ララのテーマ
性に関する描写が含まれていますのでご注意ください。
『ララのテーマ』 くまごろー
(一)
『……血気にはやるジュニアを握りしめて、どう慰めたものかと来る日くる日を悶々と送っている諸君でも、母親ほども年の離れた婆さんを金を払って抱こうとは思うまい。しかし、女性というのは不思議に奥の深いもので、その魅力は若い肉体にばかりあるのではない。ある年齢に達して初めて発見するといった女の魅力というものがある。偉そうなことを言うつもりはない、私の実感だ。私だってやっと熟女の一人と交際始めたばかりだから、本当には分かっちゃいない。目下研究中だ。
さて、子守り娘から七十婆までの言葉どおり、それぞれを味わい尽くさねば男が仕上がらない。色道修行は人間修行。とは言え、今どき子守り娘などいるわけもなく、うっかり幼女に伸ばそうものなら諸君の手は忽ち後ろにまわる。そこで提案だ。次回から諸君のお相手の幅を少しばかり上に広げてみてはいかがだろう。ひろく女性を愛するのは悪いことではないし、経験豊富な年上の女性からは教わることも多いはずだ。若い娘もやがて老いるのだし、我々男性は老いた娘たちとも仲良く楽しく暮らして行かなければならない。世は挙げて資源節約のリサイクル時代、奨励されるべきは再使用。今日は、熟女をも究めてみようという向上心あふれる諸君に恰好の道場を紹介しよう。
フルール・デュ・マル〈悪の華〉という店には年配の素人女性が蝶々のように集まって来る。(往年の)美女たちだ。世が世なら近づくのも許されぬお姫様たちだ。悪の華は風俗店ではない。好みを指名して即ベッド・インとは行かない。よって、せっかちな向きには勧めない。手続きとして、会話から始めて恋愛を成立させる必要がある。え? 口説いても落ちないホステスと変らないですと? そりゃ違う。彼女たちの目当ては金ではなく、恋愛なのだ。君が彼女たちに選ばれなければならない。悪の華は恋愛を育てる場所だから、時間はかかる。覚えておいてほしいのは、ここの女性たちは肉体交渉もさることながら、恋に恋する夢多き熟女たちだということだ。彼女たちは男を欺して金をむしり取るホステスではない。彼女たちは恋愛を求めている。逆説的な言い方だが、彼女たちは本気で遊ぶのだから、諸君もその気でないと火傷する。まァ口で言うほど簡単ではないのはお分かりいただけよう。
彼女たちには当然、年齢相応の教養があり、財力がある。諸君が騎士ぶりを発揮して、かつての姫君たちを薔薇園へ誘い愛を語らえば、騎士の忠誠心は報われて、諸君は思いを遂げられる───かも知れない。
悪の華はれっきと実在のバーだから、逆援希望・一回五〇万などのネット美人局ではない、その点は安心していい。ただ前述の通り客層に著しい特徴があるというだけだ。出るも入るも諸君の自由、同様に彼女たちも店に所属してはいないから売上げとも関係ない。彼女たちは客に、つまり諸君に卑しくたかることはない。金はありあまるほど持っているし、何よりお嬢さま育ちがそうはさせない。めでたく大輪の薔薇を咲かせれば、実入りは五〇万どころのハシタ金ではないはずだ。まさかと思うだろうが、現にこの私が知り合って間もない女性からジャガーの新車をプレゼントされている。
通いなれた風俗店とは勝手がちがうので戸惑いはあろうと思う。が、ジュニアのみならず人間を一回り大きくする人生修行と思って励んでみられては如何だろう? 尚、彼女たちとの交渉に当たっては相当な教養と会話力が要求されることを付け加えておく……』
記事の下に悪の華の所番地と電話番号、会員カードを発行してもらうためのアドレスが載っていた。
「……いったい何者だ、偉そうに。ジャガーの新車だと? ふっ、言ってくれるじゃないか……」
つぶやいたのは大山健吾、業績不振の零細貿易会社の庶務係長、四十五歳になったばかりである。
記事の悪の華は刺激の乏しい健吾の関心をひいたが、熟女に関する彼の記憶は忌わしいものでしかない。
健吾は冗談半分でネットの迷惑メールに返信したことがある。怪しいサイトに誘い込むアレだ。分別盛りの四十五才は思うように活躍させてはもらえない境遇に倦んでいたし、安月給から住宅ローン、子供の教育費と支出がかさみ、妻から渡される小遣いでは風俗で遊ぶこともままならない。……安く遊ぶにはこれも手だな……。冗談が半分だから残り半分は本気、つまり、期待をかけたのだった。
《必ず抱ける近所のオバさん(四〇才以上)。ただし容姿は保証しません》
容姿は保証しないというウソ臭い文句がいかにもホントらしい。さっそく火遊び用に無料メールのアカウントを取って無料登録した。すると、その日のうちに近所のオバさんたちから数件のメールが舞い込んだ。……やりたがりのオバさんっているんだな……。
彼女たちは、いきなり日時とホテル名を知らせてくる。「どんなことしてもらえるのか楽しみです」という文面がすでにマトモではない。健吾は文章の控え目な一つを選んで会ってみることにした。会うまでは鬼が出るか蛇が出るか分からない。分かっているのは相手がヤリたがりのオバさんだということだけだ。
指定されたドトール・コーヒーで待っていると、女は手にスーパーの白いポリ袋を二つさげてやって来た。
「……?」
まるで雰囲気がない文字通りのオバさんの登場に健吾はがっかりした。プロフィールに五十才とあったから実年齢は六十才だ。所帯やつれした婆は抜けた犬歯が未治療だった。笑った顔が卑しくて親しみが持てない。小ざっぱりした身なりにオーデコロンまで振って出てきた健吾には、それなりの期待もあった。彼は女の出立ちを失礼だと思った。
「生ものを買ってあるんで、早くしてね」
女のセリフに健吾はホテル代が惜しくなった。
