2
2
家族で過ごす休日の公園が終わった。
気が付けば夕方になっていた。もうこうなればこの場所では何もできない。キリオたちは家族でやってきていた公園から引き揚げ、そろそろ家に帰ることにした。
キリオは公園の駐車場にとめていた車に乗り込んだ。彼はむしゃくしゃしていた。
いやむしゃくしゃしていたというか、何か彼は釈然としない気持ちが今自分の胸にうごめいていることをはっきりと認識していた。キリオが車に乗り込むと、妻のアサコや娘のミクルも次々と車の中に乗り込んでくる。
キリオの家の車は黒色のワゴン車だった。300万円くらいした。もともと車には興味がなく、何を買えばいいのかわからなかったが、車を新しくしようという話が妻のアサコとの間に出たとき、何となく次はワゴン車がいいはずだ、みたいな意見になった。きっとこれからの家族のことを考えてだろう。
でもなんか本当にこの車は黒くてでかいから怖くていかつい車に見える。
どうしてこんな車を買ったのか。
助手席に乗り込んできたアサコに向かってキリオが言う。「それでこのあとどうするの? どこかよるでしょ?」
「どこかよるって、家でご飯食べるんだったら買い物してないから買い物しないといけないし、どこかで食べてもいいけど」
「え、どうするの?」
「どっちでもいいけど」
おいどっちでもいいんだったらどっちか決めてくれよ、とキリオは思った。一旦アサコの顔から目を離す。そしてもしかしてこの一瞬込み上げてきたイラつきのような感覚は、今の俺の胸の中にうごめいている謎の苦しみみたいな気持ちをさらに増幅させるものなのかな、と思った。だが彼女の顔から目を離してみて、いやこれは全然違うだろう、と思った。全然違うだろうといって、それはつまりどういうことなのかというと、アサコの存在と、今自分の胸の中にうごめいている謎の感情とは別物、無関係である可能性が高いということである。むしろアサコの顔を見ると、正しい悩みを与えられて心がほっとするような感覚にさえ陥る。正しい悩みって何なんだ?
まあ自分でも何をいっているのかよくわからないが、考えてみてアサコとこうして何かしらの意見を交換したり、または交換している途中で二人の話し合いに停滞が訪れたり、二人の会話の方向性が離れて行ってしまうことは、よくあることなのである。
そんなに大した問題じゃないと断言できる。
確かにどっちでもいいなら決めてくれたらいいじゃないか、みたいなことを思って腹を立てたことには腹を立てたが、それだって本気で怒っているわけじゃない。
どうして本気で怒っていないのかというと、この話し合いに結論を持ってくるのは簡単だからである。
もう時刻は夕方なのである。これはアサコも言っていたことだが、これからどこかへ寄るといって、別にまたそこで何時間も遊ぶわけではない。我々はなるべく家に帰って明日に備えなければならない。え、それでじゃあ明日に備えるといって具体的に何をするのかというと、別に大したことをするわけじゃないけれども、すぐに思いつくのは、やはりこれもまたアサコが言っていたのように晩御飯はどうする? という問題だろう。
つまりこれからどこかへよる? というのは、繰り返しになるが、このまま家への帰り道の途中でどこかのスーパーなどによって晩御飯の買い物をするか、それとも外食できるような店に入ってそこで食事を済ませるのか、ということにほかならない。
で、これの結論は簡単なのである。
結論を言う。
我々はこれからどこか外食できるような店に入り、そこで家族での食事を楽しまなければならない。
どうしてかといって、そりゃ個人的には本当にどちらでもいいけれども、帰り道にスーパーの答えを選んでしまった場合、アサコの労働が増えてしまうという問題点がある。なぜならスーパーで買い物を済ませただけでは我々の晩御飯はまだ終わっておらず、アサコは主婦として公園から帰ってすぐにスーパーで買ってきた食材を家のキッチンで調理しなければならないはめになるからである。
ここで彼女が異常に料理好きの性格であったり、もしくは外食はどんな食材を使っているかわからないから不信感がある、よってできるだけご飯はおうちで、それも手作りのもので済ませたい、というような願望のある女性だったら、行先をスーパーにするのもいいだろう。
手間がかかろうが体への負担が大きくなろうが、それは彼女の意志を尊重すべきだと思う。
だが彼女はそんな人間ではない。
