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トヨナカキリオが資料を持って会議室に入ると、その中でどこかで見たことのあるようなスーツ姿の男二人が取っ組み合いのケンカをしていた。会議室には長いテーブルとイスのセットがいくつか用意されていて、床はカーペットになっている。部屋の奥まったところには大きなホワイトボード、プロジェクター、それからその下の少し窓側にずれたところにもテーブルとイスが用意されていて、たとえばこの部屋で何かしらのプレゼンテーションを行う人は、そこへ移動して、もしくは最初からそこに位置して発言なり何なりをするという決まりになっている。会議に参加する人たちが利用するテーブルは、部屋の両端に向き合うように置かれていて、つまり部屋の一番奥にあるホワイトボードに対して並行になっておらず、垂直になるように置かれているので、ホワイトボードの内容を確認したり、またはプロジェクターに映っている資料などを見るときには、必ず顔を横に向けなければならない仕様になっている。部屋全体はそれほど広くなく、いつも薄暗い雰囲気が漂っている。今日は外の天気もそれほどよくないという条件が重なっているので、いつにも増して部屋の印象が強化されている。もう雨が降っているかもしれない。プロジェクターを使う際には、窓にぶら下がっているブラインドを全部閉める。
キリオは手に持っていた資料やパソコンなどを、とりあえず近くのテーブルの上に置いた。本当は、もうこのタイミングでホワイトボードの近くにある、プレゼンテーションをする人に用意されているテーブルのところに荷物を降ろしたかったのだが、しかしそれはなされなかった。なぜなら今その位置には、キリオ以外の別の誰かがいて、たとえばそれが彼の知っている、彼の仲間で、今回の会議を進めていくにあたって一緒に作業してくれるパートナーのような人だったら、ちょっとどいてくれ、これ置きたい、みたいなことを言ってその場所から離れてもらうのだが、残念ながら今その位置にいる人たちは、彼が名前も知らない、ましてやどこに所属している人たちなのかも全然わからない、というような人たちだったからだ。
キリオはテーブルに置いた資料の上に、さらに自らの手を軽く乗せて考えた。「あいつらは誰なんだ。あいつらはどこの誰で、そしてなぜこんなところで取っ組み合いのケンカなどをしているのだろう」
百歩ゆずってだ。
百歩ゆずって、彼らが本当に大の大人であるにもかかわらず取っ組み合いのケンカに夢中になっていたとしても、普通、誰かが部屋の中に入ってきたら、一瞬でもそちらに気を取られることだろう。
誰だ、と思ってこちらに注意を向けてくるはずだ。
それなのに彼らときたら、こちらの入室には無視を決め込んで、必死に取っ組み合いを続けているのである。
本当に彼らは一体?
何で今あんなことを彼らはしているのだろう。
キリオは再び考えて「いや今はそんなことよりも会議に集中すべきなんだ。次の会議は絶対にミスが許されないんだ。もし一つでもミスを犯してみろ。それは、もう次の瞬間には想像できないくらいの大変な出来事へと成長してしまうんだ。だから今は本当に会議以外のことに頭を働かせるべきではない。とにかく会議を成功させるために自分が今何ができるのか、何をすべきなのか、このことだけを考えていくべきなんだ。集中しろ、集中しろといっているんだキリオ! 畜生、あんなところで見知らぬ大の大人たちに取っ組み合いのケンカをされたら、集中したくても全然できねえ」
キリオは、ここはもうあえてあの取っ組み合いをしている男たちに注目すべきではないかな、こちらから結構近寄って行って、それで彼らが一体なぜ今こんなところで取っ組み合いのケンカをしているのかという原因を究明していくべきなのではないかな、みたいなことを思った。
会議室のドアが開いて誰かが中に入ってきた。
誰だろうと思ってそちらの方を向いてみると、モリモトだった。後輩のモリモト、彼とは今日の会議を一緒にすすめていこうね、俺のアシスタント的なポジションにいてね、みたいなことを約束している間柄である。
彼も会議の準備のためにこの部屋にやってきたのだ。
キリオはすぐにモリモトと視線を合わせた。つまり会議室の中に入ってきた彼に対して何かこの不可解な状況を紐解くような鍵を持ち合わせていないかたずねたのだ。
ところが、どうやらモリモトも今この瞬間に初めてホワイトボードの近くで取っ組み合いのケンカをしている男二人組を発見したらしかった。彼もキリオと同じように一瞬その光景に呆気にとられたような顔をしていたが、すぐにそこから目をそらして、今度はこちらの方を見てきた。
彼の目が語った。「トヨナカさん、トヨナカさん、一体あれは何なんですか。どういうことなんですか。僕にはこのように見えるんですが。今大の大人たち二人が、ホワイトボードのそばで取っ組み合いのケンカをしているように見えるんですけれどもいかがでしょうか、その意見に対して何か反論はありますでしょうか、トヨナカさんなりの意見というものがその件に関して何かありますでしょうか」
