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目の前にスーツを着た女がいる。
彼女はテーブルのイスに座っていて、何やら窓の外の景色を眺めている。ここはどこかの喫茶店だろうか。見覚えがあるぞ、きっとここは会社から最寄りの駅近くにある喫茶店だ。そういえば何度かここへは来たことがあるような気がする。本当はこの店にやってきたことなど一度もなく、ただ何度か店の前を通ったことがあるという程度のことかもしれないが、とにかく何となくここがどこなのかということの見当がついた、ここは会社から最寄りの駅近くにある喫茶店だ。
トヨナカキリオは目の前にいた女の行動に合わせて、自分もふと窓の外に目をやってみた。それでどうして自分はこんなところに今いるのだろうと考えてみるのだが、なかなかいい答えが出てこない。だいたいいつもどうしてなんだろうな、なぜ俺は今ここにいるのだろう、俺は何をしているのかな、などと考えてみるとき、その問題の解答にピッタリなそれなりの言葉というものはすぐに出てくる。
しかし今はまだそれに出会えていない。
いやもしかするとそういうことを考えるとき、それなりの答えというものはもうすでに自分の中のどこかに用意されていて、つまりどうしてなんだろう、何をしているんだ、と考えてみるということは、ただのノックにすぎないのでは? それは記憶の扉を開くためのノックのような行為にすぎないのであって、そのときの俺の気持ちとしては、全然焦っていないし、またその記憶の部屋の内側から自分が無視されることなど微塵も想像していない。
じゃあ焦っているのか?
俺は今この状況を何とか理解しなければなどと焦っているのか?
キリオは窓の外を見ながら考え込んだ。考え込んではみたものの、一体自分が何について頭を働かせようとしているのかさっぱりわからなくなってしまった。ただここの喫茶店は見覚えがあって、やはり前に一度来たことがあるような気がする。ホットコーヒーを頼んだような気がする。軽食だって頼んだかもしれない。
ところがこうも思うのだ。
来ていない。
やっぱり俺はこの店には来ていないんじゃないのか? 見覚えがあるのだって、それはこの店の前を何度も歩いて通ったことがあるからであって、実際にこうして今日のように店の中に足を踏み入れたのは初めてなんじゃないだろうか。あの茶色のエプロンをしている女性にきいてみたらわかるんじゃないだろうか。あれはきっとここの店のウエイトレスだろう。飛び切り若いというわけじゃないが、そこまで歳のいっている感じでもない。もしかすると自分と同い歳くらいかもしれない(つまり30代前半)。主婦か? あのウエイトレスは主婦で、それで昼間のパートでこの店で働いているのかな? 家に犬の一匹や二匹だって飼っているかもしれない。
「トヨナカさん?」目の前のスーツ姿の女に声をかけられる。どうした、俺が何か失態でもしましたか?
「どうしました?」キリオは答えた。
女が言う。「いやどうしましたじゃないですよ、あなたの方こそさっきから窓の外ばかり見て大丈夫ですか? まあ、窓の外を見てぼうっとしたくなる気持ちはわかりますけれども」
「ああ、すみませんね」
「何かあったんですか?」
「特に何もないですよ」キリオはそう言うと視線を女から再び窓の外へとやって「ただこの場所に以前来たことがあるように思ってね。ちょうど今座っている席だったか、もっと違う席だったかどうかまでは思い出せないんですけれども、とにかく何となく私はここの喫茶店に来たようなことがあるように思うんです。会社の近くだからかな?」
「ここへは今日が初めてなんですか?」女が言う。
「初めてかどうかはわからないんです」キリオは言った。「ただもう一度言いますが、ここへはかつて来たことがあるように思うんです。どのような理由でこの店にやってきたのかはわかりませんが、しかしとにかく何かの用事で私はここを訪れたことがあるように思うんです。もしかしたら全然そういうことはなくて、今日この店に私がやってきたのは初めて、ということもあるかもしれませんが、でもやっぱりこの店の内装には見覚えがあるんですよ。会社の近くだから、店の中に入ったことはなくても、外からこの店の中の様子をずっと見ていて、それでいつの間にかこの店に訪れたことのある気になっていた、というだけのことかもしれませんがね」
「一度くらいは来たことがあるんじゃないですか?」女が言う。「だってここはあなたの会社の近くなんですからね」
「それはそう思うんですけれどもね」キリオは言った。「しかしそうはっきりと思えるような出来事をまだ思い出せないんですよね」
キリオにはなかなか、そうだ、そういえば俺はあのときここへちょっとだけだったけれども立ち寄ってコーヒーを頼んだった、それと何か簡単な食べ物も! というような感覚はやってこなかった。あまりにもそのような感覚がやってこないので、彼としては、やっぱり自分はこんな喫茶店のことなど初めから何一つとして知らない、もしかしたらどこかの喫茶店とそっくりそのまま間違えているのかもしれないな、みたいなことを思った。テーブルの上に置かれていたコーヒーカップや銀色のスプーンなどを見てそれからいろいろとこの喫茶店のことについて考えてみたが、これといった新しい案の出てこない気配がいつまでも続きそうだった。目の前にいる女性が退屈そうにしていた。
「それで今日はどういった内容で私たちは今ここにいるんです?」
キリオは自分から女にたずねてみることにした。もしかすると今日この喫茶店へ彼女を誘ったのは彼自身かもしれなかったが、仮にそうだったとして、その用件みたいなものを全然思い出せないのであるから、そうなればもう彼女にきいてみるしかない。申し訳ないですけど、あの、どうして僕たちは今ここにいるんでしょうか、どうして僕たちは今日この喫茶店でこうして向かい合ってそれほど短くもない間座っているんです?