別にアサコは食に関して人には譲れないような強いこだわりを持っているような女性でもなければ、家族のご飯は絶対に手料理! という信念を持っている人間でもない。料理をすることに関しては、それほど苦手意識はないにしろ、特に作る機会がなければそれで結構、代わりに誰かが作ってくれるのならばそれでいいし、また作ってあるならそれで全然よろしい、普段は誰も私以外に作る人がいないから作るのよ、それでもじゃあ料理を作るのがめっちゃ嫌かといわれると、めっちゃ嫌では決してない、ということを普通に思っていそうな人間である。
したがってやはり今回は帰り道にスーパーには寄らずに、どこか適当に外食できるお店に入るべきだろう。日中公園でずっと遊んでいたわけだし、お昼ご飯には手作りのサンドイッチや紅茶なども用意していた。これ以上彼女に労力の負担を強いるのは酷というものだろう。
逆の立場でじゃスーパー行こう、と言われたらキレる。
それに飲食店に入ればメリットもある。
普段家庭ではなかなかありつけないような料理を楽しむことが出来るし、また今日という日の締めくくりを家以外の場所で過ごすことは、今日がすばらしい休日であったという印象を家族に与えるには十分な条件だ。
ある焼肉店の駐車場に到着した。
ここは、車で何度か店の前を通ったことはあったが、一度もその中には行ったことがなかった店だ。
キリオは言った。「今日はここにしよう。前から一度来てみたいと思っていたんだ」
「大丈夫なの?」アサコがすぐさま言う。「なんかすごく高そうだけど」
「大丈夫だよ、心配しないで」
「本当に?」
「もちろんだよ」
キリオはそう言ってアサコを説得しながらも、しかし本当にこの焼肉店のメニューがびっくりするくらいに高かったら尻尾を巻いて逃げるしかないな、と思っていた。たとえば家族三人の食事なのに数十万円とかそういう額。確かにそうやって一度入りかけた店から出て行くのは、ちょっと恥ずかしいけれども、でもそもそも手持ちのお金では払えないような額だったらどうしようもないんだからやっぱり食べる前に帰るしかない、クレジットカードという手もあるかもしれないけれども、結局はあとで大金を払うことになるんだから、そうなる前に払わなくていい方法を選択するのは妥当だろう。
まあそんなに驚くような額を提示されることはないはずだ。
地元のはずれにあるようなところだし、誰でも知っているような人気店ってわけでもないんだから。
個室に案内されてそこで家族三人水入らずの食事を楽しんでいるときに、妻のアサコからこのような話題の提示があった。
「そういえばこの前近所のママともから聞いたんだけどね」
「うん」
「あなたFXって知ってる?」
「え、FX?」
キリオはそのキーワードにドキッとした。FX。それはどこかで確かにきいたことがあるような気がした。いやきいたことがあるという程度のものではない! 彼はもう一度先ほど自分がFXというキーワードにドキッとしたときのことを思い出した。そしてそのドキッとした感じから自分とFXというものの距離を考えてみたときに、もしかして自分はもうすでにFXというものを知っていて、勉強したことがある、しかも知っていたり勉強したりしたことがあるだけでなく、もはやそれのいち実践者なのではないのかな、と思った。
十分にあり得ることだ。
なぜなら妻アサコの発言によって自分の胸は先ほど信じられないくらいにドキッとさせられたのだが、こんなにマジでドキッとさせられることってあるのだろうか。ただその言葉を知っているだけでは、まさかここまで胸をドキッとさせられることは決してなかっただろう。
となればやっているに違いない。
やっている。
自分はこれまでの人生のどこかで今アサコのいうFXというものをやっていて、そしてそれで何かしらの痛い目をもうすでにあってきているんじゃないだろうか。実際に痛い目にあったことがあるのかどうかはわからないが、しかし胸のドキッとしたことから考えると、もはやこのような結論しか推測できない。
だがまだ何かが確定したわけではない。
アサコの話の続きをきいてみよう。
キリオは言った。「それでそれがどうしたの?」
「それがね」アサコが続ける。「実は近所のママともがね、そのFXってやつを家族に内緒でやってたんだってさ」
「家族に内緒で何かをするのは悪いって話?」
「そうじゃないけど、だからその奥さん、FXってやつのせいですごい借金を背負うことになっちゃったらしいのよ。どうしてそういうことになったのかは詳しくは聞いてないんだけどね、でも本当に信じられないくらいの、到底普通に働いているだけでは返せないような額を一気に背負ってしまったらしいのよ。怖い話よね」
