表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

4


 4


「彼女がプロポーズに応じてくれないんです」会社の後輩であるモリモトタカアキが言った。「先日、僕は初めて彼女にプロポーズのようなものをしたんです。いやあれは確かにプロポーズでした! もはやあれは思い返してみて、プロポーズ以外の何ものでもないことでしょう。僕は彼女にプロポーズをしたんですよ。彼女とは大学生活の終わりの頃から付き合い始めて、もう交際も三年が経とうとしています。それでお互いに社会人として何とかやっていけるようになったし、そろそろ結婚を考え始めたんです。同棲もしているんですよ? もうすでに僕たちは交際一年目も経たないうちだったかな? 交際一年もたたないうちに同棲だけはしていたんです。結婚でしょう。普通に考えて、そうやって同棲生活もうまく行っているし、ほかのトラブルも特にないしで、だからもうそろそろ結婚かなと僕は思ったんです。春になって今年中には結婚式を挙げてお互い夫婦になりましょうと。でも彼女ははっきりとうんとは言ってくれないんです。うれしそうな顔はしてくれるんですよ? 僕が結婚のことを口にすると、彼女ははずかしがっているのかなんなのか、ちょっと目を伏せてうれしそうにはしてくれるんです。しかし僕がそこで念を押して、じゃあ結婚してくれるね? というと、うんとは言わないんです。首を縦に振らないんです。え、じゃあ結婚してくれないの? と言うと僕の目を見つめてきます。何かを察しろとでも言いたげな表情なんです。でも僕には彼女が何を言いたがっているのか全然わかりません。わからないし、だからといって調べることもできないんです。もしかすると彼女の側に何か結婚に踏み切れない重大な事情でもあるのかもしれませんが、ところが今までの彼女との交際期間中で、これといったものはないように思われるんです。本当にこれといったものはないように思われるんですよ! 彼女は何か僕に隠し事をしているんでしょうか。それとも彼女は結婚というものに対してとんでもなく悪いイメージを抱いてしまっているんでしょうか。どう思います? ねえ、トヨナカさんは僕と彼女のことをどのように思います?」

 キリオはある日の後輩モリモトとの飲みの席で一方的にまくし立てられて急に何と思った。

 何。

何なのこいつは。

 さっきから彼女との結婚がどうとかこうとかずっと話しているけれども、俺はそのお前の話にそれほど興味ない。今日は仕事のことについて相談があるから俺をこの場に誘ったんじゃないのか。いや確かに俺はお前の先輩でいろいろと仕事の面倒とかはみてやっているが、だからといってお前のプライベートまで知りたいと思わないし、ましてやお前の彼女がどんな奴でも俺は構わない。

 お前は彼女と結婚したいと思っている。でも彼女はそれにすぐにうんとは返事をしてくれない。

 それでいいじゃないか。何の問題があるというんだ。

 それよりむしろお前の悪いところは、自分の思い通りに行かないことをすぐに他人に相談して、なぜそうなったのかということを自分なりに一つも考えないというところなんじゃないのか。わからないじゃないだろう、そうやって彼女が何かものを言いたげな顔をしているんだったら、彼女の口から直接それをききだせないにしても、自分なりにああでもないこうでもないとちょっとは考えてみたらどうなんだ。

 キリオは言った。「彼女の両親にはもう会っているの?」

「はい、もうあいさつは済ませています」モリモトは言った。「彼女のご両親にもすごくよくしてもらっていて、もちろん彼らは僕たちが同棲をしているということも知っていますし、僕たちが将来の結婚を意識してお付き合いをしているということもわかってもらっています。彼女の父親はどこかの大学の教授をしていて、今までに本を何冊も出版されているとても偉い方なんですよ。僕は本なんてちっとも読まないので、彼女の父親が具体的に何をしている人なのかということはちょっとわからないんですけれども、この前遊びに行かせてもらったときには、彼らはものすごいお屋敷みたいなところに住んでいましたし、また彼女の母親もものすごく上品で静かなたたずまいで、きっと聡明な方なんだろうなという印象を受けました。お屋敷の庭で一緒に餅つきをしましたね」

「正月に行ったのか?」

「いや普通に夏でしたけど」

 夏なのかよ。

 じゃあなんでお前の彼女の両親たちはお前たちと一緒に庭で餅つきをすることにしたんだよ。正月じゃないならどうしてなんだ。彼女のご両親と一緒に餅つきをしたという情報を入れてくるなら、もっとそれに関連したほかの情報も盛り込んでくれないと!

