71、もうひとりの幽霊部員
「えっ、校長来れなくなったんですか?」
七緒の素っ頓狂な声に、葵は頷いた。
「この前学校付近で不審者でたって話あったろ、なんかその関係で学外の団体とも話し合わなきゃいけないんだって」
そろそろ来るぞと先輩たちから脅されていた通り、今日、ついにお茶部に校長が遊びに来る予定だったのだ。もてなしの準備は万端で、胃薬まで用意してあった。しかし、この通り、部室にはいつものメンバーだけだ。
不審者が出た、という話は、先週の集会で告げられていた。しかし、今の時代特にめずらしいことでもなんでもないので、生徒の大半は右から左に聞き流しているといった状態だった。特に男子、特に出不精が多い寮生たちは、そんな話があったことすら覚えていない。
「なんでしょ、良かったのか、悪かったのか……」
「校長のことだから、次来るときめっちゃはりきると思うよ」
「だって前来たの四月だもんな! 五月きてないもんな! こえぇ……」
一体どんなものを食わされるのかと、意気消沈するメンバーに、唯一入ることのできない栄人は、黙々と用意しかけていたおやつを片付けている。
「落合にもメールしといたから、あいつ今日来ないんじゃないかな」
「本当幽霊部員なんですねー、落合先輩」
「幽霊部員といえば……」
なにか思い出したのか、ふと栄人が顔をあげた。視線が集まる。
「もうひとり、いるんでしたっけ? 幽霊……」
きょとんとしたのは七緒だけで、先輩3人はそういえば、という表情で顔を見合わせる。
「そういや、まだ会ってないっけ」
「あいつも多忙な奴だかんなー」
「そっかそっか、ていうかハチ、よく覚えてたね、見学来たときかなんかに言っただけだろ?」
葵に褒められて照れている栄人に嫉妬しながら、七緒も思い出した。確かに、2年生は3人と言っていた―――ここにいるのは、木下と北原だけだ。
木下はささっとケータイを取り出して呟いた。
「あいつ忙しいけどな、呼んだら来るかもな……お菓子で釣ろう」
「あ、じゃあ先輩、ついでにアドレス交換良いすかね」
すばやく栄人が手をあげる。そういえば、七緒もまだ知らなかった。
「あーいいよいいよ。まだしてなかったね」
「オレは? オレもしてませんけどオレのアドレスは要りませんかね!」
「はいはい北原先輩もお願いしますね」
「おざなりだな!」
「あと俺葵さんのもシラナイ……」
「おーいいよこっちおいで」
七緒は木下との赤外線通信を終えて、えっと叫んだ。
「木下先輩、名前秀吉っていうの!」
「え、うそうそ……え? ほんとっすか?」
栄人も七緒のケータイ画面を確認し、木下を振り返る、が、当の木下は能面のような顔になって、遠くを見つめていた。
代わりに隣の北原が、どや顔で説明する。
「そうそう木下秀吉。秀吉とは呼ばないであげてな、こいつ昔っからこの名前嫌いらしくて、あと何年か前に出始めたさ、ラノベあるだろ。それに同じ名前の奴出てきたりとかでさ、もう呼ぶと怒るから! 呼ぶならよっしーにしたげて」
「ああ、あの話ですね……確かに、それはキツイなあ」
「やっと「よっしー」の由来がわかったね」
「うん、もしかしたらゲームでいつもヨッシー選ぶタイプなのかなって話してたんだよね」
「良かったな、ピーチとかデイジーじゃなくて……いだっ」
木下は無言で北原を殴ったので、一年生2人は賢く口を噤んだ。
そうして、なんだかんだいつものようにお菓子を用意して、なんのゲームしようかねと相談し始めた時、理科室の開く音がした。お茶部の部室は理科準備室だ。入るには、理科室を通らなければならない。
落合か、もしくは緒方先生だろうと顔をあげたが、部室の扉を開いたのは、そのどちらでもなかった。
「お菓子くれ!」
「第一声がそれかよ!」
素早く突っ込んだのは北原だけで、葵と木下は「いつものこと」という顔で、ババ抜きか大貧民か七並べかを相談し続けている。
お菓子あるってよっしーが、と言いながら入って来た少年は、ネクタイの色から見て2年生だ。しかし、七緒と同じくらいか、それより小さいかの背丈と、丸い瞳が彼を年上とは思わせない。触ったらちくちくするであろう短い髪形も、そう思わせる要因のひとつだ。
七緒は、なんだか見覚えのある顔のような気がして、じぃっとその先輩を見つめた。
あんまりにも七緒がガン見するものだから、栄人がそれを制そうそした頃、見られていた先輩の方が、七緒に目をやって「アレッ」という顔をした。
「君、アレだよね、転校生君だよね?」
「……あっ! もしかして、えーと、はねしま、先輩……?」
イエス! と叫ぶと、七緒が初めて倫葉学園に来た時と同じ笑顔、同じ気安さで、羽島は手を差し出してきた。
「変なところで会うなあ、普通こんな部、入らないよ?」
「こんな部言うなし」
聞き捨てならんぞ、と木下が突っ込むと、羽島はぺろりと舌をだした。
「実績も活動も大してないんだから、こんな部でいーのさ。あるのは愛着くらいだね」
「幽霊部員が何を」
「俺が生徒会にかけあってなきゃ、部費削減の射程範囲内だっただろお?」
「はいはいそれはもう感謝しておりますよ」
木下と羽島のかけあいが盛り上がりかけたとき、七緒が小声で「あのお」と言った。
「あの、えっと、手」
「あ、ごめん。ずっと握ってたな」
素直に握手に応じた七緒は、かけ合いの最中ずっと手を握られたままだったのだ。近過ぎた身体を一歩分離し、羽島は笑った。