「FXとかそんなのに興味本位で手を出すからだよ」
「でも今はワイドショーとかの特集でもFXをやっている主婦とかよく出てくるし、ネットで調べれば何でもわかるんでしょ? パソコン一つさえあればできるってことらしいから、副業を考えている人にはもってこいらしいよ」
「ちょっとした小遣い稼ぎで借金を背負うようじゃ、とてもじゃないけどそんなものには手を出せないよ。まともな神経をしている人ならね」
「いい人なんだけどね」
「その奥さんが?」
「うん」
「きっと甘い考え方しかできない人だったんだよ」キリオは言った。「そんな楽して儲けられるって話には、何か裏があるに決まってるだろ。FXをやり始める前に、その奥さんだって多分最悪借金を背負うリスクのあることは十分わかっていたと思うよ。でも残念ながら彼女は自分の豊かな想像力でその自分に都合の悪いシナリオを消してしまったんだよ。そしてFXのいい面しか見ようとしなかったんだ。言い換えればすごくポジティブでいい人なのかもしれないけれども、そんな普通に働いていても返せないような額の借金を背負ってしまったら、家族に大迷惑じゃないか――それでその奥さんどうするって?」
「借金を返すにはもう旦那の保険金しかないって言ってたかな」
「お前その話ウソだろ」
キリオはアサコの話を真面目にきいて損したと思った。借金を返すためにはもう旦那の保険金しかないだって? そんなのどうやって手に入れようっていうんだ、殺人?
テレビの見すぎだろ。
考えてみればきっと彼女たちはFXの情報すらテレビで得たに違いないし、FXで失敗したあとも、テレビでよくやっていそうなミステリドラマのあらすじを拝借しようとしている。旦那の保険金を得るってそれって本当にどうやるんだよ? FXで途方もない借金を背負った後に、わざわざ旦那の殺人犯としての罪まで獲得しに行こうというのか。
とんでもない考えの持ち主だな。
こんな話FXで儲かっている人をけなすために何かのジョークで言っているか、それか本当にFXの借金で精神を病んでしまった人の考えに違いない。
キリオは言った。「俺も誰かに自分の保険金を狙われることってあるのかな?」
「だとしたら私しかいないじゃん」アサコが言う。「でもそういえば確かに結婚してからまだ保険は見直してなかったね。結婚前にどこかに入っていた?」
「入ってたよ。先輩の紹介でね」
「私も入ってたけど、見直した方がいいのかな?」
「わからないけど、多分見直した方がいいんじゃないかな」キリオは言った。「っていうか本当なら結婚したときにお互いのを見直しといた方が良かったかもね。そのママ友のところみたいに変な話じゃなく、ただ普通に今後の生活のためにね」
「そりゃもちろん保険はいつだって見直してもらった方がいいですよ」急に個室の障子の向こうから見知らぬ男の声が聞こえてきた。
「え?」
キリオとアサコは目を点にした。
そして二人で少し見つめ合った後、何事かと思って箸をとめて声のした方に目をやっていると、数秒謎の間があってバンッと勢いよく障子の扉が開いた。
何かのコントかと思った――そこにはスーツ姿でびしっと決めた、しかし本当に見知らぬ男が一人立っていた。
彼は障子の扉を開けるなり雄弁に続けてきた。「そりゃもちろん見直してもらった方がいいのです。見直してもらわないのと、見直すのとでは全然今後のお二人の満足度というものが違ってきますし、また見直したあとですと、実際にもらえる保険金額も変わってきますしね。もらえる保険金額というものは、少なすぎていけないのは当然としても、逆に多すぎてもまたいけないものなのです。ですからライフプランが変わる都度に、ぜひご自身たちの保険の見直しは、していただきたいものですね。もちろん一度決めたものをもう一度決め直す、つまりもうこれで行くと決めたものをあとから変更するためにわざわざ自分の時間を割くというのは、もはや苦痛に近いものがあるかもしれませんが、そこはどうかお任せくださいよ。そこはどうかお任せくださいと私は強く言いたいですね! 私たちがとっても軽いフットワークで見事にあなた方のご要望に対応させていただきますよ。申し遅れました、私インシュアランス・デザイナーのワカタケカズシゲです」
インシュアランス・デザイナーのワカタケカズシゲ。
インシュアランス・デザイナーのワカタケカズシゲ?