 キリオは言った。「じゃあ彼女はきっとそのご両親に大切に育てられたんだろうね。お前のところの親はどうなんだ?」

「前歯がないんです」モリモトは語り始めた。「彼女のご両親たちと比べると、うちの親なんて最低ですよ。もう本当に最低の中の最低といった感じで、ほとんど家の外にも出したくない感じです。そもそも両親じゃありませんしね! 両親じゃなくて、うちのところはもう母親一人だけなんですよ。父親ももちろんいたんですが、そういえばいつの間にか彼はいなくなってしまっていて、気が付いたら僕は母親に育てられていたんです。そしてそんな母親も今では体の節々に痛みを感じるようになって、おまけに前歯が一本もない状態になってしまっているんです。とてもじゃないけれども彼女にそんな母親のことは紹介できませんよ。前歯が一本もない母親のことを彼女に紹介したらどうなるか! もしかしたら普通に近所の歯科医院で何かしらの治療の受けることをすすめられるだけかもしれませんが、内心ではどんなことを思われるかわかりませんよ。彼女の胸の内に、こんなみすぼらしい身内のいる人と将来一緒になんかなりたくない、という思いが芽生えてきたって何にもおかしくないんですから」

 じゃあ母親の前歯はお前が整えてやってから彼女に紹介すればいいだろ、とキリオは思った。

 本当に何だこいつ。

 こいつ。

 何も悲観することじゃないだろ。

 だってお前も一応はこうしてまかりなりにも社会人として自立している身だろう。そりゃお前がまだ学生の身分ならお金もないだろうし、母親へ優しくすることの抵抗みたいなものもあるだろうしで、なかなか彼女の歯の治療を考えてやる余裕はなかったかもしれないが、今はそうじゃないだろう。母親に歯の治療をプレゼントしてやることなどいくらでもできるはずだ。

 仮にも彼女に今の母親を紹介して、もしかしたら近所の歯科医院の受診をすすめられるかもしれないと恐怖する想像力があるなら、まずはそれを自分で率先して実行してみたらどうなんだ。

 それにいまどき片親しかいないのなんて全然問題にならない。

むしろその条件なら俺だってそうだよ。

「あと僕がずっと家で使っていたお気に入りのゲーム機が壊れたんです」モリモトは言った。「本当にあれが壊れてしまったということが、僕には今も信じられないんです。ずっと使い続けていたものだったから、いつかは壊れるかもしれないと思うのが普通のことなのかもしれません。でも僕はそんなことちっとも思わなかった。思わないようにしていたのかもしれませんが、楽しい時間があったんです。ゲームをしていると、このゲーム機の結末を想像することなんて僕にはできなかったんです。もちろん細心の注意は払っていました。潜在意識のなかでは、やはりずっと使い続けていたゲーム機だったから、どこかのタイミングでがたがくるかもしれないと思っていたんでしょうね。そりゃもう僕はそのゲーム機を大切に扱いましたとも。とてもとても大切に扱ったんです。ですが先日ついにいってしまったんですよ。そのゲーム機は、ついに僕のスイッチオンの呼びかけにうんともすんとも答えなくなってしまったんです。これでまた僕に新しい問題ができたというわけです」

「急に何の話をしているんだ?」

 キリオは思わず言った。

 いや言ってしまった。

 急に何の話をし出しているんだ、こいつは、ということは、彼の話を聞き出した当初からずっと感じていたことだったが、正直にいうと、しかしそのことはあえて彼には質問としてぶつけまいと思っていた。面倒くさそうだからである。別に人間ならば自分の話したいことを話したいタイミングで自由に話してもいいじゃないか。

 結婚の話をしていて、それが別にひと段落もついていないにもかかわらず、さっさと次の話題に突入する。

 別にそれでもかまわないじゃないか。それは個人の自由だし、また我々の今いる場所も居酒屋といって、話題を自由に他人にふるまっていいところなのである。

 だがキリオは言ってしまった。「なんで急にゲーム機の話を?」

「それはこのことも僕にとって重大な問題の一つだからです」モリモトは答えた。「僕は本当に楽しんでいたんです。子供の頃からずっとあのゲーム機にはお世話になっていて、つらい時も悲しい時も僕はそのゲーム機とつねに一緒でした。あのゲーム機を母親に買ってもらって以来、僕は片時もそれと離れたことがなかったほどなんです。まあ厳密には僕が学校に行っている間やバイトに行っている間などは、お互い離れ離れの場所にいたわけですが、しかし僕は本当にあのゲーム機をずっと自分の部屋の中に置いていたし、またあのゲーム機を自分の部屋以外の場所に置こうなどと考えたことはこれまでに一度もなかったんです」

「ちなみにゲーム機って何のゲーム機?」

「スーパーファミコンですよ」

「スーパーファミコン!」キリオは驚きながらも言った。「そりゃなかなかに古いゲーム機だね。君の世代だと、せいぜいプレイステーションくらいかと思っていたよ。普通に考えたらプレイステーション2くらいかなと思っていたしね」

「いえスーパーファミコンですよ」モリモトは言った。「もちろんプレイステーションも、プレイステーション2も友達の家などでプレイしたことはありますがね。しかし僕がもっとも愛着を持っていたのは、僕が生まれたときからもうすで家にあったと思われる、任天堂のスーパーファミコンなんですよ」

