そうだ、旅に出よう。
「だー! 書けないぃぃぃぃいいい」
かれこれ一時間ほど一か所で動かずに点滅しているカーソルから目を背けて、俺はわしゃわしゃと髪の毛を掻きむしった。
書けない、というのは小説のことだ。働きながら忙しい合間を縫って趣味として執筆していたのだが、半年ほど前に本気で作家を目指そうと一念発起して辞職し、今は一日のほとんどを執筆に費やす日々を送っている。
が、費やした時間と成果が比例するかどうかはまた別の話なのだということを俺は思い知った。
いや、賞が獲れないとかそういうことではない。ある程度時間がかかることは覚悟していたし、半年やそこら真面目に書いたくらいでものになるのなら誰も苦労しない。もちろんイレギュラーというやつはいるのだろうが、俺がそんな天才肌でないことくらいなんとなくわかる。
成果、というのは文章量の話だ。働いていたころより自分の作品と向き合っている時間は圧倒的に増えているはずなのに、その結果生み出された文字数はといえば昔とほとんど変わっていない。一日かけて一文字も浮かばないことなんてしょっちゅうだし、ひどいときには気に入らない部分を削除してマイナスになることさえあった。
貯金を切り崩しながらのニート生活。ギリギリまで切り詰めて、せいぜいあと5年といったところか。貯金が尽きればまた働かなくてはならない。文字で腹は膨れないし、今の俺はその文字を生み出すことさえまともに出来ちゃいないのだから。今28だから、デビューまでこぎつけられなければ33歳で再就職ってことになる。普通の転職と違ってブランクが長いし、かなり厳しいだろう。割のいいバイトでもすれば一応生活していくことは出来るが、それでは会社を辞めた意味がない。
「このままじゃまずいかなぁ……」
呟いた瞬間、スクリーンセーバー発動。愛機のディスプレイが暗転し、寝癖であちこちはねた髪に指を突っ込んだオッサン――つまり俺と目が合った。いや、オッサンというのは正確ではない。もう一度言うが俺は28だ。まだオッサンではない、断じて。……だよな?
まあ実年齢はともかくとして、画面に映し出された俺の姿はどこからどう見てもただのオッサンだった。ぼさぼさに伸びた髪の毛、整えられていない髭、そこに埋もれた血色の悪い肌と虚ろな目。そういえばここ数日まともに風呂に入っていなければ顔も洗っていない。久しぶりに鏡――正確には鏡ではないのだが――を見て、ため息が出るより先に頭の奥で警戒音が鳴り響いた。
「このままじゃまずいだろ」
確信に変わった。このままでは何も変わらない。自分で何かきっかけを作らなくてはあっという間にタイムリミットが来てしまう。精一杯夢に向かって努力しましたがダメでした、ならまだ諦めもつく。会社を辞めたときにその覚悟はしていた。だがこのままただなんとなくダラダラ執筆を続けていて、果たして俺は5年後の俺に胸を張れるだろうか。
「けど、一体何をしたら……」
俺は考えてみる。執筆に行き詰ったとき世の作家たちがしてきたことといえば何か。もちろん人によってばらつきはあるが、その中でもよく聞くものがあるじゃないか。
「そうだ、旅に出よう」
気分転換になり、かつ見聞も広められる。上手くすればそれが作品のヒントになるかもしれない。一石二鳥にも三鳥にもなりそうなそのアイディアに、俺は久しぶりに鼓動が逸るのを感じた。
「よしっ!」
早速スクリーンセーバーを解除してWordの画面を閉じる。上書き保存なんて必要ない。代わりにウェブブラウザを起動して検索をかけ、この時期訪れるのに良さそうな観光地を調べてみた。寒さを避けて暖かい地方に行くよりは、雪景色を楽しめるようなところがいい。
場所を絞り込んだところで今度は泊まるところを探してみる。
「せっかくなら和風の旅館がいいよなぁ……」
それも昔からあるような趣のあるところがいい。温泉もあるとなおいい。この際だから少し贅沢しよう。こんな機会そうそうないだろうし。
「うわ、結構高いな……」
