74、二人の告白
「お座り、ナナ」
部屋に入った途端そういわれ、七緒は絨毯にちょこんと腰をおろし、ビーズクッションを抱いた。
「お話ってなんですか、アオさん」
聞かずともわかっているけれど、牽制のつもりで問いかける。
警戒が伝わったのか、葵は苦笑した。
「もう、雪弥を許せとか言わないよ。本人たちの問題だし」
じゃあ何を、と問うと、優しい口調で「理由だよ」と答えられた。
「ナナが、そこまで怒る理由だよ。こんなこと言っちゃ悪いけど、2週間も長引くような喧嘩じゃないだろ? ナオと喧嘩したって、すぐ仲直りするじゃないか」
―――ああ、そこから、
七緒は酷くげんなりした。そんなところから、周りはわかってくれていなかったのか。
これが、男と女の意識の差なのかは、わからない。けれどそうだとしたら、男とはとんでもなく愚鈍で、自分勝手な生き物だ。
自然と、今までこの優しい3年生相手にしたことがない、吐き捨てるような口調になった。
「ナオは、いつも、本気です」
彼は沸点が低いと言われればそうだけれど、その分熱が収まるのも早い。怒った、と思ったら、謝罪される。どちらにしても本気でかかってくるので、七緒の方も本気で怒るし謝る。
むかついたらすぐにそう言うし、悪いと思ったり喧嘩を終わらせたいと思ったら謝る。自分の心に、彼は驚くほど素直なのだ。
「なんでもないときに喧嘩なんて売って来ないし、謝る時だって心の底からです。だからおれも、おんなじふうに応えたいと思います。―――でも、」
雪弥はそうではなかった。
唐突に喧嘩を売って―――キス(あれ)が喧嘩なのだとしたら―――悪いと思ってもいないのに謝罪した。
「なんであんなことされたのか、おれ、わかりません。……本当に、わかりませんか」
おれが怒る理由、と言うと、葵は目を細めた。
「……雪弥が謝らないから?」
「それは当然でしょ。悪いのにきちんと謝らないとか最低」
「男にキスされたから?」
「……もう!」
ばふ、とクッションを叩くと、七緒は目を三角にして、歯を食いしばる。
「ゆーきゃん先輩も、そう言ってた! 変なふうに笑って、適当にごめんなって言って、男にキスされたら気持ち悪いよなって! 違います。ゆーきゃん先輩に、されたからです」
そんなに雪弥が嫌いなのか、と驚く葵に、七緒は散々溜まった愚痴を吐き出す。
「勘違いだったらすみませんけど、ゆーきゃん先輩もアオさんも、妙に性別に括ってませんか。ちゃんと考えたらわかるでしょ、男だろうが女だろうが、恋人でもないひとにいきなりキスされたら、嫌に決まってる!! おれ、初めてだったんですよ。なんでそれを勝手に奪われなきゃいけないんですか。奪われて怒っちゃだめなんですか!」
それに、と思う。自分は最初、怒っているのではなかった。傷ついていたのだ。
「だって、先輩がおれのこと好いてくれてたとしたら、それでもいきなりキスってあり得ないと思うけど、まだ良いじゃないですか。でも、でも、」
あのひとは別におれに恋愛感情なんて抱いてない、と吐き捨てる声が―――震えていた。
葵は慌ててイスから降りて、七緒の頭を撫でる。
「ごめん、泣かすつもりなかった」
「おれ、だって、泣くつもりはありま、せんっ」
ぐいとあげられた顔に、涙の跡はなかった。ただ、眼鏡の向こうのつり目が、いつもより光っている。
「あいつはお前のこと好きだよ」
「違います。可愛がってくれてたのはわかってます。でも、仲良しでも、口にちゅーはしない、でしょお?」
声が、瞳が、潤んでいく。
「ゆーきゃん先輩、なんか甘えてる気がする。男とかそういうの、自分で持ちだして、おれが怒ってるの、性別のせいみたくしてっ、」
溜まっていたのだ、と葵は思った。周囲が思うよりもずっと、七緒はストレスを溜めていたのだ。発散もさせてやれず、気づけば喧嘩から2週間が経過していたのだ。
「あのひと馬鹿ですよ。だってキスは恋人のするもんでしょ! ここは日本なんだから、仲良くってもキスはしないでしょ! 大体、日本じゃなくたって、あんなにピリピリしたキス、しないでしょ! おれ、すごい、……っ怖かった……!」
しぼりだすように吐き捨てながら、七緒は静かに泣いた。
葵は何も言えずに、その震える肩を抱いた。そうして、ちらりと二段ベッドを見上げる。
雪弥は、必死で布団にへばりつきながら、真っ青になっていた。
「(こわ、かった……俺が)」
嫌悪ではなく、恐怖。いたずらにそれを与えてしまっていたことに、雪弥は驚いた。何故そうと思い至らなかったのだろうと後悔する。
そして、「性別のせいにしている」と指摘されたこと。
「(その通りだ、オレは、それに、括ってた)」
性別に。男だとか、女だとか、そういうところに。
ふざけた声音で、いつでも自ら、自分はバイだと、性別関係なく愛せるのだと、そう公言していた。
