60 平和期限付き
「……巻き寿司が食べたい」
唐突にクロユリ姫が言いだした。
この僕――、ヤマダ=ユキムラが、遠い無人の野だった雷州を拝領し、雷領領主となってから、そろそろ数ヶ月が経とうとした時のことだった。
その間、雷領領都として開発中のこの土地も大分街っぽくなり、ルクレシェアが勇み足で建てた城壁内も半分が建物で埋まっている。
まあ、用途的には生活用の民家で、公共な建物はほとんど建っていないのだけれども。
……まあ、いずれやって来るフェニーチェの第二使節を迎えるというこの街の建設目的を考えれば、交渉を行う迎賓館と宿泊施設さえあれば事足りる。
だからこそ今僕たちがまったりしている領主邸宅(使節の引見、交渉もここで行えばいい)を中心に宿泊用の民家が軒を連ねるだけで、一応この都市は完成を見ているのだった。
あとはフェニーチェの施設がやって来るのを待つばかり、だから当面僕たちは暇なのだった。
そこでの、クロユリ姫のこのセリフである。
「……巻き寿司が食べたい」
「いやどうしたんですか、いきなり?」
たしかに言われてみれば僕も何だか巻き寿司が食いたくなってきた。
いきなり雷領領主なんかに任命されて早数ヶ月。
街の開発作業に追われて、食べられるものは口に入りさえすればいい精神で毎日同じものばっかり食べてきた気がする。
それでも毎朝毎晩の食事はクロユリ姫が、我が実母から叩きこまれた料理の腕で拵えるオフクロの味だったのでストレス等はなかったが……。
「……たしかに、しばらく食べていないものを食べたい気分になってきましたねえ」
想像したら急に腹がすいてきた。
巻き寿司か……。
言われてみればたしかに雷領に来てから一度も食べていない。
「マキズシ? なんだそれは?」
同じ部屋でまったりとしていたルクレシェアが、聞き慣れない言葉に反応した。
ここ最近はずっと、この三人でつるんでいるのが自然な状態。
一方のクロユリ姫は自国、シンマ王国のお姫様。
もう一方のルクレシェアは、いまやシンマ王国がもっとも注意を払うべき外国、フェニーチェ法国の法王令嬢。
二人とも超重要人物ということで捨てては置けないのだけれど、だからといってこんな美人の女の子二人に挟まれて理性が保つかと言えば……。
「で、マキズシとはどういう食べ物なのだ!? シンマの料理はどれも美味しいからな! 期待で胸が膨らむぞ!」
最初に出会った時のルクレシェアと言ったら、異国シンマを見下してばかりだったのに。
打ち解けてからの彼女のシンマかぶれは、むしろ心配になってくるほどだ。
「クロユリが作ってくれる煮物、焼き魚、みそスープも、フェニーチェでは味わえないエキゾチックな味だ! ただしナットウ! あれだけはダメだ!!」
と、こんなふうに興奮してばかり。
ルクレシェアは、僕たちがここへ来るまでの間フェニーチェから持ち込んできた保存食で飢えを紛らわせ、相当苦難な食生活を強いられていたようだ。
……まあ保存食といえば大抵は可食状態の持続性と引き換えに味を犠牲にするもの。
それに比べれば、シンマ本土から潤沢に送ってくる食材で作られた、出来たてホヤホヤの料理はそりゃ美味いだろうと思われるが……
でも、シンマの料理が上手いかどうかはともかくクロユリ姫が腕を振るって作る料理は確実に美味しい。
お姫様なのになんで? 自分で料理作っているの? と思わいないでもないが。
それも庶民出身の僕と結婚するにあたって、ガッチリ僕の胃袋を掴む意図があるわけだ。
政略結婚手そこまで本気で相手を愛するものなのかとも思わないが。
僕の胃袋を掴むついでに、ルクレシェアの胃袋がそれ以上にガッチリ握り潰されるレベルなんですけれども。
「ふっふっふ……。巻き寿司というのはね。とっても美味しいのよルクレシェア。デリシャスなんだから」
クロユリ姫も、ルクレシェアから覚え倣ったばかりの横文字をこれ見よがしに使ってくる。
「というか、もう既に今日のご飯は巻き寿司にしようと思って材料を用意してあるのよ! 酢飯と、海苔と、具を色々ね」
と。
材料をそのままに用意してきたということは、手巻き寿司か!?