「どこなんだい、あんたのなじみの連れ込み旅館は?」
「ラブホを連れ込み旅館ってかい? アタシらの年齢ならそうだよね、あっはっは。いいよ、若い娘じゃないんだから高級ホテルじゃなきゃヤダなんて言いやしないよ。それより、ナニはちゃんとつけてよ」
……この年齢で、まだ閉経ってないってか? つまらない見栄をはるんだな……。
気に入らないなら止めればいいが、健吾はそれが出来ない。ただより安いものはない、という彼の哲学は、外道であれ、雑魚であれ自分の釣果にしないと気がすまないケチな男なのだ。
ホテルで健吾はオバさんを這いつくばらせた。
……メールの女なんてこんなもんだろ。目先が変わっただけでもヨシとするさ……。
そそくさと帰り支度を始めた彼に、オバさんは背後から声をかけた。
「ちょっと、払うものを払ってよ」
「なにいッ? そっちがやりたかったんだろ、ただじゃねえのかよ?」
「ちょいとォ、ヤリニゲはないでしょッ!」
健吾は、素人の不良主婦はタダだと決めてかかっていた。しかし、サイト利用規約にも彼女のメールにも、無料だとは一言もなかったのだった。シワの寄った歯抜け婆ァは風俗嬢とほぼ同額を吹っかけてきた。彼はムッとしたが、騒がれても厄介だ。年寄りだろうが不細工だろうが、彼はヤッてしまったのだ。そして、婆さんとは言えこんなことをやっている女だ。背後にどんなコワイお兄(爺?)さんがついていないとも限らない。彼は苦々しい思いで使用料を支払った。
……くそッ、足元を見やがって。えらい災難だ……。
二度目は健吾も学習して、ホテルに行く前に料金の交渉をした。
「アタシ、別にお金が欲しいわけじゃないから……」
健吾は女の言葉に感激した。これを待っていたのだ。……おお、やっぱりいたか、こういう女が。こういうのなら可愛がってやってもいい……。
「がっかりしたでしょ? メールの写真は借り物なの」
それは女を見ればわかった。四十を二つ三つ出たところか、特徴も魅力もない女だった。
「いや、君はじゅうぶん色っぽいし、ボクのタイプだ」
彼のお世辞は彼女の無料提供に対するホンの感謝のことばだ。
「ま、うれしいっ」女は着衣のまま健吾をベッドに押し倒し、股間に手をやって言った。「あなた、大っきいのね。たっぷり愛してね」
女のお世辞もおざなりの挨拶だ。男と女のことなんて済んでみるまでは分からない。彼は女の密着感の乏しさが不満だったが、女は自分から色々に体位を変えては大袈裟な声をあげた。そして一段と大きくわめいたかと思うとサッとベッドを出て、無言のまま服を着はじめた。さっきとはまるで別人だ。女はもう健吾と視線を合わせなかった。
「……?」
彼には女の具合より、その態度がおもしろくなかった。事後の女の、あのねっとりと絡みつくような、ある種の自信を得てさらに甘えるような、あの視線がなかった。征服されたメスの誇りとでもいうのか、健吾はそれで、これまで女が満足度をはかって来たのだった。女がわめきちらしたのが芝居だとわかったとき、彼は負けを認めないわけにいかなかった。使われた、という屈辱感がやりきれない。……挨拶もないのかよ。こんな女にまでナメられるのか。俺の方からハードルを下げたのにこのザマか……。彼はもう一度、危ない道具を使ってでもこの女にホンモノの悲鳴をあげさせてやろうと思った。
「今度、いつ会える?」
「これっきりにしてちょうだい」
女はもう健吾に関心はないのだった。素っ気なく冷たかった。女はそのまま振り返らずに部屋を出て行った。
……サイトの女は自分の都合で男を渡り歩くからな、ひとりの男との関係が長引くのを嫌がるんだ。それだけのことだ。俺が嫌われるわけがないじゃないか。こんな出会いは最初から寸断されているんだ。彼女らの言うワリキリが砂を噛むような出会いなのは当たり前なのだ。ヤラレ損をヤリ得だと勘違いする男のほうもバカなのだ。こんな女はしょせん恋愛能力のないメス犬だ……。
健吾はそう思うことで屈辱感を軽くしようとした。
彼が悪の華に期待したのは、そこの女たちが恋愛を求めているというなら、肉塊との一発勝負でなく、長続きする、少しは人間味のある出会いもあろうと思ったからだった。恋愛を続けようとする女なら、それなりの情もあるわけだし、女のそういう健気な気持ちを愛したいと思った。
……やっぱり、恋愛あってこそのセックスってことだな。それが基本だ。体だけブツけ合っても思い出さえ残らない、下手をすればトラウマになって生活に悪影響だって出かねない……。
そんなことを考えながら健吾は、何才かは分からないが体験を積んでいるらしい男のブログ記事に、迷惑メールが宣伝するエロサイトと違うものがあるだろうとささやかな期待をかけたのだった。
(二)
健吾は悪の華に足を運んでみた。
壁に数枚掛かっているロートレックのポスターがデカダンな感じを匂わせている、昭和の喫茶店のような印象だ。照明を落とした店内で、何組もの男女が談笑しているが、ベタベタした感じはない。ブログ記事にあったように、ベタベタは恋愛するようになってからなのだろう。恋を手に入れた女性はここを出て行き、恋を失ってまた戻って来るのかも知れない。
……只今恋愛育成中ってか。温和しいもんだな。この店ではお話をするのだ。会話のなかで恋愛の糸口をつかむ、そこから全てが始まる。恋愛だからな、相手をその気にさせなくては、その気になってもらわなくては……。
七、八人ほどの女性のなかに、身なりの派手な女が二人ほどいたが、彼女たちも健吾に媚びた視線を向けることはなかった。まして安いホステスのようにしなだれかかってくることもなかった。彼女たちは客なのだ。しかし、だから、健吾がいつまで待っても女から声はかからなかった。
