73、優しい謀略
目の前に立つ葵の、優しい顔を見て、雪弥は泣きそうになった。
「今から俺の部屋に来い」
「わあどんな誘い文句ですかアオさんったら」
茶化す雪弥の頭を撫でると、途端に不貞腐れたような顔になった。
「……もう、いいですってば。なんすか、なんでみんな、オレとナナをどうにかさせようとすんの」
「お前ら、割と良いコンビなんだもん。仲直りして欲しいんだ、みんな」
「みんな、」
なんて。そんなのうそだ、と駄々をこねる。
雪弥は、葵に対してだけ、おふざけじゃない、本物の甘えを見せる時がある。
そういうのは恋人にすればいいのに、と言ったとき、「なんで?」と問われた。
「恋人は恋人だよ。やることはやるし一緒にいて楽しいけど、アオさんじゃないじゃん」
ものすごく当たり前のように言われて、ものすごく困惑した。
うん、そりゃあ、俺じゃないよ。でもなんか、なんかが違くねえかなぁ、と思いつつも、変な方向に話が行きそうで、その時は「へー」とやる気のない返事をした。
その後、長い時間をかけて話しあう機会があって、そこから少し関係も変わったのだが、未だに、自分の他に甘えられるひとがいないようなのだ。
「みんなだよ。なあ、銀杏のみんながみんな、お前のこと好きとは言わないけど、お前とナナのやり取りはみんな好きだよ」
すげえ笑えるし、「ああまたやってる」って、銀杏に帰ってきたなって思うんだ。例えば、お前とテツの口喧嘩みたいのもそうだし、ナナとナオなんてそれこそ癒しで、ほらお前とナオだって馬鹿やってるだろ。そうだな後は騒がしいけど東條と福井だろ、智と光流だろ。うるさいしめんどくさいし、でも笑えるし、なんか可愛いんだよ。また笑かして欲しいんだよ。バカみたいな些細なことで、喧嘩長引かせて欲しくないんだ。
長々と説明したが、どうやら雪弥は半分も聞いていない。何故か最後の「バカ」のくだりは耳に残っていたらしく、抗議の声をあげる。
「バカみたいって、」
「ああ、お前も、ナナもバカだよ」
これ以上続けても埒があかないと思ったのか、葵は食い気味に雪弥を止めると「とにかく俺の部屋に来い。ちょっとしたら俺もいくから、先に入ってていいぞ」と言い残して、部屋を出て行った。
「(……アオさんの、ばか)」
葵にそんなふうに言われたら、雪弥には従うしか選択肢がない。それをわかっているから、葵はめったにあんな真剣な命令口調にはならないのだ。
けれど今、葵はそれをした。
「……わかってっけどさぁ、オレが悪いのなんて」
せめてもの抵抗としてそのまま寝転んでいたが、きっかり五分したら、立ち上がった。そして、雪弥は、重たい身体をひきずるようにして、葵の部屋に向かった。
「ふう……」
葵が、階段の前で息をついていると、ちょうど彰人が踊り場から上がってくるところだった。
丸い目が、労わるように細まって、けれど彰人は何も言わず、片手を軽く挙げそのまま通り過ぎる。
さすがに3年は、葵に対して「さすが」なんて言わない。藤枝あたりが冗談で「さすが銀杏のお父さん」なんていうこともあるが、空気を読まない彼でさえ、本気でそんなことは言わない。
3年、もしくはそれ以上、一緒に過ごしてきた仲間は、葵という人間を知っている。
しっかり者で、機転の利く、ただの男の子だと。
自分の限界をわかっているから、抱え込むことはないことも。
褒め言葉や大仰なねぎらいも必要としていないことも。
だから、こうして、自由に動かせてくれているのだ。
「(ありがたいよなぁ、こういう……仲間)」
家族や親友というには遠いかもしれない。寮生と括るには近過ぎる。だからきっと、葵と彼らは仲間なのだと思う。学校の友人とは違う、生活を共にした者同士の、絆。
それは同学年に限らない。葵と雪弥では少し話は違ってくるが、葵と七緒は、もうその関係になるのが見え始めている。七緒は純粋に尊敬してくれるし、葵も彼にシンパシーを感じている。だから、雪弥の様子を見ていて欲しいなんてことも言った。雪弥と七緒だって、仲間になれるハズなのだ。全ての寮生に均等に、その権利も機会も原因も、降りかかる。
誰と誰が仲良くするかしないかなんて、本人たちの勝手だ。けれど今回は、今後の生活に支障がでる。それ以上に、雪弥も七緒も、問題を解決したいと思っている。雪弥のちょっかいを一番上手く流して構ってやれるのは七緒だし、七緒の天然な言動にツッコむのは雪弥が一番上手い。2人は良い関係を築き始めていた。