贅沢しようと思っていた決心が早々に揺らぐ。3泊くらいしたいと思っていたのだがそうすると10万くらい軽くふっとびそうだ。さすがにそれはいただけない。
もう少し安いところはないかと思ってスクロールしていって、ある旅館に目が留まった。
「ここ……いいかもな」
駅からはかなり離れているしあまり大きくもなさそうだ。明治ごろから続いているらしいがオンボロということはなく、良い意味で趣を感じさせる立派な外観と内装だった。まあいつ撮った写真かは知らないが。
次に魅力的なのはその料金だ。心配になるほど安いわけではないが、かといって手が出ないほど高くもない。プチ贅沢にはおあつらえ向きの旅館だった。まあ外れを引いたら引いたでそれもいい経験になるだろう、と思うくらいには、俺はその旅館に惹かれてしまっていた。
何より、あくまでも執筆のために行くわけだからこういう静かそうなところの方が都合がいい。
「よし、決めた」
さっそく予約フォームに必要事項を記入していく。随分空きがあるなと思いつつも一番近い3日間にチェックを入れて、眺めがいいらしい南側の部屋を希望して送信する。予約内容を確認するメールが届いたのでプリントアウトして目を通し、間違いのないことを確かめると俺は椅子から腰を上げた。
「さて、そうと決まれば準備しなくちゃな」
気の早いことだが、気分の問題だ。俺は薄く埃を被っていた入浴セットをもって近くの銭湯へ向かった。家へ戻ってから洗面所で髭を剃り、眉を整え、ついでにざっくりと髪も刈る。鏡とにらめっこして頷いた。うん、やっぱり俺はまだオッサンじゃない。
「楽しみだなぁ……」
こんなにわくわくするのはいつぶりだろう。仕事をしていたときも、作家を目指そうと決めたときですらこんなに活き活きとした瞳はしていなかったような気がする。今ならいい文章が書けそうだ、なんて調子の良いことを思ってみる。まだ旅行に行ってすらいないのに、俺というやつは本当に単純だ。
「さて、もう一頑張りするか」
まさかこれですべてが解決するなんて夢を見ていたわけじゃない。結局のところ俺は、変わり映えしない日常から目を背けたかっただけなのかもしれない。
けれどもこの選択が、このあとの俺の人生を大きく変えることになる。
▽△▽△▽
いよいよその日がやってきた。夜行バスの中でうとうとしながら、俺は目的の温泉地を目指して旅立った。
「さむ……っ!」
身を切るような寒さに縮こまりながら駅から旅館まで歩くこと、およそ30分。歩いているうちに身体が暖まってくるだろうと高を括っていたのだが、雪で思うように動けないせいでその効果はほぼゼロだ。くそ、どうしてこんなに駅から遠いところに泊まらなきゃいけないんだ……いや、まあ俺のせいなんだけど。
まだ着かないのかよ、と心の中で悪態をつきながら顔を上げた瞬間だった。
「あ……あれかな?」
雪がちらつく先に見えてきた建物。もう少し近づいてみて――間違いない。
「ここだ……!」
思わず漏れた溜息は冷たい空気に白く溶けた。
雪の中でも存在感が薄れることなくどっしりとして、それでいて暖かな雰囲気を感じさせる外観。間近に見ると写真よりもずっと大きくて立派に感じる。
「ようこそお越しくださいました」
「へ?」
目線を下げると、入り口の前で従業員らしい男の人と女の人が俺を出迎えてくれていた。
「お待ちしておりました。お荷物をお預かりしましょうか?」
「は、はぁ……どうも」
仲居さんらしい中年の女の人に言われるがまま肩から提げていた荷物を預けかけて、慌てて我に返る。さすがに商売道具のPCは手放したくない。
「あ、結構です。自分で持つので……」
「はい、かしこまりました」
柔らかな笑顔にいくぶんかほっとする。せっかくの厚意を無駄にしてしまったかなと心配だったが、そんなこと気にならなくなるくらい自然に引いてくれた。
「どうぞこちらへ」
「はい」
にこやかな仲居さんに俺も思わず笑みが零れる。これは気持ちよく滞在できそうだと心躍らせながら、俺は仲居さんのあとへ続いて旅館の中へ足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
