101 優雅なる冷酷
そうしてヤマダ=ユキムラが領主居館から飛び出していたのと同じころ。
レーザ=ボルジア=フェニーチェはとっくにマルヤマ遊郭へと到着していた。
「いやぁ、嬉しいなあ。今日はレディ・カエンの方からお呼びいただけるとは」
カエンの目の前で、異人の客は人目もはばからず鼻の下を伸ばしていた。
「しかも引手茶屋を介することすらせず、直接上がっていいとは。これは遊郭の作法から見ても、より馴染になったと解釈していいのだろうか? 本当にシンマの遊びは奥が深い」
などと目尻が垂れ下がっている異国人は、本来はカエンの標的ではなかった。
彼女が雷領にやって来たのはあくまで雷領の長、ヤマダ=ユキムラの籠絡。
下級武士から大抜擢された伸し上がり。そんな経歴から見ても色仕掛けにコロリと行くかと思われた新領主は、意外にも用心深く、カエンの胸元に飛び込もうとはしなかった。
代わりに網にかかったのが、たまたまシンマ本土に滞在していたというフェニーチェ軍事部門総司令官レーザ=ボルジア。
異国フェニーチェでも指折りの天才だという評判だったが、カエンから見てその男は、別に故郷の遊郭を出入りする凡百の男どもと大して変わらぬように見えた。
女へ向けられる下心丸出しの視線。そのくせ上品ぶろうと表向きだけの見栄っ張り。
男のくだらない部分を残らず使って組み立てたような男が、このレーザ=ボルジア。
カエンにはそう思えてならなかった。
「ちょうどよいことに、今日は余からもアナタに贈り物があるのだ」
などと言ってレーザは、懐から小箱を取り出した。
中にはさらに小さな、金属製と思しき輪っかが収まっていた。
「まあ……!?」
その綺麗さに、カエンも思わず感嘆の声を漏らしてしまった。
この席を取り巻く修羅場も一瞬忘れて。
「装飾品の類でありんすか? シンマでは見かけぬ形でござんすねえ?」
「指輪というものだ。この輪を指に通して、手元を飾るものさ」
レーザはそそとカエンに近づくと、その手を取り、みずから指輪をカエンに嵌めさせた。
左手の薬指に。
「フェニーチェには面白い習慣があってな。この指輪をどの手のどの指に嵌めるかに色々と意味が存在する。左手の薬指に嵌めるのは、異性からの愛情を受け止めるという意味だ」
指輪、という金細工そのものはカエンの心を大いに惹いた。
彼女自身、太夫となるべく鍛えられた目利きで職工品の出来不出来は見分けがつくし、この指輪とやらは手間も金も大いにかけた高級品だとわかる。
その上に、輪の上にあしらわれた宝石も美しく、カエンが見たことのない透明さを誇っていた。
しかし、ここはもはや愛や色を語る場所ではなくなっていた。
獲物たるレーザが気づかないだけで。この部屋を囲む壁一枚向こうには、刺客ハンジロウが率いてきた凶人十数名が群れをなして待機している。
合図一つで部屋へとなだれ込み、哀れな異国の客人をめった刺しにする手はずだった。
「あの腕輪は、着けていないのでありんすね?」
「ん? ああ無論だ。モナド・クリスタル付きの腕輪は、フェニーチェの魔法技師にとって最高の武器。遊びの場に凶器を持ち込むなど野暮の極みと最初に教えられたからな」
それはウソだった。
そもそもシンマを代表する武器『命剣』は、剣士の命そのものを武器に変える。切り離すことなどできない。
なのに武器を携えたまま入楼するのは野暮などと、それこそシンマにおいて粋の遥か上に位置する武士の誇りを愚弄するものだった。
シンマの世事に疎いことを利用してレーザから武器を――、武力を奪い取ったのも。
すべて一つの計略のため。
「遊びはその辺で終わりにしよう」
バタバタと音を立て、多くの男たちが部屋へなだれ込んできた。