女は言った。「あなたは今FXの取引に関して何か問題を抱えているんじゃありませんかね?」
「FXの取引に関する問題ですって?」
キリオは一瞬女が何を言っているのかよくわからなかった。彼女の口から何かしらの言葉が発せられていることは確認できたのだが、それがどのような意味を成しているものなのか理解できなかった。やがて理解できた。彼女は今自分に対してFXで何か困った問題を抱えているんじゃないんですか、ということをたずねてきたのだ。ということは俺は今何か本当に彼女の言うように、FXに関する問題を抱えているのだろうか。何というかその、FXでとんでもないことをやらかしてしまったとか? でもそれってじゃあたとえばどのようなものなのだろう。具体的には?
具体的にはそのFXに関する問題って何なんだ。というかそもそもFXってどういうものなんだろう。もし俺がFXというものをまったく知らなかった場合、この女は俺の間の前でとんでもないことを言い出していることになる。FXというものを知らない人間の前でさも当たり前のようにFXと言い放っているのだから、ふざけるのもいい加減にしろ! と俺に怒られても仕方ないんじゃないのか?
「あの……申し訳ないですけれども」女が言った。「あなたは私を誰だと思っているんです?」
「え?」
「すみません、別に上からものを言うつもりはないんですけれどもね、でも純粋にといいますか、逆にあなたはなぜ私が今ここにこうしていると思っていらっしゃるんですか? そういうことってご自身でご自身にたずねてみたらすぐにわかると思うんですけれども」
「そうですね」キリオは言った。「それはやっぱり何か理由があるんでしょうね」
キリオは何となくこの女のことは好きになれそうにないなと思った。今の状況がうまく把握できずに困っているのはこっちだというのに、そんなことは自分の胸にでも手をやって自分自身にたずねてみればわかることでしょう、他人に聞くようなことじゃないわ、みたいな厳しいことを言って、この女は別に上からものを言っているつもりはないというけれども、心のどこかでこちらのことをバカにしている様がありありとわかる。
そりゃあんたが誰だかわかっていたらこっちだって苦労しないさ。
自分に問い掛けてみてもわかりそうにないからわざわざこっちだってあんたにたずねているんじゃないか。答えを知っているならさっさとそれを出せばいい。
「落ち着くことが大切だと思っているんですよ」キリオは言った。「こういうときはね、とにかく落ち着いて物事を考えていくことが大切になってくると思うんです。このような混乱のさなかにね、その混乱に合わせて自分も混乱してしまったら、もうそれこそ取り返しのつかない出来事が起こってしまうんじゃないかと思いましてね」
「それはおっしゃるとおりですね」女が言う。「私も常に落ち着いていることはとても大切なことだと思いますわ。ときには落ち着いてなどいないで、急いで物事を成し遂げた方がいいときもあるよ、と言う方もいますが、私はそれは違うと思いますね。やっぱり落ち着きは常に手中に収めておいた方がいいですよ。自分の気持ちというものはいつも自分でコントロールしておくべきだと思うんです。だって急いで物事を成そうとしたときも、落ち着いてなければ結局は何が何だかわけがわからなくなって何も手に入れられないことになる可能性がありますからね。人は落ち着いていないと何もできないんですよ。あなたはいつまでもそうやってのんびりと窓の外を眺めている場合じゃないんです!」女が急に口調を強くして「あなたはいつまでそうやって何も知らないふりをするつもりなんですか。あなたはいつまでご自身に降りかかっている現実から目を背けるつもりなんですかね。はっきり申し上げましょう。はっきりと申し上げることにしますがね、あなたのそのような態度に、あなたの周りの人たちは辟易しているんですよ。もうあきれかえってものが言えなくなってしまっているのです。ですから私が言ってあげますが、あなたはもっと人としてちゃんとすべきです。いつまでもそうやって窓の外を眺めて、落ち着くことが大切だと思っているんです、なんて信じられません。戯言はもうこれきりにしてください」