キリオは思った。
いや全然知らん。
そんな男の名前など今まで一度たりとも聞いたことがないし、またそのような名前の男に今この焼肉店で名乗られなければならない覚えもない。インシュアランス・デザイナーときいたときに、もしかしたら今私が契約している保険の人かなとも思ったけれども、名前が違うからその人とも違う。急に登場してきやがった! このワカタケカズシゲとかいう男、家族水入らずで食事しているところに急に勝手なタイミングで登場してきやがったぞ! どういう風の吹き回しだというんだ。
しかも焼肉店の個室の障子を思い切り開けて。
バンと完全にその音が周囲に響き渡っても全然かまわないという意思の強さみたいなものも加えて思い切り障子の扉を開けてきやがったんだ。
一体何が目的なんだ?
この男に明確な目的がなければまさかこんな仕業などできるはずがない。この男実際何を狙っていやがる。今俺たち夫婦が保険の見直しの話をしていたからなのか? 今俺たち夫婦が保険の見直しの話をしていて、それで彼としてはその話がたとえどんな形でも自分の耳に入ってきたからには仕方がない、彼はもはや病的といっていいほどにその場でいてもたってもいられなくなり、最終的に気が付いたら我々の個室のドアを思い切り開けて実にスムーズに会話に介入していたとでもいうのか。だとしたら彼はとんでもなくクレイジーな男だ。
彼が本物のインシュアランス・デザイナーであるのかどうかという前に、彼はただただとんでもなく常識のない男だ!
「どちら様ですか?」キリオの妻、アサコが言った。
男が答える。「おや先ほどの私の自己紹介が聞こえませんでしたかな? 私はインシュアランス・デザイナーのワカタケカズシゲですよ」
こいつアホか。
聞こえなかったわけじゃないに決まってるだろ。
アサコだってあんたの名前が聞こえなかったからあえてもう一度今たずねたわけじゃないに決まっているじゃないか。あんたは誰なんだってことを彼女は言っているんだよ。つまりあんたの名前じゃなく、あんたの目的は、今日このタイミングで個室の障子を開けて入ってきた理由は何なんだってきいているんだよ!
アサコが言う。「ああ、ワカタケさんでしたか。何となくよく聞き取れなかったので、勝手にタケワカさんかと思っていました」
ワカタケとタケワカ。
男が言う。「ええ、それってよく間違われるんですよね。私はワカタケです。タケワカではなくワカタケですね、どうぞよろしくお願いしますよ」
「それで今日はどのようなご用件で?」
勝手に話をすすめるんじゃない!
ここは家の玄関先ではないんだぞ。キリオは握りこぶしをテーブルに振り下ろしたい気持ちを抑えながら、ここは本当に家の玄関先でもなければ、家のリビングでもないし、かといってちょっと出先の喫茶店とかいうわけでもないんだ。
家族で食事を楽しみに来た焼肉店なんだよ。
焼肉店の個室なんだ。
アサコよ、アサコ! お前もどうかしているんだ、お前もどうかしているんだぞ。どうしてお前も今その目の前にいるワカタケだかタケワカだかよくわからん見ず知らずの男と何の躊躇もなく話せるんだ。彼と普通に会話をしようと試みているんだ。
もう全部放り投げてやりたい。
もう俺の近くにあるものすべてを四方八方へと放り投げてやりたい気分だ。本当にお前らときたらわけのわからないやり取りはやめろ。どう考えたっておかしいだろ。この場にこのような得体のしれない男が登場してくるなんて、マジでどんなに真面目に考えたってそこに納得できる理由なんてあるはずないじゃないか。もう帰ってもらえよ。
店員さんここに変な人がいますよ!
さっきから私たち家族は、この変な男の人のせいで楽しい食事が台無しになり非常に困っているんですよ!
