7、荷造り
「…つまりだな、お前が女であった場合は、弟と上手くいってたんだろうが、男だった場合、あいつとは上手くいってないってことだ」
「なに、それ……」
出て行け、と怒鳴る孝明に、七緒はかろうじて「部活、遅れる…」と呟いた。
時計を振り返った孝明はぎょっとした顔をして、ものすごいスピードで着替え、スポーツバッグを担いで駆けて行った。
「さっさと出てけよ! その辺触るなよ! つーか話しかけるな!」
と、兄に噛みつくのも忘れずに。
そしてその兄は、未だ放心状態で座り込んでいた。
「言ったろ、女だったときと態度違う奴もいるって」
「……だからって…なんであんな…」
ぐしゅ、と鼻をすすり始めた七緒に、ロウは戸惑う。
あれだけ苦手だと言っていたネズミの姿で近づいているにも関わらず、少年はそれさえ気付かないようだった。
「…姉だった奈々子とは上手くいってたかもしれないけど、性別が同じだと色々あるんじゃないか?」
精一杯慰めようとしても、彼には届いていない。
「七緒…戻らないと、奈津子さんが心配してるんじゃないか」
「だよね…大声だしてたしね……行く」
七緒が立ちあがるより前に、ロウは小さな黒いウサギのキーホルダーになった。
「えっ? 君、ロウ?」
―――「一応無機物にもなれるんだけど。それだと、お前の母さんあたりには「何か取り憑いてる」って見えちゃうんだけど…」
今度こそ、ロウの声は直接頭に響いてきた。
「ネズミとかノミは?」
―――「生き物だろう? その生命エネルギーだと思ってくれるんだ。虫とかネズミくらいしか、思いつかなくて…でもお前、その類無理だろ」
「うーん、わたしハムスターでさえ苦手だからね……リスなら平気かもだけど。虫も、あんまり近いとなあ…キーホルダーのが運びやすいか」
というわけで、しばらくの間ロウはウサギのキーホルダーとして七緒のケータイにつけられることになった。
「ぶさかわいい」
―――「ぶん殴るぞ!」
「ナナちゃん、また喧嘩しちゃった?」
居間に戻るなり、母さんにそう言われ、七緒は微妙な表情で頷いた。
―――また、って言われるくらい、兄弟仲悪かったのかなあ……
「…母さん、おれと孝明ってさ、いつ頃からこんなになっちゃったんだっけ…?」
母さんは考え込むような顔をして、首を横に振る。
「いつからだったかしらねえ…ナナが小学校に上がるまでは、タカくんもお兄ちゃんにべったりだったんだけど」
「そう…」
小学校以降に起こったことが、ここまで態度に差をつけさせたのだ。
しかし、心当たりがひとつもない。
「どう思う、ロウ」
小声で話しかける。ロウの声は直接七緒の頭の中に響くが、七緒の声はそうもいかないらしい。
―――「わからないよ。基本的に、性別上問題なければ、過去起きたことは同じだ」
「そのくらいの頃あったことが、孝明にとって、奈々子相手には問題なかったけど、七緒だとだめだったってこと? よくわかんない」
「ところでナナちゃん、荷造りは終わったの?」
「えっ?」
ぼそぼそと話していたところに突然そんなことを言われて、七緒は声が裏返った。
「にづくり? 荷造りってなんの?」
「何言ってるのよ、明後日には入寮するって、自分から言ってたじゃない」
一瞬考えて、そうか、転校先の寮に入るんだった、と思い出す。
「忘れてた…なんもやってないや」
「寂しくなるわねー、七緒がいないと…」
しょぼん、と肩を落とす母さんをみて、七緒はちくりと胸が痛んだ。
「(わたしだって家を離れたくなんかないんだよー…)」
「制服だし、私服はそこまで多くなくていいよね。…教科書も寮の方に届くって言うし……はあ」
荷造りを手伝いながら、少年姿のロウは同情の目つきで七緒を見た。
「……16回目」
「え? なに?」
「荷造り始めてからお前がついたため息の数」
「だって荷造りって嫌じゃない。出て行く準備ってことだし…」
「……そんなにショックだったか」
孝明のことか、と七緒は頷いた。
「ロウは兄弟いないの?」