キリオは急に女に声を荒げられた形になってしまったので、まずそのことにびっくりした。女の話が長いな、と思っていた矢先に、急に彼女に語調を強められたので一体何事かと思わずにはいられなかった。女の話をきいていると、どうやら彼女はこちらののんびりとしたというか、問題の核心がよくわかっておらずにいつまでもぼうっとしている態度みたいなものにいらついているらしかったが、キリオとしては、そんなことを言われてもな、みたいな感じだった。彼としては、しっかりと喫茶店のイスに着席しているし、かつあなたは誰なのかと率直にたずねてもいるし、またどのようなことを突きつけられたとしても、すぐには混乱せずに、まず落ち着いて対処することを心がけています、というような気持ちも表明しているしで、これ以上何すればいいのかわからない状態だった。それなのに女は適当にこちらの話に乗っかってきたかと思ったら、急に自分の胸の中に仕えていたであろう問題をさらけ出してきて下品だった。もし彼女が自分の知っている人で、これからも大切にしていきたいと思える人だったら、どうしたの、となぐさめてやらないわけはないけれども、そもそもこの目の前にいる女が誰かわからずに悩んでいるのに、急にマジでそんなにイラつかれても、じゃあこっちとしてももう帰ります、いいですか、というようなことを言ってこの場からすぐにでも立ち去ってやりたい気分になる。
キリオは気を取り直して言った。「実は私も今誰にも言えないような悩みを抱えていましてね」
「誰にも言えないような悩み?」女がうつむいていた顔をあげる。
キリオは続けて「そうなんですよ、こんなこと本当は、初対面のあなたには言うべきことじゃないかと思うんですがね、しかしこれが返ってよいということもある。というのはね、この問題は本当になかなか人には言えないようなことなんです。逆にそういう悩みを持ってしまっているとき、それを一人で抱えるのはもちろんいいですが、誰か自分の全然知らない相手に打ち明けたくなる、告白してしまいたくなる、という気持ちになることがありませんか」
「それは、それもやっぱりそう言われるとそうかもしれませんね」女が言う。「確かに自分の抱えている悩みというものは、自分に近い人にほどうまく打ち明けられないものなのかもしれませんね。あなたのおっしゃるように、自分から遠い人、普段の生活からはかけ離れていて、とてもじゃないけれども滅多に会うようなことのない人、もしくは今日限り、その場限りの人の方があっけらかんと話をしやすい、ということはありうることだと思います。いえむしろそのような人でないと、自分の今抱えている悩みを告白しようなどとは思いもよらないかもしれませんね」
「のってきましたね」キリオは言った。「いいですよ、とてもいいですよあなた!」彼は少し気分の高揚する感覚を覚えて「つまり今日この場において、その私にとっての遠い人、普段の生活ではあまり会うようのない人、交わりのない人というのは誰ですか。ずばりあなただと思いませんかね! 私はあなただから打ち明けるのです。私はあなたのことをよく知らないし、きっとあなたも私のことをよく知らないんでしょう。もしかするとあなたは私のことをよく知っているかもしれませんが、少なくとも私はあなたのことは知りませんよ。このようにわざわざ喫茶店に入って二人きりで話しているのですから、何か私に重大な用事があるか、もしくは私があなたに何か重大な用事があるのかもしれませんがね、しかし今から話すこととあなたとは、関係がないでしょう。なぜそんなことが言えるのかと申しますとね、本当に今から打ち明けてみたいと思っている話は、私以外の誰も知りえない、まだ誰にも話していない秘密中の秘密だからですよ」
「前科持ちですか」
「いえ違います」キリオは女の質問に早急に答えた。彼は彼女の言葉に話の腰を折られたような気がした。彼は自分の中に巻き起こった混乱を収めるために発言を続ける。「ちょっと待ってくださいよ、なんでそうなるんですか。違う、私が話したかったのはそういうことじゃない」
「じゃあ一体何だとおっしゃるんです?」女が言う。「あなたがそこまで意気揚々と話し続けるものだから、きっとそれは殺人級の何かだと思いましたよ。小説にしてもおかしくないような、人間の尊厳にかかわるような完璧な罪を犯した話なのかと思いました」
「完璧な罪って」キリオはそうつぶやいてから、しかしすぐに言った。「FXですよ。FXなんです。私の秘密というのは、FXでやらかしてしまった過去を持っているというものなんです」
「FX?」
「そうです」キリオが答える。
「おや、FXとは一体何のことですか?」女が言う。
ほざけ!