……司会者のいない集団見合いみたいなもんだな。だれも面倒を見ちゃくれない。やっぱり化粧の濃いのが手っ取り早いかな。とにかく知り合わなくてはどうにもならん。女たちは自分から男を誘っては安っぽくなる、ホステスみたいなまねは出来ないと思ってるんだろう。男が欲しくてもざっくばらんにはなれない。望まれない限りは応じられない───かつてのお姫様のプライドだ。最初に恋愛、その結果があるとすればセックス。順序が逆ではハシタナイないわけだ……。
健吾の目に女たちはよそよそしく映ったが、それはそれで仕方ないと思った。
……だれも声をかけて来ないな。彼女たちが恋愛をしたがっているというブログの話はデタラメなのか? いや、焦るな。とにかく、話に持ち込むキッカケだ。うむ、彼女たちの流儀に従おう。それで彼女たちのプライドを傷つけずに恋愛に進める。なぁんだ、そうしてみれば、みんな可愛いオバさんたちじゃないか。ツンとすまして声を掛けられるのを待っているんだ。彼女たちに惹きつけられ、彼女たちを惹きつけてくれる相手を欲しがっている、若かったお嬢さまの日々の夢に、もう一度誘う男を欲しがっている。それもホストのようにウソ臭くない男をな。よし、話かけよう……。
健吾が腹を決めたとき、客のなかでは若い、派手な女の視線が気になった。話しかけられたそうな眼だ。
……ほうら、いる、いる。ふむ、脈があるぞ……。
すんなり事が運びそうに思えて、彼はほくそ笑んだ。健吾の笑いをOKのしるしと受け取り、女が席を立ってカウンターの健吾に近寄りかけたときだった。どこから現れたのか、年配の女がスッと彼のとなりの椅子に坐った。
彼は息をのんだ。年齢はいってるが美女だ。健吾を誘おうとした若い女は急に不機嫌な顔をして、くるっと背を向けた。ここの女たち間にも格付けのようなものがあるんだろうか?
となりに坐った女は健吾に特に関心はないようだった。物静かで品がある分、距離があるように思える。色の白い、眼の大きな女だった。ゴーロワーズをくわえようとする彼女の赤い唇がぽっかり開いてまっ白な歯が覗いた。健吾はライターを擦って彼女の前に突き出した。
彼の使い捨てライターを見て、女は金のダンヒルをすっぽりと手に握った。
「あらァ、ご親切にどうも」
女は乾燥した匂いの煙をゆっくり吐きながら言った。
「貴方、お初めてね?」
「ええ。お話ができるいい店だと聞いたもので……」
彼は気取られないように上体を少しのけ反らせて、女を見た。女はやはり美しかった。
……さすがに近所のオバさんとはちがうな。しかし、この顔、どっかで見たような気がするが、はて……。
健吾の記憶は数秒のうちに三十年前まで遡った。ぼんやりと目の粗い新聞広告の写真が浮かび上がった。『ハムレット』───映画の広告だ。当時、金曜日といえば夕刊のラジオ番組の下にでかでかと映画の広告が載ったものだ。ロシアがまだソ連と呼ばれていた時代の映画で、オフィリアを演じた女優の美しさに度胆を抜かれたことがある。E・テーラーもA・ヘップバーンも及ばないと思える美女だった。となりの女はそのロシア女優にどことなく似ていた。
……なんて名前だったかな、あれは。それにしても(美人って)居るもんだな。彼女が若かったらこうして口をきくこともなかったろう……。
健吾の恋愛は始まろうとしていた。彼の方が先にその気になったのだった。
店にいる女たちはお互いをニックネームで呼び合っていた。となりの美女は店のあちこちを指さして、健吾に仲間の名前を教えた。それは源氏名でなく、彼女たちの理想の人物になぞらえたもので、それぞれに凝っていた。シュール画家ダリの夫人のガラ、『ボバリー夫人』のエンマ、『椿姫』のマルグリット、『マノン・レスコー』からマノン、『人形の家』のノーラ、『ダーバヴィル家……』のテス。或は本名なのか須磨子という四十代がいたし、レディ・バイオレットと呼ばれている白髪の女性は『源氏物語』の熱烈なファンだという話だった。
「あの方はジョルジュ」
「女性なのにジョルジュ、ですか?」
「そう、Sの付いてないジョルジュ。ショパンをお弾きになるのよ。ジョルジュ・サンド、ご存じでしょ?」
健吾はご存じでなかった。ニッと微笑んでごまかした。となりの老美女の威厳のようなものに圧倒されてか、店に入ったときの期待がじょじょに萎んで、自分を無力な少年のように感じ始めていた。健吾はインテリ女性に弱いせいで、憧れも芽生えやすい男だ。年下にしか見えない女たちさえ、堂々と自信に満ちて賢そうに思えてきた。
……どれほどの才女たちなのかは知らない。この店での交渉に教養が要ると言っていたブログ記事はまんざらウソではなさそうだ。場違いな所に来てしまったのか? いや、あの記事も言っていた、年配の女性から多く学べると、修行だと。それに、今、俺と話している女性は悪の華では一番じゃないだろうか。どうも他とは別格のようだ。あきらめては惜しい。そうだ、彼女は姫君で俺はナイトだ、忠誠心さえあれば、ものの一つ二つ知らないくらいどうってことはない……。
健吾は居直って決意を固めた。
女は「ラーラ」だと自己紹介して微笑んだ。
……精神的コスプレだ。何と名乗ろうと、これは「ごっこ」だからな……。
健吾は自分に言い聞かせた。縮こまりそうな気を奮い立たせて、彼も、とっさに思いついた名前を名乗った。
「夏目龍之介です。よろしく……」
自分でも芸がないと思ったが、健吾はとにかく演じなければならなかった。夏目龍之介になりきった彼のマジメな言いっぷりがララにはよほど可笑しかったらしい。噴き出すわけにもいかず、彼女はうつむいてクックッと肩を揺らした。
「ユーモアにしても欲張りすぎていませんこと? ホホホ。日本文学がご趣味ですのね?」