「さぞかし数々の思い出があることなんだろうな」キリオは言った。「それだけほかのゲーム機と比べてもスーパーファミコンが好きだったということは、きっとそれと君とのあいだに何か忘れられない出来事があったんだろうね。俺にはそれが何なのかはわからないけれども、でも本当に忘れたくないような、今の君をもしかすると象徴するかもしれないような多くの出来事がそのスーパーファミコンによって培われたことだろう。そのような大切なものが壊れてしまったという事実に直面してしまった君を僕は悲しく思うよ。君の悲しくて暗い気持ちが今にも自分に入り込んできそうだ」

「そう言ってもらえるとありがたいです」しかし彼はすぐに厳しい口調になって「あの忌々しい彼女の足め」そう言うと彼は続けてかなり顔をしかめて、あきらかに何かしらに対して怒っているような表情になって「僕のゲーム機を壊した犯人は僕の彼女なんです。彼女が僕が仕事で部屋にいない間にゲーム機を思い切り踏んづけて、いやゲーム機につまずいて思い切りその上に自分の全体重を乗っけてしまったのです。そのせいでゲーム機の重要だと思われる部分はすべて破壊されてしまいました。僕の愛しのスーパーファミコンは、もはや僕の手では修理さえ不可能な領域に達してしまったのです。さらに彼女はそのことを僕が責めると、このように言い返してくるんです。確かに間違えて踏んづけて壊してしまったのは悪かったけれども、でもまた新しいゲーム機を買えばそれで済むことなんじゃないの? そのとき僕の堪忍袋の緒は完全に切れましたね! まるで彼女は他人事なんですから」

 キリオはモリモトの言うこともごもっともだと思った。

 どうやら彼がかなりスーパーファミコンという何世代も前のゲーム機のことを大切に思っていることは本当らしい。最初は彼の話もバカバカしいと思ってきいていたが、彼の真剣な顔つきを見ればわかるような気がする。それは今でも新鮮な怒りに満ちていて、とてもじゃないけれども今回のこのゲーム機の話が、彼の中で一時の、ただの思いつきのジョークのような話でないことがただちに想像させられる。

 大切にしていたゲーム機が彼女によって破壊されてしまったのだ。

 そりゃ彼が怒り狂うのも当然だろう。

 たとえゲーム機を壊してしまったことについてどんなもっともらしい意見が彼女にあったとしても、それをきき入れる正義感など所詮はそのときの個人の気分程度のものでしかないということを彼は今回のことでよく理解できたはずだ。

 無理なときは無理。

 人間ある特定の状況に置かれれば、逃れることのできない本能のようなものによって皆一律に行動してしまうものなのである。

「なかなか君にとってはつらいことが連続で起きたらしいね」キリオは当たり障りのない言葉を選んで言った。神経の高ぶっている人間に対してどのような言葉がその人の逆鱗に触れるようになっているかわからないからである。「でも彼女も謝っているんだし許してあげるというのは考えないのかな?」

「彼女浮気もしているんです」

「何だって!」

 キリオは驚愕した。

 出てくる。これはもう出てくる出てくる。モリモトにとって辛い状況というか、アンラッキーな出来事がさっきから彼の口をおもしろいようについて出てきまくっているじゃないか。プロポーズをなかなか受け入れてもらえないという話から、いよいよ彼女が浮気をしているなどという話にまで到達してしまった。

 最初に述べたように、別に彼のプライベートな話をききたいわけではないけれども、しかし彼がどうしてもプライベートな話をしたいというのであれば、個人的にはそれをきいてやらないわけではない。

 キリオは言った。「何かそのような証拠でも握ってしまったのか?」

「握ってしまったも何もね」モリモトは言った。「浮気現場に遭遇してしまったというわけなんですよ」

「浮気現場とは?」キリオは興味深々でたずねた。

「それを僕に説明しろって言うんですか」モリモトは言った。「申し訳ないですけれどもそれだけはできませんよ。それだけはさすがの僕も口を開くことはできませんね。ですが彼女が僕以外の男と付き合っているというのは、これはもうれっきとした事実なんです。曲げようのない真実みたいなものなんですよ。ある日仕事を切り上げて早目に家に帰ったら、部屋の中から彼女の喘ぎ声が聞こえてきたんです」

「それはすごい話だね」

 キリオはそう言うと、目の前に並べられていた料理に手を付け始めた。

 やっぱり何というか。

 あまり彼の話は入ってこないのであった。モリモトのプロポーズの話なんかそもそもどうでもいいし、ゲーム機の話などはもっとどうでもいい話だったが、それは逆にどうでもいい話過ぎてちょっと興味がわいた。さすがに彼女の浮気ということになると、純粋に興味をそそられないでもなかったけれども、実際にその話を紐解いていこうとするとただただ現実的な話に終始していきそうで興味が保てないだろうと思った。