男が言った。「いやご用件も何も。ご用件も何もね。むしろご用件があるのはそちらの方なんじゃありませんか」
「え、そうなんですか?」アサコが言う。
「ええそうですとも」男は続けて「私はただ今日この焼肉店を楽しみにやってきていただけなんですよ。決して仕事の用事でこの店にやってきていたわけではないんです。ところが席を離れてトイレに行き、そしてその帰り道にですね、耳にしてしまったんですね、あなたたち夫婦の会話を!」
こいつまたアホなことを言っている、そんなここは障子でほかの空間とは仕切られた個室なんだぞ。
アサコが言う。「でもここは障子で仕切られた個室ですよ。そんな簡単に私たち夫婦の会話が外に聞こえることってあるとは思えませんし、また仮に漏れていたとしても、それはほかの客たちの話声と混じって、まさかピンポイントであなたの耳に届くとは思えませんけれどもね。でも確かにだからって、じゃあどうしてあなたが今そこに立っているのかは全然説明できないんですけどね」
「異常に耳が発達してしまっているんでしょうな」男が言う。「私ももうこの仕事をはじめて長いもんですから、保険というキーワードには異常に反応してしまうように耳が変形してしまっているんです。変形してしまっているといいますか、そのように都合よく進化してしまっているといってもいいでしょうね。つまり私は多種多様な雑音の中からでも、その構成に保険という言葉が混じっていれば、すぐさまそれに反応できるようになっているのです」
「へえなるほどね」アサコは続けて「それってすごいですね。あなたは身なりもピシッとしているし、声もすごく大きいから、どんなにすごい仕事の提案をしてくる営業マンかと思ったら、そもそも体の特徴的にすごいという方向性で保険という仕事に携わることに適したお方だったんですね」
「おや、バカにしていらっしゃるんですかな?」
「いえ、ただ本当にすばらしい能力だなと思いまして」
いいぞアサコ。
そのままの調子でもっと相手をズタズタに引き裂いていやるんだ。好きだ。最初はまさかお前がすんなりと謎の男の登場を受け入れるなんてどうしたものか、子育ての疲れとかで頭が変になってしまっているのか、はたまた実家の方とかで何かのっぴきならないような大変な事態でも起こっているのかと心配――はまあ別にしていないけれども、でも本当にどうしたんだろうとはちょっとは思っていたけれどもしかし、やはりお前もよくは思っていなかったんだな。
このインシュアランス・デザイナーを名乗る男の登場を内心ではよく思っていなかったんだろう。
当たり前だ!
だってこいつには本当に常識というものがないんだもんな。常識というもののかけらさえなさそうなんだもの。
たとえ長年の営業経験から保険というキーワードに異常に反応してしまう体になってしまっていたとしても、それを発揮するときは時と場所を選べって感じだよな。今が俺たち家族にとってどういう時間なのかちょっとは想像力を膨らませろって感じだよな。
まったくただの他人が家族水入らずの時間に割って入ってきていいはずがない。そりゃよっぽどの事態があるというのならまだわからないでもないけれども、だったらもったいぶってないでさっさとその事態の内容を話せばいいだけだろ。
用事があるのは俺たちの方なんじゃないかって?
ふん、いよいよバカにするのもいい加減にしろよこの適当野郎め。
「本当にすばらしいですよね、私もそういう何かに特化した耳が欲しいですわ」アサコは言った。「だって考えてみたらそういうのってすごく便利ですよね。私も今は小さい子供がいて、すぐどこか目の届かないところへ行ったりしますからね。それに彼女も今年の春からはもう幼稚園に通わないといけないので、たくさんの子供たちの中に紛れたときに、すぐにうちの子の声がわかったらとってもいいですよね」
「お子さんの声だったらもう今でも聞き分けることが出来るんじゃないですか?」男はそう言うと小刻みにうなずきながら「きっと何となく出来ているはずですよ」
「ああ、もしかしたらそうかもしれませんね」アサコは言った。「自分の子供の声だったらもうすでになぜかほかの大勢の子供たちの中からでも難なく聞き分けることが出来るような気がします」
「では、その点ではもうあなたも立派な特殊能力の持ち主ですね」
「本当ですね」
本当じゃない。
さっきから何を言っているんだアサコ、おい俺の妻のアサコ何を言っているんだ! 適当な野郎の話に適当に乗っかるんじゃない。今はそんな誰の声を聞き分けられるとか聞き分けられないとかの話をしている場合じゃないだろう。耳なんかの話をしている場合じゃない。さっさとその話題はどけるんだ。
