000:イドの吹き溜り
何もなかった。
そこには、光も、色も、匂いも、温度も、何もなかった。ただ、自分が死んでしまったという理解と、ここは何処なのかという疑問だけがあった。
これが死後の世界……なのだろうか? だとしたら、死んだ母さんに会えるのか。子どもの頃に飼っていた愛犬のゴン太とも、久しぶりの再会か。母さんは元気にしているだろうか。いや、死後の世界だとしたら元気も何もないけど。ゴン太は相変わらず出会い頭に顔をなめてくるのだろうか。いや、今は何も見えないし何も感じないけど。
感覚、というものが有るのか無いのかすら定かでない。これ、すごく不便なんだけど慣れればどうにかなるのかな?
そんなことを思っていると、唐突に、鈴のような凛とした声が響いた。
『厳密には死後の世界とは言い難いですね。ここは〈イドの吹き溜り〉と呼ばれています。意識の残滓のみが存在し、物質世界と切り離されたところです。あなたにとっては死後の世界となるでしょうが、通常は人は死後には何を知覚することも出来ず、従って死後の世界という概念はあり得ません』
あまりに急だったため、僕はいささか驚いた。そして、急に声が聞こえたことよりも内容が宗教じみて解りにいことに、さらに驚いてしまった。なんでそうもわかりにくい言い方をするかな。せっかく心地よい声をしているのに、これでは聞く気になれない。台無しだ。残念である。しかも、その声によるとここは死後の世界ではないらしい。つまり、母さんやゴン太との感動の再会は叶わなかったようだ。ますます残念である。
声が聞こえるってことは、空気はあるってことかな。いや、確か物質世界と切り離された、とか言ってたな。なら空気どころか音を伝える物質は存在しないってことになるだろう。声が聞こえるのはおかしいじゃないか。
こんなトンデモ空間、にわかに信じられるものではないが、実際に見てしまったら――今は何も見えないのだが――信じざるを得ない。〈イドの吹き溜り〉だって? 何だって僕はそんなけったいな場所に居るんだ?
『あなたはその死の瞬間、命を賭して若者を救いました。そのことが我が主の目に留まり、私は主の命を受け、あなたをここに召喚したのです』
我が主? いったい何者なんだ? 召喚って言われても。なんの用があって僕を呼びつけたりするんだ?
『一つ目の質問に対しては、私の口からは説明いたしかねます。二つ目の質問に対しては、我が主は「ご褒美」と仰いました』
ご褒美って、子どもじゃないんだから。
それに、さっき僕は死んでしまったんだよね? だったらご褒美もなにも、受け取りようがないじゃないか。仮に受け取ることができたとしても、何の意味もないだろう。せっかくご褒美をくれるなら、生きてるうちにくれれば良かったのに。ご褒美をもらえるって最初からわかってたんだったら、もっと早くから善行を積んでおけばよかった。そうしたらまだ生きてるうちにご褒美を貰えて、もっと良い人生が送れたかもしれないのに。ご褒美のことを知らせるのが遅すぎるよ。こんな訳の分からないところに連れてくるぐらいなら、その辺りもきっちりとしてほしいものだ。
まあ、終わってしまったものは仕方がないけれど。
『あなたは生を終えました。ですので、我が主の温情により、他の世界へ転生する権利を授けることとなります』
他の世界って、いわゆる異世界ってこと? そんな物騒な。
僕の生きてきた世界で転生はさせてもらえないの? 平和だし、裕福とは言えないが僕なりに納得できる暮らしができていた。結構気に入ってたんだけどな。
『残念ながら、そのご要望にはお応えしかねます。あなたの生きてきた世界では、すでにあなたの生は終えられています。これを覆すことは不可能です』
不可能って……まあ、このままでは死ぬだけなのだろう。それは怖い。たとえ転生する先が異世界だろうとなんだろうと、生き延びられるのならその方がありがたいに決まってる。
それに、この話をもし蹴ったとしたら、僕はずっとこの得体の知れない場所に居続けることになってしまう。ここに存在するのは、意識の残滓らしい。残りカスだ。そんな不気味なものと一緒に居られるほど僕の神経は図太くはない。
この話を受けないという選択肢は、ない。
『では、これより転生を開始いたします。新たな門出を心ばかり祝福いたします』
その後すぐ、僕に何か力が宿ったかと思うと、意識が薄れていった。転生が始まったことが感覚でわかる。
新しい人生はどんなものだろう。どんな世界に生まれ落ちるのだろう。僕を新たに生んでくれる親はどんな人かな。友達とは仲良くできるだろうか。せめて転生して初めての友達とは上手くやっていきたいけど、大丈夫かなあ……
薄れゆく意識のなか、期待と一抹の不安を胸に僕は転生の完了を待った。
次から本題です。