その先頭にいるのは、当然この凶事の首謀者キリ=ハンジロウ。
「神国シンマを踏み荒らす夷狄よ! 我ら憂国の士が、天に代わって誅を下す!」
大勢でレーザ一人を取り囲み、暗殺の成功を確信しているかのようなハンジロウだったが。
「やれやれ、野暮な御仁だな」
レーザは少しも取り乱してはいなかった。
まるで修羅場にすら、昼寝できるほど慣れ親しんでいるとばかりに。
「ここは遊郭。楽しい遊びの場だぞ。そこへいかめしい顔をしてドカドカ押し掛けるなど粋を少しも解していない」
「黙れ! 我らは貴様の罪を正しに来たのだ!」
「罪?」
既に凶族たちは、それぞれの手から『命剣』を抜き放ち、辺りかまわず殺気を撒き散らしていた。
『天下六剣』にはるかに及ばぬ、生命力を放出しただけの通常『命剣』だが、それに囲まれ少しも恐怖の色を見せないレーザ。
「貴様は異人の分際で、神国シンマに土足で踏み入り、我らの誇りを汚した! 惰弱なるユキマス王に取り入り、成り上がり者の雷領主とつるんで、シンマを内から腐らせようとする奸物だ! よって我らが天誅を下す!!」
「土足で踏み荒らしているのはお前たちだろう。レディ・カエンが教養を凝らして建てた妓楼にな。風情も何もあったものではない」
事が進めば進むほどに、カエンは混乱してしまう。
ハンジロウたちが好き勝手に振る舞うことへ混乱するのではなく、そんな中でレーザがまったく取り乱さないことへ混乱した。
遊郭でバカ騒ぎしている時にはまったく感じられなかった。軍事の天才の威圧感。
「どうやらシンマにも、この『凛冽の獅子』が目を掛けるに値する偉才と、まったく価値のない凡才が混在しているらしいな。その点フェニーチェと何も変わらん」
カエンの手をギュッと握り、レーザは立ち上がる。
「いっそ価値のない凡人は皆殺しにし、才ある者だけをまとめてどちらかの国に住まわせれば面白いのだが、ユキムラのヤツは情け深すぎて反対しような。お前たちは本当に幸せだったのだぞ、慈悲の者に支配されるのがな」
「戯れ言を抜かすなッ!?」
正体不明の威圧感を持つレーザに、ハンジロウは知らずのうちに気圧される。
「どれだけ粋がろうが、貴様はここで我らに嬲り殺しにされるしかないのだ! 我々は知っているんだぞ! 貴様らフェニーチェの妖術使いが、力のこもった水晶がなければ何もできないことを!!」
魔力貯蔵器モナド・クリスタル。
フェニーチェの魔法技師は、そこに溜めこまれた魔力を変換し魔法を使う。
しかし今レーザは、『遊戯の場に武器を持ちこむのは野暮』という言葉を真に受けて、そのモナド・クリスタルをあしらった腕輪を外していた。
「貴様は妖術を使うことは出来ん! 抵抗の手段をもたない! よってここで我々に斬り刻まれるより他にないのだ!!」
「あるぞ、モナド・クリスタルなら」
「え?」
「ここに」
レーザは、自身の手に握られているものを掲げた。
それはカエンの左手だった。
ギュッと握り合ったその左手の、薬指に輝く指輪。
「まさか……、この指輪にあしらわれた宝石は……!?」
「そう、モナド・クリスタルだ」
レーザがカエンに贈った指輪は、モナド・クリスタル付きの魔法変換指輪だった。
「そして我が妹ルクレシェアが、既に当地で実証した。モナド・クリスタルを通じてシンマの『命剣』使いの生命力を、直接魔力に変換できるとな」
カエンはモウリ家、四天王家の一つに生まれた者。
そして四天王家とは、シンマ最強の『命剣』、『天下六剣』を一振りずつ所持する家系。
「当然アナタにも、強力な『命剣』が宿っているのだろう?」
「レーザ様、アナタまさか……!? 私の『命剣』を使って魔法を……!?」
室内の温度が急激に下がり始めた。
「さあ、氷盤の舞台でのたうち踊れ」