88 最古の職業
「ダメだ! ふざけるな!!」
真っ先に叫んだのはルクレシェアだった。
それこそ叩きつけるような拒絶。
「雷領は、シンマとフェニーチェの懸け橋となる土地だ! だからこそ清くて立派でなければならない! その雷領に、その……ば、売春宿を建てるなどいかがわいい汚らわしい!」
そんな、やめられない止まらない、みたいな言い方をしなくても……。
「売春宿ではなく、遊郭でありんす」
「どっちも同じだ、汚らわしいことには!!」
「何故汚らわしいのでありんすか?」
「え?」
カエン嬢の淡々とした聞き返しに、ルクレシェアは鼻白む。
「春を売り、孤独に冷えた殿方の心を温める。それの何が汚らわしいと言うのでありんしょう? ぬしさんの決めつけは、おぼこの無知から来る誤解でしかあらしません」
「お、おぼこ言うな!?」
その単語の意味は通じたらしい。
「遊女は、世界でもっとも古い職業と言われておりんす。我が身一つを商品として。売り手である殿方と一対一で向き合う。これほど実直で誠実な商売がありんしょうか?」
「き、詭弁だ!」
即座に反論するものの、ルクレシェアの口調はどこか弱々しい。
「大体だな……! その、風紀! 風紀が乱れるではないか!?」
「風紀?」
「そうだ! 夫婦や恋人でもない男女が淫らなことを行う場所を許しては、雷領の風紀が乱れるではないか!!」
陳腐な言い回しだが、反対意見としては有効だった。
僕も雷領を預かる領主として、領内の風紀には気を配らないといけない。
「ならばなおさら、遊郭の存在は重要でありんす」
「何故!?」
「おなごには、わからぬこととよく言われるでありんすが、殿方の心情とは時にままならなくなるものでありんす。人もまた一種の動物である以上、体からの要求に心が狂ってしまうこともようありんす」
「そうなのかユキムラ殿!?」
「そうなのユキムラ!?」
何故こっちに聞く!?
「それを治めるためにも遊女というものはありんす。殿方のままならぬ激情を、何処にもぶつけどころがない時に、彼女らは受け止め役に回るのでありんす。そのはけ口すらなくしてしまったら、殿方はどうなるでありんしょう?」
「どうなるんだユキムラ殿!?」
「どうなるのユキムラ!?」
だから何故こっちに聞く!?
「……カエンさんの言うことにも一理ある。男性の発散口として、遊郭はたしかに有効な施設だ」
「ですが、遊郭が犯罪の温床になるというのも、一つの正しい見方でありんす」
おいおい。
すぐさま前言を翻した!?
「遊郭には、やくざもんが集まりやすうござんすからなあ。そうしたものが見世を牛耳り、利益を吸い上げれば領主としては困ったことになりんす」
その利益を元手に、さらにヤバいシノギに手を出されたら、たしかに領の治安を預かる者としては由々しき問題だ。
「だからこそ、領主殿が直々に遊郭を牛耳るべきでありんす。そう思われませんか?」
「!?」
なるほど。
「お上が直接遊郭を運営し、管理すれば、そこに無法者が付け入る余地がなくなる、と言うわけか」
「人の街には、清濁両方が合わせ積もるものでありんす。清いだけの街、汚いだけの街などあらしません」
「水清くして魚住まず」
「あい。なればこそ街に積もる濁りを最初からあるべきものと認め、管理することこそが、領の平和と風紀を守るもっとも有効な手段でありんす」
「それが公営の遊郭であると?」
「あい」
領主が直接花街を管理することで、無法者が勢力を拡大していくことを防ぐ。
たった今カエン嬢が言ったように、人のあるところはどんなに掃き清めようとも自然と汚れていくものだ。
その汚れをただ忌避して遠ざけていれば、視界の外で汚濁はどんどん大きくなって気づいた時には手に負えなくなる。
そうなる前に、汚れもまた人や自然の一部だと受け入れて手綱を引いておくことこそ優れた領主の務め、か……。
「清濁相飲む領主こそ、有能な領主と言うんだな」
「あい」
そして彼女は、この僕が有能な領主か否か、決断を通して試していると。
一つの交渉に様々な意味合いを込める人だ。
侮れんな、この火の令嬢。
「いいでしょう、わかりました。遊郭を公営することの有用性は、アナタの説明でよく理解できた」
「ぬしさまから色よいお返事を頂ければ、モウリ家はその道の玄人として全力を挙げて協力しんす」
「ただ、こちらとて何でも領主一人で決めるわけにはいかない。幾人かに意見を求め、考えを取りまとめたく思うので返答に猶予を頂きたい」
「意外に慎重でありんすね。ようござんす。雷領の未来に関わる重要な決断ですゆえ、よくよく考えておくんなまし」
そこまで言い終わると、カエン嬢は席を立った。
「では返事を待つ間、この地に留まる支度を整えていただけませんか。突然訪問しておきながらいささか礼にもとるかもしれぬでありんすが……」
「そんなことはない。この雷領には、フェニーチェよりの来訪者を迎えるために多くの居館を建設してあるので、その一つを提供しましょう」
こちらの意見がまとまるまで……。
「どうかごゆるりと逗留を」
「ではお言葉に甘えて……」
応接室から出ようとカエンが扉に手を掛ける寸前、こちらを振り返った。
その動作が何故か、ひとりでに動く蓮のない人形の首だけが回ったかのような怖さがあった。
「もう一言、忘れておりなんした」
振り返った彼女の視線の先に、僕はいなかった。
彼女が見るのは、クロユリ姫、ルクレシェアの二人だ。
「うひ……ッ!?」
「な、何よ……!?」
どことなく妖しさが匂い立つカエン嬢に、二人とも無意識下で怯えている。
「そう気構えなんし。お二人は実質的に領主ユキムラさんの奥方と言ってよいとか。一言挨拶ぐらいはしておくべきと思うただけでありんす」
「はあ……?」
「どうも……!」
しかし警戒はまだ解けない。
「お二人とも、お人形さんのように可愛うありんすね。シンマの新英雄が手元に置きたがるのも当然至極でありんす。……ですが」
めろり、と。
揺らめく炎のように彼女の赤い唇がつり上がった。
「英雄は色を好むもの。一種の魅力だけで果たして満足するでありんすかねえ……?」
物凄く意味深なことを言い残して、カエン嬢は去っていった。