 なぜ人は他人に自分のことを話したがるのだろうか。

 それは本当に何か自分の問題を解決しようとしてそうしているのだろうか。

 今何だかすごく人生で無駄な時間を過ごしているような気がする。もっと自分にはほかにやるべきことがあって、それに集中するか、、もしくは集中していくために何かに取り組むべきなのではないだろうかと思ってしまう。

「それで結局お前は何が言いたいんだ?」キリオは言った。「さっきから自分の不幸な話ばかりをしているように思うが、何が問題なんだ? お前はお前の中で一体何が一番決定的に改善しないといけないポイントだとにらんでいるのだろう」

「それはやはり近頃の僕に降りかかっている一連の不幸についてですよ」

「一連の不幸について?」

 キリオは思わずモリモトに対してオウム返しした。確かに彼にたった今一連の不幸についてとこう言われたのだが、しかし彼がはっきりと何を言っているのかはキリオには釈然としなかった

 一連の不幸ってどういうことなんだ?

 モリモト、お前疲れているのか?

 キリオは言った。「じゃあお前の今頭を悩ませている問題というのは、総じてその一連の不幸なるものから生じてきたものだというのか。誰かが悪いとか自分が悪いとかそういう話ではなくて、すべては運が悪いだけだと?」

「そのような見方もあるのではないかということです」モリモトは言った。「確かに僕も最初はいちいちの問題について、つまり自分に降りかかってくる数々の問題に対して個別に対応していくように心がけていたのです。なぜならある問題とある問題とのあいだにどのような関連性があるのかなんて僕にはわからないことだと思っていましたからね。しかし問題はそれらの増えるスピードと、それからある問題に対する答えを自分の中でやっと導き出しても、だからといってやはり全体から見た問題の数はまったく減っていっていないところにあると気づいたんです」

「ものすごく話が抽象的になっていてわかりにくいな」キリオは言った。「つまりお前はさっきから何が言いたいんだ? 何の話を俺にきいてほしいと思っているんだろう。それがまとまっていないというのなら、そろそろお前も目の前に運ばれてきている料理に手を付けた方がいい」

 キリオはモリモトにもさっさと料理を食べるようにすすめた。

 飲食店にやってきているのに、自分たちのオーダーした料理にまったく手を付けない状態というのはどういうことなのだろうか。とにかく料理を消費していかなければ、それだけ自分たちがその店から出て行くのが遅くなるのは目に見えている。

 しかしモリモトは言った。「要するに僕は特別に不運な奴だってことですよ!」そして彼はそう言うと椅子の背もたれに体重を預けて再びほぼ垂直に座り直し「いいですか先輩、僕は本当にとんでもなく不幸な奴になってしまったんですよ。自分でも信じられないくらいに、自分でも信じられないくらいにどんなことをしてもうまく行かないスーパーアンラッキーマンになってしまったんです」

 スーパーアンラッキーマン?

 キリオはそうしてモリモトの言ったキーワードを頭の中で反芻すると、何それと思いながらも目の前の料理に箸を伸ばした。

 モリモトは残念ながら自分のお話に夢中だ。

 最悪俺一人でこのテーブルの料理を平らげなければならない羽目になるか? キリオはもうそろそろモリモトとの話はこれくらいにしておいて、家に帰ってゆっくりとしたいものだという欲求に素直になりたいと思っていた。

キリオは言った。「昔そういえばジャンプの漫画でラッキーマンってあったよな。ヒーローとしての実力はないんだけど、とにかく運が良くて相手を倒しまくるという漫画。俺結構あの漫画好きだったよ。単純だけど結構おもしろい展開もあったんだ。じゃお前は今そのヒーローの逆の状態にあるってわけなのか?」

「その漫画のことは知りませんけど」モリモトは言った。「とにかくそういうことなんです。今の僕は信じられないくらいに、本当にどんなことに対しても自分の思っている通りには行かない人間になってしまったんです。もう何もかもうまくいかなさすぎて逆に引いてしまっているくらいなんです」

「そうか、引いてしまっているのか」

 キリオはモリモトにそう言うと少し黙った。

 そして改めて自分の今の気持ちと言うものを考えてみる。

 やっぱり帰りたい。

 もう今日は彼との会話を切り上げて帰りたい。

 モリモト――こいつは今日本当に何の話をしようというのだろう。 

 俺にどういう話をするつもりで今日ここへやってきたのだろう。

 不幸についてだという。近頃自分に襲い掛かってくる数々の不幸について俺に話しておきたいという。だがそれが?

 それが彼にとってどういう意味を持つ行為なのかいまいちわからない。今日のモリモトは放っておくと、俺の時間というものをこれでもかというほどに食ってくる。俺の時間を無邪気に食いつぶそうとしてくるんだ。

 スーパーアンラッキーマンとかこいつマジで言っているのかな? そんなわけのわからないキーワード、いつか冷静になって振り返ってみて、それで信じられないくらいに落ち込むことにならないのかな?