彼女は笑ったが、それは自分を軽蔑してのことじゃないと直感できる笑い方で、健吾は少し安心した。彼は彼女の質問をかわして打って出た。
「ララさんと仰言いますか……。失礼ながらよく聞くお名前ですが、どちらのララ……」
健吾にとってララという名前は、水商売の女がちょいと気取ったり、少女が犬につける軽いものにしか思えない。つまり、ありふれたものなので特定できない。先ほどからの例にならえばイワクがなければならない。しばらくの沈黙があって、彼女は「ご存じ?」と言って、聞き覚えのあるメロディをハミングし始めた。
「あ、それはっ」
彼も彼女に合わせてハミングをした。
「ね? あのラーラですの。よかったわ、夏目さんがお話できる方で」
彼女が笑って、健吾が焦った。
……メロディは分るんだがな、題名が……。とてつもなくスケールのでかい映画のテーマ曲だった気がする、何だったろう。思い出せないと話が途切れる。話が途切れれば、せっかくの出会いが……。
「お名前はいいんですが、貴女のお顔がどうも……」
健吾は話の舵を強引に自分に向けてきった。
「あら? わたしの顔がどうかしまして?」
彼は何とかララの容姿を褒めるだけほめて、話を終われないものかと思った。
「アナスタシア・ベルチンスカヤに似てると言われたことありませんか?」
「え? だれですって?」
健吾がやっとのこと思い出した名を口にすると、彼女の眼は驚いてさらに大きくなった。健吾は上出来だと思った。……ふっ、知らないってのはいい。どうやらボンクラ男にはならずにすみそうだぞ……。それは三十年間も彼の記憶の底から引き上げられたことのないオフィリア役の女優の名前だった。
「アナスタシア・ベルチンスカヤですよ。『ハムレット』のオフィリアを演ったんです」彼は女優の名前を繰り返した。「美しいオフィリアでした、彼女は……」
健吾は腕組みをして首を曲げて斜め上を見た。彼がララの視線を外し、いかにも絶世の美女を懐かしく思い出しているといったポーズをしたのは一種の賭けだったかもしれない。だれかが言っていた。──女というものは、ブスは自分を並みだと信じ、並みは美女だと思い込むものだ──。ならば、ララにも上には上があると教えておかないと高慢ちきになりかねない。相手がお姫さまだからといって小突きまわされてばかりでは恋愛にならない、健吾はそう考えた。
杞憂だった。
「名前はかすかに聞いたことあるような気もしなくないですが。映画女優さん……」
彼女が知らないことを自分が知っていたのが健吾にはおもしろかった。長い名前をスラスラと言えたことも彼を得意にさせた。それにしても、よくとっさに名前が出たものだ。
「映画、お好きなんですのね?」
「レンタルで二流作品を見るていどですけどね」
「二流作品というのは?」
健吾はポルノしか見ないとあからさまには言えないので二流と言ったのだ。話題が一流や名作に移ったら、ララの相手はとてもつとまらないだろう。
「ララさんのご覧になるものと違うってことですよ、ははは」
彼は笑ってごまかした。
「わたしね、最初、グルーシェンカって名前でしたのよ。でも、皆さんだれも馴染んでくださらない。響きがよくないのかしら、ホホホ。天真爛漫のナターシャも純情可憐なカチューシャも悪くないですけどね」
「ロシア文学ですか。熱心に読んだことはないですけどね……」
熱心どころではない、サッパリだ。ロシア文学の話題でボロは出せない。ヤブ蛇はごめんだ。何とかララを自分の話に引き込んで無知を隠すしない。
「それでもう、いっそのことラーラなんですの、ホホホ。パステルナーク、悪くないですわよね?」
……話が跳ぶなァ。手強い……。健吾は訳もわからないまま相槌をうった。
「そ、そうですね」
「あの映画、脚本も彼でしたのよ、ご存じでした?」
「え、ええ。詩人ですね……」
「大詩人ですわ」
……いけない。ララの話に引き込まれる……。
叙事詩と聞いて彼の頭のなかに、大学時代の古典文学の老教授が現れた。「ホメロスの時代から何千行という厖大な詩がいくつも書かれたが、叙事詩は日本の和歌や俳句のようにひ弱なもんじゃない」と教授は胸を張った。しかし、健吾はそんなものは一つ読んだことはない。健吾は「文学の根本は詩なのだからな、知らない小説家のことを相手がほめたら、素晴しい詩人だと言っておけば、相手は気を悪くせん」という教授の言った教授の受け売りだ。
叙事詩=厖大なものというボンヤリした考えがようやく健吾の頭の中にイメージになって現れた。──何百頭という馬が疾駆している。戦乱を逃れようとする大勢の人間でごった返している──。それでも題名は思いだせなかった。
彼は頭が混乱してきた。久し振りのブランディーのせいもあろう。彼女の話についていくのが精いっぱいで、グルーシェンカが『カラマーゾフの兄弟』に登場する女性らしいことだけはやっとのこと察した。健吾は『カラマーゾフ……』を知らなかった。
……ブログの男が言ってた通りだ、ロシア文学が趣味とは手ごわい。ララも名前に思い入れがあるなら、彼女を知るには今のララよりも最初のグルーシェンカということか? ああ……。
健吾はかつての文学少女の知識に目眩がしそうだ。彼はララの言った大詩人を必死で思い出そうとした。
……パステルナークってだれだ? 聞き覚えがあるような、ないような。肝心なときに出て来ないんだな……。……大群衆……スペクタクル大ロマン……アラビアのロレンス? ちがう。彼の頭をアラビアの白い族長姿でピーター・オトゥールがラクダを走らせて通り過ぎて行った。……大群衆……スペクタクル大ロマン……ロシア文学……革命? ロレンスに続いてロシア人らしくない黒衣の男がラクダに乗ってよぎって行った。アイツだっ、あの男だッ! だれだ、あいつは?