つまりはお互い、喧嘩を続けてて良いことなんて、ひとつもないのだ。
コンコン、とノックする。405号室の扉が開いて、直哉が顔をだした。
「あれ? どしたのアオさん、点呼ももう終わったよ?」
「入れてくれるか?」
質問には答えずに問いかける。部屋の前でぐずぐずしているところを雪弥に見られたら(雪弥の部屋も同じ階だ)面倒だ。
当然のように直哉は葵を招き入れ、ドアを閉めた。
「……ナナ」
「アオさん……どうしたんですか?」
振り向いた七緒の目は、赤かった。思い違いではなかった。さっき、彼はやっぱり泣いていたのだ。そして、泣かせたのは、葵自身だ。
しかし、表情は固いものの、いつも通りの気安さで首を傾げたので、気持ちは落ち着いているんだろう。
「ナナ、さっきはごめん。無神経な言い方した。ちょっとさ、俺の部屋で話さないか」
そういうと、七緒は困った顔になった。2人の中間に立つ直哉が、葵を見上げて言った。
「アオさん、オレも一緒で、ココじゃ駄目? 1対1じゃ話しにくくない?」
「ごめんナオ、俺はナナと2人で話したい。俺自身も話したいし、ナナの話もきちんと聞きたいんだ」
直哉に答える体をとりながらも、七緒から目は逸らさない。
彼には、真っ直ぐそう頼むしかなかった。雪弥だったら、真剣に「来い」と言えば来る。けれど七緒は雪弥ではないし、先輩という立場ではあっても、命令できる心境ではなかった。葵は先程、七緒の期待を裏切ったのだから。
「頼むよ、ナナ。話をしよう」
「……もうしたでしょう。さっき」
「それでも。もっときちんと」
恨めしげな七緒の瞳に負けるまいと、ことさらに強い視線で訴えかける。
七緒が目を逸らした瞬間、勝ったと思った。七緒は人の頼みを断れない性格だから、もともと勝ち戦だったが、それでもほっとした。
「……わかりました。行きます。……アオさんにそんなふうに見られて、断れるわけないじゃないですか……」
悔しそうに恨めしそうに言う七緒に、苦笑してみせる。確かに、それがわかっててやった自分は卑怯だ。
そうして、心配そうな直哉を置いて、2人は405号室を出た。
雪弥も葵も、一人部屋だった。
基本的に銀杏寮は同学年での2人部屋だが、学年が上がるにつれて、毎年何名か寮を去る。寮が満杯であることは滅多にないので、新入生が入っても部屋は余る。そのため、2人部屋の1人が出て行くこと、学年が上がる際に引っ越し権(余った部屋にどちらかが移動する権利だが、1年生にはなく、3年>2年の優先順位もある)を使うことによって、1人部屋が誕生する。例外は、七緒がやってくるまでの直哉だ。新入生が奇数のときは、誰かが1人部屋になる。ちなみに、今の1年生は名前順で部屋を決めたが、2年と3年が入って来たときはくじ引きだった。毎回方法は、新入生に決めさせるのだ。
雪弥の場合は、ルームメイトが、2年になる時に一人暮らしを始めた。葵はもともと赤城と同室だったが、2年になる時に空き室が増えたので、赤城が隣に移動したのだ。彼らは2人して大柄なので、部屋が狭かったせいである。
しかし、雪弥は長時間1人きりでいるのが好きではない。友人も多く恋人も途切れないタイプで、しかも寮生であるので、1人でいる時間は本当に最小限だ。
そのため、雪弥は葵の部屋に入り浸ることが多かった。
まさに勝手知ったる、という遠慮のなさで、先輩の部屋に入る。
そして、定位置である2段ベッドの上に上ると、うつ伏せに寝て置いてあった毛布を頭まですっぽりかける。こうすると、身体に厚みのない彼は、一見いないように見えるのだ。毎回こうして驚かせようとしていたせいか、一年経った今では、葵はすっかり動じない人間になっていた。
もう、それは癖のようなものだった。だから、葵はわかっていたハズだ。雪弥が、そうして隠れることを。
ドアの向こうで話し声が聞こえて、雪弥はいっそうベッドにへばりついた。そのとき気がつくべきだったが、気がついたとしても、もうこの状況は変えられなかっただろう。
部屋の扉が開く音がして、雪弥は飛びだす準備をした。が、踏みとどまる。
「……ほら、入って」
「はい。……お邪魔します」
「そこのクッション使っていいよ。お座り―――ナナ」
アオさんめ、と思った。もう、出るに出られない。