 キリオは言った。「お前彼女が浮気しているのを知っていたのに彼女に結婚を申し込んだの?」

 するとモリモトは何度もうなずいて「僕にはもう彼女しかしないと思ったんです。僕にはもう彼女しかいないので、だから彼女が浮気をしようが何をしようが、僕と結婚してくれるというのであれば、それでいいと思ったんです。でもそれもうまくいかなくて最近の僕は途方に暮れているのです。そしてそうこうしているうちに僕の身の回りにはさまざまな不幸なことが訪れて、僕はもう何が何だかわけがわからなくなってしまっているんですよ」

「冷静になったらどうなんだ」キリオは言った。「まず何でも自分の頭で考えないことには道は開けんぞ。自分の頭で考えたことじゃないと、最終的に人というものは納得できないようになっているんだ。もしかしたらお前は俺が今何を言っているのか全然理解できないかもしれないが、申し訳ないが俺は他人に自分の問題や過去を打ち明けても、それで何かがどうにかなるとはちっとも思えん。とにかく冷静になって、一つ一つの問題に向き合っていくしかないんだ。俺はお前の先輩だから、お前の話すことにはできるだけ耳を傾けてやりたいと思っているが、だからといってお前に手を貸してやりたいなどとは思っていない。お前は俺の後輩だからこそ、自力で何とかすべきなんだ」

「先輩は強い人だからですよ」

 強い人? 

 モリモトは続けて「もちろん僕だって自分一人の力でどうにかできるのならばそうしていましたよ。今頃何か行動を起こして、自分の運命を変えようと必死になっていたかもしれません。でもそれは無理なことなんですよ。無理というか、途方もないことなんです。どうすればいいのかわからない。とにかく何をすべきなのかわからないから、何も考えつかない状態なんです」

「何か仕事で困ったことはないのか?」

「仕事で困ったこと?」モリモトはそう言うとふと笑ってみせて「もちろん既存の顧客たちにはことごとく契約の更新を断られましたよ。うちの手数料が高いだとか、そもそもお前みたいな奴は信じられないとかいろいろなことを言われてね。でも僕はわかっているんです。これもすべて僕が不運な奴になってしまったからですよ。不運な奴にはまともな人なんて誰一人ついてきてはくれませんからね。どうか先輩だけはそうではないと信じたいですがね」

 キリオはモリモトの顔を見た。

 緑色だった。

 もう彼の話の何が本当でどこまでが嘘なのかよくわからなくなっていた。そもそも初めからそんな境界線など彼との会話にはなかったのかもしれない。彼とはたまに今日のように仕事終わりに飲むことがあったが、こうして二人きりというのはあまりないことだったし、また彼の方から誘ってくるということもあまりなかった。最近彼がオフィスでも落ち込んでいて仕事の効率の悪くなっていそうなことは何となく感じてはいたが、いよいよ今日告白されてしまった。やはり仕事もうまくいっていないらしい。それどころか既存の契約まで切られてしまって? 自分の成績が今期どこで落ち着くことになるのかこの若者はしっかりと理解することができるのだろうか?

 きっとできないことだろう。

 今彼の頭の中は、仕事のことを考える余裕などほとんどないらしい。

 キリオは言った。「ところでお前はさっきから今自分が何をしているのかわかっているのか?」

「どういうことです?」モリモトが言う。

 キリオは彼の返答にそりゃそうだろうな、と予測していた体を装いながらも、しかしどこかにイラつきのような感情を確かに覚えて「いいか、お前は今最近の自分の身に降りかかってきている不幸について話しているらしいが、本当にそれだけなんだ。普通人に自分の何かしらの問題を打ち明けるとき、それはそれを解決したいからそうするのだと思う。つまり相手に何かしらの答えの模索を頼んでいるというわけだ。もちろんみんながみんなそうじゃないとは思うが、ところがお前は本当に自分の不幸を話すだけ。いや不幸というか、今悩んでいることを並べるだけなんだ」

「それのどこがいけないんですか?」モリモトが突っかけてくる。

 キリオはさらに腹を立てて「俺はどうしたらいいんだ」さらに続けて「こんなことって俺が言うべきじゃないのかもしれないが、俺はお前の話を聞いてどうすればいいんだろう。ただ話を聞いてやればそれでお前は満足するのか。だったら何もものを言わない人形にでも話しかければいいだろ。俺にも問題はあるんだ。お前が数々の問題に悩んでいるというように、俺にだって人にすんなりとは言えないような問題を抱えていたりするんだよ。俺だけじゃないさ。きっと今この場にいるほかの人たちだって、それぞれの問題を抱えていたりするんだろう。だからお前はそういった意味ではとても甘い人間なんだ。自分のストレスにとても甘い人間だといえるに違いない。自分の悩みをぼろぼろと他人に打ち明けることがどれほど相手を混乱させる行為か、はっきり言おう――他人にとって迷惑な行為なのかということをわかっていないんだ。もっと自覚すべきだよ。他人と共存しているこの社会で生きている自分と言うものをもっと認識すべきなんだ」

「だけど僕に数々の不幸が襲い掛かってきているというのは事実じゃないですか」モリモトは言った「それに人形とだけ喋っていればいいだろうと先輩はおっしゃりますが、この年でおもちゃ売り場に行ってかわいらしい僕だけの人形をマジで買おうとしていたら絶対にそこの店員から変な目で見られますよ」

 フィギュアとかあるだろ!