彼の頭のなかで、同じ男が今度は仲間たちといっしょにジャングルを進んで行く。男は赤い十字の腕章をしている。軍医のようだが場所がおかしい。どこだ、ここは? 健吾は錯綜した頭で思いだそうとした。……革命、ジャングル、……ゲバラか? いや、ちがう。
それでも健吾が描いた男のイメージは少しずつはっきりしてきた。彼は思い出すことに集中しすぎて、ララの言うことをほとんど聞いていなかった。
「オマー・シャリフだッ。そうだ、彼ですよ、ララさん。オマー・シャリフですよッ」
健吾が突然すっとんきょうな声をあげた。
「どしたんですの、夏目さんッ! ああ、まだ『ドクトル・ジバゴ』のことを? オホホホ、夏目さんたら……」
「え、ええ。ジバゴはオマー・シャリフでした。あー、情けないなァ。固有名詞が出てこないのはボケだ」
「ホホホ。そう言いますわね。わたしなんかもしょっちゅう。でも夏目さんは思い出せたのですから大したものですわ」
ララは健吾の努力に乾杯した。
「カラマーゾフも学生時代の必読書なんでしょうが、なんせ大作です。じっくり腰を落着けて読みませんとね。その後でボクとお話していただけると有難いです」
「ここでそう言われた方は夏目さんが初めてではありませんわ。でも結局どなたも読んでくださいませんの、ホッホッホ」
「ララさん、ボクは違います、きっと読みますから。それも早いうちに……」
健吾は気色ばんで言った。
「うれしいわ。でも、ご無理なさることはございませんのよ、ホホホ」
健吾のセリフが出まかせでなかったなら、その場の勢いだったろう。『カラマーゾフ……』など読み通せないと腹では思っているのに、せっかくうまく辷り出した出会いを、ララをものにしたいために、彼の頭が彼の心にウソをついたのだ。意識していなくても、心のどこかで健吾は、恋人ごっこの相手、丸めこめる相手、何とかなる相手、浮ついた一時の恋人になるだろうとの期待があってララを選んだのかも知れなかった。
……ふん、手品の種はバレているじゃないか。格好つけようとどうしようと悪の華に集まる女たちの目的は男漁りだ。ロシア文学などと大層なことを言っても、しょせん見せかけだ。お遊びだ。不倫願望が透いて見える。なにも俺がビクビクすることじゃない。すべてはタイミングと話の持って行きようだ。しかし、そう見せかけている彼女との交際だからな、話題は合わせんと……。
健吾はララの読んでいない作品を探すことにした、それもごく短いのを。心理学で代償行動と呼ばれる妥協だが、短いにも何も彼はあまりにロシア文学を知らなさ過ぎた。知らないから傲慢になれた。
……トルストイやドストエフスキーが世間で言われるほど読まれているわきゃない。みんな俺と同じで、映画になったのをアクビを噛み殺して見てただけさ。とにかく長くて暗いのはごめんだ。ララの知らないのを一つざっと読んでおきゃそれでいい。彼女の知らない小説なら知っているものの十倍は役に立つだろう……。
たしかに悪の華の熟女たちは面白そうだ。バカなキャバクラ嬢と違って知識は豊富だし、出会いサイトのオバさんみたいに話を切り詰めて、急いだ味気ないセックスに持ち込もうともしない。痩せ我慢のような上品さも、それが彼女たちのプライドなら傷つけてはいけない……。
(三)
三回目にして悪の華での話の種が尽きて、健吾はいよいよ行動に移すときだと思った。
「よろしいですね? 今度、ララさんをドライブにお誘いします。旧いBMWですが、気にせんでしょう?」
「あら、夏目さん、少し性急ではありませんこと? まさか『何もしないから』と言ってわたしをホテルに誘うのじゃないでしょうね? それならお断りしなきゃですよ、ホホホ」
健吾は、正面からララに図星をさされてたじろいだ。彼は「何もしませんから……」と誘うつもりでいた。何かをしても「何もしないって言ったじゃないッ!」と目くじらを立てて騒ぐ女にこれまで出会ったことはない。男たちの常套句は、女を誘うときの挨拶で、言質としても効力がないことは、女のほうだって心得ているのだ。
「だれにも邪魔されたくないだけですよ。話をする場所が、ここから車に移るだけのことです。ボクが雰囲気をこわす男じゃないくらい分かってほしいですね。日帰りで夕陽を見に行くだけですよ、ボクらは」
「本当に?」ララは悪戯っぽい眼で健吾を見た。
「夕陽だけでなくて夜景まで見たくなったら、その時はそう言ってください」
「まァ、分かりやすいんですのね、ホホホ」
健吾も笑って場を取りつくろった。
……しばらくは仕方ない、恋愛を楽しむ人たちなんだから。いきなりでは不粋すぎる……。彼も美しいララに惹かれていくのは楽しかったが、いっしょに夕陽を見てくれることになったら、と文無しの彼は頭のなかでレンタカー代と食事代をどう捻出しようかと真剣に考えていた。
健吾は何とかデートにこぎつけて約束の日を迎えた。妻に気づかれぬように、安っぽく見えない服装を選んで家を出た。BMWはいつも借りる国産小型車の二倍の料金だったが、悪の華からはなれるのは一歩前進に違いない。ララと一対一になれる彼の心はそわそわと浮き立った。
健吾はJRの小さな駅のロータリーでララを待った。待つ車の中で『カラマーゾフの兄弟』を読んでいたが、その内容に引き込まれることはなかった。ララから電車でやって来ると言われていた彼は、彼女が降りてくる階段ばかりが気になった。BMWの数台うしろで、一台のジャガーがサングラスをかけた女を降ろして、そのまま走り去ったのに彼は気づかなかった。