ない。
モリモトよ、俺の後輩のモリモトよ。そんなものはない。今ホワイトボードの近くで大の大人たち二人が取っ組み合いのケンカをしている件について、俺は君の知らないような、君が驚くような、オリジナリティにあふれた、かつシンプルで力強く、後世にも語り継がれていくような極上の意見など何一つ持っていない。
むしろまったく君と同じだ。
今の君の感覚とまったく同じで、俺だって本当は開いた口がふさがらずに、この状況にどのように対処していくべきなのか模索している最中なんだ。
大変だよね。
これから重要な会議が始まるというのに、あんなにあからさまに取っ組み合いのケンカをされちゃたまったもんじゃないよね。
モリモトがキリオの元に近づいてきて言った。「トヨナカさん、彼らは?」
彼らは? ときた。
シンプルだ。
どうやらやはりモリモトの登場によって状況は一変しないらしい。今キリオは非常にシンプルな質問をモリモトに投げかけられた。
つまり今モリモトは、キリオに対して、あのホワイトボードのところで取っ組み合いのケンカをしている二人組の男たちは何者なのか、なぜあんなことをしているのか、トヨナカさんの知り合いなんですか、あなたの指示で今彼らはあんなことをしているんですか? というようなことをたずねてきているのだろう。
キリオの答えはこうだ。「知らない」
残念ながら、そのような問いかけに対する答えはついさっきもどこかで答えたように思うけれども、知らない。知らないし彼らは自分とはまったく関係のない人たちだ。自分の記憶には全然関わり合いのない人たちだ。
むしろ本当は彼らが誰なのかという質問は、こっちがしたいくらいだ。
俺としては、君がこの部屋に登場してくれたことによって、謎が解決してくんじゃないかと思った。実は君とあの男二人とはつながりがあって、君こそあの男たちの取っ組み合いの理由を知っている人物なのじゃないかと。だがそうじゃなかったようだ。だって君も彼らは? なんて俺にたずねてくるんだから。君も知らないんだろう。彼らが誰なのかという問題に対する答えは。君も彼らのあの存在感を目の当たりにして、不安な気持ちに駆られて仕方なくなってしまっているんだろうね。でもそりゃそうさ、彼らの問題解決、彼らの処理は俺たちの仕事じゃないんだもの。
キリオはモリモトの問いかけには答えずに押し黙って、一人でいよいよどうしようかと思った。
後輩のモリモトが会議室に入ってきて、本来ならば会議の準備は滞りなく進み終わり、本番に向けて万全の体制が整うはずだった。ところがあのホワイトボードの近くに謎の二人組の男が現れた。謎の二人組の男が現れるだけならまだしも、どうやら彼らは今何らかの理由によって仲たがいをしているらしく、大の大人であるにも関わらず取っ組み合いのケンカを繰り広げてしまっている。このままの勢いだと、彼らはホワイトボードの側面をへこませるとか、部屋にあるイスやテーブルを倒してしまうとか、いつか部屋の備品などにも損傷を与えてしまうのではないだろうか。
いやここへきて本当の問題とは何だろうか。
俺は何を嫌がっているのだろうか。
彼らのせいで会議の準備に支障をきたしてしまいそうになっていることだろうか? 彼らがあそこでああやって好き勝手に暴れている影響で、今後の会議の成功に暗雲が立ち込めたことか? それとも彼らがなぜ今取っ組み合いのケンカをしているのか、その理由が気になって会議の準備どころではなくなり、ひいては会議そのものよりも今はその謎を解く方が重要だと考え始めている自分自身か?
多分最大の問題は、俺とモリモトの間で彼らの問題を共有しなければならなくなってしまったことだろう。
言ってしまおう。
実はあんな二人組のことなどどうでもいいと。自分の今後やらなければならない仕事に置いて何の支障もない、何の影響力もない二人組に過ぎないと。もし会議室の中にモリモトが入ってこずに、いまだに一人の状況が続いていたらどうだろう。つまりあのわけのわからない二人組と自分、という構図が今も続いていたらどうなっていただろう。
きっと俺は、頭の中は混乱しっぱなしで整理のつくことなどないかもしれないが、しかし準備に取りかかっていただろう。テーブルの上に置いた資料を各席に配り歩いたり、または持ってきたノートパソコンにログインなどをしていたはずだ。あんな本当にわけのわからないだけの二人は思い切って無視してしまえば良かったのだ。無視したところで何が変わるというわけではあるまい。俺の今やるべきことというのは、会議を無事に成功させることであり、会議を成功させるために、その準備を怠らない、ということなのだ。
万が一俺の会議の準備が終わってもまだあの二人があの場所でそのままだったとしよう。彼らの取っ組み合いのケンカには終わりの気配がなく、いよいよ会議開始の時間が差し迫ってきたとしよう。
そのときだ。
そのときやっと俺は、彼らを自分の視界に発見して、ちょっとあなたたちさっきから何をやっているんですか、何が原因でそんなことになってしまっているんですか、と彼らに声をかけてやることだろう。