FXとは一体何なんですかだと? FXってどのようなものなんです? だと。ふざけるのもいい加減にしろよこの女め。まさかお前にFXを知らないとはいわせないんだからな。FXとはなんぞやということが俺の口から説明されていいわけがない。それを良しとする時間や空間や世界などどの次元にも存在しないんだ。俺があんたに対してFXとはたとえばねなどと話し出す瞬間などこれっぽっちもないんだからな! だってFXってついさっきあんたの口から先に出てきた言葉じゃないか。
キリオはとりあえず目の前にコーヒーに手を伸ばして「え、あなた今何とおっしゃったんです? 今あなたは私に対して何とおっしゃったんですか? もしかしたら私はきき間違えたのかな?」
「何をです?」女が平気な顔をして言う。「何をきき間違えたんですか?」
「いやあなた今FXって何ですか、みたいなこと言いませんでした?」
「言いましたが?」
「言いましたよね!」
キリオのセリフに女はぽかんとしている。口をあからさまに開けて、現在自分の置かれている状況の呑み込めていないことをアピールするような感じではないが、それにしても伝わってくる。
あなたさっきから何を言っているんですか?
あなたこそ、あなたこそさっきから本当に何をおっしゃっているんですかね、トヨナカキリオさん! 畜生。
どこまでもかみ合わない。
まったく本当にどこまでも会話がかみ合わない女だ。この女が先に、そういえばあなたは何かFXに関することで重大な問題を抱えているんじゃありませんか、みたいなことを言ってきたから、そんなことを言ってきたから、俺は今その話題をあえて出してやっているんじゃないか。
俺が本当にFXに関する重大な問題を抱えていると思ったか!
思ったのならば甘い。俺はただただこの女の話に合わせてやろうと、せっかく目の前に座ってくれているのだから、ちょっとはこの女の機嫌でも取って、それで少しの間だけでも楽しい会話をしたら、すぐにさよならといってこの店から出て行こうと思っていただけだ。FXって何ですかだなんて、俺が聞きたいさ。
それは俺が聞きたいことなんですよ、あんたは誰なんだ!
キリオはもう自分からこの女に話しかけることはやめようと思った。もしかしたらこの女は、俺のことを強く恨んでいるのかもしれない。要するにこの女の過去に、俺は悪役としてかかわってしまいっている可能性があるというわけだ。だから、それでその暗い過去のせいで、俺がどれだけ優しく女に接しようと、彼女は常に天邪鬼な答えしかできないように脳内のプログラミングが書き換えられているのかもしれない。ということはつまり、俺はもうすでにこの女に何かとんでもないことをしでかしたのか? いやもちろんそんなことはないと願いたい。
過去も現在も未来も、まさか俺が女性に対して何か恨みの持たれるようなことが出来るとは思いたくない。
「何かあったんですかね?」キリオはまたしても自分から女に対して問い掛けた。「もうこんな時間はこりごりです。この店のこともこのままだと嫌いになってしまいそうですよ。もし私が何かあなたに謝らなければならないことがあるというのならば謝ります。この通り謝りますから早く用件を言ってください。もうこの際私とあなたのあいだに何かあったのか、それともなかったのか。あったのかなかったのかということだけでもどうかあなたの口からこの場ではっきりとさせてくれませんかね」
「私とあなたに個人的で直接的な関係はありませんよ」女は言った。
やっぱり!