穏やかな声に顔を上げると、鮮やかな藤色の着物を纏った初老の女性が立っていた。
「大女将の葛原時子でございます」
「だい?」
違和感を覚えて首を傾げる。大女将ならまだ分かるが、大女将なんて聞いたことがない。
「いかがなさいましたか?」
「あ、いえ」
まあ絶対にそうでなければいけないのかと言われるとそんなこともないような気がするし、この旅館ではそう呼ぶことになっているということだろう。別に気にするほどでもない。
「本日は雪の中当旅館まで足を運んでくださり、誠にありがとうございます。それではお部屋までご案内いたします」
「はい、お願いします」
しずしずと歩く大女将の後に続き、落ち着いた色調の廊下を進んでいく。
「こちらがお部屋になります。この先を進んで右へ曲がると大浴場へつながる通路へ出ますので」
「分かりました」
「午後7時になりましたら小女将がお食事のご用意に伺います」
「小?」
「なにか?」
「あ、いえ。よろしくお願いします」
「はい。それではどうぞごゆっくり」
大女将は微笑んで部屋を後にした。
「大の次は小か……」
多分若女将のことだろうとは思うのだが、やっぱり少し、いやかなり違和感がある。重箱読みだからだろうか……ってそれは関係ないか。しかしどうしてそんな呼び方をするようになったのだろう。
「“小女将”さんが来たら聞いてみるか……」
由来がはっきりしているのか、そもそも由来なんてものが存在するのかどうかも分からない。ただなんとなくそうなりました、なんて解答が返ってきてもおかしくはないだろう。言葉というものは意外と適当なものだから。しかし何より一番気になるのは、普通の女将は“中女将”になるのか、それともただの“女将”になるのかということだ。
「……まあそれはあとで確認すればいいとして、まずは」
俺はノートパソコンの入った鞄に目をやり――勢いよく立ち上がった。
「――温泉行くか!」
雪の中を歩いてきたから身体が冷えてしまったし、足もくたびれている。せっかくここまで来たんだから入らないと損だよな。うん。
旅行鞄から替えの下着を引っ張り出して備え付けの浴衣とタオルを抱え、俺は弾んだ足取りで大浴場を目指した。
▽△▽△▽
のんびりと温泉に浸かったあとは、旅館の中を一通り歩いて回った。まあ小さな旅館だからあまり時間はかからなかったが。廊下の曲り角やつき当たりに飾られている花々に目を和ませながら部屋に戻る。
荷物を整理してからテレビを眺めてしばらくぼうっとして――はっとした。
「――って何をやってるんだ俺は!」
くつろいでいる場合じゃないだろ。本来の目的を完全に忘れていた。
「まあ、今日はいいか」
要は書くためのモチベーションが上がればいいのだ。気分転換出来ればそれでよし。この旅行中にどうしても書かなくてはいけないということもないし。
「……とか、言い訳してるから進まないんだよなぁ」
いつものパターンだ。今日はいいや、書きたくなったら書けばいい。無理やり書いてもいいものは出来ないし。そんな言い訳を繰り返しているうちにこうなってしまったというのは間違いのない事実で。
プロになったらスランプなんて言い訳は通用しない。どういう状況にあっても書くのがプロだ。なぜならそれが仕事だから。『やる気がないので今日は帰ります』なんて言っていたらすぐ会社をクビになるのと同じだ。書けない作家に作家を名乗る資格はない。書きたいときに書く、が通用するのは趣味の領域までだ。作家になれるのはきっと常に書きたいものがあってそれを形にできるような天才か、うまく書けないときでも自分で工夫して乗り切れるような計画性のある人間なんだと思う。俺はきっと後者にしかなれない。いや、こんな状態では後者にすらなれないかもしれない。
「……書くか」
どれだけ進むかは分からないが、原稿に向かうことを放棄するよりマシだ。
「よし、やるぞ!」
ばちん、と頬を両手で叩いて、俺は鞄から出したパソコンを開いて――。