そうこうしているうちに会議に出席するメンバーが集まってくる。
でも会議の準備自体は、もうそのころにはばっちりに出来ているはずだから、俺の心は余裕だ。余裕に満たされていて振る舞いは優雅だ。
「いやちょっとね、私もわからないんですが、彼らはどうやら取っ組み合いのケンカをしているらしくてね。ちょっと普通じゃ考えられないですよね。しかしご安心ください、会議の準備は万端になっております」
このようなことを言って、俺は部屋の中の様子に戸惑ってびっくりしているみんなに対してまず落ち着きを取り戻しましょうと呼びかけるだろう。
それで、その上で俺よりも立場の上の人が、いや本当にあの二人組は何なんだ、部屋からつまみ出せ、というならばがんばってつまみ出すし、邪魔が入ったんだったら縁起が悪いからまたこの会議は今度にしようか、みたいな話になればそれでもいいし、もしくは部屋変えよう、みたいになってももちろんいい。
要は、俺がいいたいのはどういうことかというと、俺の今から成すべきことと、あの二人の間に関連性はちっともないということだ。
お互いにやりたいことをやっているうちは、邪魔をせずに放置していても構わないんじゃないだろうかという考え方だ。
だってそれが一番今それぞれの他人から求められていることのように思うし、またふとしたときに世界が通常に戻ったときにも、自然とお互いの道を外れずに、それどころかしっかりと今までの時間が利益にもなっているだろうしで気持ちがいいんじゃないかとさえ思える。
しかしその考え方は難しくなった。
ホワイトボードの近くにいる彼らの発見者が自分一人ではなくなってしまったからだ。
モリモト。
彼の登場だ。彼が唐突に部屋現れたことによって、状況はより困難になった。この出来事によって、俺は彼と謎の男二人組の問題を共有しなくてはならなくなってしまい、会議の準備だけに集中できる環境から追放されてしまった。ところが少し考えてみれば、モリモトもモリモトで、彼もきっと会議の準備のためにこの部屋にやってきたはずである。とすれば、彼もまた自然と自分と同じような考え方、つまり、会議の準備とあの謎の男二人組の間には何の関係も、何の関連もないのだから無視して自分のやるべきことを続ければいい、みたいな考え方にたどり着く可能性がある。
もし彼も自分と同じような考え方にたどり着いたときはどうなるのだろうか。
むろん会議の準備は滞りなく続けられ、やがて満足のいくものが仕上がり、本番に向けてのメンタル調整までやってのけられることだろう。
もちろんそのあいだ謎の男たちは取っ組み合いのケンカも、彼らの満足のいくまで続けられることになる。もしかするとその状況は徐々に激しさを増して、どちらかが口や鼻から血を流すような事態にまで発展するかもしれない。
だが依然として関係はない。
こちらの準備が終わるまで、彼らはそこに発見されていようともいない存在、我々に無視され続けてしかるべき状況としてそこにとどまり続けるのである。
モリモトがホワイトボードの男たちの方を見て言った。「トヨナカさん、何をしているんですか? トヨナカさん?」
「どうした?」
「どうしたじゃないでしょう! とにかく彼らを止めないと! トヨナカさんも来てくださいよ」
モリモトはそう言い終えると、まっすぐにホワイトボードの男たちの方に駆け寄って行った。彼の今回の言動から、彼の今考えていることが読み取れる。彼は今男たちのケンカを止めようとしている。彼らのあいだに入って行って、どうしてケンカをしているのか、あなたたちが誰なのかという問題はわきに置いて、とにかく彼らの動きを制止することを目的として動き始めている。
これなんだ、とキリオは思った。
これなんだ、これが自分一人では決してたどり着くことのなかったであろう状況なんだ。いや展開なんだ。モリモトよ、お前はおおよそ正しいだろう。決して間違った判断を下したとはいえないだろう。
モリモトよ、俺だってそうする。
もし俺とお前の立場が逆で、違う、部屋に入ってくる順番さえ逆になっていたら、俺だって今のお前と同じような行動に出ただろうさ。
だってこの状況でもなお二人で黙々と会議の準備を進めるなんてありえないもんな!
どうしてありえないんだろう。
わからないけど、でもそう風景のことを少しでも考えてみると、絶対にありえないんだろうなということがわかる。
直感でわかるよ。
だからモリモトよ、実は俺も結構前から気になっていたんだよ。彼らは一体誰なのか? どうして今こんなところで取っ組み合いのケンカなんかをしているんだ? お前がこの部屋にやってきた今、それをついに解決しに行くときがやってきたというわけなんだな。いいじゃないか。いいよ、行こう。じゃあ今一緒にその謎を解決しに行こうぜ。
ちょっと待つんだ!
キリオの内なる声がささやいた。「いいのか? お前本当にそれでいいのか? 本当にそれでいいのかといってつまり、あのホワイトボードのところにいる彼らと何らかの関わり合いを持っていこうとする姿勢で今後のアクションを起こしていってもいいのか? キリオよ、お前は本当にそんなことでいいのか!」
誰なんです?