キリオは思った。やはりこの女と俺は個人的な関係なんてなかったんだ。個人的な関係のない間柄同士なんだから、ということは、当然俺がこの女から個人的な恨みを買うこともないってわけだ。女が話を続ける。「ただいつまでもあなたがそのような態度を取り続けるというのならば、私もあなたに協力します。あなたのその姿勢を私も応援させてもらうことにしますよ。それで? それでFXが一体どうしたとおっしゃるんです?」
「実はずいぶんと大負けしてしまいましてね」キリオは言った。「とりあえずFXが何なのかということはご存知ですかな? FXがどういうものであるのかということの説明は省かせてもらってもよろしいんでしょうか?」
「応援することに決めたんです」女が言う。「どうぞそのままお話ししてください」
「では」キリオは言った。「それでええっと、とにかく私はそのFXというやつで大負けをしてしまったんです。FXで大負けをしてしまったということがどういうことだかおわかりですよね? 要は、私は自分のお金をすべて失ってしまったどころか、それ以上の借金さえもこさえてしまったんですよ」
「それは大変ですね」女が言う。「ご結婚は?」
「していますよ」キリオは答える。「妻と小さい娘が一人。娘はこの春から幼稚園に通うことになっているんです」
「そうなんですか」
女はそう言うとじっとキリオの顔を覗き込んできた。
話のどこかに疑問を持ったのだろうか。
それとも顔に何か変なものでもついているのか。いや思い出したのか? 俺がつまり自分にとってどのような存在であるかということを、この女は今のタイミングでやっと思い出したのか?
女が言う。「ご家族はこのことを?」
「いえまだ誰にも打ち明けていません」キリオは言った。「もちろんいつまでも隠し通せることではないと思っているんです。自分のお金がすべてなくなったというだけなら、まだやりようがあると思うんですが、さすがに借金まで作ってしまうとね。その返済に労力をさかなけりゃならなくなってくるわけですから、当然これまでの行動パターンとは違うものを、私は私の生活の中に組み込んでいかなきゃならなくなる。そうすると妻がおやと思うわけですね。おや? この人どうして今こんなことをしているのかな? どうしてそんなことのする必要があるんだろう? 正直考えるだけでも怖いですよ」
「娘さんもまだ小さいですしね」
「そうなんです」
娘。
娘のことを考えると途端に胸が痛くなってくる。今でもまだよく思う。現実なのか? 俺の目の前で繰り広げられていることは果たして本当のことなのか?
「お名前は何というんですか?」女が言った。
「誰のですか?」キリオは言った。名前? もしかして娘の名前か?
「お嬢ちゃんのお名前ですよ」女が言う。
「ミクルです」
「ミクルちゃんね……」女はそう言うとちょっとした間を置いた。キリオは思った。今のこの質問に何か意味があったのか? 娘の名前をきくことによって、何かの問題が解決したとでもいうのだろうか? 女の意図がさっぱりわからないけれども、でも娘がいると言われて、もうすぐ幼稚園だと言われたら今更年齢のことは聞かなくていいわけだから、だから適当に覚えるつもりもないけれども名前くらいきいておこうという心理が働くのもわからないでもない。
「あの非常に申し上げにくいんですが」キリオは言った。「もうすぐ午後からの会議の時間なんです」
「午後からの会議の時間?」女が言う。
「はい」
キリオは答えた。午後から会議があるという話はまったくのウソではないが、しかし本当というわけでもなかった。実際にそのような会議があるのかないのかといえばあるのだが、ところがそれを理由に今この場から退席しなければならないほどかといわれると、そうではないのである。
つまり彼は、適当な理由をつけてこの場から離れるために午後からの会議というキーワードを出した。
もう何となく嫌になってきた。
抜け出すことが出来るのならばもう抜け出したい。初めから意図不明な彼女との会話だったし、ここへきて二人とも何のことについて話を進めていけばいいのかわからなくなっているように思う。もしかしたら本当に初めから彼女との会話に目的や意味などなかったのかもしれない。
いまだに彼女が誰なのかよくわからない。
「オフィスに戻らなければならないということですか?」女が言う。
「ええ、どうやらそうみたいなんです」キリオは言った。「非常に残念なんですけれども、その会議にはどうしても出なければならないことになっているんです。こうして時間を取ってもらっているのに申し訳ないんですが、これ以上はちょっと」
「あなたがそれでいいとおっしゃるならば、私も無理にとは言いませんが」
「いいですか?」