「…オレ……は…」
眉間にしわを寄せる。
「いや、天使は全員兄弟みたいなもんだが……ていうか、決まった「親」がいないんだ、天使には」
「そうなの? あっ、だから名前がないの?」
「まあそうかな。だから、お前がそんなに弟の態度に振り回される理由がわからない」
うーん、と七緒は考え込んだ。
一人っ子のようなロウに、兄弟がいる気持ちはわからないだろう。
「わたし…さ、ちょっとブラコン入ってんのかも」
「それは知ってる。昨日思い知らされた」
そんな力強く肯定されると、それはそれで微妙な気持ちだが。
「…で、さ、なんていうのかなあ。わたしより孝明のが出来が良いじゃない」
「ン…まあ、そういう事前資料はあったな」
そんなことまで資料になってんのかよと突っ込みたいところでもあるが、そう出来るほど七緒は元気じゃなかった。
「勉強とかスポーツとか…全部孝明のが出来るのよ。割とモテたりしてるみたいだしさー、しっかり者で頼れるからまわりから頼りにされてるみたいで」
「…うん、弟自慢にしか聞こえねえ」
お腹一杯ですと言いたげな表情でつっこまれ、そういえば、友達に孝明のことを話すと、必ずそういう顔をされたなあと思いだす。
「ちゃかさないでよお。ほんとにそうなんだから。
……とにかくわたし、他人に比べられたとしても、あの子が大事なの。大事なひとに冷たくされるのは辛いじゃない」
「そういうもんかね」
そう言って、あっさりと荷造りに戻る天使をみて、七緒は少し悲しさを覚えた。
彼は人間ではないのだ、と改めて思い知らされた気がする。
「(ロウは、悲しくならないのかな。好きな子に冷たくされたら、辛くて、悲しくて、わたしは泣きそうだよ。でもロウは、)」
「おい、手を動かせよ。もう昼だぞ」
―――きっと天使は、そういう気持ちをよくわかっていない。
ふと、七緒はそう思った。
「(金髪ちゃんもそうだったけど……ロウはもっとそうだ。あんまり…感情がない、っていうか。義務を基本に動いてるっていうか。気遣ってはくれるけど、多分わかってない。わたしとどこかズレてる)」
そんなことはなかった。
少なくともすでにロウは七緒の相棒として彼を好いていて、義務以上の感情を抱いている。
けれど七緒はそれを知る由もないし、ロウの感覚が人間である七緒と多少異なっているのは事実だった。
「……ロウ?」
「ん? …っつか全然進んでねーじゃんか! 服は自分でやれよー、オレ全然わからねえし」
「うん、やるけどさあ…。ロウはさ、わたしのこと好き?」
ぎょ、と音がしそうなくらい驚かれて、逆に驚く。
「そっ……れは、そういうのは、人間の恋人同士でする会話だと習ったんだが」
「いやいやいや違う違う違うそういうアレじゃなくてさあ! 大体、わたし年下は好きだけど、恋愛対象じゃないもんよ!
これから一緒にやっていく相棒としてさ、好き? ってこと」
ロウはまた、口をむにむにと動かす。それをみて、七緒は思わず笑った。
「ふふ、それ、ロウの癖なの? 照れた時のさ」
「照れてねえよ!」
「そういうのってツンデレっていうらしいよ」
「ぶん殴るぞ! すっ、好きとか、ないし、てゆか、天使って割と博愛主義だし」
「それ逃げ。天使じゃなくて、ロウの意見を聞いてるのよー」
ずるくないか、そういう言い方、とロウは顔を隠す。
耳が赤いなあ、と言うと、見るな、と怒鳴られた。
「(照れ方は割と人間くさいのにねえ)」
「好きか嫌いなら、好きだっ、ケド…」
消え入りそうな声で言われて、七緒は天使の頭を撫でた。
「歯切れ悪っ。まあいいや、とにかくそういうことなのよ、わたしが孝明が大事なのって。伝わってる?」
「……4分の1くらい」
「少ないなっ」
しかし、ロウは七緒の手を振り払わなかった。
少年は思う。
「(…孝明とロウは、違うけれど。代わりになんてしようとは思ってないけど)」
―――もうひとり、弟ができたみたいだ
いつの間にか、少年はいつもの笑顔に戻っていた。
結局荷造りは、夜までかかったそうな。