キリオは思わずそう口に出してしまいそうになった。だが今自分に対して問い掛けている人物は実在している人物ではなく、あくまでも架空の、自分が自分に問い掛けているにすぎない、いってみれば思考の一種でしかない。キリオは落ち着いた。そして再び自らの内なる声に耳を傾けてみる気になった。
内なる声は言った。「ありがとう。まずあなたが私の話を聞こうという態度を取ってくれたことに感謝の意を表するよ」
内なる声がまず感謝の意を述べてきた。キリオは何だそれ、くすぐったいな、俺はお前だろ、自分に対してなんでそんな改まった態度を取られないといけないんだよ、まったくい回りくどい奴だ、などと思いながらも、そうやって自分に思わせるその言動こそ、まさに彼はもう一人の自分であるという確信を抱いた。
キリオは心のうちにつぶやいた。「そんな礼を言われるほどではありませんよ。私はただあなたの発言に驚いただけです。まさかこうしてはっきりとこの私に話しかけてくることがあるなんてね。どうしたんですか、何かよっぽどお困りなことがあったのではないかと推測されるのですが大丈夫ですか? あまり気を落とさないで、この際ですからどうぞ言いたいことをはっきりと言ってもらって結構なんですよ」
「自分自身に正式に話しかける奴とかきも」
突然の裏切り。
何だこいつ。いきなりこちらに対してあたかも緊急時のようにきっぱくした感じで派手に話しかけてきたので、誠心誠意対応してやったら、急にころっと手のひらを返しやがった。しかもきもいとか何とか他人をののしるような言葉さえつかってきて、ケンカを売ってきているのかこいつは。常識を知らないにもほどがある! こんなに俺をイラつかせて一体こいつはどうしようというのだ。こんなわけのわからない奴を自分の一部だと認めることはとてもじゃないけれどもできない。さっきは何か発言の回りくどい感じにシンパシー感じでやっぱあなたは俺だね、みたいなことを思ったけれども、撤回させてもらう。
きもいとかいう奴の方がきもいんじゃ。
お前みたいな奴はさっさと俺の心の中にある小さくて暗い部屋に退散してもう二度とそこから出てくるな。
キリオは内なる声に対して言った。「え、何なんですか?」
「いやだから自分自身に対してやけに丁寧なものの言い方する奴きもいなって思って」
「でも最初に改まった言い方をしてきたのはそっちですよね? 何かまずは感謝の意を表しますとかなんとか」
「あんなんギャグでしょ」
「ギャグなんですか?」
信じられない。こいつには本当のことというのがなくて、すべてが嘘偽りだというのか。その言動一つ一つにいちいちクレジットの審査を要する変態だ。こんな奴とまともに会話をしようとしていた自分がバカだった。こんな奴と少しでも話をしているとこっちの頭がおかしくなってくる。せっかく登場してもらって申し訳ないが、さっさとこの状況からのご退席を願うしかない。
「まああなたの気持ちもわかるんですよね」内なる声が言う。「これからあのモリモトとかいう後輩と一緒になってあの謎の二人組の男と接触を持たなければならない。そのことに人間としての正しさというか、いってみれば正義感ですよね、その正義感みたいなものを覚えると同時に、でも心のどこかに得体のしれない恐怖や不安のような感情も発見してしまうことってね」
「わかりますか」キリオは言った。「しかしだからといってもうモリモトが動き出してしまっている手前、私はどうすることもできないんですが」
「そうでしょうね」内なる声が言う。「だがあなたの不安な気持ちも、ある意味では非常に貴重で、またある種の正しさを兼ね備えているとは思いませんか」
「どういうことです?」
いつの間にか真面目で小難しい話になっている。ふざけた奴だと思っていたのに、やはりそこは腐ってももう一人の自分ということか。憎めない奴だ。せっかくこうして出会えたのだから、一瞬でも彼のことを冷たくあしらおうとしてしまった自分を恥じたい。
内なる声が言う。「いいでしょう、では私がお答えしましょう。あなたは、実は今こういうことを思っているんですよ」
そもそもあのホワイトボードの近くで取っ組み合いのケンカをしているらしい男たちって、現実の世界にちゃんと存在しているんでしょうかね。
つまりこういうことなんです。
誰もいない会議室で、ある男ともう一人の男が何かしらの言い争いを始めてしまい、それがいつの間にか取っ組み合いのケンカまで発展してしまう事態、これはわかる。
そしてそれを見知らぬ別の社員(今回の場合では私)に発見されてしまった、これもわかる。
だが次。
この次の展開からこの世のものとは思えない不可思議な現象に我々は苛まれていくことになったんです。どうして彼らはあなたに取っ組み合いのケンカの最中を目撃されたというのに、こちらに対するリアクションをまったく見せないのです? あなたがおかしな思考にはまってしまうのも当然ですよ! だって普通なら、向こうが何かしらの反応をみせるべきなんですからね。そうしたらあなたもまた彼らの反応に反応して、一緒にこの時間や空間を作り上げていけばいいのです。それなのに! それなのに彼らときたら自分たちの行為に集中している。こっちの存在などまったく無視して自分たちのやりたいように取っ組み合いを続けているんですからね。
「ものすごく激怒していたんじゃないですか?」キリオは言った。「彼らは、私が部屋に入ってきたのにも気づかないくらいに激高して、とにかく相手をボコボコにしてやろうと必死だったんじゃないですかね」
「ちょっとその前に電話いいかな?」キリオはホワイトボードのところにいる男たちの元へと歩み始めていたモリモトに向かって言った。「申し訳ないけど、今ちょっと電話をしておかなければならない用事を思い出したんだ。すぐに済むからいいかな?」
「今ですか?」モリモトが言う。
「ああ、すまないな、本当にごめん。でも電話しなきゃいけないから、俺は一旦部屋の外に出るよ」
キリオはそう言うとそそのくさと会議室を後にした。そして彼はポケットから携帯電話を取り出すと、それに簡単な操作をいくつか施して、耳元にあてた。
「もしもし母さん?」
彼は自分の母親に電話を掛けたのであった。
自分の母親?