キリオはそう言うと席を立った。女が席を立ったキリオのことを見ている。このあと女はどうするつもりなのだろうか。ここでもう少し時間をつぶしてから、駅に向かってそこから電車に乗りどこかへ向かうのだろうか。スーツを着ていることから、この女も仕事で今この場所にやっていることが推測されるが、じゃあその仕事って一体何なのだ。コーヒー代を払わなければならないのか? もし俺が彼女のことをここへ呼び出したというのならば、コーヒー代を持つのは自分であるべきだと思うけれども、もし事実が逆だったら、こっちが代金を持つのはおかしいような気がする。でも考えてみて、別にそのような場合であったとしても、コーヒー代くらいこっちが持っても全然かまわないわけで、そうすると先に席を立ちあがってしまった手前、すっと伝票を持ってレジまで行こうか。きっとそうするのが一番いいような気がする。この動作に何か女の観点からみておかしなところがあれば、彼女が呼び止めてくるだろう。
キリオが伝票に手を伸ばしかけたときに女が言った。「それじゃあ私も出ます」
彼女もすっと席を立ち上がった。
会計を終えて店を出たときだった。
キリオは後ろから声をかけられた。「あの、もしかしてトヨナカキリオさんじゃありませんか?」
「はい?」
振り返ってみてみると、そこには見知らぬ女性の姿があった。スーツを着ていて、彼女は何かの仕事の最中なのだろうか。それとも仕事の一環として、今彼女は俺に声をかけてきているのだろうか。
「確かに私がトヨナカですが」キリオは答えた。
声をかけてきた女は、本当に見覚えのない女だったので、彼は適当な嘘をついてこの場を立ち去っても良かったのだが、もしかすると重要な件かもしれない。今この女性は、自分に対してとても大切な話を持ってきてくれているかもしれない。
キリオは言った。「あなたはどなたなんですか? どうして私の名前を?」
「これをお忘れじゃありませんかね?」
「それは」
女がキリオの目の前に小さな黒い物体を差し出してきた。それはよく見てみるとキリオのスマートフォンだった。キリオは思った。なぜそんなものが今女の手のひらに収まっているんだ。まったく理解できない。起きてしまったぞ、摩訶不思議な出来事が、この世界ではめったに起こってはいけないような出来事が今この瞬間に起こってしまったじゃないか!
キリオは言った。「どうしてあなたがそれを?」
女が答える。「あなたはついさっきまであそこの席に座っていらっしゃいましたよね?」
確かにそうだが。
「確かにそうですが?」キリオは言った。「ですがそれがどうしたというんです。それとあなたが今手のひらに私のスマートフォンの持っていることとどのような関係があるとおっしゃるんですかね」
ところがキリオはここまで言って思った。忘れたんだな、ああ俺は忘れたんだ。俺は確かにさっきまでこの店のとある席に座っていて、そこである程度の時間を過ごしていたんだ。それで今そこから立ち上がってこの場所にいるというわけなんだが、そのときに前の席にスマートフォンを忘れてきたんだ。なるほどな、だからか。俺はあの席にスマートフォンを忘れていたから、それでこの女性がそのことを発見して俺に知らせてくれたんだな。ということは、彼女が今俺のスマートフォンを持っているのはそこまでおかしなことじゃない。とても理解ができる、むしろおかしなところなどちっともない出来事が今目の前で繰り広げられているともいえる。
「わかっていますとも」キリオは言った。「忘れたんでしょう、それは私の忘れ物ってわけなんですね。いやはやありがとうございます。私はあなたにお礼を言わなければならないことでしょうね、ありがとうございます。ありがとうございますと言いますよ。だってあなたはわざわざこうして私の忘れ物を私のところまで届けてくださったんですからね」
「スマートフォンは大切なものですからね」女が言う。「私は自分のスマートフォンを大切でないと言い張る人をこれまでに一度も見たことがありませんよ。私の知っている人たちはみんな自分のスマートフォンのことを大切だと思っているんです。だから私はこれを見たときに、絶対にあなたに届けなければならないと思ったんです。あなたに届けてあげなければならないと。それこそが自分の使命なのだと」
「自分の使命だなどとまで思ってくださってありがとうございます」キリオは言った。「まさかそんな使命だなんてね。このスマートフォンという忘れ物を私に届けることが自分の使命だとまで言っていただけて私は大変光栄ですよ。幸福でさえありますよ。あなたは本当にすばらしい方だ。あなたのような人がこの世の中にいてくれて非常にありがたいですよ。では受け取りましょう。あなたが私の元まで届けてくれたそのスマートフォンを私は受け取ることにしましょうかね」
