79、図書館でお勉強
なんだかんだで中間テストもあまり良くなかった七緒は、今回こそ真面目に勉強しようと、町の図書館にやってきた。
最近ようやく、商店街への道を覚え、その少し先に図書館を発見していたので、機会があれば行くつもりでいたのだ。読書好きの七緒は、それが純粋に勉強するためになるとは思っていなかったが、寮にいると誘惑と邪魔が多すぎる。
「問題は数学ⅠAと英語Ⅰと……家庭科と保健体育とOC……」
英語と数学はもともと苦手科目なので、まあ予想の範囲内だ。問題は、中間考査では実施されないため範囲の広い、主要科目以外の科目。中でもOCは、英語でのコミュニケーションを主とした授業で、会話らしい言い回しや、英語Ⅰとは範囲の違う単語や文法が出てくる。リスニングはもう捨てだ。
「あーやだ勉強やだ何の意味があるの……」
この言葉は、中学での始めての定期テストから、毎回吐いている気がする。
まず最初に、と英語の教科書とノートを広げた時点で、眩暈がして机に突っ伏した。
そのとき、背後から遠慮勝ちに声をかけられた。
「戸塚くん……?」
振り返ると、私服姿のクラスメイト、武本優子が、恐る恐るこちらを見ていた。
「わっ、優子ちゃん。ええ、優子ちゃんも勉強?」
七緒が立ちあがるとほっとしたのか、優子は頷いた。彼女の重そうな手提げカバンには、七緒の持ってきた物と同じ教科書が入っている。
「偶然だね。よく来るの?」
「うん、家が近い、から。戸塚くんも?」
「おれ寮だから」
「ああ、言ってたね……」
訪れた沈黙に、七緒がむずむずする。
下手に女から男になったせいで菜々子であった頃に持っていた、妙に紳士的な「男の子」のイメージが、彼を時たま積極的な男にするのだ。
「ねえ、良ければ一緒に勉強しようよ」
「ん? ここって過去形?」
「だってホラ、昨日の夜って」
「ラストイブニング……あっ、そっか」
一緒に勉強をしないか、と言われて、優子は困った。断るのも気が引けるけれど、彼女はあまり男子に耐性がない。兄はいるが、年が離れているせいで、あまり参考にはならない。
七緒は一応、今までで一番仲の良い……というか、一番よく話す男子であった。しかし、こうして休日に図書館で、向かい合わせで座っていると、なんだかむずがゆいし落ち着かない。
何を話せば、なんて思いもしたが、真面目に勉強しだしたので安心した。
「優子ちゃん英語得意なんだね」
「うーん、苦手…って程では、ないかも……」
「なんかコツある?」
彼は英語が苦手なようで、30分もテキストをやるとすぐに机に突っ伏した。
「いや、私も得意ではないんだって。私はね、教科書丸覚えしてる」
「丸覚えっ!?」
大声をだした七緒に、慌てて唇に指を当ててみせる。この自習室は二人以外に利用者は居ないが、図書館内だということを忘れてはいけない。
七緒も辺りを見回してから、優子に両手を合わせてみせた。
「ごめん、びっくりして」
「ううん、言い方が悪かったね。あのね、丸覚えって、隅から隅までじゃないの。章ごとに、毎回三個くらい例文あるじゃない? あれを丸々覚えるの。そうすると動詞とかを同じ場所に当て嵌めるだけだし、運が良ければ例文まんまでるから」
「おおー、そうか……でも例文も結構な量あるよね?」
「そこは気合いかなぁ……」
「気合いかぁ……あるかなぁ」
なんだかおかしくて、二人して肩を震わせる。
とても彼に親切にしたい気持ちになって、優子は提案した。
「……あのね、私、ルーズリーフに覚える単語と例文まとめてあるんだけど、よければコピーする?」
「えっ? ……いいの?」
もちろんそうさせて貰えれば、覚える単語のピックアップすら終わってない七緒は大いに助かる。けれど、人がコツコツ、真面目にやってきたものを、コピーして使わせてもらうのはどうだろうかと。根が真面目な七緒はそう思うのだ。
同じく真面目な優子は、そんな考えはお見通しのようで、いいのいいのと笑った。
「こういうの、最初から頼りにされると、ちょっとやだなって思うけど、戸塚くんみたいに言ってくれる人なら、いい」
七緒は少し赤くなった。理由はわからないけれど、照れ臭い。誉められた、からだろうか。
赤面するクラスメイトをみて、優子も頬を染めた。よく考えると、ちょっと恥ずかしいことを言った。
あなたならいいよ、なんて。
―――なんか変に特別に聞こえる、なにこれ。
優子が俯いていると、七緒は「じゃあ」と声をあげた。
「コピーさせてもらってもいい? うーん、お礼になんか奢るよ」
「えっ、いいよ!」
勢いよく遠慮してしまったのを後悔して、優子は慌てて付け足す。
「あ、えっと、私、化学わかんないところ多くて。教えてもらっていい?」
七緒もほっとしたように表情を緩めた。
「あ、うん、新しいとこの範囲はわかる。前回はダメダメだったんだけど」
ラファエルに教えてもらっても、結局理解出来なかった。今回その範囲が出ないわけではないが、新しく習ったところが七割だ。化学や数学は、単元によって解るところと解らないところの差が大きい。
「じゃあ英語一段落したら、化学やろう」
「よし、あともうひとふんばりだ」
揃った二人ともが真面目であれば、当然のように勉強ははかどる。二人とも、今日やろうと思っていた範囲よりも、少し多く進めることができた。
四時をまわった頃、七緒のケータイが震えた。
「あ、おれ時間だ」
バイブレーションアラームをかけていたのだ。帰って夕飯作りを手伝わなければならないし、帰り道におつかいにも寄らなければならない。
いい天気だったせいか、途中ちらほら人が来るだけで、自習室は今も二人だけだった。
残ってやってもこれ以上一人では進みそうにないな、と思った優子は、七緒と一緒に図書館をでた。
「暑ぅ……溶けちゃう……」
途端に襲い狂う西陽に、七緒は顔を覆う。一方優子は、掌で目を守りながらも、夕焼けをじっとみて、指差した。
「戸塚くん、飛行機雲、ふたつも」
「えっ、本当? ……わあ」
赤い空に、二本の白いすじ。ちょうど、学校がある方向でそれらは交差していた。
「綺麗……」
「……でもやっぱり、暑いね」
子供っぽいことを口走ってしまった、と思った優子は、控えめに笑った。けれど七緒の横顔は、キラキラ輝いて嬉しそうだ。
「そうだねー、でも最近雨か曇りだったから、久しぶりに晴れると気持ちいいね。…暑いんだけどさ」
振り返った七緒と、目があって怯む。
―――あれ、なんだろう、なに、これ
夕陽に照らされた七緒にじっと見つめられて、固まる。目が離せなかった。
何秒もしないうちに、少年はへにゃりと笑った。
「優子ちゃんのワンピース、オレンジ色になってる」
久しぶりの晴れの日に、彼女はお気に入りの白いワンピースを着た。それが、夕陽のせいでオレンジに染まっているのだ。
頬が、熱くなった。
「じゃーね! 気を付けて帰ってねー」
手を振って小さくなって行く少年に機械的に手を振り返しながら、少女は呟いた。
「……あつい、なあ」