*握手
アリトンはひと月ぶりに私たちの家に帰ってきた。
これはノームが来てから9日めのことで、いつもよりも少しあいだがあいている。
アリトンは悪魔なので地上をどこへでも歩き回ることができる。地球にはあちこちにエデンの外があって、そこかしこに悪魔が棲んでいて、アリトンは彼らに会いにいく。だからアリトンは家を空けていることが多い。
それでも、アリトンは私たちの家を特別だと言いました。なぜなら私がいるから。私は身体があるのでアリトンのように地上を移動できない。アリトンの作った人間もどきは私だけだから。私はアリトンの子どもだから、彼女はいつも、ちょくちょく帰って来る。
しかしアリトンは天の国には永いこと帰っていない。それは彼女が悪魔だから。悪魔は終わりの日のはじまりに、天から地に投げ落とされた。彼らは二度と元のすみかに戻れなくなった。それで終わりの日には、地上に戦や疫病や地震がはびこった。それは投げ落とされた悪魔が怒りを抱いて暴れ回ったからです。
悪魔たちは地の底から抜け出したけど、今でも天の国には帰れない。彼らには地上しか居場所がありません。迷子たちはエデンの園から追い出されてしまったので、エデンの外にしか居場所がない。だから悪魔と迷子は似ていると思う。
アリトンは帰ってきて、私とイトナとガズラに「ただいま」と言った。私は走っていってアリトンに抱きついて「おかえり」と言った。するとアリトンはちょっと変な顔をして首をかしげた。
彼女は私の方をつかみ、肌や髪やなんかをじろじろと見た。
「カエラ、最近セックスをしていないの?」
「最近というのは、どれくらいの期間までをさすの?」
アリトンは質問を変えた。
「最後にセックスをしたのはいつ?」
それで私は言った。
「最後にアリトンとセックスをしたのは32日と15時間まえ。最後にセックスをしたのは9日と6時間まえ。イトナとした」
アリトンはイトナのほうを向いて言った。
「どういうことなの。ちゃんと相手してあげてって、言ったでしょう?」
イトナはこの様子をじっと見ていたので、私たちの唇の動きをちゃんと見ていた。それでイトナは両手をあげて手話で示した。
「カエラは最近、手を握るだけで満足している」
アリトンは不可解そうに眉をひそめて言った。
「どういうこと?」
するとイトナは手話を続けた。
「天使が来て、カエラに教えた」
そしたらアリトンは怖い顔をして私の肩をつかんだ。力を込めてつかまれたので痛いくらいでした。私は怖くなった。このとき初めて、私は「怖い」を知った。
アリトンは言った。
「その天使の名前は?」
イトナは肩をすくめた。彼は知らなかったから。それで私が代わりに答えた。
「ノーム」
アリトンは私をじっと見た。考えぶかげな顔をしていた。その顔はとても思慮深く、どこか傷ついて見えて、とても美しかった。
アリトンは私の肩をつかむ手をゆるめ、私を抱き寄せてキスをしました。私はうれしくて、それから五分もアリトンとキスをした。イトナはだまって目を背けた。そしてにやにやしながら見ているガズラの頭をはたいていた。
アリトンとキスをするのは好き。
霊者はとてもキスがうまいです。
やがてアリトンは満足して私から離れた。そしてイトナに向かって手話をした。アリトンはイトナが自分の心をのぞけないことを知っているから、イトナが正しく意味を理解するために、ときどき手話を使う。読み間違えるかもしれない唇の動きよりも、手話のほうが確実だとアリトンは知っていた。
イトナは耳が聞こえないから。
イトナはアリトンの手話を見てうなずいた。アリトンはもう一度、今度は私のおでこにキスをした。
「カエラ、ちょっと出かけてくるからね」
私はがっかりした。
「今帰ったばかりなのに、どこへ行くの?」
「用事ができたのよ」
「それは私がノームに言われてセックスをしなくなったのと関係あるの?」
「関係あるよ」
それで私は言った。
「ノームに会いに行くの?」
「いいえ。イズルに会ってくる」
イズルとはアリトンの親友であり、天使の名前です。私はまたがっかりした。もしもアリトンがノームに会うつもりなら、がっかりはしなかったと思う。
それで私は、もう聞くことがなくなったので、こくりとうなずいた。
「わかった。行ってらっしゃい」
それでアリトンはイトナにうなずいて、部屋の向こう側で何かを食べ続けているガズラに食べ物をどっさりおすそわけして、外へ出て行った。
それがさっき起きた出来事です。
アリトンがいなくなると、イトナもパソコンから離れて外へ出て行ってしまった。それで私はひとりぼっちになった。本当はガズラがいたけど、この男はただ何かを食べているだけで、いてもいなくても同じ。でも、ガズラがいてくれてよかったと思った。
私はガズラが好き嫌いなく、なんでもおいしそうに、幸せそうに食べているのを見るのが好き。でも本当は、ガズラにも嫌いなものがある。
ガズラはお肉が好きで、野菜はあまり好きじゃない。エデンの外で栽培される野菜はどれもしなびておいしくないから。でも、ガズラはおいしくなくても残さず食べる。何も食べないよりまずくても食べたほうがましだと、ガズラは言ったことがある。
その気持ちはわかります。私も誰でもいいからセックスがしたいと思う。でもきっとそう考えるのは私が不完全で、迷子だから。神様の作った、ちゃんとした人間ではないからだと思う。
私は食べているガズラの腕をぽよぽよ触ることにした。それで少し幸せになったけど、イトナと手を握っているほどではなかった。なぜだろうと思ってよく考えたら、ガズラは長そでを着ていた。
それで私はガズラのそでをまくって直接その腕をぽよぽよした。するととても幸せになったので、これならイトナの手を握っていなくても平気だ。
「アリトンはイズルに会いに行ったんだって」
私はガズラに言った。何か話しかけたい気分だったから。するとガズラは口を動かしながら「知ってる」と答えた。「聞いてた」と彼は言った。
「アリトンはイズルに何を話すのかな」
ガズラは興味がなさそうだった。この男は食べること以外何も興味がないのでつまらない。けど、ガズラは肉の欠けらを飲み込んで、言った。
「カエラの話をするんだろ」
私は首をかしげた。
「私の何について話すの?」
「知らないよ。おれはアリトンじゃないもん」
それはまったくそのとおりです。私は誰でもなく、カエラなので、カエラのことしかわからない。他の人間や霊者の考えていることはひとつもわかりません。
私は急に思い立って、ぴょんと立ち上がって自分の部屋に走った。ノートを取ってきてガズラのとなりに座り、頭をガズラにもたせかけてページをめくった。
私は私が書いたそれまでの文章を読んだ。なかなかいいできばえだと思った。それで、続きを書こうと思って、今それを書いています。
私はすっかり安心した。アリトンがいなくなったことも、イトナがいなくなったことも、あまりさみしくなくなった。ありのままを書くのはいいことだと思う。それに、ガズラの腕をときどきぽよぽよするのも、いいことです。とても安心する。
けど、もしも次にノームがアリトンに会いにきたら、私は彼とまた握手をしたいと思う。アリトンとのキスより、イトナとのセックスより、ノームと握手がしたい。そして、いつまでもいつまでも、彼に触っていたいと思う。