 キリオは心の中で叫んだ。

 フィギュアとかあるじゃないか、フィギュアとかあるだろ。そんな子供がガチで遊ぶために持っているようなかわいらしい動物などのぬいぐるみみたいなものを買おうとしなくても、大人でも今漫画のキャラクターのフィギュアとか趣味で集めている人たちっているじゃん。そういうやつを好んで買えばいいじゃん。

 苦しいんだよ。

 お前にいろいろとわけのわからない話ばかりされて、それをずっと黙って聞いていなきゃいけない、いや聞いてやらなきゃいけないような立場にいる自分というものが俺は今どうしても苦しくて苦しくて仕方ないんだよ。だからさっさとお前も目の前の料理を片付けるために何らかの努力を見せろよ。とりあえずから揚げでも何でもいいから一つつまんで食べろよ。

「反省することにするよ」キリオは言った。「今俺は密かに冷静になってみて思ったんだ、反省するよ。後輩であるお前がこんなにも自分の悩みをさらけ出してくれているというのに、俺ときたらそれをろくに聞こうともせずに勝手に腹を立てているんだからな。お前だって本当はそろそろ自分のことを相談する相手を間違えてしまったんじゃないか、と考えていたところなんじゃないのか? もし俺だったらそうだよ。もし俺が逆に今のお前の立場だったら、先輩する相談を間違えたと自分の行動を後悔していることだろうな。すまんな、俺もまだそんなにできた人間じゃないんだ」

「全然大丈夫ですよ」モリモトは言った。「僕の方こそ先輩には悪いと思っているんです。こんなにずけずけと個人的な悩みを話してしまってね。でも先輩には隠しておけなかったんです。もちろん何も喋らずに黙って毎日の仕事に勤しむこともできたでしょう。しかしそれだといつか近いうちに限界の来ることは明白でした。仕事がろくに手に着かないで何の成果も出せていないと自分でわかっていたからです。だから自分に今ある問題がわかったのなら、それを一人で抱え込むことはせずに、まずは先輩に相談してみることが大切だと思ったのです。先輩もびっくりしたことでしょう。まさか僕から飲みに誘われることになるなんて」

 キリオはモリモトの話をきいていていい雰囲気だと思った。何となくこの場にいい理想の先輩と後輩の気配みたいなもの、そんなものがあるとすればだが、が漂っているのではないかとさえ思った。

 キリオは言った。「それでお前本当に今の彼女と結婚するつもりなのか?」

 キリオは単刀直入に、そしてもう一度改めてモリモトに対して彼の結婚の所存を確かめてみることにした。

 彼としてはやはりそこだろうと思ったのである。そこだろうといってつまり、モリモトに今渦巻いている諸問題は、結局は彼の今付き合っている彼女との問題がうまく行っていないから、スムーズに結婚の段取りに入って行かないからこそのものなのではないかと思ったのである(もし彼女がモリモトのプロポーズに素直にうんと言っていれば、たとえ大切にしていたゲーム機を破壊されようとそこまで怒っただろうか? または母親の前歯の治療だって、彼女に紹介するときが現実とれば、すぐに考え着くことじゃないか)。だからそこの問題さえ解決すれば、あとの問題もほぼ滞りなくどこかへ消えて行ってしまうのではないだろうか。モリモトが自らのことを嘆き、そしてまるで自ら不幸を呼び込むような行動のとることがこれでなくなるのではないだろうか。

 キリオはモリモトの返答を待った。

 モリモトは言った。「やっぱり一度でも浮気をした人と真剣に交際し続けていくことは不可能だと思います」

「モリモト」キリオは思わず言った。「じゃあ彼女との結婚はあきらめるのか」

「簡単なことではないでしょう」モリモトは言った。「彼女とはこれまでできる限り真剣に付き合ってきたんですからね。彼女とのいい思い出だって大量にあるんです。ですから何か一つのことが起きて、それで僕と彼女のすべてが台無しになってしまうということは避けたかった。いやそんなことは今でも不可能かもしれません。ですが物事にはどんなものにでも終わりがあります。彼女とはもう終わったのです。僕は、今回のことは、彼女ばかりが悪いとは思いませんが」