サングラスの女が窓ガラスをコツコツとノックした。彼はロックしてないから勝手に開けろとジェスチャしかけて止めた。彼女の騎士であることをうっかり忘れるところだった。彼は慌てて飛び出し、彼女にドアを開けてやった。
「夏目さん、やって来ましたわよ」
ララが助手席に滑り込むと、車内は高価な香水の匂いで満ちた。
「わたしによくしてくださろうというのは有難いですわよ、でも『わ』ナンバーはちょっとさびしいですわね、ホホホ」
健吾は背広の袖で冷や汗を拭ってきまり悪そうに笑った。
「ハハハ、バレてましたか。読書家は観察眼がするどいですねえ」
しかし、ララが辛辣なことを言うのも思うままを口にしがちなお嬢さま育ちのせいで、意地悪や軽蔑でないことは健吾にも分かった。今さら気にしても始まらない。
「さ、わたしを何処へお連れくださるのかしら?」
ララは白い歯を見せて笑った。
「とにかく、出発です」
健吾は少し走ってコンビニに寄った。
「飲み物は、何がいいですか?」
「紅茶をください」
ペットボトルを二本もって戻ってきた彼が、ララに尋ねた。
「何をしているんです?」
彼女は捺印済みの小切手帳にササッと裏書きして、万年筆をバッグにしまった。ビリッと一枚を破り取って健吾が握ったハンドルの前に差し出した。金額が記入してない小切手だった。
「お受け取りになって。BMWがお好きなんでしょ?」
健吾は狼狽した。新車のジャガーを購ってもらったというブログ記事が頭をかすめて、彼は動揺した。
……五百万でも七百万でも掛かっただけ勝手に書き込めというのだ。年が若ければ飛びついて身を誤るところだ。彼女は本気だ。本気でなければここまではすまい。資産家も悪くはないが、恋愛ごっこが本物になっては生活が破綻する。女房もあるし子供もある。第一、俺の小遣いでは駐車場代も払えない。惜しい気もするがこのチャンスは見送る手だ。後でかならず挽回できる……。
「ララさんッ、お気持ちは有難いですが、ボクは貴女と恋愛したくて悪の華に行ってます。安物のホストのように思われては不愉快ですね」
健吾はケチで卑しい自分を隠してプライドを装ったが、ララは彼の怒った声にも少しも慌てた様子を見せなかった。
「ごめんなさい。さすがですわ。夏目さんはそうおっしゃるだろうと思ってはいましたの。お気を悪くならさないでね、試すようなことをしてしまって。嫌味な女だと思わないでくださいね……」
「それは、ないですが……。ララさん、もう少しボクらの恋愛を大事にしましょうよ……」
そう言いながら健吾は自分に違和感を感じたが、同時に運が向いてきたとも感じていた。彼はブログ記事をいよいよ信用しないわけに行かなくなった。
───・───・───・───・───
「どうした風の吹き回しだよ、大山ァ。お前がロシア文学だって? あーっはっは」
笑ったのは同じ会社でロシア・東欧の物産を扱う部門の責任者に出世した同期の男だった。ロシア語に堪能な彼は、健吾に頼まれて、作品リストから普通に読まれているものを次々と消していた。
「なんで無名にこだわるんだ? チェホフなんか女性に人気の短編もあるのにさ」
「いや、有名なのはダメだ。読まれてないのがいいんだ」
「コロレンコ? 聞いたことないなァ。『樺太脱獄記』ね、ふーん」
「や、ありがとう。それでいい、助かったよ」
ララが読んでいたのでは健吾は見栄がはれない。友人の助言のようにチェホフの一編を読んで感動を語り合うより、ララの知らないものを紹介して彼女の関心を買いたいのだ。幼い。文学部出の文学知らずの健吾が、とにもかくにも『樺太脱獄記』を読もうと決めたのは、友人の『コロレンコなんて知らない』という一言だった。
『樺太脱獄記』───北海道のさらに北、ニセ鮭缶のカラフトマスの樺太、サハリンの話だ。彼はそれを『半七捕物帳』や『旗本退屈男』を読むときのようにインタネットの「青空文庫」からダウンロードしたのだったが、最初のページから堅い文体に面喰らった。健吾は気まぐれな読者で、いったん気がそがれてしまうと読まずに抛り出すのが常だった。しかし、今回はそうはいかない。
……俺は作品と出会うのだし、ララとの出会いが本物になるかどうかだ。この小説が俺のこれからの人生に重大で楽しい変化を起こさないとだれが断言できよう? ララを失望させるわけに行かない……。
自分の女でもあるかのようにララと呼び捨てている自分に気づいて、彼は顔を赧らめた。しかし、殊勝なことを言う彼の目的は作品の鑑賞にはない。今や気になってしかたないララの気を引ければそれでいいのだ。話は持っていきようだ。先日の日帰りドライブで、彼女がその気がなくもなさそうな素振りを見せたので健吾は得意になっていた。彼は妻や子のことを思い出さないでもなかったが、どうせ〈ごっこ〉だ、疑似恋愛なのだ。彼は〈疑似〉という言葉に寄り掛かっていた。ララにしてもそうだろうと思った。遊びだから出来ることなんだ───そう思っていた。
健吾はいちおう仏文科を出ていたが、同じ大学の法科も経済も落ちての文学部だった。教職にもマスコミにも就職できない落ちこぼれの中にいた。フランス語は少し勉強したが、文学に特に関心はなかった。ロシア文学は足を踏み入れたことのない世界だ。暗くて、長くて、重々しくて、人物名がやたらにややこしい───そんな外側からの印象しかない。彼の愛読書は『眠狂四郎』なのだが、ララには内緒だ。
(四)
大正末期か昭和初期か、健吾は最初から言い回しの古臭いのに面喰らった。画数のべらぼうな漢字、フリガナなしでは読めない当て字、蝶々を「てふてふ」と書く旧仮名づかひ───古い。ネットの「青空文庫」は底本に忠実である。
……古くても悪かァないけどさ。ダツゴクってのは色っぽくも何ともねえよ……。