「改めまして、お茶部会計の羽島正仁です。一応生徒会やってるから、大体そっち出てて基本ここには来ないけど、たまに気休めで来るからよろしくね」
生徒会、という言葉に七緒は「えっ」と驚いた。始めて一緒に会ったとき、岬さんは文化祭の実行委員だ的な自己紹介をしていたので、羽島もそうなのだと思っていたのだ。
羽島はすぐに栄人に向き直り、「君も新入部員だよね?」と確認する。栄人は慌てて頷いた。
「はい、そうっす。1年3組の中村栄人です」
「俺幽霊部員だけどよろしくね。美味しいお茶菓子が手に入ったら呼んで」
爽やかかつ人懐っこく笑う羽島に、栄人は少し気後れしたようで、無言のまま頷いた。
「……前より髪伸びました?」
全然関係ないんですけど、とつけたして、七緒は羽島に問いかけた。顔覚えのいい七緒が羽島だとすぐに気付かなかったのは、つるつるの坊主が、いがぐり坊主くらいに伸びていたせいでもあったのだ。
「そーそー、やっと伸ばせるようになったんだよね。坊主とか初めてしてたわ、俺」
「伸ばせるように……?」
その言い方にきょとんとしたのは七緒だけじゃなく、栄人もそうだった。
けれど、北原が「いいから早くおやつ食べよーよ!」と駄々をこねたので、特に追求はしなかった。
「つーかさ、2人ともなんで? なんでここ入ったの? 校長が校長になる前に、生徒の意見を聞く場として作ったんだぜ。マイナーどころじゃなくて、割と最近まで部活ですらなかったのに」
「そうなんですか?」
「そりゃそうでしょ、これといった活動も目的もないし、みんなで集まるだけの部だし。お菓子のためだけにわざわざ部費渡してらんねーし。でもまあ、校長が校長になる時に、どうしても残したくてわがまま言ったんだってさ。職権乱用にも程があるって……」
「羽島先輩は」
栄人が困った声で、先輩の言葉を遮る。
「……どうしてこの部に入ったんですか?」
本当は、「先輩はこの部が嫌いなんですか」と聞こうとした。
しかしさすがに理性がそれを止めたのだが、羽島は見透かしたように笑った。
「言ったろ、あるのは愛着だけだ。身内の悪口は、愛すべき部分さ」
その表情には、言葉通りの温かさしかなくて、栄人はちょっと驚いた。
木下が自然に2人の間に入る。
「ごめん、こいつ言い回しがめんどくさいっていうかさ、変な奴だけど良い奴だから」
「えっ、よっしーなんか言い方酷い……」
「最終的には褒めてんだろ。お菓子あげるからおいで」
「行く!」
誘拐犯と幼児のようなやりとりを、栄人はぽかんと眺めているしかなかった。
宣言通りに羽島にお菓子を与える木下、そして「ずるい俺それ食べてない!」と北原も輪に加わる。
なんだこの既視感、と考えていたら、ああ、自分たちだと気がついた。
「(そうすると多分羽島先輩とナナの立ち位置が同じなんだけど……)」
なんとなく、七緒も生徒会なんかの人の面倒をみる感じの役割って似合うかもなあ、と思う。
「意外としっかりしてるもんネ」
「え? 何? 何の話?」
「いや、羽島先輩に親近感湧いたっていう話」
えーどの辺でー? 七緒がけらけら笑ったその時、唐突に扉が開いて、七緒の身体すれすれを通った。
「きゃっ、びっくりしたっ!」
「きゃってお前ね」
入って来たのは、顧問の緒方先生だった。いつも通りくたくたの白衣を着て、呆れた顔で七緒を見やる。
「そんなに勢い良く開けたら危ないですよ」
「んーあ、ごめんごめん。怖かったでちゅねよちよち」
「何その感じイラッとする……」
頬を膨らませる七緒の頭を雑に撫でると、緒方先生は羽島に気がついたようで、あからさまに驚いた顔をした。
「羽島だ、珍しいな」
「俺ってばお菓子につられたんだー」
「てゆーかおがちゃんも久しぶりだよね? ひとのこと言えないよね?」
「うるせー北原、それ俺にも寄越せ。みっつくらい寄越せ」
「暴君! 暴君来た!!」
「ひでーなあの顧問」
さらに騒がしくなったなあ、と一年生が顔を見合わせる間に、緒方先生は戸棚をごそごそやりだした。かと思うと、七緒を見ておいでおいでをする。
「え? なんですか?」
「なんか裏路地にいる変質者みたい……」
「中村くんあとで話がある」
うそですごめんなさいと慌てる栄人を置いて、七緒は素直に先生の元へ行く。てけてけ小走りする姿がものすごく無防備だ。
「……戸塚、お前ほんと、知らない人とかについていったら駄目だよ?」
すごく言いづらそうに木下が注意したが、七緒は振り返ってきょとんとしただけだった。
「え、木下もなんで今そんな話すんの? なあ。おら、戸塚、左手をお出し」
すごく不本意そうな緒方先生に言われた通りにすると、ぺたんと薬指に絆創膏が巻かれた。一瞬きょとんとしてから、七緒は思い出して声をあげた。
「……あっ、そういえば昼休みに紙で切ったんだった」
「あー言ってたね。ていうか先生よく気がついたね」
「センセーヤサシー」
「ヤサシー」
「よし北原と羽島こっち来いや」
「えーなんで褒めたじゃん」「うそつけなんだあの棒読みはっていうか俺は日頃から生徒には優しいです」「うそつけ」「なんだと!?」
わいわいと一層騒がしくなった部室の端っこで、お礼を言うタイミングを逃した七緒は、控えめに笑うしかなかった。
7人もいると大変狭苦しい部室なのだが、とても居心地が良かった。