「お食事をお持ちいたしました」
思いっきりずっこけた。
空気読んでくれよと恨めしく思うが、若女将……じゃなかった、小女将を責めたって仕方ない。時間を忘れてのんびりくつろいでしまっていた俺が悪いのだ。まあそのくらいいい旅館なのだということだから、むしろ感謝するべきだろう。
「どうぞ」
パソコンを閉じて、とりあえず畳の上にどけておく。
「失礼いたします」
そしてすっと襖が開き――顔を出した人物を見て俺は固まった。
「こども……?」
なんと扉の向こうに正座していたのは、桜色の着物を着たまだ10歳にもなっていなさそうな女の子だったのだ。
くりくりした大きな目に、すっと真っ直ぐ伸びた利発そうな眉。うっすら赤い頬にまだあどけなさが残っている。
「小女将の葛原美雪でございます」
「あ、はい。どうも……」
はきはきとした挨拶に、思わず姿勢を正してお辞儀をしてしまった。
「それではご準備させていただきますね」
「お、お願いします」
一通り配膳を済ませたあと、料理の説明に入る。子どもがしゃべっているという感覚は全くなく、所作のひとつひとつもてきぱきと淀みない。それにしても、どうしてこんなに若いうちから働いているんだろう。これだけ出来るということは、少なくとも一年はこの仕事に携わっているんじゃないだろうか。
「……すごいね、まだ小さいのに」
食事を終えたあと思わず漏れた台詞に、小女将――美雪ちゃんは苦笑した。
「どうしてこんな子どもが……って、思われました?」
「あ、いやそんなことは……ごめん」
「いえ、いいんです。みなさんそう仰いますし……『こんな子どもに客を任せるな』とお怒りになるお客様もいらっしゃるくらいですから」
「そんな……俺は純粋にすごいなぁって思ったよ。俺なんかよりよっぽど仕事出来るんじゃないかな」
「そんなことないですよ」
美雪ちゃんは少し顔を赤くしてはにかむ。年相応の一面が垣間見えて、なんだか微笑ましかった。頑張れ、って思わず応援したくなってしまう。
「ええと、どういったお仕事をされているんですか?」
「うーん……少し前に辞めちゃったんだけど」
はは、と笑ってみせた俺に美雪ちゃんは慌てて頭を下げる。
「あっ……失礼しました。差し出がましいことを……」
「いや、自分で選んだことだからさ。もっとやりたいことを見つけたんだ」
「やりたいこと、ですか?」
俺はさっき追いやったパソコンを指で示す。
「小説をね、書いてるんだ」
「小説?」
「そう、物語。作家になりたくてね」
どうしてこんな話をしているんだろう。なんだか無性に話したい気分だった。仕事をしている美雪ちゃんを素直に格好良いと思って、俺にもそれに負けないものがあるんだぞって胸を張りたかったのかもしれない。子どもに張り合ってどうするんだと思わないでもないが、たぶん美雪ちゃんはそういうふうに扱われるのを快くは思わないだろう。
「本を書く人になるってことですよね! すごいです……!」
すごい、すごいと興奮したように言われるのでちょっと照れくさい。思えばこの夢を誰かにちゃんと話したのは初めてのような気がする。
もしこの旅で変われなかったら諦めることになるかもしれないなんてことは言いづらい雰囲気だった。まあ、言う必要もないか。
「まだなれるって決まったわけじゃないんだけど」
「目指してるっていうのがもうすごいなぁって思います。私なんて作文もちゃんと書けないので……」
「作文?」
「はい。今日学校の宿題で出たんですけど、全然まとまらなくて。何を書きたいかは決まってるのに、書いてるうちにぐちゃぐちゃになってきちゃうんです」
仕事は出来るけれど勉強、少なくとも国語に関してはあんまり得意じゃないらしい。
「――よかったら、見てあげようか?」
あれっ、何言ってるんだ、俺。
「えっ、い、いいんですか!?」
そんな時間ないだろ。原稿はどうするんだよ。そう思うのに勝手に口が動く。
「力になれるかどうか分からないけど……」
「あ、ありがとうございます! 今日中に終わらなかったらどうしようって思ってたんです」