 何か今回の結末に、それから彼女の浮気をしたという行動にどこか含みを持たせるようなモリモトの発言だった。

 キリオは少し黙り込んでから言った。「彼女ももしかすると後悔しているんじゃないのかな」そして続けて「俺はお前たちの詳しいことはしらないが、きっと彼女もお前との結婚はこれまでのどこかのタイミングで考えていたことだろう。だって同棲していたくらいなんだからな。でも彼女の方で何かあったんだ。お前の話が本当だとすると、さぞかし辛いことだろうな。俺だったらそんな彼女にあえてプロポーズなんて絶対に出来ないよ。いや俺も何が言いたいのかわからないが」

「わかりますよ」モリモトは言った。「先輩もまさか僕からこんな話をされるとは思ってもいなかったんでしょう。僕もここへくる直前までは、せいぜい打ち明け話は仕事のことなどにとどめておいて、やはり彼女との問題は自分でもう少し考えてみようと思っていたのです。ですが喋りはじめると自分でも歯止めがきかなくてね。一番初めに彼女とのことを話題にしてしまったほどですよ。不思議なものです」

「お前の彼女はお前にもうすでに自分の浮気がばれてしまっているということを知っているのかな?」キリオは言った。「お前の彼女も不思議だよな」

「もうその話はやめにしてください!」モリモトが言った。「もう彼女とは終わったんです。たった今終わったということにしたんですからもういいでしょう」

「何もよくなんかないよ」キリオは言った。「だって彼女はもしかしたらまだお前との結婚を考えているかもしれないじゃないか。まだ同じ部屋で同棲を続けている状態なんだろ? お前が自分の浮気をもうすでに知っているということになれば、彼女だってすぐに部屋から出て行こうとするかもしれないけれども、まだ知らないというのであれば、彼女はこのまま部屋を出て行かないかもしれない。なんたってお前のプロポーズに、はっきりと返事はしていないんだからな。うんとは言っていないかもしれないけれども、だからといって断っているわけでもない」

「どういうつもりなんですか」モリモトは言った。「裏切られた気分だ。これはまるで裏切られた気分ですよ。もう終わったといっていることを、ここまで無神経に掘り返されるとはね。いくら先輩でも許せませんよ」

「お前の彼女の本心がうかがえそうだな」

 キリオとモリモトがカウンターのテーブルについて話しながら食事をしていると、急に間にすっと割り込んでくる人の手のようなものがった。それは確かに人の手だった。もうお店側に注文したものは一通り運ばれてきており、これ以上店の従業員が何か彼らのもとに料理や飲み物などを持ってくる予定はなかった。どういうことだろう。割り込まれてきた手をじっと見ていると、その手の主が彼らの肩越しに話しかけてきた。

「ここだけの話ですが、この店はもうすぐ大変危険なことになります」

「何なんですか?」モリモトがすぐに手の主に振り向いて言った。「急にあなた何なんですか? 本当に何だというのです? 真剣な話をしている最中だったのに、そんな風に我々の邪魔をしていいと思っているんですか。この店が大変なことになるってどういうことなんですか。全然見当もつきませんよ。あなた本当にそんなことをしていいと思っているんですか」

 キリオもモリモトとまったく同じ気持ちだった(モリモトの発言が彼の心の内をそっくりそのまま反映したものであるのならば)。

 確かに失礼だろう。

 いくらみんながごちゃごちゃと飲み食いを自由にしている居酒屋だからといって、他人のグループに勝手に割り込んで入って行っていいわけがない。いや女の子たちをナンパをするときなどはあるかもしれない。今我々はナンパされている最中なのか? そんなわけないだろう、見てわからないのか。我々は今会社の先輩と後輩として人生の様々な悩みについて真剣に語り合っているときなのだ。

 あたりを見渡してみて、特に変わったところはないように思える。

 相変わらず店内は人でごった返している。今考えてみて、よくこんな人が多くてうるさいところにやってきたものだ。相談事にはついぞ向いていない場所じゃないか。俺は普段からあんまりお酒を飲むタイプではないから、雰囲気のいいバーとかあんまりしらないけれども、バーとかに行きたかった。今更そんなこと言っても遅いと思うが、重要な相談事とかってそういう静かなバーみたいなところでするもんなんじゃないのか。バーは女の人を口説くところなのかな? じゃあやっぱりこういう大衆的な居酒屋でいいのか。まあこういう居酒屋でも、周りの人たちを気にしなければ、そして周りの人たちが異常に騒いでさえいなければ、盛り上がっていなければ、相談事の一つや二つくらいは普通に話せるものである。

 ところでこの我々のあいだににゅっと手を入れてきた男は誰なのだ。

 キリオとモリモトのあいだに手を入れてきた人物の性別は男だった。

 手の男は言った。「繰り返しになりますが」彼はやっとキリオとモリモトのあいだから自分の手を引いて「私のお話を聞いてもらえますかな?」

「聞かないわけにはいかないでしょうね」モリモトは言った。「もう我々の会話は始まってしまっているとも言えます。もうすでにスタートしてしまっているといってもおかしくはないんですよ。あなたの手がね。あなたの手が我々のあいだに急に入ってきたもんだから、それで、その時点で我々の会話は強制的にスタートしてしまったとみることが可能なんですよ。今のこの段階からあなたの存在をまるまる無視することなんて我々には到底できるとは思えませんからね」