「ええ、ぜひそうしてください!」
女はそう言うと改めてキリオの前にスマートフォンを突き出してきた。キリオは女から差し出されたスマートフォンを受け取った。それはやはり彼が紛れもなく普段から使っている、愛用している、最近はこの機体以外使っていない、お気に入りの、あと一年くらいは頑張って使おうと思っているものに違いないらしかった。それにしてもまさかテーブルの上に置き忘れていたとは! テーブルの上に置き忘れるつもりなどちっともなかったのにどうしてそのような現象が起きてしまったのだというのだろう。置き忘れるつもりだったというのならばまだ話はわかるのに、今回はそんなつもり端からなかったのである。本当に初めから置き忘れるつもりでテーブルの上にこのスマートフォンを設置していたというのならば、とても納得した気持ちで店を後にすることが出来ただろうし、またこうして手元に帰ってくることがあっても、もっと尊大な気持ちでその出来事を受け止められたはずだろう。嫌いだ。俺は今このようなやりとりを他人と、誰か自分の知らない人と一緒に共有しなければならなくなってしまったという事実に嫌悪感を覚える。
「ところであなたは?」キリオは言った。
「何ですか?」
「すごく見覚えがあるように思いますが、人違いですかな?」
彼は、実は思っていたのであった。
今目の前にいる女性は、初めこそ見覚えのない、自分の知らない人であると決め込んでいたのだが、実際は案外そうでもないのかもしれないのではないのかな、と。
つまり、もしかしたらこの女性、どこかで見たような記憶があるな。
彼女は、もしかしたら自分の知っている、これまでに何か自分と関係のあった人物なのではないかな、と。
女は言った。「忘れてしまったのですか?」
「やっぱり」キリオは女の発言にぴんときて言った。「やっぱりあなたはどこかで私と出会ったことのある女性なんですね。これがまったくの初対面じゃないというわけだ。これまでに、どこだったかはわからないですけれども、どこかのタイミングでお会いしたことがあるのでしょう。残念ながら、お名前は覚えていませんが」
「とぼけているんですか?」女は言った。「さっき私たちはあそこのテーブルで向き合ってお話をしていたんですよ」
「何ですとな!」
キリオは驚いた。しかしこれは偽りのリアクションだった。正直に告白しよう。正直に今彼の気持ちをここに述べることにすると、彼はもうすでに気づいていたのであった。というか結構前から、彼女の姿を見たときくらいから、半分くらいはそうじゃないだろうかと思っていた。
何について?
もちろんこのスマートフォンを自分の元まで届けてくれた女性が、ついさっきまであのテーブル席で一緒に話し合っていた女性なのではないかということについてだ! ついさっきまで何の話をしていたのかは定かではないが、しかし何かしらの話をしていたことは間違いのない女性なのではないかと。
「一体どうしたんです?」女が言う。「人にこんな間違い方をされたのは初めてですよ。イタズラだとしても、こんなイタズラをされたのは初めてです」
「イタズラだなんてとんでもない」キリオは言った。「そんなつもりはありませんでした」「だったら何だというんですか」女が言う。「これがあなたのイタズラでないとすれば、あなたのその言動にはどのような意図が? 私にはさっぱりわかりません」
キリオは女の発言を聞いていて、だんだんと自分がイライラしてきているのを感じていた。いつまでたっても、いくら言葉を尽くしても、この女とは一向に会話のかみ合わなかった過去を思い出した。それは理不尽なイラつきかも知れなかった。だがキリオはこの自らのうちに起こっているイラつきの存在を認め、かつそれがそうして沸き起こってきているのかという理由の探し当てる行為に寛大であろうと思った。
このイラつきから逃れることが出来れば大したものだが、たとえそうでなかったとしても、このイラつきと向き合うことこそがこのイラつきの解消の一番の手助けになるはずだ。
考えろ、考えるんだトヨナカキリオ。
「とにかく私は礼を言わなければなりません」キリオは言った。「私のスマートフォンを届けてくださってありがとうございます。そして以上です。私が今あなたにお伝えしたいことはこれで完了です」
「オフィスに戻られるんですか?」女がたずねてくる。「もしこれからオフィスに戻られるとおっしゃるなら、私も一緒に行きましょう。私は駅に行きたいのです。駅に行くまでの道とあなたのオフィスへ行く道は、途中まで同じなのです。ですから途中まで一緒に連れだって歩きませんか」
そうやって私に取り入ろうとしたって何も出てこないぞ!