彼は雰囲気で読む。気楽な時代ものの大衆文学を読むのはつらくない。男女の心の機微を古い文体で書かれると余分な色気を感じる質である。濡れ場にかかるとスピードがガクンと落ちる。自分からスピードを落して雰囲気に浸る。しかし、カラフト流刑者の脱獄記をゆっくり味わっていたのでは凍死する。今さらチェホフに変更もできない。
……脱獄記か、パッとしないな。ララが気に入ってくれる話じゃないみたいだけど、仕方ない。それにしても読みにくいな……。
しばらく考えて健吾は、ハタと膝を打った。
……そうか、本を俺に合わせりゃいい。分からないまま読み終えたって何にもならない。読み手の俺が理解すればいいだけのことだ。だれにだって分かるだけしか分かりゃしないんだ……。
彼は計画を実行した。ワープロ画面に写し取った『脱獄記』は編集することができた。検索の枠に「ゐ」を入力し、置換の枠に「い」を入力して一括置換のキーを押した。画面から一斉に「ゐ」が姿を消した。さわやかな驚きだった。作家の作品を自分の手で編集できることが信じられなかった。同じように「ゑ」を全部「え」に入れ代えた。見なれない旧仮名がなくなると、作品を自分にたぐり寄せたように感じて、健吾に笑いがこみ上げて来た。
……むふっ。ふぁっはっはっは。
愉快だった。おもしろい作業に健吾は興奮した。彼は置換を続けた。
「考へた」→「考えた」
「思ふ」→「思う」
「思つた」→「思った」
「思はれる」→「思われる」
「でせう」→「でしょう」
「だらう」→「だろう」
「せられて」→「されて」……
年齢からくる頑固さも彼に味方したが、何より文明の利器が彼に力を貸した。何十、ときに何百という文字が一瞬にして彼の望む文字に置換された。じゃま者を次々に斬り倒していく爽快さは何とも胸のすく思いだった。
後で読めないのも困るので、難しい字は一つ一つ平仮名に改めてた。「耳を欹てた」も「耳をそばだてた」のように訂正した。置き換えた数が表示されて知ったのだが、二百個近くあった一人称の「己」も瞬時にして「俺」に代った。文末の「である」が「だ」になると難解に思えた文章はぐっと身近かになった。彼にはもう小説の筋を読んでいるヒマがなかった。気になる表記をひたすら改めた。変換作業は小説よりも面白かった。
……出来あがったらララにプレゼントしよう。彼女は読んだことのないロシア小説に接して感激する、そして、それを提供した人間にも関心を持つ、あの人なら俺の努力をきっと評価するだろう……。
先生からほめられたい一心で必死に掃除に励む小学生のように、彼は作業に勤しんだ。
「づつ」→「ずつ」
「詞」→「言葉」
「跡」→「後」
「為合せ」→「幸せ」
「係恋」→「あこがれ」
「為事」→「仕事」
「併し」→「しかし」
「天幕」→「テント」
「知人」→「知人」
「鵲(かさゝぎ)」→「カササギ」
「韃靼人」→「ダッタン人」
「ヤクツク」→「ヤクーツク」……
「千八百七十〇年」は本文中に一つしかなかったが、ララが読みやすいようにと「一八七〇年」に直した。単語ばかりではない。意味の判らない個所に出くわす度に、自分勝手な文句をデッチ上げて大胆に入れ替えていった。改ざんである。彼は作家になった錯覚を楽しみながら作業を続けた。そしてやがて、彼の眼もと口もとに微笑みが浮かび、ついに現代口語版『樺太脱獄記』が完成した。
……うむ、よしっ! この充実感! 実に愉快だ……。
彼は変換作業を通じて、現代口語表記と戦前のそれとの差を改めて知らされたが、その甲斐はあった。小説は見た目もスッキリして格段に読み易くなっていた。当然である。パソコンの前で彼は笑いに笑った。
……これで、すぐにでも読めるぞ……。
健吾は自分がララに近づいていくように思えた。ララが自分に近づいて来るように思えた。二人が寄り添うのも遠い先でないように思えて愉快でならなかった。
(五)
健吾のしたことを愚行だ、暴挙だと非難するのはたやすい。作家の血と汗の結晶が凌辱されたと作者・訳者に同情するのもかまわない。しかし、読者というものはまったく勝手に作品を読むもので、読み方に規範はない。オモシロイもツマラナイも受け取り方次第、どこを拾い読みして、どこを切り捨てようが読者の自由であり、読者あっての作品だ。琴線にふれるなどと言うが、琴線は読者の所有であって作品の側にはない。読者の心の内のあるものが作品に呼応するのだ。健吾の置換作業は、自分の琴線をより震わそうとした下準備に過ぎない。彼は正しい。
小説にも流行りすたれがある。作家も読者に負担がかかる、ことさらに読みにくい語句は書かない。旧字・旧仮名も書かれた当時はシャレたものだったろうが、時代に合わなくなったものを読もうとすれば、健吾に限らずだれでも頭の中で現代口語に置換しているはずだ。健吾のやったことは間違いではない。
健吾には『樺太脱獄記』を読む前にやること、いや、どうしてもやりたいことができた。プリントアウトして一刻も早くララに渡したいと思ったのだ。彼はパソコンのスイッチを切って、プリンターのインクを買いに街に出た。心はすでに悪の華のララのもとに飛んでいた。
ひと仕事をやり遂げた自分への褒美としたのか、すでに読み終えた気になったのか。だれも彼の気まぐれを止められない。健吾は『樺太脱獄記』を訳した森林太郎がいったい誰なのか、最後まで気がつかなかった。彼はララと話が出来ればそれでよかった。