何か本当に彼女に用事があったのだろうか。
それとも彼がモリモトに電話をかけなければならないと言ったのはその場から立ち去るための適当な嘘にすぎないのであって、本来ならば彼女に電話をかける用事などちっともなかったのだが、しかしこうしてスムーズに部屋を出てくることに成功した手前、気分がよくなって、それで本当にちょっと誰かに電話をかけてみようかな、たまには母親にでも電話をかけてみようかな、という考えに至ったのかもしれない。
とにかくキリオは仕事中のオフィスの中から自分の母親に電話を掛けた。
キリオの母親と思われる人物は言った。「どうしたんだいキリオ。あんたが電話をかけてくるなんてめずらしいじゃないか。本当にどうしたの。何か気の滅入るようなことでもあったのかい?」
「今仕事中なんだ」キリオは言った。そして彼は会議室をあとにして廊下をまっすぐに歩きながら「このオフィスの窓から見える景色はいつも最高さ」
「クビにでもなったのかい?」
クビ?
キリオは思わず自分の母親の言葉を反芻した。クビというのは、つまり仕事をクビになったのか、会社から何らかの事情によって解雇されてしまったのではないのか、ということだろう。
どうして彼女は今そんなことを?
まさかとんでもない。
今だって俺は重要な会議のための準備をしているところだし、ちょっと息抜きでこうして社内をうろついているだけだ。サラリーマンにだって、いや毎日働いてばかりのサラリーマンにこそこういうよくわからない、突発的で一見無駄に思えるような時間は必要なんだ。
「最近仕事が立て込んでいてね、ちょっと疲れているんだ」キリオは言った。「ずっと頭の中がすっきりしない状態が続いていて、いつも何か考え事をしていないと気の済まない性格になってしまったみたいだ。ところで母さんの方は元気かな? 多分また会えるのは当分先になるとは思うんだけど」
「最近青汁を飲み始めたのよ」
「え?」
キリオは母親の発言に耳を疑った。ききたくなかったセリフが彼女の口から発せられたからというわけではなかったのだが、それはちっとも予想していなかったことだったので彼は驚いてしまったのである。青汁の話とか全然求めてなかったのに、通販?
「テレビの通販でね、よくやってるでしょ? あれを最近始めたのよね」母親が言う。
「へえそうなんだ」
「飲みやすくて結構続けられそうよ。あんたも試してみたら?」
「俺はいいよ」キリオは言った。「毎日同じものを飲み続けなくちゃならないなんて俺にはできそうにないよ」
「オリンピック見た?」
「見たよ」
「あとお母さん株も始めたのよ」
「株?」
初耳だ。まさか母親が株を始めたとは。株といえばあれだろうか。株取引のことなのだろうか。そういえば最近親父が定年退職をしたところだったんだ。もしかしてその退職金を株の投資になんかにつぎ込んで、それで彼女たちは老後の生活の資金を少しでも潤そうとか何とかそんな甘いことを考えているんじゃないだろうな? とすると株を始めたのは母親だけじゃなくて親父もということになるけれども、もちろん親父だって株に興味を持つような人じゃないさ。一体何があったというのだろう。誰かよく知らない人にうまくだまされているんじゃないだろうな?
キリオは言った。「へえ、株をやりはじめるとは考えもしなかったな。でもそんなものに手を出して大丈夫なの? どこかの投資信託とかじゃなくて?」
「いやがっつり株」母親は言った。「お父さんと毎日パソコンの前に張り付いてデイトレードよ」
デイトレード……マジか。
還暦過ぎてから二人ともよくやるな。確かに二人とも仕事はリタイヤしているから、時間は有り余っているのかもしれないが、だからといって相場の開いている時間ずっとパソコンに張り付いているなんて尋常じゃない。肉体労働じゃないから、体力はあんまり使わないかもしれないけれども、でもその分ものすごく神経の磨り減る作業だから大変だろう。っていうかお金は? そんなにトレードにのめり込んで、どうせ二人は素人なんだからすぐにお金も溶けてしまうんじゃないのか?