キリオは女の発言を黙って聞いていたが、心の中では激しくそう叫んでやりたい気分だった。
もうはっきりしている。
これはもうはっきりしていることだろう。この女、さっきから何か怪しくてわけのわからないところがあるなと思っていたけれども、これでやっとはっきりした。
この女は私の何かを狙っているのだ。
私の所持している、もしくは私が所有している何かしらの情報みたいなものを聞き出そうと必死なのだ。
だからこんなにも不必要に絡んでくる。
しかし具体的にそれが何なのかはわからない。つまりこの女が一体私の何を狙っているのかというところがいまいち釈然としない。
まずいんじゃないか? キリオは思った。確かに私は今喫茶店を出てもうそろそろオフィスに戻ろうと思っているが、だからといって安易にこの女と一緒に連れだって歩くことは危険な行為の一つなんじゃないだろうか。
だってこの女が何をたくらんでいるのかわからない。
もしかしたら私から何かを奪い取る以上にあくどいことを考えているのかもしれないじゃないか。
無事にオフィスに到着した。キリオが自分のデスクに座ってスマートフォンを操作していると、彼の後輩であるモリモトが声をかけてきた。「先輩どこへ行っていたんですか。探したんですよ。探しても見つからないからどこかへ行ったんだろうとは思っていたんですが、一体全体本当にどこへ行っていたというのですか。別にどこかへ行く際は必ず行先を告げてもらわないと困るというわけじゃないんですが、しかし今日は困りましたよ。今日はどこかへ行くときはまずどこへ行くかをこちらに告げておいて欲しかったですね。なにしろもうすぐ重要な会議が始まるんですから! ちょっと近くまで出かけるというのだったら構わないんです。ちょっとそこまで、オフィスから離れることには離れるけれども、でも呼ばれればすぐに戻ってこれる距離までしかいかない、たとえばあなたの行方不明度がこんな具合だったら、僕も何も言いません。僕だって何も言いませんとも! でも実際の先輩は、どれだけ僕が呼んでも返事をしてくれなかったのです。携帯にだって着信を入れたはずなのに、一向に出てくれない。どこで何をしていたんです? まったくどこで何をしていたらまったくそんな事態になるというんですかね。会議が始まるまでに戻ってきてくれたんだからもうこの件は不問にしますよ。さあ先輩そろそろ会議室へ行こうじゃありませんか」
「心配をかけてすまなかったな」キリオはそう言うと、席を立ちあがってスマートフォンを上着の内ポケットに入れて「君に心配をかけるつもりはなかったんだが、結果的にそうなってしまったようで本当にすまないと思っている。もちろん午後からの会議のことは頭の中に入っていた。決して忘れていたわけじゃないんだ。だからこうしてとりあえず時間に間に合うようには戻ってこれたんだよ。しかし計算外のこともあった。それはまさかこんなにも外出している時間が長くなるとは思ってもいなかったということだ。俺としても、本当はちょっとした用事を済ませるつもりのだけだったんだ。君のいうように、会社を抜け出して外へ行くなら、ちゃんとその行先を誰かに報告しておくべきだっただろうね。でも当初の考えでは、こんなに長い間オフィスを開けるつもりはなかった。ちょっと外に出て用事を済ませれば、あとはまた普通にオフィスに帰ってきて仕事の続きをするつもりだったんだ。君に余計な心配をかけてしまったようですまない。だがこうしてしっかりと一応時間内には戻ってこれたんだ。そんなに私の外出を責めなくたっていいだろう! もういい加減にしてくれ、うんざりなんだ」
「本当は何があったんです?」モリモトがたずねてくる。「何か普段の先輩じゃないような気がしますが? いつもの先輩とは何だか少し様子が違うように見受けられますね。何か大変なことが起きてしまったんじゃないでしょうね? それか大変な出来事に巻き込まれてしまったとか? 当初は簡単に片づけられる問題だと思っていたものに予想以上に足を引っ張られて、その問題の混乱以上にあなたの心が今こんがらがってしまっているんじゃないでしょうね。会議までの時間はもうほとんどないんですよ! そんなことで本当にこれからの会議に臨めるというのですか。何か栄養ドリンクみたいなものを試してみたらどうなんです? それで気分転換を図るんですよ。これだけ大勢の人たちがこのオフィスで一緒になって働いているんです、きっと休憩室の冷蔵庫の中には、誰でも飲んでいいようなドリンクの一本や二本は入っていますよ」
「栄養ドリンクの話はやめろ!」キリオは言った。そして上着の第一ボタンを閉めながら「俺はついさっきまでわけのわからない変な女にまとわりつかれていて気が立っているんだ」