変換作業をして『脱獄記』の舞台がシベリアだと知った健吾の頭に、シベリアが舞台の『復活』か『デルス・ウザーラ』のような映画のシーンがいくつか浮かんでいたようだ。作品は読まなくても、シベリアの大自然は『脱獄記』にも共通だ。見渡す限りの雪原。わずかな肌の温もりを求めて運命的に巡り逢う男女。厳しい自然が邪な人間たちの感情を浄化して春になると、美しい恋愛が芽吹いてくる……。健吾には『脱獄記』もララとの恋愛の一舞台なのだ。
……キッカケは出来た。あの店でララとロシア文学を語れるのは俺くらいのものだ……。
健吾は強く思い込む質だった。いったんは断ったBMWも近いうちにまたきっと自分のものになる機会が訪れる、そう思える男だった。自分の想像したものはいずれ実体を伴って自分の前に現れると信じられるロマンチストだった。彼は自分の恋愛が成就するものと信じたし、信じて疑わなかった。そう信じるのは彼には苦もなくできることだった。
彼はコロレンコ作・森林太郎訳、そして大山健吾改訳の『樺太脱獄記』をプリントアウトした紙の束を持って悪の華に向かった。軽い足取りだった。ララに感心される自分を想い描くことは楽しいことだった。彼は小学生のように居ても立ってもいられなかった。
(六)
悪の華の扉を開けると、もはや見なれた観葉植物の陰から、快活な笑い声が聞こえてきた。それは健吾が終ぞ聞いたことのないララのはしゃぎようだった。彼女と向かいあった男の姿がのぞいた。年齢は健吾と変らないようだが、白いジャケットに赤いシャツ、低い鼻にレイバンのサングラス、薄い髪にべっとりと整髪料をつけている、誠意の感じられない、いかにも遊び人ふうの男だった。
……彼女には恋人がいたのか、くそっ。ララがなんであんなヤツと? 俺と張り合おうなんて思うなよ。ふん、お前になんか負けはしない……
しかし、二人のいかにも楽しそうな笑いさざめきに気後れして、彼には割り込む勇気がでなかった。
健吾に気づいて挨拶をしようとしたバーテンに彼は、目配せして、シッと人差し指を口の前に立てた。二人の話をよく聞こうと尻をよじってカウンターの椅子を一つずつ移り、二人の坐るボックスに近づいた。
「ボクがボブって名乗っているのはさ……」
……てめえがボクでだれがボブだよ、ふん、笑わせる……。
「ボクの好きな詩をロバート・ブラウニングって人が書いたからさ。国語の教科書でいいと思ったのは、後にも先にもあれだけだな。あの詩は人をシアワセにするよ。君の前だけどさ、文学は救いのない宗教じゃないからね、ボクは人生を悲観させるような文学なんか必要とは思わない。君の好きなロシア文学の重厚さはボク向きじゃないんだ、あーっはっは」
「アハハハ。わたしにそれだけはっきりものを言う男も少ないわよ、ボッブ。わたしがロシア文学が好きだというと、男は例外なくロシア文学を読み出すんだもの、もうおかしくって……」
「そして息切れする、あーっはっは」
「ハハハ」
「ここに来る連中には、君は高いハードルだよ、それが奴らにはわかってない。必死でいっぱしの読書家を装うからなァ」
「それはそれで退屈はしないけど、ハハハ」
「自分にウソを吐いてまで文学はないだろう?」
「それさえ気づかないボンクラ男が多いのよォ」
時は春、
日は朝、
朝は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀なのりいで、
蝸牛枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。 (上田敏訳「春の朝」)
ララが口ずさむと、男は「おう、それ、それっ」と言って一段と高い声で笑った。
「わたしもそうよ。滅入ってしまう読書なんて本末転倒よ。本は人間のためで、逆ではないんだもの」
「そう言えば、ララちゃん、新しい恋人が出来そうだって言ってたけど、どうなの、そっちは? 準備は進んでる? 僕ならいつでもOKだよ……」
「ああ、決闘の話? だめよ、あの男、まるで恋愛ってものがわかってないもの。夢中で恋愛に参加してくるって思えたから、車でも買って景気をつけてあげようと思ったのよ。そしたらまっ青な顔して断っちゃうしさ。車一台のハシタ金でオタオタするようじゃとても恋愛なんか、ねぇ」
「まァそうだね」
「ねえ、ボッブ。君がわたしの財産に興味津々だくらい分かっていてよ。ううん、それはそれでいいの。君はあんなに愛していた奥さんとちゃんと離婚したんだものね。疑似恋愛はやっぱり分かった者どうしじゃないと無理よ」
「そうさ、本物と区別つかないからこそ疑似恋愛、君はそう言った」
「そうよ」
「じゃ、そろそろ限りなく本物に近いボクらの愛を確かめに出かけようか」
「そうね」
健吾は耳を疑った。……ララさんがあんなヤツと? 信じられん……。
彼は気を取り直し、前を行く二人に気づかれぬようにして店を出た。尾行しようというのことだ。しかし、二人が乗る同じエレベータに乗るわけにいかず、次を待ったために二人の姿を見失った。
道路に出てキョロキョロしているところを、地下駐車場から勢いよく飛び出してきた白い車が彼の脇をかすめた。車は鋭くタイアの軋む音を響かせて、十五メートルほど先に止まった。よろけた拍子に『樺太脱獄記』の原稿は健吾の手から空中へ放り出され、ヒラヒラと舞い降りて、舗道に散乱した。
「ばっかやろうッ、テメエ、轢っ殺されてえのかあッ」
窓から半身を乗り出して男が健吾を振り返って威嚇した。白いジャケット、赤いシャツ。車の中では美しい女は眉ひとつ動かさず、正面を見据えて車の発進を待っていた。車は運転手の罵声を残して走り去った。
……くそッ、こんなのは負けでも何でもねえぞ……。
みるみる遠ざかるスポーツカーに向かって健吾は吠えた。
「俺は負けちゃいねえからなあーーーーツ」(了)