いいですな趣向を凝らしてあって。
「いいルクレシェア? この巻きすの上に海苔と、ご飯と、具材を乗せて……」
「ええッ!? 自分でやるのか!? 難しいぞコレ!? ライスを均等にならして……、均等にならない!?」
ルクレシェアは、まさか自分で調理することになるとは思わずに、随分混乱していた。
まあ酢飯を作ったり具材を切り整えたりと下拵えはクロユリ姫がやってくれているし、難しいことはないと思うんだが。
「全部乗せから海苔と酢飯と具材を優しく巻いて、筒状にしていくのよ……」
「ちくしょう! 台無しになった! 我はいつもこうだ!」
ルクレシェアは失敗したらしい。
「ま、まあまあ。誰にだって失敗はあるわよ……! 挫けずにもう一度やりましょう?」
「クロユリ……! そのすべてを許す寛容さ、まるで女神のようだ……!」
いかんルクレシェアがクロユリ姫のことを崇拝し始めている。
ダメでしょうルクレシェア? アナタの忠誠心は祖国に捧げるべきでしょう?
「巻き寿司なんて簡単よ。海苔の上にまとめたものをクルクルって巻けばいいだけなんだから」
そう言ってクロユリ姫、本当に簡単そうに材料一式の乗った巻きすを巻く。
本当に慣れた手つきだった。
やはりこれもウチの母に仕込まれたのだろうか?
本当にウチの母上はよくもお姫様に庶民の料理テクを仕込みやがったなあ。
「ハイできた。さあ、まずは誰よりわたくしたちの旦那様に召し上がっていただきましょう。ユキムラどうぞ」
「やったー!」
実を言うと、クロユリ姫が作ってくれる手巻き寿司。相当楽しみだったのだ。
巻き寿司自体しばらく食べてなくて食指が動く上に、王家のお姫様であるクロユリ姫が直々に作られるものですよ?
きっと材料自体超一流品が使われていて、僕の知らないような超豪華手巻き寿司になってるんじゃないの!?
ウニとかマグロとかイカとか伊勢えびとかズワイガニとか!?
「よく味わってね。ユキムラのお義母様から直伝のかっぱ巻きよ!」
「わあい! キュウリしか入ってねえ!!」
これぞ慣れ親しんだ故郷の味。
貧しくとも慎ましやかな我がヤマダ家の味だ。
さすがシンマ王家が誇るクロユリ姫の嫁力。細部に渡って姑に絶対服従なのか!?
「うん……、完全無欠に我が家の味を再現している。酢飯に使っている酢の安っぽさまで……!!」
「本当!? この味を再現するために一流のシンマ酒を必要以上に発酵させて、安っぽい味を追い求めてみたのよ!」
無駄に金のかかった努力!?
しかしそうまでして婚家の色に染まろうとすることこそ、クロユリ姫が徹底的に叩きこまれた嫁入りの作法ということか!?
「なあ、ところで……」
ルクレシェアが、ふと気づいたとばかりに尋ねてくる。
「このキュウリを巻いたマキズシ。何故かっぱ巻きというんだ? キュウリを巻くならキュウリ巻きと呼ぶのがマストではないのか?」
「ああ、それはね……」
クロユリ姫がゴニョゴニョとルクレシェアに耳打ちする。
そしてハッとルクレシェアの表情が変わった。
「何ッ!? シンマにはそんな凶悪なモンスターが川に住んでいるのか!? 恐ろしいなシンマ王国!?」
後々、フェニーチェに間違った情報が伝わらないか心配だった。
* * *
と、こんな風に僕とその周囲は驚くぐらいに平和で平穏だった。
それもフェニーチェからの第二使節が到来してくるまで、という期限つきではあるのだが。
彼らは必ず来る。
それはジュディという先遣隊を送ってきたことでも明らかだ。
彼らがここへ到着した時、我が雷領は最初の試練に見舞われることとなるのだ。