「ではまずこの店から出ましょう」

「一体何があったというんです?」キリオは言った。「とりあえず店を出ましょうなんておかしいじゃないですか。見てくださいよこの我々の目の前に広がっているお皿の状態を。ほとんど手つかずに残っているといっても過言ではないでしょう。これを放り出してでも外に出るべきなんですかな? 我々は、あなたの言うことに従って、この数々の品物たちを無駄にすべきなんですか」

「申し訳ないですがもう時間がないのです、ついてきてください!」

 手の男はそう言うと、キリオたちの腕をつかんで無理やり座席から立たせようとした。その光景は、大の男たちの突発的な、酒場で起こりうるような、ちょっとしたいざこざの末の掴み合いを思い起こさせた。もしかすると彼らの周りにいた人たちは、それか偶然にその場面を目撃することになった周りの客たちは、本当にそのような大人の男たちの掴み合い、ずばりケンカのようなものが始まったと思ったかもしれない。現にキリオたちが手の男にうながされるままに席を立ったとき、確かに店内の空気が一瞬固まったようになった(ざわつきがとまったような気がしたのだ)。だがそれはすぐさま元に戻った。今ではその現象がなぜ起こったのか検証するすべはない。

 勘定を大急ぎで済ませて店の外に出ると、手の男はやっとキリオたちと適当な距離を持って改めて彼らの前に姿を現した。

 全然知らない奴だった。

 どこの誰ともまったく想像がつかないといっていい。こんな本物の見知らぬ奴に腕をつかまれて店の外に引っ張り出される筋合いはない。これはよっぽどの理由が必要だ、これはちゃんとした、しっかりとした、その話を聞けば誰もがすぐさま納得するようなれっきとした、堂々とした理由が必要だぞ――キリオは一瞬にしてそう思った。

 手の男は言った。「乱暴な真似をして申し訳ございませんでしたね」

「理由をお聞かせ願えますかな」モリモトは言った。「すべてはあなたの思うとおりにいったはずでしょう。でも我々の納得はこれからなんです。あなたの発言によって、やっと我々はここにたどり着けるといってもいい。本当はまだ店の中でいろいろな話をしているはずだったんですからね。心の中にすくっている不本意であるという気持ちを早く取り除いてもらいたいもんだ」

「あの店に入ってきた女を見ましたか」手の男が言った。「彼女が店の中に入ってきたからにはもう終わりなんです。ほとんどの人は彼女のことを知らないんです。ですが彼女のことを知っている人間ならば、彼女があの店に現れた瞬間に、我先にと店の外に出たい気持ちに駆られることでしょう。あの女は最低な奴なんです。他人のことを何とも思っていない悪魔のような女なんです。感謝してほしいくらいですよ。僕があなたたちにこうして手を差し伸べなければ、今頃あなたたちはあの店の中でどうなっていたか。考えただけでも身震いしてしまいますね。それでは気を付けてお帰り下さい。またどこかで会うことがあるかもしれませんね」

「ちょっと待て」モリモトは言った。「話の筋が全然わからんぞ。女だって? そんな奴が店の中に入ってきたことなどちっとも気づかなかった。そもそもその女って誰なんだ。どのように危険な人物だというのかな」

 ところが手の男はモリモトの質問にはちっとも答えようとしないのだった。妙にどっしりと、かつ何だったら、お前たちうるさいんだよ、何か文句でもあるのか、と言わんばかりにけだるそうに構えているように見えたので、そもそもこの男には、モリモトの質問になど答える義理はないと、本当にそのように心の外から思っているのではないかと想定された。

 キリオは何か変な空気を感じた。

 言いようのない、しかし言い表したところで何の意味もなさないような、唯一無二の、もう今後二度と味わうことのないような独特の雰囲気だった。

「あなたは誰なんです?」キリオは言った。「普段何をしている人なんです? 今日のようなことはよくあるんですか?」

「弁護士ですよ」手の男は答えた。「命が途切れるその日まで」

「は?」

 そして男は暗い明りのない方に去って行った。

「わけわかりませんね!」男の行動にあっけにとられて言葉が出ず、彼が去って二人きりになったタイミングでモリモトが言った。「何なんですかあの男。言っていることもわけがわかりませんし、何が目的だったのかも結局意味不明ですよ。あんな奴の登場なんてありえないですよ。ありなんですか。絶対にあってはならないことでしょう。もううんざりですよ。でも別に凶悪なことをされたというわけでもないし、今回のことに何か彼なりの意味があったのかと思うと恐怖すら感じますね。シャンプーしたい気分だ」

「シャンプー? 俺もまったく同じ気持ちだよ」

 キリオは言った。

 シャンプー? お前もどういうことなんだよ、とも思った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