そしてこの男に何とかこの場から立ち去ってもらうように仕向けろ。
お引き取り願うように話を持っていくんだよ。
「それにしても奥様の方から私の耳の話を広げてくださるなんてね」男は言った。「よっぽどこの私の登場というものを認めてくださっているんでしょうね。いうならば今の私というのは、見ず知らずのご家庭のお食事中に急に現れた無礼極まりない謎の男にほかならないと思うのです。しかし奥様からこうして私の耳の特徴に理解を示してくださるということはつまり、私は歓迎されているのですかな? やはり私が最初に思っていたように、今あなたたちご夫婦には優秀なインシュアランス・デザイナーというものが必要なんじゃありませんかね」
「実はそうなんです」アサコが言う。「実は先ほども主人と少し話していたのですが、私たちはひょんなことから、まだ自分たちの加入している保険というものの見直しを、結婚したにも関わらずちっとも見直していないということを発見してしまったのです。これって別にそんなにまずいことではない、どうしても今すぐに解決しなければならないという問題ではないように思うのですが、しかし解決できるのならばしておいた方がいいし、さらにそれがすぐにできるというのならば今すぐにでも解決しておいた方がよい、という問題であることは間違いないですよね? どうすればいいのかわからなくて」
「ぜひこの私に協力させてください」
男はそう言うと、軽くうなずいてキリオたちに目くばせをし、そしてそうしたかと思うと、一瞬でその場から立ち去り数十秒も経たないうちにまた戻ってきた。
彼の手にはタブレットのような機器が密着しており、どうやら彼は今からそれで何かをしようというらしかった。もしかしてこの場で何かしらの契約書を作成して、それでそれのサインまで一気にもらってしまおうという魂胆なのか。我々夫婦の保険契約を一気に自分がかっさらってしまおうと思っているんじゃないだろうな。
キリオは力の入っていた肩を落とし、露骨にため息をつきながら、まったくアサコも、どうしたらいいのかわからなくて、じゃないよ!
「一応ざっとですがこのようなプランを用意してみました」男はそう言うと、今まで自分が操作していたタブレットの画面をキリオたちに向けてきた。
キリオは言った。「いやでも確かに結婚してからはまだお互いの保険を見直していないんですが、それはつまりこれまで入っている保険があるということでして」
「それはそうでしょうね」男は言う。「で何がおっしゃりたいんで?」
「つまりですね」キリオは言った。「もし本当に我々に保険を見直す気があるというのなら、まず今まで加入していた保険会社に頼むんじゃないですかね? 別にあなたのプランを検討しないというわけではありませんが、やっぱりちょっと信頼にかけるといいますかね、もちろんあなたがものすごい行動力のある人だというのは認めますが、いきなり非常識的に表れて場を乱したという点も考慮しますとね。こういうのって無理強いはよくないでしょう? あなただってよく知らない人を相手に契約を取れても、あとですぐにキャンセルされてしまったらそっちの方が大問題になるはずだ」
「ですから何がおっしゃりたいんです?」男が言う。「そんなに長々と話されてもおっしゃりたいことがそこになければ、私は何もすることができませんよ。逆にあなたの話を聞いているだけ損ってもんじゃないですかね。おっしゃりたいことをずばりおっしゃってくださればそれで結構なんですよ」
「言いたいことを言えと言われてもね」
「何が言いたいのか、いやこの場で私に何を言うべきなのかご自身でもまだはっきりとされていないんじゃないですかね」
「そう言われるとそうかもしれませんが」
キリオはそう言うと急に身体的な疲れのようなものを感じた。
今日一日中公園で遊んできたからだろうか。それとも今食事をしたことでお腹が満たされ、体がリラックス状態にあるのかもしれない。精神的には仕事をしていない今日という日でもずっと何かにイライラし、おびえ、時には混乱の極致に一瞬でワープしてしまうような不安定な部分もあったように思うけれども、しかしその時間枠もうそろそろ終わりに近づいてきている。
このわけのわからない保険の営業マンは確かに邪魔だが、あとはこいつさえ何とかしてしまえばあとは家に帰って眠りにつくだけだ。
言いたいことを言えだと?