「そんなことして大丈夫なの?」キリオは言った。「もう二人とも働けないんだから、お金がなくなっても挽回できないよ」
「それはそうね」母親が言う。「相場に絶対はないからね」
やけに素直だな。
「じゃあそんなデイトレードばっかりしてちゃダメじゃないか」キリオはここぞとばかりに言った。「それにそもそもそんなもうお金も必要ないだろ? どこか旅行に出かけたいとか、欲しいものがあるならいつでも相談してよ。俺もちゃんとこうして働いているんだからさ」
「そんなものじゃ満たされないのよ」
「何だって?」
びっくりだ。驚くような発言だな。とても自分の母親から聞かされた言葉とは思えない。母親の口からはききたくなかったセリフだ。それが今彼女の口から飛び出してきたんだ。満たされないだって? 一体何に? どういうことなんだ? お金に困っているわけじゃないのに、さらにお金が欲しいというのか。たまに旅行に出かけたりおいしいものを食べたり、それからいつもじゃないけど、休みのときには家族と一緒に時間を過ごしたり。そういうことでは満足できない何かがあるというのか。そりゃそういうものって、あるかないかでいわれたらあるんだろう。どんな人の心にだってあるかもしれない。だけど今こうしてはっきりとそのことについて言及されるとな。言及されるとなぜかいい気分にはならない。いい気分になるどころか、どちらかといえば嫌な気持ちにさえなる。母さんお金が欲しいのか? あなたたちはもう十分に働いて、それはすでに手にしたんじゃないのか。今手元にあるお金じゃ全然満足できないってわけなのか。いや普通の生活を営むという観点から考えると、それは満たされているんだろう。彼女たちは今もっと別の何かを満たそうとしているんだ。株取引によって、今までの人生では得られなかったような別の何かを得ようと考えているに違いない。裏切られた気分だ。まるで裏切られた気分。別にはっきりと裏切られたわけじゃないんだろうけど。
キリオは唐突に電話を切ろうかと思った。
母親が話を続ける。「あなたも何か始めてみたらどうなの。あなたはサラリーマンで日中はいつも働いているでしょうから、日本の株はあんまり向いていないと思うの。だってずっと自分の投資している銘柄の値動きを目で追うことはできないでしょ。だったらこういうものがあるわよ。FXよ。あなたFXって知ってる? あなたはサラリーマンなんだからFXをやればいいのよ。今FXってすごく流行っているのよ。もしかしたらあなたのまわりの人たちにももうすでにFXをやっている人がいるかもしれないわね。サラリーマンだけじゃなくて、主婦とか学生とかもね。とにかくFXは二十四時間世界のどこかしらで取引が常に行われているから、自分の好きな時に好きなタイミングで取引できるのよ。だからたとえば、あなたが日中仕事を終えて帰ってきたあとでも、寝るまでのあいだ取引できるし、それにお金だって少額で始められるから、敷居がそこまで高くないの。もちろん負けるとお金が減って行くわけだけど、最初は小さな金額で投資していけばそこまで大きな損失は出さないだろうから大丈夫よ。それにFXに関していえば、今各証券会社のデモトレードが充実しているから、ちょっとの損失でも嫌だな……というのであれば、とりあえずそのデモトレードで実査の相場の動きに触れてみるって考え方もいいわね。あと通販で買っている青汁もものすごく体にいいわよ。今の青汁って全然苦くないし、作り方も粉を水に入れてとくだけだからお手軽なの。まああなたは今アサコさんがいるから、彼女が毎日料理を作ってくれているんでしょうけれども、そこに青汁を一杯加えるだけで栄養バランスがぐっとよくなるのよ。最近気の滅入ることが多いんですって? 栄養バランスが崩れているんじゃない? 栄養をバランスよく取っていないから、だから気が滅入ったり、何でもないことにイライラしやすくなったりするのよ。キリオ、とにかくあんたFXか青汁のどちからでも始めてみたらどうなの」
「いや俺は……」
「何か始めないとずっと今の生活をし続けなくちゃならなくなるのよ」
それで十分なんじゃないのかな、とキリオは思った。
そして、どうして今俺は自分の母親とこんな話をしているのだろう、と思った。キリオは廊下の突き当たりまできて再び窓の外を見下ろしながら、彼女はちょっと頭がおかしくなってしまったんじゃないだろうか。
頭がおかしくなったんじゃない。
考えてみて、彼女は何か詐欺にあってお金をむしり取られたとか、変な宗教にはまって心の閉ざされた状態になっているとか、そういうわけじゃない。もしかするとそういうわけなのかもしれないが、現実として彼女が今やっているのは、青汁と株だという。青汁と株にどのような関連性があるのかないのかはわからないが、たとえば青汁が青汁ではなくて、何か聞いたことのないような企業の出している、得体のしれない栄養カプセルだったとしよう。怖い。母さんどうしてそんなものを飲んでいるの! 体にいいのかもしれないけれども、そんなの信じられないよ。体にいいという研究結果が出ているとか、そんなの嘘に決まっているよ。どこの大学の教授だよ。それどこの大学の教授の言っていることなんだよ。
それから株!
誰かにいい話を持ちかけられて、それで何かを買わされる羽目になったという話なんじゃないのか? 巷でよくきくネットワークビジネスとか、生活に必要のないものを必要以上に買わされるだけ買わされるとか、そういう話なんじゃないのか? え、何だって? 株はそういうものじゃない、誰におすすめされたわけでもなく、全部自分たちだけで考えて始めた投資だって? まあ企業のシステムを利用しているには利用しているけれども、それだって株取引専用の口座を作っているだけで、取引さえしなければ、もちろん利息とかはつかないけれども普通の銀行預金とほとんどかわらない、だから損するときはすべて自分たちの責任であるというしかないだって?