美雪ちゃんはほっとしたような表情を浮かべる。今更『やっぱり無理』とは言えそうになかった。
「ええと、仕事は何時に終わるの?」
「学校のある日は夕飯の配膳だけなんです、おばあちゃんがちゃんと勉強しなさいって。なのでこのあとなら――」
そこで突然、襖の向こうから声が響いた。
「お客様、少々よろしいでしょうか」
ぎくりとしたように顔を引きつらせる美雪ちゃんに首を傾げながら、俺は襖の向こうの女性に応える。
「どうぞ」
「失礼ですが、こちらに小女将は――」
顔を出した30代くらいの女性は、俺の陰に隠れるようにして縮こまっている美雪ちゃんの姿を目ざとく見つけて微笑んだ。
「小女将……そんなところに隠れて何をしているのですか?」
顔は笑っているのに目が笑っていない、と気付けたのは多分美雪ちゃんが怯えているのを目の当たりにしているからだ。そうじゃなかったら多分何も気付けなかっただろうなと思うくらい、ほぼ完璧な営業スマイルだった。
「こ、これは違うの……お母さ」
「お母さんではありません。女将です」
あ、中女将じゃないんだ。
「ご、ごめんなさいおか……申し訳ございません、女将」
どうやら美雪ちゃんのお母さんらしい。そう言われてみると眉の辺りや口元が似ているような気がする。
「ああ、すみません。こんなに若いうちから仕事をしているというのが珍しくて、つい色々聞いてしまいまして……引き留めてしまって申し訳ない」
とりあえず助け舟を出してやる。実際引き留めたのは俺だし、それで美雪ちゃんが怒られるのを黙って見ているわけにもいかない。
「いえ、それでしたらよいのですが……」
お客様にフォローさせてどうするの、とでも言いたそうな視線が美雪ちゃんに突き刺さる。もちろんこれも美雪ちゃんがびくっと首をすくめたから分かったのであって、女将だけ見ていたら絶対に気付かなかっただろう。
「ええと、それでなんですが」
「はい」
「僕は作家を目指している者なのですが、美……小女将を次回作の主人公のモデルにさせていただけないかと思いまして」
「はあ」
女将は目をぱちくりさせた。
「詳しく話を聞かせていただきたいので、出来れば一時間ほどお時間をいただけないかお願いしていたところなんです。女将にお許しいただければ構わないということなのですが、どうでしようか? プライベートをお邪魔してしまうことになりますから、もちろん無理にとは言いませんが……」
女将は俺と美雪ちゃんの顔を交互に見比べて、それから頭を下げた。
「かしこまりました」
くれぐれも粗相のないように――そんな視線に美雪ちゃんは慌てて頷く。
「ありがとうございます。助かります」
「いえ、お役に立てるのでしたら光栄です」
美雪ちゃんと協力して下膳を済ませたあと、女将は部屋をあとにした。
「それでは失礼します」
相変わらず隙のない笑顔を湛えたまま、襖が閉められる。
「――はぁ……!」
数秒後、美雪ちゃんはどっと肩の荷が下りたようにへたり込んだ。
「あ、ありがとうございました……」
「いやいや、俺が引き留めたのは本当だしね」
「突然私をモデルにー、なんて言うのでびっくりしましたよ」
「このままだと宿題見てあげる時間とれなくなっちゃうかなって思ったからさ」
しかし……意外といいアイディアかもしれないな、これ。もし本当にネタにできそうだったらあとで頼んでみようかな。
「まあ時間もあんまりないことだし、始めちゃおうか」
俺は鞄から鉛筆とノートを引っ張り出して、一枚破いて机の上に置いた。
「どんなテーマの作文なの?」
「ああ、えっと……『将来の夢』です」
――将来の、夢。
「……どうかしましたか?」
「あ、いや何でもない」
いやにタイムリーなテーマだな、と思っただけだ。美雪ちゃんではなく、俺にとって。
「それで、美雪ちゃんの将来の夢って? もしかしてこの旅館のことかな」
「はい」
美雪ちゃんは恥ずかしそうに笑った。