お前の方こそ察しろ。
お前の方こそ今の俺の気持ちをその態度や表情からくみ取って、自分がこの場にお呼びでない人間の筆頭であるということを悟れ。そして俺に何を言わせずともすっと消えていなくなればいいんだ。
その強烈な行動力がときには人の心を自分から最も遠ざけてしまう一番の原因になりうるということを知れ。
俺はあんたみたいなガツガツして奴が大嫌いなんだ。
どうせあんたは自分勝手でいつも自信満々で自分さえよければ他人なんてどうでもいいと思っているような奴なんだろう。今この場にあんたが存在してしまっているということがそのいい証拠だ。
男が言う。「奥さんだっておっしゃっていたじゃありませんか。あなたの奥さんだってつい先ほどご自身でこのようにおっしゃっていたはずですよ、保険の見直しは、必ず今すぐしなければならないようなものではないかもしれないけれども、でもいつかはしなければならないものだし、かつ今すぐにできるというのならばそれに越したことはない、とね。私はただその言葉を信じて今こうしてあなたたちにタブレットを差し出しているだけなんですよ。これはあなたたちが望んだことなんですよ」
「でもここであなたのプランにするのと、家に帰ってから今入っている保険会社のプランを検討してそちらにするのとでは、はっきりとどのような違いがあるのかわからないですね」アサコが言った。
「それはどういう意味ですか」男が言う。「私の作り上げたプランに何かご不満でもあるっていうんですか」
「いやそういうわけではないですけれども」
「あなたもはっきりとものをおっしゃらない人ですね!」男が言う。「奥さんは違うと思っていましたよ。奥さんだけは私の味方になってくれる人だと思っていたのにね。プランを見せた途端にこれですよ。プランを見せた途端に手のひらを反してくるんだから怖いもんですよ」
「別に手のひらを返したわけではありませんけど」アサコはそう言うと、少し呆れたようにため息をはいて「でもまさか私もあなたがこんな人だとは思いませんでしたね。個室の障子を開けて急に現れてきたときには、とんでもない人が来たものだと驚きながらも、内心あなたみたいな人をおもしろがらない気持ちがなかったわけではありません。しかしタブレットを操作してその画面を私たちに見せた途端に普通なんですもの! 本当にただただ普通によさそうに思える保険のプランを画面に映し出してくるんですもの! あなたこそ一体何がしたいんですか。逆にききましょう、あなたこそあんな登場の仕方をしておいて今のこの尻すぼみな現状をどのようにとらえているんですか。どのような感性が今のあなたをこれでよしと評価しているとおっしゃるんですかね!」
キリオはアサコの黙って聞きながら、結構独特な判断基準だな、と思っていた。
結論からいってしまえば、アサコとしては、彼から保険に入るつもりなどほとんどなかったということだろうか。いやもしかすると、彼が障子の戸をあけてくる以上にトリッキーなことをして保険の勧誘を続けてくれば、彼女の中でも何かが変わって保険に加入ということがあったかもしれない。
しかしそのような展開はなかった。
彼は残念ながら彼女の期待にそうことはできず、タブレットを見てくれる場面になったところで普通の営業を彼女に仕掛けてしまった。これがいけなかったのである。アサコの求めていたものは、あくまでも予想外の行動、展開だったのであり、決してまともな保険プランの提案、もしくは営業マンとしてのまともな対応などではなかったのである。
まあ個人的には、彼がタブレットの画面を我々に見せてきた後でも、こちらに対して低姿勢にならずに、謎の上から目線でずっと物事を話してくるところに、これまでと変わらない彼への不信感を募らせることが出来ないでもなかったけれども。
「私といたしましてもね、別に遊びでやっていたわけではないのでね」男はタブレットを自分の手元に引き寄せながら言った。「こうして無理やりにでも超特急でプランを提案させていただいたのも、あなたたちのことを考えてなんですよ。お客様のことを考えてただそうさせてもらっているだけでね、別にあなたたちをおもしろがらせようと思ってやっているわけではないのです。保険って本当に大切なものなんですよ。大事なものなんです。ですからそれをご提案するまでの過程に多少おちゃらけた部分があったとしてもですね、実際のご提案のときには真摯に対応したいというのが私のような保険営業マンの心理なんじゃないですかね。私の態度がおもしろくなくて、それで真剣にご検討していただけないというのならば残念ですが仕方ありませんね。私ではあなたたちの役には立てなかったということですよ」
