと思う。きれいというのは私やアリトンやノームのことをいう。アリトンは悪魔で、ノームは天使だ。けど、どちらもとても美しい。私もアリトンに作られた人形なので、やはり美しい。
イズルと一緒に来ていたころのコタローは、私に対しても友好的じゃなかった。コタローが私をにらみつけたり、不機嫌な顔を向けなくなったのはこの三ヶ月くらいのことです。それでもやっぱり私には笑いかけてくれたことがない。それはもしかすると、私が口を開けばセックスに誘うせいかもしれない。
イトナに断わられたコタローはもじもじしたあとに口を開いて言った。
「イズルとはもう会えないんだ」
するとイトナはうさんくさそうな顔でコタローを見て、人差し指をふった。それは「なぜ?」という意味です。
コタローは目を伏せ、つぶやいた。
「個人的なことだ。おまえらには言いたくない」
そしてそれは、コタローは知らないけど、とても滑稽なセリフだった。なぜならイトナには人の心の声がすべて聞こえてしまうから。コタローは知らないけど、イトナにはコタローの秘密が手に取るようにわかる。
しかしイトナは、コタローが隠し事をしているのが気に入らないようだった。彼は私のほうを向いてステッキを受け取った。それからイトナは私の右手をとって歩きはじめた。イトナはコタローを無視して歩きはじめた。
私はイトナに手を引かれながら後ろをふりかえってコタローをながめた。コタローはしょぼくれたようにそこにつったって、私たちを見送っていた。やがて彼はバイクを捨てて私たちを追いかけて来て、イトナの前に立ちふさがった。
「ああ、正直に言うよ! おれは『迷ってる』!」
イトナはじっとコタローを見おろしていた。私はコタローが何を言っているのかわかりました。「迷っている」ということは、コタローは「迷子」なのだ。そして厭世家の迷子は、いないはずです。
イトナは手話で示した。
「おまえの問題だ。アリトンは関係ない」
するとコタローは首をふってから言った。
「ノームはそう思っていない」
それでイトナは示した。
「なぜノームが出てくる?」
するとコタローはちょっとためらった。それから意を決したように言った。
「おれは厭世家だ。そして14万4千人の厭世家を定めたのはノームだ」
それでイトナはちょっと口の端をあげたので、笑っているのがわかった。イトナが笑うなんて珍しいことです。彼は手話で示した。
「天使が間違いを犯した?」
コタローはうなずいて言った。
「そういうことになる」
厭世家というのは神様のもとにお墨付きをもらった「善人」です。善人であるはずの厭世家が悪人になるはずはありません。けど、迷子になったということは、コタローはあり得ないはずの人間だということになる。「絶対に悪に加担しない」と認められたはずなのに、コタローは迷子になったと言っている。
これはおかしなことです。
イトナはおかしそうに笑っていた。彼は無言で笑っていたので、私も笑った。笑っている人は好き。私まで楽しくなる。
イトナは私を見おろし、私の髪を優しく耳にかけてから、コタローに向き直って示した。
「カエラに優しくしてやれ」
するとコタローは気まずそうに唇をなめて、「ああ」と小さな声で言った。そして私のほうを向いて頭を下げ、「すまなかった、カエラ」と謝った。
これは彼がするジェスチャーのひとつで、日本人の行動パターンのひとつです。彼は悪いことをしたと思ったとき、頭を下げて謝罪する。コタローは私に謝ってくれたので、もしかすると本当に私に優しくしてくれるかもしれない。
私はうれしくなって笑いかけた。それでイトナの手を離してコタローの手をとり、家に向かって歩きはじめた。イトナはだまって私たちのうしろを歩いてきました。
コタローははじめ、ぎこちない足どりだったけど、私は気にならなかった。コタローの手はイトナの手よりも小さいけど、とてもあたたかくてかわいらしい。それにノームが来るかもしれないとわかって、私はうれしかった。
コタローが私たちの家にいれば、ノームはまた会いに来るかもしれない。私はもう一度ノームに会いたかった。彼の手を握りたかった。
家に戻るとガズラはまだ何かを食べ続けていました。彼はコタローに気づいてにこにこしながら「よお」と言った。でもそれきり、また下を向いて食べはじめた。
アリトンはいなかった。それでイトナはソファに腰かけたので、私はそのとなりに座った。コタローは私たちの向かいに座った。それで私は立ち上がって歩いていってコタローのとなりに座った。
イトナは表情を変えなかったけど、コタローは気まずそうにちょっとだけ座り直した。それで私は言った。
「アリトンと何を話すの?」
するとコタローは言った。
「迷っていることを伝える」
部屋の向こうでガズラがムフフと笑っているのが聞こえた。彼は口いっぱいに食べ物をほおばっていたので何もコメントしなかった。それでもコタローが迷っているときいて、おかしそうに笑っていた。
イトナが示した。
「イズルには伝えたのか?」
するとコタローはうなずいた。
「だからここにいる」
「イズルはなんと言った?」
コタローは肩をすくめた。
「あいつは常に中立的な考え方をしてる。おまえが決めたなら、引き止める権利はないとさ」
イトナはうなずいて、それきりだまった。私はコタローの手を両手で包んで言った。
「ここに住む?」
するとコタローは私と目を合わせずにうなずいた。
「もしお前たちがよければ」
私はコタローの手をぎゅっと握りしめて言った。
「私はうれしい」
コタローはちょっとのけぞって、私の手から逃れてから言った。
「悪いけど、おれは『迷ってる』んだ。おまえの相手はしてやれない」
私は何を言われているのかわからなかったので少し考え込んだ。それから思いついて言った。
「それは、私とはセックスができないという意味?」
するとコタローは顔を真っ赤にしてうなずいた。彼はこの家にいるとき、たまに顔を真っ赤にさせます。それはとてもかわいいと思う。
私はもう一度コタローの手を握った。
「セックスは無理でも、握手ならいい?」
するとコタローはうなずいたので私は満足だった。
終わりの日から千年ちかくたって、エデンの園に悪魔が入れるようになってから、迷子は増え続けている。預言によると、このあと神様は最後の選定を行います。それで人間は完全に「善人」だけが生き残ることになる。迷子は滅ぼされる。
そしてノアの洪水やソドムとゴモラやハルマゲドンには滅ぼされなかった、霊者もここでその裁きを受ける。それでこの世には、神様と神様を愛する天使と人間だけの、幸せな世界になります。
私は悪魔アリトンが作ったので、幸せな世界には行けません。迷いはじめたコタローも、迷子のイトナやガズラも行けません。私たちは千年王国の1000年目に一緒に死にます。
死がどんなものか、私にはよくわからない。なぜなら死んだことがないから。
けど、終わりの日には、死はとても身近だったらしい。いつか死ぬから一生懸命生きていられた、とコタローは言っていた。私にはよくわからない。もし死なないとしても、私は一生懸命生きていたい。
けど、私は死にます。そしてノームは生き続ける。なぜなら彼は天使だから。神様を愛しているし、善人だから。
私はノームがずっと生きていてくれたらうれしい。私が死んでもノームは私のことを覚えていてくれると思う。彼は頭がいいから、きっと忘れたりしない。そう信じられるから、私はうれしい。
私はノームが好きだから。