「いつかお母さんやおばあちゃんみたいな女将になりたいなって。高校を卒業するまでは学校に集中しなさいっておばあちゃんは言ってたんですけど、お母さんに説得してもらったんです」
「なるほど、それでこうやってお手伝いするようになったんだ?」
「はい」
きっと嬉しかったんだろうな、あのお母さん。そしてたぶん、内心ではおばあさんも。
「それと……」
「それと?」
「……めさんになりたいなぁって」
「ごめん、何だって?」
美雪ちゃんは顔をかぁっとを真っ赤に染めて、消え入りそうな声で呟いた。
「およめさんに……なりたいんです」
「あ、あー……なるほど」
「その、優しいダンナさんと一緒にこの旅館をやっていけたらいいなぁ……なんて」
随分と可愛らしい夢をお持ちで。
「ふむふむ、そのふたつが作文に書きたいこと……と」
「わー、違います! ダンナさんのことは書かなくていいですから!」
メモしようとしようとしたのを慌てて止められる。まあ、そりゃそうだ。
「はは、冗談だよ」
「か、からかわないでください……もう」
むぅ、と頬を膨らませる仕草に笑って、俺は話を先に進めた。
「そうだなぁ……美雪ちゃんは、この旅館をどういう風にしたいと思ってる?」
首を傾げる美雪ちゃん。うーん、まだちょっと難しいか。
「お母さんやおばあさんのどんなところに憧れてるか、とかでもいいよ」
「それなら……」
美雪ちゃんは黒目がちの瞳をキラキラさせて語り始めた。
「お母さんはすごく仕事が早いんです! 私は忙しくなるとわー! ってなっちゃうんですけど、お母さんは全然そんなことなくて、いろんなことを同時にぱぱぱーって出来ちゃうんです。でもそれでどんなに疲れてても、お客さんにはそんな顔絶対見せないんです。それがすっごくカッコよくて!」
「おばあちゃんは?」
「おばあちゃんは色んなところをよーく見てて……! お客さんの表情とか、顔色とか、そういうのを全部考えながらそれに合わせて対応をちょっとずつ変えてるんです。お客さんが喜んでくれるなら、ってお仕事じゃないこともたくさんやってて。廊下に飾ってあるお花も毎日変えてて、それをどうするか考えて活けるのも全部おばあちゃんなんです! 私もおばあちゃんに教わってるところなんですけど、まだ全然綺麗にできなくて……」
「なるほどね……」
お母さんの得意なことと、おばあさんの得意なこと。両方出来るようになったら……と憧れるのも分かる気がする。
「じゃあ、これをまとめてみようか。何枚書けばいいの?」
「3枚です」
「オッケー。それなら……」
俺は美雪ちゃんの言ったことを箇条書きにしてまとめた。順序立てて簡潔に文章にしていけば作文として見られるものにはなるはずだ。早速美雪ちゃんが紙に鉛筆を走らせていく。
「――あとは結論を書いて……よし、これでいいんじゃないかな」
ざっと頭から見直してみて、俺は頷いた。誤字脱字もないし文章にも特におかしなところはない。
「これをあとで原稿用紙に写せば大丈夫だと思うよ」
「わあ、ありがとうございます……!」
「いやいや。俺は何もしてないからさ。書いたのは美雪ちゃんだし」
「私じゃこんな風にまとめられませんでしたし……本当に、ありがとうございました!」
大したことしてないんだけどな、と思いつつも、そう言われると悪い気はしない。
「思いついたまま書くんじゃなくて、一回整理すると書きやすいんですね」
「そうだね。人にもよるけど、ぐちゃぐちゃになっちゃうときは一度何を言いたいのか書き出してみると、どんなふうにしたらいいか大体の形が見えてくるよ」
言いながら俺は腕時計に目をやった。何だかんだでもう一時間か。
「じゃあ、そろそろ……」
「あの、何かお礼させてください!」
「え? いや、いいよそんな。俺としてはこんないい旅館に泊めてもらったお礼のつもりだったからさ」
「それこそお客様なんですからいいです。……あと、さっきお母さんから助けてくれましたし」
美雪ちゃんはぺろ、といたずらっ子のように舌を出してみせる。
「じゃあ、そうだなぁ……」
俺は笑って人差し指を立ててみせた。