思えば、それは予防線だったのだ。誰かに指摘されることが怖いから、先手を打っておく。オープンにして、「雪弥」のキャラを周りに浸透させる。
そのくせ、誰よりも性別に拘っていたのは、自分だった。
「(…………みっともねえ)」
自分のいないところで、怒る理由を口にし、恐怖を告白し、静かに静かに泣く後輩を知って、ようやく認めることができた。
初めから最後まで、八つ当たりだったのだ。
七緒が落ち着いた頃、葵は優しい声で言った。
「ナナ、ごめん。お前が怒ってた理由とか、怖かったこととか、気付かなくて、ごめん」
充血した眼を見開いて、七緒は首を横に振る。
「アオさんが謝ること、一個もないです。おれこそ、なんか八つ当たりみたいになって、ごめんなさい」
「いや、干渉しようとしてたくせに、ちゃんと状況理解してなかったのは、俺が悪かったんだよ」
心からそう言っているのが見てとれて、この3年生は、どれだけ他人を抱え込むのだろうと、七緒は心配になった。
そして同時に、自分はこんなふうにひとのことを考えられるようになれるだろうか、とも思う。
「……おれ、アオさんみたいに、なりたいな」
前も少し思ったことを、気づけばこぼしていた。葵は意味がわからなかったようで「ん?」と首を傾げた。
「アオさんみたいに優しくなりたいなー……」
「なんだよ、俺って、そんなに優しくみえる?」
「優しいですもん、アオさん。普通、後輩同士のめんどくさい喧嘩なんて放っとくものでしょ?」
めんどくさい喧嘩だと自覚してたのか、と思いつつ、葵は正直に言う。
「あいつあれでも寮長だろ。そんでさ、ナナはもう、おっかさんも寮生も公認の、なんつーか、お母さんみたいな? 世話役みたいな? そういう感じだろ。今年と来年、お前らは銀杏を一緒に支えていく立場になると思う。だから、銀杏寮大好きのアオさんは放っとけなかったの」
「ふふ、銀杏のためですか。アオさん、お茶部も大好きだし、銀杏も大好きだし、ここが好きなんですね」
七緒の表情が柔らかくなったことに安心しながら、やっぱり自分はその気持ちが駄々漏れなのかと苦笑する。
「まあね。初等部から通ってて寮まで入るとさ、もう、こっちの方が家みたいなんだ」
くしゃり、後輩の頭を撫でる。彼はドライヤーを使わないタイプなのか、髪はしっとりとしていた。
「話してくれてありがと、ナナ。ごめんな、点呼も終わったのに呼びだしてさ」
「ううん、いいんです。ちょっとすっきりしました。……あのね、アオさん」
出ていこうとした七緒は、振り返って、しばらくもじもじした後、蚊の鳴くような声で呟いた。
「あのね、おれもね、仲直り……したいんですよ。ゆーきゃん先輩は、馬鹿で意地悪で我儘でどうしようもない先輩だけど、」
ひどい言われようだな、と葵は一瞬二段ベッドを見やる。さすがの雪弥でも、今この場面で出て行ったらどうなるか、その深刻さがわかっているようで、「オイオイ七緒さん言い過ぎ……」と思うだけに留めた。
「おれね、好きなんですよ、先輩のこと。こんなに怒ってるのに、嫌いになれないんです」
ひどく恥ずかしそうに、でも素直にそう言う七緒だったが、さらに小声で「怒ってることにかわりないんですけどね」と付け加えたことから、彼の怒りの深さが感じられる。葵は思わず頬を引き攣らせた。
雪弥も同じように思ったが、それ以上に、なんの他意もなく「好きだ」と言ってくれる後輩が、とてもいとおしくなった。
普通なら、敬遠する。バイだと公言しセクハラ発言の多い面倒な上級生に、普通は懐かない。けれど、七緒はなんの先入観も、差別もなく、するりと溶け込んできた。
直哉とはまた違う、無邪気でいて達観したような、不思議な器の大きさ。
「(……変な、奴なんだよなぁ、ナナって)」
変わりものが多いとされる銀杏の住人たちに、あっという間に受け入れられて可愛がられ、かと思えばてきぱきと料理や雑事をこなしている。彼もとっくに、変人の仲間入りをしていた。
扉の閉まる音がして、それでも雪弥は動かなかった。葵に声をかけられて、ようやく起き上がる。
「……仲直り、したいと思っただろ?」
葵は、罪悪感で苦笑していた。七緒は、自分と二人きりの空間だと思っていたから、あんなふうに喋ってくれたのだ。それをこっそり、雪弥に聞かせるなんて。
「……アオさん、趣味悪いよ」
「わかってるよ、自分でも。でも、お前にだって良心ってもんがあるだろ。あんな後輩見て、まだ謝ろうとは、思わない?」
雪弥は黙り込んだ。昔から、初等部で出会った頃からそうだが、この男はずるい。選択肢を与えているようで、答えはひとつしかないことを、やんわり諭すのだ。
雪弥は小さく頷いた。
「明日……謝る。あのさ、そんでさ。……引かない?」
ん? と続きを促す葵は、なんだかもう、分かってるようだった。
「オレ、オレね――――――……」