話をきいたときは、身内として嫌な気持ちになったことは確かだが、冷静に一つずつ考えていくとそうでもないと思い直すはめになるってわけなのか。
たとえば体のどこかが悪くて、それを直したい一心でありとあらゆる健康商品? に手を出して今の青汁に行きついたとかそういうわけじゃない。
株もそうだ。
信頼できると思っていた人の口車に乗せられて高額商品を買わされたというわけでもない。もしかしたら株の魅力? 株取引の素晴らしさ、みたいなものは誰かから教えてもらったものかもしれないが、それだって最終的にやるかやらないかは自分の判断しだいだ。そういう意味では、自分でやった取引のけつは自分でふかなきゃならないのが株のルールってわけなのか。誰かからお金を借りて取引をやっているというのであれば、ちょっと胡散臭さの増す気がするけれども、でも母さんたちは自分たちでと言っていた。つまり自分と親父の二人で一緒に毎日パソコンの画面に張り付いてトレードしているんだとさ!
じゃあ一体何が怖いんだ。
俺はこの話のどこが腑に落ちないと感じているのだろう。そんなの決まってるだろ、親の自由や挑戦を手放しで喜べる息子なんてこの世の中にいるものか。
キリオはしかし自分でそんな風に考えながらも、え、何その考え? みたいなことを思った。これ以上このことを一人で考え続けると確実に今よりももっと気分が悪くなりそうだったので適当なところで切り上げたいものだと思った。
それで、本当にもうこのまま何も言わずに電話の電源ボタンを押して通話を終了させてしまおうかとキリオが企んでいると、彼は廊下の反対側からやってきた誰かに声をかけられた。
「こんなところで何をしておられるんです?」
誰だ。
それは見覚えのある女だった。名前は覚えだせないが、この女にはそれなりの名前がある。人がそれをきくと、ああそれは女性の名前だね、いい名前だね、とすぐに思い当たるような普通の名前が。
「いや何をしているのかと言うと、その」
キリオはこの女誰だったかな、と思いながらも、早く何かこの女の問いかけに答えようとしていたのだが、ところがそれはなかなかうまくいきそうになかった。
女の名前が不明だったからか。
いやもしかするとそれも原因の一つだったかもしれないが、しかし彼は今困難な状況にいたのである。女の問いかけに素直に答えずらい状況。
つまり彼はまだ自分の母親との通話を続けていたのである。
自分の母親との会話を電話で続けているにもかかわらず、廊下の反対側から歩いてきた女に声をかけられてしまった。
この女はこの会社の同じ従業員であるから、彼女がこの場に現れて、さらに自分とは反対側へ歩いて行こうとしているということに不思議な点はない。
その点は大丈夫だ。
だが本当に何と答えればいい。
俺は今廊下の反対側から歩いてきた女に声をかけられてしまった。
俺は今母親と電話をしている最中なんだぞ!
母親と、なぜだかよくわからないが株や青汁などのことについて話していたところだったんだぞ。
女が言う。「どうしたんです?」
ヨシカワだ!
キリオは思った。ヨシカワだ。この女の名前は確かヨシカワ、ヨシカワマリアとかそんな名前だった。二人きりのプライベートで遊んだことはないが、何度か社内の人間たち数人とお酒を飲みに行ったことがあるような気がする。
「私、総務部のアイザワケイコです、覚えてらっしゃいます?」女が名乗った。
「ああ、アイザワさんね」キリオは言った。「アイザワケイコさん、もちろん覚えているとも。このあいだはみんなで楽しかったね」
「えー、そんなに楽しくなかったですよ」アイザワと名乗る女が言う。「私あんまり大人数で遊ぶの好きじゃないんです」
「そうなんだ」
だったら来るなよ。キリオは思った。ああそう、嫌いなの。君あのときあんまり楽しくなかったの。そんな大人数とのお酒の席が嫌いなのだったら無理してきてもらわなくても結構だよ。別に俺がその席を催したとかそういうわけじゃないけれども、でも本当に無理は体によくないよ。自分のやりたくないことをやっていると、いつか体や精神にガタがくるもんだ。そしていつの間にか自分の思考というものができなくなって、どんどん別人みたいになっていく。別人みたいになってしまったら、もう元の自分には戻れなくなってしまうんだぞ。生きながらも死んでいく、みたいな。だって別の人間になってしまったら、元の自分がどんなだったのかなんて思い出せなくなってしまうんだから。君にも遠い微かな記憶、みたいなものがあるだろ。小さい頃の、どこの景色だったかは思い出せないけれども、しかし確かにそこに存在していたような記憶が。あれは今の自分とは違う過去の誰かのものなんだ。まあやりたいことやりまくってても、時間が過ぎれば人の記憶ってあいまいなものになっていくけど。
「大丈夫ですか?」アイザワが声をかけてくる。「何かお困りで?」
「お困り?」
キリオはアイザワにそう言われて自分の置かれている状況をあらためて考えてみることにした。そうだ、そういえば自分は今母親と電話で会話をしている最中なのであって、この女のことを考えている暇はない。
名前はもうわかったし、あとはだからこの女について考えることなど何もない。この女がここにいることは、同じ会社で働く仲間なのだから当たり前だし、また全然知らない仲、一度も話したことのない、遊んだことのない仲というわけでもないのだから、すれ違い顔を見れば声をかけてくるのは非常によく行為だ。
こっちがスマホを持って誰かと会話をしている最中だっていうのに、いきなり話しかけてくるなんてどういう神経をしているんだこの女!