「――俺のお嫁さんになってもらう、とか?」
沈黙。
……あ、やばい。これはもしかして、いやもしかしなくてもセクハラってやつか。冗談とはいえ訴えられたら勝てる気がしないぞ。しかも相手は小学生だから別の法律にも引っかかってきそうだ。
「じ、冗談だって」
「な、なんだ……」
ほっとしたように胸を撫で下ろす美雪ちゃん。……危ない危ない。
「…………冗談、かぁ」
「どうかした?」
「あ、いえ。何でもないです」
いくらお嫁さんになりたいからって相手が誰でもいいわけじゃないだろうに。自分のデリカシーのなさに呆れる。女の子の夢を壊してしまったらどうするんだ、まったく。
「何も浮かばなかっただけだよ。そのうち思いついたら言うからさ」
美雪ちゃん仕事モードに戻って姿勢を正した。
「かしこまりました。お待ちしていますね」
「ありがとう。さあ、早く宿題終わらせておいで。遅くなるとお母さんが心配するよ?」
「はい。本当にありがとうございました。失礼します」
その姿を見て、俺はふと思いついた。
「あ、美雪ちゃん」
「はい?」
「もしよかったらでいいんだけど……本当にモデルになるっていうのは、どうかな」
「モデル、ですか?」
「うん。夢に向かって一生懸命頑張るヒロインっていうのが書きたいなって。美雪ちゃんならぴったりだと思うんだ」
それは本当にただの思い付きだった。女将を目指して修行中の美雪ちゃんをモデルに、ひとつの物語を書く。そこに立ちはだかる試練や苦難。そして喜び。それなら書けるんじゃないかと思ったんだ――それは俺が作家を目指して過ごしてきた日々とも、重なる気がしたから。
「……ダメ、かな?」
美雪ちゃんは首を振って、目を輝かせた。
「いえ。すごく読んでみたいです、そのお話」
「じゃあ、明日もまた話を聞かせてくれるかな?」
「もちろん」
「じゃあ、また明日」
「はい」
美雪ちゃんは微笑んで、今度こそ部屋をあとにした。
「――よし、書くぞ!」
俺はPCを起動して、次から次へとあふれてくるアイディアを打ち込み始めた。
▽△▽△▽
それからは面白いくらいに作業が捗った。美雪ちゃんが経験してきたこと、今まで俺が考えてきたこと、そのすべてが物語を作るためのピースになっていく。
あまりにも美雪ちゃんとの話が弾みすぎて女将さんににらまれることもあったけれど――もちろん表情からはうかがい知れないのだが――とても充実した日々を過ごすことが出来た。
そして、出発の日。
「絶対いいものを書くよ。出来上がったら美雪ちゃんに一番に見せに来るから」
「約束ですよ?」
「うん、約束」
美雪ちゃんと指切りをする。そうして俺は旅館をあとにしようとして――ふと思い出して振り返った。
「あ、そういえば美雪ちゃん」
「何ですか?」
「ここの旅館ってさ、どうして大女将、小女将なんて呼び方をしてるの? 女将さんは普通だけど」
「ああ、よく聞かれますよ、それ」
やっぱりみんな気になるのか。そうだよな、気になるよな。なんで女将さんが“中女将”じゃないのか――って違うか。
「で、どうしてなの?」
「それは――」
美雪ちゃんは口を開きかけて、それからふふっといたずらっぽく笑った。
「――小説がちゃんと書き上がったら教えてあげます」
「えっ、何それ、気になるんだけど……」
「それだったら早く書いてください。そうじゃないとすぐサボるんですから」
「はーい……」
俺は苦笑した。俺の癖はすでに分かっているらしい。まあ、今までのこととか色々話しちゃったからなぁ、俺の方も。美雪ちゃんといると楽しすぎて、ついつい余計なことまで喋ってしまう。
「絶対教えてよ? 忘れたーとかはなしだからね」
「はいはい」
これで『理由なんてありません』なんて返ってきたら拍子抜けだな――まあでも、それはそれで面白くていいかもしれない。
「じゃあ、また」
美雪ちゃんは頷いて、深々と頭を下げた。
「――またのお越しをお待ちしております」
終
締切ギリギリで申し訳ないです。
小人ってこどもとも読めるよね。そこから始まったお話です。