「私はもっとあなたが規格外の人だと思っていたのです」アサコは言った。「だってあなたときたら本当にいきなり家族水入らずで楽しんでいるところに障子をバンッと開けて登場してきたんですからね。普通ならあなたのような人の話には誰も耳を傾けないことでしょう。でもあなたはそれをやってきたんです。そこで私は、そういうことをやってくる人なら、人に辛く当たられてなお輝かすことのできる圧倒的な個性を持っているから、今この人もそのような登場方法を取ったんだろうな、と深読みしたのです。ですが残念ながらそれは私の深読みだけで終わってしまったようですね。まさか本当に登場したあとはノープランだったとは! よくそんな甘い考えで障子を開けることが出来ましたね。あなた今遊びでやっているわけではないとおっしゃいましたけれども、遊びでやっていないとおっしゃるなら、なおさら障子を突然開けた責任を取らないといけないんじゃありませんか。このままだとあなたは少なくとも遊びで私たちの障子を開けたんですよ。明らかに遊びで私たちの個室の障子を開けたのです!」
「ですからこうして保険のプランだけは真剣に」
「それは私たちがあなたに求めていることではないでしょう!」アサコはそう言うとテーブルの上に手を置いて「保険のプランなんてものはそもそもあなたに提案されなくたってこっちでいくらでも調べのつくことなんです!」
キリオはアサコに言いくるめられている男を見て、何となく彼が不憫で、薄らと悲しい、もどかしい、そしてかわいそうな奴に思て仕方なくなってきた。
もしかすると彼は最初から頭のイタいかわいそうな奴だったかもしれないが、それにしてもアサコって案外怖っ。うちのアサコがこんなに他人のことを言葉で責められる人間だとは思っていなかった。普段は大人しくて、ともすれば何を考えているのかよくわからず、天然っぽいところさえあると思っていたのに、今日に限っては口調もはっきりしているし、こと彼がタブレットを我々に見せてからというもの、まるで鬼の首を取ったかのように独自の理論を展開して男を圧倒している。
内心やっぱり見ず知らずの男の急な登場にイラついていたのかな?
でもそれを口に出すとますます場が混乱するし、一度彼に場を混乱させられたという事実は消せないから、一旦彼のことを規格外の凄腕営業マンとして受け入れてみたものの、タブレット後があんまりにも普通だからどうしてもむかつきが抑えられなくなって、で、今こんなにも彼のことを責めているというのかな。
そうかもしれないな。
だとしたら俺もアサコと同じような気持ちだけれども、俺だったらまさか彼女と同じようなことはしまい。初めから彼に対して、君いきなり他人の個室の戸を開けてくるなんて無礼じゃないか、間違えて開けてしまったわけでもなさそうだし、今すぐこの場から立ち去りたまえ、みたいなことをきっぱり言い放つだろう。
いやしかし実際には俺も当事者だったわけで、俺は別に彼の登場の仕方に対しては何も文句は言っていない。ということは、むしろ彼の登場によって真面目に家族の保険を考えようとしているのは俺だけなのか?
とにかくもう男もここまでアサコに言われたらまともに営業などできるはずがない。もうすぐ今日という日の夕食も終わりを迎えることだろう。
男はタブレットの画面を淡々と操作しながらも最後まで何かブツブツ言っていた。「じゃあどうしろっていうんだ。この私にこれ以上どうしろっていうんだ。この場で着ているものを全部脱いで裸にでもなれっていうのか。裸になったところでどういう意味があるんだよ。私だって何も意味のないことをして他人の注目を浴びたいわけではないんだ。それがたとえお客様のためになることであっても、まず第一に自分の行動には自分が納得していたいという感情があるじゃないか。私はただの狂気じみた男というわけではないんだ。私にだってちゃんとまともなルールがあり、それに逸脱した行為をしなければならない場合、足踏みをすることは免れない。本当にそんなことをしていいものだろうかと必ず葛藤するんだ。それなのにここの奥さんときたら、私にとってわけのわからない話ばかりをしてきて、全然まともに保険のプランなんてみてくれない。最終的には保険のことなんて自分たちだけで十分に調べがつくとさえ主張する。だったら我々の存在意義って何なんだ。もうこんなタブレットなど今すぐどこかへ投げて割ってしまえばいいんだ。投げて割ってしまえば今度はみんながその事実にてんてこ舞いなって誰も今の私の気持ちになど目も止めなくなるだろう。割ってしまえ、本当にこんなもの割ってしまえばいいんだ。だって誰もまともに見てくれないタブレットなど必要ないんだから!」