キリオは激怒した。
そういえばそうだ。こっちはこの女とこうして顔を合わせる前から、確かに手にはスマホを持ち、それでしっかりと母親と通話をしていたはずだ。
この女からは電話の相手が俺の母親だということはわからないしても、しかし彼女からでもこの俺が誰かと電話で話し合っていたことくらいはわかったはずだ。
人はそのようなことがわかったときはどうするか。
無邪気に話しかけてくるものだろうか。
視線を合わせて、軽く会釈をする。これだったらわかる。これだったらまあ顔見知りの相手だったり、仕事を一緒にしたことがある、一緒にお酒を飲んだことがあるような人だったりしたらするだろう。
心の中で、こんにちは、みたいなことをつぶやいて、しかしああ彼は今やっぱり電話で取り込み中なんだな、みたいなことを思って、その場をあとにするだろう。その場はあとにしないかもしれないけれども、でも急に話しかけたりはしない。
どうしたんだ。
一体彼女の身に何があったというんだ。むしろここまできたらどうしたんですか、大丈夫ですか、と声をかけてやりたいのはこっちだよ。
君の方こそどうしたんだ。君の方こそ電話をしている最中の俺に普通に話しかけてしまって大丈夫なんですか。摩訶不思議な行動をごく自然にするというスタイルで今後のご自身の人生も歩んでいくつもりなんですか。
キリオは気づいた。
自らの視線を女からふと話して手に握っていたスマホを何となく操作しようと思った瞬間だった。スマホが自分の思っていたような位置になかったのである。彼としては、ついさっきまで自分の母親とそれを使って会話をしていたのであるから、当然スマホ本体は自分の耳元、自分のほほにピッタリと添えられて、それで今もまだ電話をしている最中であるかのポーズを取っているものばかりと思っていた。
ところが事実はそうではなかった。
彼が今確認できた事実によると、スマホはなんと彼のほほの付近を離れて、もはや彼の胸のあたりに位置していた。
つまりスマホは彼の耳元からいつの間にか遠ざけられており、胸元あたりにある。ということは、いってみれば彼は普通にスマホを持っているだけ、とてもじゃないけれどもそれで誰かと通話をしているようには見えない、何とか想像力を駆使してみると、そのスマホでゲームとか、あとはネットとかを閲覧している最中なのかな、ということが描かれる程度である。
そういうことか、とキリオは思った。
こういうことである。彼は目の前にいる女のことを、わけのわからない、信じられない、どうしてそんなことを俺にしてくるのか、できるのか、頭のネジが一本どころか二三本は軽く外れているんじゃないのか、こいつももしかしてさっきの会議室にいた謎の二人組と同じ類の人間なんじゃないのか、要するに理解不能の人種というわけだ、理解不能の人種め滅亡しろ、この俺にかかわってくるな、気持ち悪い、みたいに思っていたのであるが、どうやら彼女を理解不能な人種に足らしめたのはほかならぬ自分自身ではないのかと思い当たったのである。
電話をしている最中の人間に話しかけてくるなど異常だと思っていたが、電話をかけている最中の相手を発見して、そしてその人と目があったときに、その人がこちらのためのように受話器を顔から遠ざけてさらに視線を送り続けてきたら、その人との会話の権利は電話の向こう側からこちら側へと移動してきたのだと判断できる。したがってそうなれば、たとえその手に受話器を握っている相手にでも、こちらから自然と話しかけてよいという空気感の発生することがある。
もしかしたらこのような論理の展開が彼女の中に起こっていたのかもしれない。
いやもうここまでくると、きっと彼女はそう思っていたのだろう。
だからこそ彼女はこちらに対して普通に話しかけてきたのである。キリオの何かに驚いているような、自分が今どこにいるのか、そして自分が本当は何をすべきなのか探りに探るがまったくわけがわかっていない、混乱の渦の中にいてもがき苦しんでいるような、いややっぱりただただぼうっとしているだけのような状態を見て、彼女は、大丈夫ですか、何かあったんですか、と声をかけてきたのだ。
原因は俺だったというのか?
キリオはスマホを胸よりさらに下の位置に下げて唖然とした。まさか自分がいつの間にかスマホの位置を自分のほほから胸のあたりにまで遠ざけていたとは思ってもいなかったし、また彼は、それと同時に彼女を変人扱いしてなんとか自我を保とうとさえしていた自分自身に裏切られたような気がした。